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2013-12-19

PISA型読解力。

| 09:28 | PISA型読解力。 - 幸福論 を含むブックマーク

国語の授業で、国語科学習指導要領の改訂に携わっていたという先生から、平成20年版中学校の指導要領の特色についての説明を受けました。

その説明を簡単にまとめると、「PISA型読解力」的な観点が加わっている、ということだったと思います。

お恥ずかしいことに、これまでその名を聞いたことはありながらも、では具体的には「どういう定義なのか」「どんな特徴があるのか」ということを調べたこともありませんでした。

なので、今更ですが、文科省の読解力向上プログラムのページを読みました。


あ、その前に、そもそもPISA(学習到達度調査)とは、OECDの参加国が共同して国際的に開発した学習到達度問題を、15歳児を対象として実施されたものです。

(調査されるのは、読解リテラシー、数学的リテラシー、科学的リテラシーの3分野です。)





話は戻り、そのページによると、PISA型読解力の定義は、

「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」

とありました。

効果的に社会に参加する、というのは、何(誰)にとって効果的なのかがよく分からないので、これはまたその先生にお聞きするとして、残りの部分はなんとなーく、分かるような気がします。


先生曰く、今までの日本は「拝読」という言葉もあるように、拝んで読む、つまり、ありがたく読むという姿勢ばかりが尊重され、読むことだけで終わってしまっている、と。

しかし、PISAではもっとテキストに対して批評する目を持ち、テキストを利用して自分の考えを持つことが問われているのだそうです。


ところで、そういうことって筆記テストのみで測れるものなのでしょうか?

それに、国際的な学力調査とありますが、その国によって馴染む生き方というものはそれぞれにあるのではないかなあ?

だったら、学力を統一の基準で調査することって意味はあるの?と思ったりもします。


ひとつ調べると、どんどん分からないことが出てきて大変です。。。

2013-12-17

わがまま。

| 01:23 | わがまま。 - 幸福論 を含むブックマーク


以前日記に書いた、国語学の授業、異同について(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/mei-c5/20131204/1386148414)ですが、難航に難航を重ねアンケート調査を繰り返した結果、やっと自分たちの納得する結論に至りました。

もう一人の子(Kさん)とペアでこの学習に取り組んでいるのですが、お昼ご飯を食べながら話し合いをしているときにようやく結論への道が繋がり、二人とも嬉しさのあまりお祝いのデザートを追加で買ってしまいました。

レジュメも期限内に仕上がり、ほっとしています。

残すは、明日の発表で打ちのめされるのみ……。

これまでの発表経験者曰く、どれだけ完璧だ!と思って発表に臨んでも、かならず発表中にそれが打ち砕かれるのだそうです。

でも、寝ても覚めても、お風呂の中だって、ときには他の授業中にも(笑)、この異同のことについて考えていたせいで、むしろわたしたちの結論を打ち砕くような何かが出てきて欲しいと思うようになりました。

今は二人だけで考えたものでしかないですが、これを発表することによってさらに多方面からの視点で見たとき、違う角度からの切り込みができるはずです。

ここまで考えたのだから、発表の中でもっともっとこのことについて議論が出来ると嬉しいなあ、と思います。





ところで、前述したように、この学習はKさんと二人で行っているのですが、

今回、Kさんとの学習をしている中で、国語学以外のことでも、自分の考えを深めることができました。

詳しくは、「人と一緒に何かを作り上げる」ということの難しさについて考えられたことです。


わたしには、二人でやらなければならないと分かっているのに、どうしてもやるべきことを自分一人で抱え込んでしまう癖があります。

相手にやってきてもらった内容で納得がいかなかったとき、そのままの内容で提出をすることができず、その部分を自分で納得できるように手直ししてしまうのです。

こんなことをしてしまうのは、とてもわがままなことであるし、相手のことを信頼できていない証拠だと思います。

今、このことを書いている最中にも、本当に自分ってわがままなことをしているなあ、と感じます。


こうしてしまう原因としては、

・そのまま提出をして、その部分について他の誰かから指摘を受けたら「気づいていたのに!」と悔しい気持ちになる。

・気になる部分や納得のいかない部分を相手に伝えると、細いヤツだなあ、と思われそうでなかなか言えない。

ということがあるのかもしれません。

だから、自分が納得いくようにやって、相手に見て納得してもらった上で提出をする、という流れになってしまいがちなのです。

こういうふうにしてしまうわがままな自分がとても嫌で、でも、それ以外の行動をとりたいとも思えなくて、この学習の期間は随分そのことで悩みました。


けれど、ほんとうについ昨日のこと、それ以外の行動をとりたいと思えない、という頑なな気持ちが一瞬にしてなくなるような出来事がありました。

それは、アンケート調査の中で用いる例文について考えているときのことでした。

なかなか良い例文が思い浮かばず、何度これだ!と思うものがあってもやっぱりダメだ……となって、もう諦めてしまおうか、という雰囲気になっていたのですが、

Kさんの「○○っていう言葉を入れたら良いんじゃない?」という提案によって、とても良い例文を作ることができ、しかも、結論への筋道も見えてきました。

わたしが感動して、

「本当にありがとう!二人でやってて良かった。ひとりじゃ絶対思いつかなかった!」

と言ったところ、Kさんはわたしにこう返したのです。


「よかった、役にたてて。何にもできてなくて頼ってばっかりだったから……」


この言葉を聞いたとき、ショックすぎて何も言えませんでした。

「何にもできなくて」ではないのです。

そうしたいというKさんの気持ちを、わたしが無視して、あるいは撥ね除けていたのです。

それなのに、Kさんは役に立てていない、と自分を責めてしまっています。

わたしが一人で抱え込むことによって、Kさんがどういう気持ちになるのかということは想像できていたはずなのに、実際に本人の口からその気持ちを聞くまで、わたしはそのことをそこまで深刻に考えていませんでした。


それから、この学習を通して、本当にすべきこととは何なのだろう?と思いました。

もちろん、勉強の内容を深めていくことも重要です。

でも、この授業で課せられているのは<「二人で」調べ発表をすること>だったなあ。

だったら、わたしがわがままをしていることって、よい結果を得ようとするあまり、目的に反してしまっているな……と。

やっと。

ようやく。

悩んでいたものが消えていったのでした。

最後の最後でしたが、大切なことに気付けてよかったです。


それから、Kさんにもちゃんと謝って許してもらえたので、よかったです。

2013-12-09

構え。

| 08:17 | 構え。 - 幸福論 を含むブックマーク

前の日記(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/mei-c5/20131207/1386433852)の続きです。


前回は、トモエ学園がいいなあと思える理由が、何かひとつの具体的な考えに基づいている、というよりも

小林先生の教育に対する考え方が多様に折り重なって、ひとつのものになり、それがいいなあと思えるものになっているのでは?

というところで、眠くなってしまって途中で終わってしまいました。


じゃあ、その考え方って?

どういうふうにして、その考え方を知ることができるの?

と気になるところですが、それを知るためには、その人の「構え」を見ることだ、とわたしは考えています。

「構え」と言うと、武術のようですけど(笑)

本当にその通りで、武術はいくら難しい技ができようとも、それを普段の自分の生活でとっさに出すことができなければ、せっかく練習しているのにもったいない……となります。

それって、逆にいえば、普段からできるようになって初めて、自分の中に身について(染み付いて)いるってことなのです。

だから、その「普段からできる」ということが、その人の佇まい、「構え」にあらわれると考えました。


ここからは、わたしの勝手な解釈かもしれませんが、

教育史でヘルバルトについて勉強したときに、「教育タクト論」というのを習いました。

教育タクトというのは、教育実践における様々な予期せぬ事象に対して、正確な行為を即興で確実に行うこと、だそうです。

(正確な、という部分は少しひっかかりますが)


例えば、子どもがお茶をこぼしてしまったとき、とっさに

「あーあ、だから気をつけなさいと言ったのに!」

と言うのか、

「あ、こぼしちゃったね。次からこぼさないようにするにはどうすればいいかな?」

と言うのかは、決してこうしよう、と頭で構築して決めたことではなく、心で瞬時に決めていると思います。

心から思っていないことは、とっさに口をついては出てこないのです。

そして、もっと言えば、思っていてもとっさには言えないことだってあるのです。


わたしは、この場合だと、後者の方が良いかなあ、と思います。

でも、上に書いてあるように、思っていても実際にそれがその瞬間に出せるのかどうかは分かりません。

ヘルバルトは、教育タクトの意義についての問いは立てたものの、それをどうやって身につけていくのかについては、この方法だ!と明らかにしていません。

ただ言えるのは、「素早い判断と決断を何度もすることである」と。

要するに、経験をつみなさいってことなのですね。




思ったことをそのまま書き込んでいると、話が大幅にずれてしまいました。

ここで言いたかったのは、小林先生の「構え」のことだったのですが。。。

またしても長くなってしまったので、次回に持ち越したいと思います。

(最近、「書きたいことがあるのにうまく日記がかけない!」から「うまく日記がかけないから持ち越してやれ~」という持ち越し作戦を身につけました。笑)

daitouirukadaitouiruka2013/12/10 06:17『行住坐臥一切の時勢これ最善の道場』
塩田剛三先生の座右の銘です。
もとは祖元禅師の言葉だそうですが。
構えができたから日常に反映されるのではなく、日常に意識するから構えが身につくんですよね。
稽古が終わって道場から出るとき、
「ほら、また普通の歩き方にもどってますよ。」
と指摘されたことを思い出しました。

mei-c5mei-c52013/12/11 11:01>>daitouirukaさん
塩田先生の座右の銘は、与えられた状況をいかに使うか、という考え方にも通じますね。

>構えができたから日常に反映されるのではなく、日常に意識するから構えが身につく
そうなんです!構えの形が、ある瞬間身体にぽんっと入り込むというよりは、徐々に身体に染み渡っていき、次第にその染み渡った身体が構えになっているイメージです。
わたしも、師範から「日常と練習を切り離して考えるから身につかないんだ」と指摘されたことがあります。
武道はそういうことが顕著に分かるのでおもしろいですね。

ogymogym2013/12/12 22:39蔵修館という稽古場に「蔵修遊息」という掛け軸があったのですが、
思い出しました。

mei-c5mei-c52013/12/13 20:15>>ogymさん
初めて聞く言葉です!
武道に関係する言葉なのかな、と思い調べてみたところ、学問のあり方として述べられたのがもとなのですね。
しかも、この場合の学問とは、「自らが自らに、人としてのあり方」を問う意味合いだと書かれてあり、武だけでなく、生きていくことを通して大切なことだなあ、と思いました。
教えていただき、ありがとうございました。

ogymogym2013/12/14 23:15蔵修息遊だったようです。失礼しました^^。

2013-12-07

理想の理由。

| 01:30 | 理想の理由。 - 幸福論 を含むブックマーク

わたしの理想の学校は、トモエ学園です。

トモエ学園とは、『窓際のトットちゃん』という本に出てくる、トットちゃんの通った学校で、

1945年に、東京大空襲により、焼失してしまっています。

今は、東京に記念碑があるそうです。


トモエ学園との出会いは、小学生か中学に入ってすぐくらいでした。

読書感想文を書くために、青い鳥文庫から出ていた『窓際のトットちゃん』を読んで、うわあ、と思ったのです。

これはすごい。

わたしがもし先生をするならこんな学校で働きたい!と思ったのを、本当にはっきりと覚えています。

それから、ずっと今まで、理想の学校はトモエ学園のままです。

でも、そんなに良いなあと思い続けていたにも関わらず、大学に入るまで「どうしてトモエ学園が理想なのか」ということについて考えたことがありませんでした。

大学に入って1年目に、学校経営論の授業で「あなたにとって、どういう学校が理想か」と問われたときに初めて、

トモエ学園だけど……でも、なんでだっけ?と思ったのです。


そこで、そのときにどうしてだろうと考えたことを、昔のノートを引っ張り出してきて振り返ってみました。

あの頃のノートには、

①校舎が電車

②好きなように時間割が組める

③お弁当の制度

④校長先生

とあります。

まったく本も見ずに記憶を頼りに書いたものなので、印象深いものだけがリストアップされています。

本当に大学1年生なのか不安になってくる羅列ですが……(笑)

わたしにとっては、この4つが特に魅力的だったということです。


それから、トモエ学園には、何か教育理念があったのだろうか、と調べてみました。

メモ書きには、

トモエ学園:小林宗作さんが設立したリトミックを教育基盤とする幼小一貫校。

とあります。

こんなことも調べたっけなあ、と記憶が戻ってきました。


リトミックとは、ダルクローズさんが開発した、音楽教育の手法です。

本には、リトミックについてこんなふうに書かれてあります。


「リトミックとは、体の機械組織を、さらに精巧にするための遊戯です。リトミックは、心に運転術を教える遊戯です。リトミックは、心と体に、リズムを理解させる遊戯です。リトミックを行うと、性格が、リズミカルになります。リズミカルな性格は美しく、強く、すなおに、自然の法則に従います。」




うーん。

確かに、リトミックは良いよなあ、と思います。

でも、わたしがトモエ学園を理想の学校だと思える背景は、これだけにあるわけではないような。

もっと、リトミックの他にも、小林先生の多様な考え方が折り重なって、素敵だと思える学校になっているはずです。

では、それはどういうところなのか。


というところは、長くなりそうなので、ちょっと分割してまた次回。

明日は部活の大会なので、早く寝ることにします!

健康第一!

2013-12-04

異同。

| 18:13 | 異同。 - 幸福論 を含むブックマーク

国語学の課題で「開く」と「開ける」の異同について考えているのですが、難航しています。


この国語学の授業のテーマというのが、

「類義表現(例えば「歩く」「歩む」のような)が存在する中で、

それが例えどんなに意味の近いものであっても、完全に同じということはない。

違いがあるからこそ、言葉が残っていく。

このような考え方から、類義語にどのような異同があるのかを探っていく。」

で、わたしは冒頭にも述べたように、「開く」と「開ける」について調べてみたいと思い、

今、それについての異同を、辞書を参考にしたり例文を作ったりしながら試行錯誤しているところなのです。


現在、候補として上がっているのは

①作用する対象物が動いているのが「開く」で、片側が動いていないのが「開ける」。

②その行為をすることによって広がりを持つのが「開く」、持たないのが「開ける」。

です。


ただ、これを考えているときに問題になるのが、教科書です。

例文を作るにあたって

(○)a. 本を「開く」

(?)b. 本を「開ける」

となるのに、この主語を教科書に変えた途端に、

(○)c. 教科書を「開く」

(○)d. 教科書を「開ける」

両方とも違和感がないような気がするのです。

教科書に、あなたは本のくくりじゃないのですか?と問いただしたくなりながらも、他の視点で見ることはできないかを考えています。


でも、とても悩んでいる割に、こういうことを考えるのは好きなので楽しいです。

三浦しをんさんの『舟を編む』という辞書編集部を舞台にした小説に、言葉の表現の難しさが書かれてありましたが、こうして自分で言葉の差異を分析していると、あらためて辞書を作ることってすごいことなんだなあ、と思います。

daitouirukadaitouiruka2013/12/04 20:18類義語の微妙な違いについてレポートする教材が6年生にあります。
子ども達、楽しんで取り組んでいます。
「ひねる」と「ねじる」の違いとか…。

『船を編む』は先日DVDで見ました。
1冊の辞書を作るのはとてつもなく気の遠くなるような作業ですね。

mei-c5mei-c52013/12/06 00:24>>daitouirukaさん
「ひねる」と「ねじる」、わたしたちの授業でもやりました!
でも、結局答えはあやふやなまま……で、終わってしまったので、また、6年生の子たちがどのようなレポートをつくったのか教えていただけると嬉しいです。

映画も面白そうですね。わたしも見てみたいです。
辞書を作ることは大変だと思いますが、その苦労があるからこそ、読んでいて面白いなあと感じるのかもしれないですね。ひとつひとつの単語の内容や例文も、出版されたところによって個性があり、楽しいです。