次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2019-11-17

    そもそも

    10:08

     内田樹さんの見方、考え方が好きで、そこから多くを学ばせていただいていあす。

     ずっと前の、新潟での『学び合い』フォーラムで、内田さんのお話を聞いたときから、わたしが勝手に「せんせいはえらい」として、学ばせてもらっています。

     本屋で新しい著書を見つけると、まず買うようにしています。


     http://blog.tatsuru.com/2011/09/02_1151.php

     この「学ぶ力」っていうのも大好きな記事の一つ。


     今回、仙台で講演会があると知って、

    「これは行かねば」

    となった訳です。

     今回の演題は

    「内田樹のおせっかいで行こう!~時代の“閉塞感”を超えて~」

    だった訳だけど、このタイトルにはあまり左右されない、そんな感じでした。


     さて、今回の中で印象に残り、ふむふむと考えたことがいくつかあり。

     そもそも教育は、集団が生き延びるために必要になったもの。狩猟や採集、農耕、身の守り方など長老などが経験を若者に伝える、それによってその集団が生き延びるための知恵をストックする、そんな意味合い。

     大事なのは「集団として生き延びること」

    だから知性もそのために活かされるものである、ということ。

     みんなで知恵を出し合って、今をよりよくしたり、難局を乗り越えたり、そんなことのために「教育」は必要であった、ということ。


     「生きる力」

    って今でもよく言われるけど、それと全く変わらないよなあ、と思います。


    「子どもたちの生きる知恵と力が高まるか、特に集団として」

    が大事。この辺りを、ちゃんと見ていないと。

     能力は集団の中ではたらくものでないとあまり意味がない。個人の中にいくら優れたもものがあったとししても、集団に寄与しないそれであっては宝の持ち腐れ。

     そして、その能力は多様であれば多様なほど、望ましいことになりますね。

    村落に「釣り針を上手につくる人だけ」がたくさんいるよりも、「天気に詳しい人」「魚の習性にくわしい人」「力持ちな人」「料理を上手にできる人」…などなどいろんな人がいた方が、集団として生き延びる力がアップする、そんな感じでしょうか。


     集団としての知性。知性は個人のものだけであっては意味を持ちませんね。


     学校も、そもそもそういう学びの場なんだろうなあ、と思います。いろんな人がごちゃごちゃと出会い、話し、集団が生き延びるために学び合う、そんな場所。

     そこには、子どもだけじゃなくて大人もたくさん出入りしています。「子どもたち」は未来そのものですから。


     「教育を農業の比喩で語ることじゃないでしょうか。そもそも人は価値あるものを育てる経験のベースは「農業」で学んできました。教育を工場生産のメタファーで語るのではなく。」



     水をやる、手をかける、耕す、待つ、恵みとする…。


     そもそもそういうものだったでしょう?という話。





     

     

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