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2014-03-31

どこまで?

| 21:06 | どこまで? - 幸福論 を含むブックマーク

大阪のmanabiai schoolとtera schoolを見学してきました。

学内での『学び合い』と学外での『学び合い』は少し違うのかもしれない、というのが感想です。

運営をしていくためには、場所やその場を管理する人、そしてその人の給料が必要になってきます。

学校は今では行くのが当たり前になっているし、管理をする教師が公務員であるため給料も出ているけれど、

そんな当たり前のことが、学外の『学び合い』を見学して改めて見えた気がしました。



それから、ひとつ疑問に思ったのは、どこまでが『学び合い』?ということです。

例えば、学校である時間に先生が課題を出して、それに子どもたちが取り組み、評価まで終わったとします。

それでも十分に理解できなかったところや、もっとやりたいと思ったところがあれば、子どもたちは自主的に集まって勉強をするかもしれません。

その自主的に集まって勉強をする場では、教師がいなくても『学び合い』が行われていると言えますよね?


わたしは今まで、『学び合い』とは教師のような存在がいる、ある種の切り取られた空間の中で行われるものだと思っていたのですが、

そうではなく、もっともっと自由度の高いものだったのか!と感じました。

出発点として、目指すべき目標を語ったり評価をしたりする人は必要だと思うけれど、その人の手から離れても『学び合い』を行うことは可能なんですね。

そういう場面をたくさん見てきたはずなのに、なぜか

学び合い』は特別なもの

と感じていたので、場面を限定してしまっていました。


manabiai schoolで起きた出来事についても、もう少し書きたいと思います。

2014-03-19

どうしても分からない。

| 02:10 | どうしても分からない。 - 幸福論 を含むブックマーク

社会構成主義のことで、以前からどうしても分からずにずっと考えているのですが、

結局分からないままになっていたことのメモです。




社会構成主義の考え方を、

a.理解できる(受け入れられる)人

b.理解できるけれど受け入れられない人

c.理解できない(受け入れられない)人

の3つに分けるとします。


社会構成主義の考えとしては(わたしが理解しているレベルでは)、

a、b、cの全てを含めて社会が構成されている、と言われています。


ここで疑問に思うことが。

bやcの人は社会構成主義の考え方を理解できない(受け入れられない)けれど、

aの人がいる限り社会構成主義が成り立つために、

受け入れられないのに社会構成主義の下にいる、という不思議な状態になります。

これはちょっと矛盾しているような……?



おそらく自分ではこのメモを見て意味が分かるのですが、

他の人には伝わらないですよね。。。

まだ自分の中でも整理できていなくて、疑問点をうまく表現できないのだと思います。

けれど、このことはどうしても解き明かした方がよいと思うので、忘れないようにメモだけしておきます。

2014-03-17

ひとつ。

| 02:31 | ひとつ。 - 幸福論 を含むブックマーク


バイト先の人から、


方法はいろいろあっていいよ。

最終的に望む状態になっていれば。


と言われました。

本当に、これ、と決まっていることなんて無いような気がします。

これ、と決まっているように見えるものも、実は

様々ある手順のうちのひとつで、最も効率がよいと思われているもの

というだけのことかもしれません。

もしかすると、もっともっと効率がのいい手順もあるかもしれない。

でも、それはひとつの手順にこだわっていると見えてこないんだろうなあ、と思いました。

2014-03-16

ゲーミフィケーション。

| 05:23 | ゲーミフィケーション。 - 幸福論 を含むブックマーク

ゲーミフィケーションという単語を目にしました。

聞いたことはあるのに、なんのことだか詳しく分かりません。

なんだろう?と思って調べてみると、行動デザインの手法だということが分かりました。




ゲーミフィケーションとは……

人を楽しませて熱中させるゲームの要素や考え方を、

ゲーム以外の分野でユーザーとのコミュニケーションに応用していこう

という取り組みのこと。


そもそも、ゲームには、構成要素があるそうです。

それは、報奨や達成感、競争の要素、熱心に取り組む対象、純粋な楽しみなど。

これらがユーザーの心を動かす引き金となります。


この引き金を作っていく上で考えるとよい土台は、4つ。

・ユーザーは誰か

・ユーザーにどんな行動をさせたいか

・それぞれのユーザーにとって何がきっかけとして有効なのか

・離脱や停滞の原因は何か

これらがあって初めて、引き金(ゲームの部分)を設計していけるのだそうです。



わたしは、3つ目の、それぞれのユーザーにとって何がきっかけとして有効なのかというところが、なかなか難しい点だと思います。

これは学校で言えば、勉強のやる気スイッチが入るきっかけは何なのか?ってことですよね。

わたし自身、自分のスイッチが入るきっかけがなんなのかよく分からないし、それが入る瞬間も時と場合にもよる気がします。

そんな不確定なものを、ある程度の人数分突き詰めていくとなると、かなりの労力と能力を要しそうですよね。

何百、何千通りの解釈をしても、それが正しいとは限らないし、まだまだ足りないかもしれません。

ある小説では、こんなことを言っている人がいました。



「誰だって自分だけはオリジナルな人間だと思ってるんだよ。誰かに似ているなんて言われるのはまっぴらなんだ。俺は、ジョン・レノンに似ていると言われるのだって我慢できないね」



つまり、誰かと接するときも、パターンやケースに当てはめて解釈しようとすればするほど、分からなくなっていくこともあるかもしれないということです。

そして、上の人のように不愉快に思う人も、もしかしたらいるのかも……。

(あのジョン・レノンに似ているということですら、その人をある種の型にはめていることになってしまうんですからね。笑)


http://manabiai.g.hatena.ne.jp/mei-c5/20140307/1394221578

思い返して見ると、この日の日記でも同じような現象が起きています。

ここでは、相手のことを理解をした状態というよりも、常に理解しようとしつづけていく行為が大切なのかな、と思いました。






ちなみに、ゲーミフィケーションが機能するためには、

自発的に達成したいと感じさせるための「楽観性」

あまり負担をかけずに能力が得られる「生産性」

ユーザー同士が互を認め合い、モチベーションを生み出す「ソーシャル構造」

壮大なスケールを持ち、関わることが楽しくなる「ストーリー性」

という要素が必要なのだとか。


もしも、こういう手法を使って企画をするならば、

一緒に子どもたちと作っていけたら楽しそうなんだけどな、と思います。

むしろ、子どもたちの手を借りながらでないとできないものかもしれないです。

2014-03-15

絶望。

| 21:16 | 絶望。 - 幸福論 を含むブックマーク


絶望について書かれてある記事を、ネットで拝見しました。

「やるべきこと」

「やりたいこと」

「できること」

という3つの要素がバラバラなとき、人は絶望に陥るそうです。

逆に、この3つが「同じ」であることが、最も安定した状態だとか。




自分は今の環境でどういった役割を果たすことができるのか?(やるべきこと)

周りのことは何も考えず、自分が今一番したいことは何か?(やりたいこと)


まずはこの2つの共通点を探して、

それに、今の自分に実行可能なこと(できること)を乗せていくイメージで、

「同じ」の状態を作っていきます。


なんだ、「同じ」にすればいいのか!

そういえば、そうだ!と、

最近、もやっと悩んでいたことが、すっきりしました。


これまで、似たようなことを何度となく耳にし、目にしてきたのかもしれないけれど、

その内容が頭の上に乗っかったままでした。

それが、ふとしたきっかけで、すっと頭の中にまで入ってくる瞬間があります。

この記事に出会えてよかったです。

daitouirukadaitouiruka2014/03/16 09:54よく3つがバラバラで苦しんでいます(苦笑)。
しかし、最近少しずつそれが一致してきています。
『学び合い』に出会えて、3つ目の「できること」が、「自分独りで」じゃなくてもいいんだと思えるようになってきたから。

mei-c5mei-c52014/03/17 00:57>>daitouirukaさん
独りの力で解決しようとすると、とても重く感じるときって、ありますよね。
他人任せ、というわけでもなく「みんなが」と言えること、大切だと思います。

2014-03-11

救済募金。

| 02:21 | 救済募金。 - 幸福論 を含むブックマーク


生まれて初めて、駅前に立って募金活動をしてきました。


今までは、募金活動をするよりも、その時間で自分が働いて稼いだお金を募金すれば、

そちらの方が他人の力も借りなくて済むし、手っ取り早いんじゃない?という気がしていたけれど、

今回、自主的では無かったにしろ、こういう活動に参加してみて、

あ、何か思っていたのと、違うなあ。

となったことがありました。




わたしが普段募金活動をしている団体に出会ったときは、こんなふうにしています。

全く知らない人が「募金に協力してください」と言いながら立っていて、

まず、なんの募金だろう?と名目を見て、なるほどなるほど、と思います。

それから、もしもこういうふうに銘打っておきながらも、全く関係ない怪しい団体だったらどうしよう?と思います。

それで、また今度別の機会を見つけて募金すればいいや、とか理由をつけて通り過ぎてしまいます。


今日も、わたしと同じような人、たくさんいました。

目があって、あ……となって急いで通り過ぎていきます。

それも仕方ないことだと、分かります。

そう思うことも、ときには必要かもしれません。


でも、そうではない人も、たくさんいました。

ごく自然にぽんっとお札を入れていく人

がま口の財布を開いて、ちょっとしかないけど。ごめんね、といいながら硬貨を入れていく人

友達と「入れる?」「入れようかー」と相談して入れていく人

一度通り過ぎたのに、もう一度戻ってきて入れていく人

ほんとうに、たくさんです。


もちろん、募金活動の目的や、そのお金がどう使われるかなどは、

ちゃんと看板に書いてあるし、呼びかけのときにも言葉で伝えますが、

それでも、全く知らない他人のわたしたちを、そんなに信じてしまっていいの?

と思ってしまうほどに、たくさんの人が募金をしていってくださったのです。


募金箱を持ちながら、

これまで、ほんの数百円損するかもしれないことを恐れて募金をしてこなかった自分を振り返っていました。

親が稼いでくれたお金、自分が稼いだお金を大切に遣いたいという気持ちも、大事です。

けれど、人を信じてみることも、ひとつの大切な遣い方かもしれません。


それから、お金を届けるのはもちろんのこと、

この人たちの信頼する気持ちも一緒に届けられたらいいのに!と思いました。

もしもわたしが今後募金をされる立場になったとしても、

この経験をしたから、もっともっとありがとうと思えます。

もっともっと大切に遣うにはどうしたらいいのかを真剣に考えられると思います。


最初は気が乗らなかったけど、やってみてよかったなあ。

わたしも今度出会ったときには、勇気を出して信じてみようっと。

2014-03-07

衝撃。

| 04:46 | 衝撃。 - 幸福論 を含むブックマーク


この人のことはなんとなく理解できている、と自分なりに思っていた人が、

予測不能な行動をしたとき、衝撃を受けます。

その衝撃は、自分の一方的な信頼(期待?)が裏切られたことによるショックなのかもしれません。


予測不能な行動が、その人にとってはなんら変わったことでないとしても、

わたしという人間が、その人の行動をある種のパターンとして捉えてしまって、

あれ?おかしいぞ。

この人ってこういうことをする人だったっけ。

と思ってしまっているのかもしれないです。


このすれ違いが起こるとき、

わたしの意識には、その人という架空の人物が生きているのかもしれない、と考えます。

当然、その架空の人物はわたしの視点から捉えられる面のみで作られていて、

わたしの思考の範囲内の行動をします。

わたしの見ていない面や、知らない考え方は、全てカットされた、架空人物です。


よくよく考えてみれば、その架空人物と実際にいる人とを比べて、

あれ?おかしいぞ。

と思うこと自体、おかしいのかもしれないです。

大げさに言えば、全く別人の二人を見比べて、

異なるところがいっぱいあるぞ??

と言っているようなもの。

これは、当たり前のことですよね。


それなのに、そうと分かっているのに、やっぱり衝撃を受けてしまうのはどうしてだろうな、と思います。

理解していても、うまく身体がついてきていないということなのでしょうか。

もしかして、理解どうのこうので変わることではなく、脊髄反射のようなもの??

うーん。謎です。

無。

| 04:24 | 無。 - 幸福論 を含むブックマーク


たまに、ぼうっとしていると、無意識のまま1時間近く平気ですぎているときがあります。

そういうとき、自分が無の状態になっている気がします。

寝ているわけではないけれど、脳は起きていないような感覚。

それで、はっと我に返ったとき、時間が飛んだように思います。

それが起こる場所は、かならずベッドに座っているときで、他の場所ではそのようなことになったことがありません。

不思議だなあ、と思います。

ベッドに何か特殊な力があるのかなあ。

FlipperKFlipperK2014/03/08 06:09 どのような状況で「衝撃」を受けたのか、分からないので無責任なことは言えませんが、私、今のかみさんと交際期間も含めて25年になりますけど…、いまだに予測できません。理解しているつもりにはなってると思いますけどね。だから、飽きないってところもあるんでしょうけど。すいません。のろけでした。

daitouirukadaitouiruka2014/03/08 08:07自分がとらえている世界は突き詰めれば「仮想」の域を出ないと思います。
「対人関係論」で言えば、その人の性格というものは、その人とある他者との関係の中にあるものなので、固定されたものではない。
そして、相手をとらえている自分自身が前にその人を判断した時の自分とは変化しているかもしれない。
そして、相手も前に判断した時の相手とは変化しているのかもしれない(「生き方を変えよう!」とか一念発起した後なのかもしれない。たまたまいやなことがあってヤケになっていた時かもしれない)。
まあ、つまり、どの時点においても相手を理解している「途中」なわけで…。
ということで、戸惑ったりショックだったりすることもあるけれど、FlipperKさんのおっしゃるように飽きないし面白いとも言えるのでしょうね。

mei-c5mei-c52014/03/08 22:05>>FlipperKさん
素敵なお話をありがとうございます(^^)
予測不能なことを楽しめるくらいの心の広さがわたしには足りないのかなあ、と思います。
単純に、予測ができないことに興味を持てたら、もっと日々を楽しめそうですね!

mei-c5mei-c52014/03/08 22:44>>daitouirukaさん
自分自身も変化しているかもしれないということは、失念していました。
わたしも基準となる考えを持つきっかけ(変化するきっかけ)が何かあったはずですよね。
>どの時点においても相手を理解している「途中」
本当に、その通りだなあ、と思います。
完全に理解していることなんて、ありえないです。だからこそ面白いんですね。

i-Kawa-nakajimai-Kawa-nakajima2014/03/09 14:12「無」の話ですが、この前、単身赴任先の家の浴槽でこの状態になり死ぬかと思いました(笑)。しかも小一時間も・・・お湯が冷たくなって起きました。びっくり!の度合いといったら半端無かったです。一人暮らしの風呂場での「無」には気をつけましょう!寝ていたわけではないのです・・・ほんとに・・・

mei-c5mei-c52014/03/11 00:24>>i-Kawa-nakajimaさん
それは危険でしたね。ご無事で何よりです…。
わたしも浴槽では特にそうならないように注意しておかないと…!
でも、寝ていたわけではない、というの、すごくよくわかります。目を瞑っているというわけでもないのにまるで寝ていたときのようになってしまうことがあります。不思議ですよねえ。

2014-03-06

FDの会。

| 01:28 | FDの会。 - 幸福論 を含むブックマーク


大学のFD(ファカルティ・ディベロップメント)の会に参加してきました。

教育の質の保証をめざすことが目的の取り組みだそうです。


どうすれば授業がよいものになるのか?という問いから、

大学内でベストティーチャー賞というのを作ろうという案があったのですが、

それよりもベストクラス賞の方がよいのでは?という意見が大学内の先生から出て、

そのことを話し合うためにつくられた、学生参加可能な会でした。

そして、第一回目の議題は、実際にベストクラス賞を作ることってどう?

これからもこの議題を考えていくそうですが、

わたしとしては、うーん、その賞って必要?と思ってしまいます。

ベストクラス賞がもらえるから勉強を頑張ろう!とはなりませんからね。

そもそもの目標から考えていかないと、学生としてもどういう方向に進んでいけばいいのか分かりません。

これからこの話合い、どうなっていくのかなあ。





今日出ていた意見を、バラバラですがメモしておきます。


・大学は義務教育ではないため、授業に参加するしないは自由。その自由度をどう見るか。

・賞とついてしまうと、上から感がある。

・学生の知識がある程度ないことには、グループでの話合いをしても内容に深まりがない。

・何らかの理由で、シラバスの内容とは異なる内容の授業があった場合、授業を受けたくない者も出てくる可能性がある。

・全てが反転授業のようになってしまってはきつい。

・これまでは大学という場の学びが徒弟制のようだったが、今はそうもいかない。

・学生の知識レベルが異なるため、どの層に一番響けばいいのかが考えられた授業にするのはどうか。



わたしは、学生として先生にしてもらえると嬉しい3つ、として

・目標の提示

・集団への評価

・環境の整備

のことを発言しました。

そして、特に賞はいりません、と。

まあ、そうだよねえ、と先生方もおっしゃっていました。


そもそも、ベストティーチャー賞をつくろうとしたきっかけって、

評価の高い先生が賞をとって、それをまわりの先生が見習って、全体的に良くなっていくのを期待して?だと思っているのですが、

それは賞の有無に関わらず、見習おうとする人は見習い、そうでない人はそうでないものじゃないのかなあ、とわたしは感じました。

小学校や中学校、高校に置き換えてみても、きっとそうなるはずです。


もっとこの会にたくさんの人が参加して、いろんな意見が出ればおもしろいのになあ。

2014-03-04

プロセス。

| 05:36 | プロセス。 - 幸福論 を含むブックマーク


社会構成主義のメモです。

こうして勉強した内容をメモするたびに、自分の頭の中に少しでもこの内容が入っていればいいのに、と願っているのですが、

ちょっと自分で遡って読み直しても、忘れていることがいっぱいです(笑)


さて、これまで「対話ってどんなもの?」という問いをたて、

3つの視点から対話を見てみようというお話をしてきました。

今回は、最後の視点「プロセス」です。


対話をするうえでメタファーを遣っていないものなんてないんだ!

とか

語りによって過去ができあがっているんだ!

というような理論的なことは、繰り返し(内容がだぶってる?と思うほど)書いたのですが、

対話って、普段はいちいちそんなことまで考えてしていませんよね。


「おはよー。今朝のニュース見た?」

「見た見た。すごかったよねえ。○○が××で~」


この対話の○○はメタファーで、これらの対話によって過去が作り上げられて……

なんて、思ったこともないです(笑)

じゃあ、日々の一瞬一瞬では、対話というものをどう捉えたらいいの?

というのが「プロセス」になります。

ここでは、アーヴィング・ゴフマンとハロルド・ガーフィンケルという、ふたりの考えた捉え方が紹介されていました。




まず1つめは、ゴフマンの「ドラマツルギー(劇作法)」。

これは、接する関係に応じて自分を演じ分けているという考え方です。

例えば、家族に対する自分の態度をA、学校の友達に対する自分の態度をBとすると、

AにとってBは「裏の部分」と言えます。

逆に言えば、BにとってのAも「裏の部分」です。

このように、自分の姿を関係によって使い分けしているということですね。

また、演じている姿と本当の姿はめったに一致しない、とされています。(←これはなんでだろう?もうちょっと調べてみる必要がありそうです。)


2つめは、ガーフィンケルの「エスノメソッド」。

エスノ = 一群の人々が

メソッド = (合理性や秩序を達成するために用いる)方法

つまり、レトリック(http://tab.do/streams/123668#)のところでも同じようなことを言っていましたが、

事物(例えば、よくわからない混沌としたもの)を

過去の文脈(日常生活の暗黙のルールだったり、既存のもの)をもとに表現するのです。

表現した瞬間に、よくわからない混沌としたものには、合理性が与えられます。



と、、、日常という場面での対話を、2人はこんなふうに考えたわけです。

これら2つの考え方は、社会構成主義が生まれるずっと前からあったもので

社会構成主義ってどういう要素でなりたっているのだろう?と考えると

実はこういうものが元と考えられるんじゃない?の、元の部分が

「ドラマツルギー」や「エスノメソッド」ってことだよ~、と。

これはゼミの先生に教えていただきました。

元祖みたいな感じですか?とお聞きしたところ、ちょっと違うのだとか。

えー、どう違うんだろう。

ニュアンスが難しいです。。。




おそらく、3章部分の説明は、もう一回分くらいのメモで終わると思います。

これまでのまとめは「自己の固定」としてきました。

対話というものが、いかにわたしを「自己」という箱の中に閉じ込めているのか

に注目して、メタファー、ナラティブ、レトリックなどの視点からお話ししました。

最後は、じゃあ、自己を流動的なものにしてみると?

に注目して書きたいと思います。

2014-03-02

鼠と猫。

| 05:58 | 鼠と猫。 - 幸福論 を含むブックマーク


今読んでいる小説の中で、おもしろいな、と思う部分がありました。

それは、鼠と猫が会話をするシーンです。




鼠は意を決して猫に語りかけます。

「我々のことをもう、襲わないでほしいんです」

鼠の中では古くから、様々な物語が語り継がれていて、

その物語というのは「どうして鼠は、猫に目をつけられ、追われ、捕らえられなくてはならないのか」というもので、

その物語の全てが「だから、鼠は猫に追われることになった」と結論づけられるのだ、と。


猫は、鼠の話を聞いて「そんな物語は聞いたことがない」と驚きます。

それもそのはず。

物語は、鼠たちが必要とするものだからできたのです。

そうでもしないと、追われることに納得できないですもんね。

昔の人たちが、自然災害を神様の怒りだと思っていたように、

鼠たちもそう考えて、自分たちを納得させてきたのだそうです。


そんな鼠ですが、猫と向き合ってみようと行動にでました。

というのも、鼠たちは思い直したのです。

「自分たちが当然だと思っていることは、本当に当然なのか?」

猫に追われることは、どうしようもないと思っていたけれど、果たしてそれは本当にどうしようもないことなのか?と。

そして、猫と話してみるに至った、というわけです。




「自分たちが当然だと思っていることは、本当に当然なのか?」


わたしは、ここがおもしろくて、この小説の中でも非常に大切なメッセージに思えます。

今当然のように受けている教育、本当に当然のことなの?

ただ講義を受けに教室へ行って席に座って先生のお話を聞いているけれど、それって当然のこと?

わたしはわたしの立場で問い直していくべきことがあるだろうし、

人の数だけその問い直しがあると思います。

問い直すことで見えてくる、感謝やあらたな改善点があるんじゃないかなあ。

FlipperKFlipperK2014/03/04 23:11問い直すということは、実は苦痛を伴う、勇気のいることです。
たとえば、自分に降りかかった不条理であっても「神の御心だから」と無理矢理納得させることは可能です。
ただ、私は思うのです。教育とは「問うこと」を身につけるためにあるものだと。

mei-c5mei-c52014/03/05 05:28>>FlipperKさん
苦しみに立ち向かう勇気をつけるのが教育ということでしょうか。
だとしたら、教師にできることは勇気づけることですかねえ(^^)
勇気づける、という言葉って、わたし結構すきなんです。

2014-03-01

一石?鳥。

| 01:32 | 一石?鳥。 - 幸福論 を含むブックマーク

今日、manabiai schoolのインターン生(兼運営?)の方とお話しすることができました。

聞くこと全てが、

ほおおお…!

すごいなあ…!

と思うことばかりです。

会話の途中で、何度も「おおおおお」という声がもれそうになって、

うるさくなってはいけないと口を抑えて我慢していました(笑)


学外での『学び合い』ということで、当然場所の確保やお金のことについても考えていかなければなりません。

そういったところも、インターン生が力をあわせて工夫されているのです。

中でも、商店街に場所を構え、商店街を盛り上げながら『学び合い』を進めていくという、一石何鳥!?なお話もあり、感動しました。

それと同時に、自分の力無さにがっかり……。

自分のできることってなんだろうなあ。

自分のやりたいことってなんだろうなあ。

うーん。。。

と、久々に落ち込んだ日でした。


でも、こうやって落ち込めば、絶対に「よし、次どうしよっかな!?」と思えるので、たまにはいいのかもしれません。

とにかく今週はたくさん本を読んで、大好きな院生さんとお話ししてこようかな、と思います。

明日も楽しみ楽しみっ。

前夜祭。

| 14:08 | 前夜祭。 - 幸福論 を含むブックマーク


軽音学部では3月の初頭に、今年度卒業される先輩方を送る大きなライブイベントがあります。

その前夜祭に出演させていただきました。


わたしたちのバンドは、毎回ライブに出る前に必ずメンバー内で確認し合う目標があります。

それは、「今日出演する誰よりも楽しむこと」です。


みてもらうためにやるべきことはたくさんあって、

技術の向上も、機材の質をよくしていくことだって、どんどんすればいいと思います。

けれど、音の一体感や、それぞれがどれだけライブを楽しんでいるかというものは、みている人にはっきりと伝わるものです。

他人のライブをみに行くと、それを余計に強く感じます。

だからこそ、わたしたちは直前に「今日出演する誰よりも楽しむこと」をもう一度思い出して舞台に上がります。


今年卒業される先輩方には、今書いたようなことを、その姿や言葉で教えていただきました。

だからこそ、わたしたちはこうして楽しんでライブができるのかもしれません。

わたしは、後輩にこのことをちゃんと伝えられているのかなあ。

先輩方がいなくなる直前になった今も、ちょっと不安です。。。

bunbun-hbunbun-h2014/03/02 11:46「商店街に場所を構え、商店街を盛り上げながら『学び合い』を進めていくという、一石何鳥!?なお話・・・」
昨日、写真ブログをつくってFBでもちらりと紹介したことと関連してるようで、私のアンテナがピピンと反応しました。
でも何かができるのかどうかは分からないけど、目の前に現れるいろんな事々に反応できることがまずは大切なんですよね。(ほおおお…!とか、すごいなあ…!とか)

mei-c5mei-c52014/03/03 06:20>>bunbun-hさん
FBの記事拝見しました!
この商店街も、クラブの『学び合い』というかたちで盛り上がっていくのでしょうか。素敵ですね(^^)
確かに、勉強のみで考えていましたが、クラブの『学び合い』だって交流は可能ですよね!
また、manabiaischoolの方にもお話してみたいなあと思います。ありがとうございました。