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2014-01-30

山梨の会。(2)

| 05:55 | 山梨の会。(2) - 幸福論 を含むブックマーク


長野でのお食事会が終わり、i-Kawa-nakajimaさんやその学校(と中学校)の職員さんとお話しをしながら、山梨へ向かいました。

夜中で外も真っ暗だったので、残念ながら富士山を見ることはできませんでしたが、

i-Kawa-nakajimaさんの学校では、どんな取り組みをされているのかを詳しくお聞きすることができました。


特に、今の時期には、他の学校にはまずないであろう、

国・数・理・社の分野から自分の興味のある課題を選び、その課題を追求していくという取り組みがなされているそうです。

先生は課題を出すだけで、あとは子どもたちがその課題ととことん向き合っていくというこの期間。(確か2週間だったと思います。)

自分の今一番勉強したいと思えることに夢中になれるなんて、絶対に楽しいだろうなあ、と思います。


ちなみに、それぞれの課題には難易度があり、その難易度に応じた達成の称号が与えられるそうです。

先生方がお話しをされている中で、どんな課題が出されるのかを耳にしたのですが、

正直に言います。





難易度の一番低いものでも、かなり、かなり、かなり、難しい!(課題の中にすらよく分からない単語がある。)




本当にこんな課題を子どもたちがやるんですか?と聞きたくなるような内容でした。

それでも毎年、子どもたちはその課題をクリアしていくそうです。

いや、嘘でしょう。

もしかして、小学生の皮を被った大人ですか?

と疑いたくなります。

だけど、追求していく力が普段から培われているからこそ、深い考察もできるのでしょうね。


「アイディアをつくる方法」が書かれてある本を読めば分かることもたくさんあります。

でも、普段から深く思考して追求する力に勝るものはないのではないか、と思いながら、お話を聞いていました。

わたしもこの追求していく力をつければ、彼らに勝てる日がきっとくるはずです。きっと。




なかなか、本題の山梨の会へと内容が辿り着きそうにありません。

が、また次回へ続きます。

i-Kawa-nakajimai-Kawa-nakajima2014/02/01 03:00mei-c5さん もう1週間も経ちましたね。ここで紹介していただいたプロジェクトの前半が終りました。mei-c5たちが帰ったあと、学校に残って会場づくりなどの準備をしてのぞみました。私は「リニアモーターカー講座」を企画しました。磁石や電磁石、電流と磁界、リニアモーターカーの仕組み(浮上・案内コイル、推進コイルについて:電磁誘導についても学びます)や簡単なモーターづくり、リニアモーターカーづくり(長いコースを用意して走らせます)などの学習課題・活動課題を用意しました。そこに1~6年の子どもたちが入り乱れて参加して活動に取り組みました。1年生でも中・高学年で学習する磁石や電磁石のことを簡単に理解します。高学年に教えてもらいながらモーターを作ることだって出来ます。本当に小学生の皮を被った中学生くらいのようです。大人は言い過ぎですよ!(笑) 3日間、試行錯誤を繰り返してリニアモーターカーのレールと車体を作っていた6年生4人組、最終日の最後にコースの端から端まで止まらずに走りきるリニアモーターカーを完成させました。とにかく、子どもの有能性をいやほど感じさせられる数日です。前半の理科の講座は火山・マグマ講座、色講座とリニアモーターカー講座が用意されましたが3日間で350人弱の子どもが押し寄せました。先生は5人。一人当たり70人、1講座120人弱を担当します。はっきり行って恐ろしいことですよね。でも、なんとかなってしまうのです。なんとななってしまうのも恐ろしい。教師が一人で教えなければならないシステムではやってられませんよね。
来週から、私は「ウイルス講座」「元素講座」を担当します。「リニア」もそうでしたが講座を準備するためには、1年以上かけます。私も、リニア鉄道館・山梨実験線などに取材に行きます。昨年の「宇宙開発講座」の開発には取材のために種子島やつくばのJAXAの施設にも行ってきました。国立科学博物館、科学未来館などは定期的に行くようにしています。常にネタ探しです。これまた楽しみです・・・って、教師が一番楽しんでいるかもしれません。楽しみながらですが、さっきまで、後半の講座の準備をして甲府から飯山へ戻りました。疲れていて文章が支離滅裂ですみません。
それから、今後の山梨の会の続編、山梨の会のみんなで楽しみにしています!

mei-c5mei-c52014/02/05 01:57>i-Kawa-nakajimaさん
遅くなってしまってすみません。そして、プロジェクトおつかれさまでした!
個人的にも、リニアモーターカーの講座の課題が特に難しそうだと思いました!(わたしが文系人間だからかもしれないですが。笑)
本当に、「子どもだから…」とか「○年生だから…」というような考えが可能性を狭めてしまっているんだなあというのが、学校の様子をお聞きして一番に感じたことで、
『学び合い』の子ども観にも「子どもたちは有能だ」とありますが、みんなの力が合わさることでこんなにも大きな力に変わるんだ!と。それを目の当たりにできるなんて、幸せだと思います。
子どもたちに夢を~とかよく言われますが、逆にわたしが子どもたちから夢や希望を与えられているなあ、と改めて感じました。
そして、講座の準備にはそんなにも時間がかかるものなんですね。それだけ練られたものだからこそ、挑戦し甲斐があるのかもしれないです。
何より先生方がそれを楽しんでいるのが素敵だと思います。仕事を楽しめることって大切ですよね。
だいぶ時間が空いてしまいましたが、これからまた会のことを更新していきます。
よろしくお願いします。

2014-01-29

できない。

| 13:46 | できない。 - 幸福論 を含むブックマーク


目の前にいる人に手を貸すことはできないのに「みんなが見捨てられない」を目指しているの?

と指摘されたことを思い出して、たまにぐるぐるします。

それは、自分の無力さを感じるからだと思います。

でも、世界でわたしだけが手を貸せる存在だということはないんですよね。

むしろ、そう思っていることが、危険だな、と思います。

わたしは無力です。

というより、できることとできないことがあります。


うーん。

こういう考え方って、やっぱり、ちょっと冷たいのかなあ。。。

daitouirukadaitouiruka2014/01/29 17:46『学び合い』で考えて下さい。
「目の前」にいるからといってその人の課題解決に最良の人物とは限らない。
解決に適さないひとりの人物が抱え込むことによって逆に解決を遅らせる事もあります。
見捨てるというわけではなく、単にその事の解決に関しては自分と相手とがフィットしていなくて別の方に委ねなければならない場合もあると思います。
「みんなが見捨てられない」世の中を目指す事は、「私ひとりで全ての人を救う」事ではないと思います。

kabamen6384kabamen63842014/01/29 18:52トップの場合、自分が手を貸してる間、
違う人を見捨ててしまってるんじゃないでしょうか。
基本的に一人しかいないので。

勉強不足ですが、
集団には集団の
トップにはトップの
一人も見捨てない があるのではと。

FlipperKFlipperK2014/01/29 20:19ほかの方とかぶりますが、視点がどこにあるかです。子どもの視点から見た場合、daitouirukaさんのおっしゃるとおりです。教師の視点である場合、kabamen6384さんのおっしゃるとおりです。『学び合い』の授業の中に、『学び合い』の理念を理解できていない人が教師として飛び込むと、子どもの動線をぶつぶつ切っていくのを見て取れます。
酷ないい方かもしれませんが、個別指導という名の単なる自己満足です。
その辺もいろいろお話ししたいですね。岡山でお待ちしています。

nishinaonishinao2014/01/29 23:25自分には手は2つしかないけど、世界中には両手が空いている人がいっぱいいるよね。
なら、その人たちに「一緒に手を差し出そうよ。」と伝えるのに自分の口と両手を使えばいいんじゃないでしょうか
自分の能力だけでは救えない多くの人を、自分が伝えた思いによって自分以外の多くの人が救ってくれます。

世界中の人の3分の1の人が
「1人も見捨てたくない」
と思ってくれれば、その両手で全ての人が見捨てられない社会を実現できると思います。自分の両手だけで実現しようとするよりも、ずっと現実的です!

mei-c5mei-c52014/01/30 02:57>daitouirukaさん
自分では最良じゃないと分かっていても、その人もそれが分かっていないとなかなか難しいものです。


>kabamen6384さん
そうですよね。状況に応じた 一人も見捨てない があるはずですよね。
いえいえ、kabamen6384さんが勉強不足だなんて全く違うと思いますよ!

集団の中では、この人は自分が手を貸せる人なのだろうか?という見極めが難しそうです。
そのあたり、子どもたちはどのように察知しているんでしょうねえ?


>FlipperKさん
確かに、お二人にいただいたコメントを振り返ってみると、綺麗に視点が分かれていますね。
わたしはこれまでどれだけ自己満足をしてきたのだろうと思うと、胸が痛くなります。
岡山でたくさんお話できることを楽しみにしています。


>nishinaoさん
nishinaoさんのお言葉はいつも力強いですね。
こういう姿勢に元気づけられる人はたくさんいるのだろうな、と思います。
現実的に考えることが必要だということに気づきました。ありがとうございます。

karakusa01karakusa012014/01/31 01:26<自分の無力さを感じる
人間らしくていいじゃないですか!無力だから誰かを助けようと思えるんじゃないんでしょうか?

mei-c5mei-c52014/01/31 05:10>karakusa01さん
無力だから誰かを助けようと思えるって、不思議な因果関係のように見えて、実はしっかり繋がっているのですね。
じっくり考えてみると、そうだなあ、と思いました。

2014-01-28

山梨の会。(1)

| 01:14 | 山梨の会。(1) - 幸福論 を含むブックマーク


山梨へ行ってきたので、少しずつ思ったことをメモしていきたいと思います。



まず、先週の金曜日に高速バスで長野へ向かい、中信ブロックの会のあとのお食事会にだけ参加しました。

移動時間の都合上、会に出ることはできなかったので残念でしたが、とても楽しいお食事会でした。

中でも長野で先生をされていて、小学校から中学校の先生へと変わられた方が、

子どもとの距離感についてお話をされていたのが印象的でした。


その方は、中学校に勤める今でも、小学校で接していたのと同じように生徒に接しているのだとか。

これは、小学生と同じ扱いをする、ということではなく、密な関わりをする、という意味です。

そして、そういう先生は、案外周りには少ないのだそうです。


確かに、わたしの中では、中学校に入ると先生との関係に今までより距離を感じるのが一般的だというイメージがあります。

その先生も、おそらくそういう前提のイメージがあったからこそ、不思議に思ってそのお話をしてくださったのかもしれません。

でも、どうして中学に上がると先生との距離感が変化するというイメージを持っていたのでしょうか?

不思議に思ってみたので、お話を聞きながらも、考えていました。




まず、成長していく上で、中学生あたりになると<子ども‐先生>という関係よりも<子ども‐子ども>の関係を重視する子が多くなってくるのではないか、と思います。

もしかすると、小学校のときのように「先生見て!」とやりたくても、それが気恥ずかしくてできない、という理由もあるのかも……。

わたしの場合は、とても田舎の小学校で、クラスに10人しかいなかったため、

中学に入っていきなり2クラス(しかも1クラス40人)という環境の変化で、

今までのように先生と関わることができなくなったことも大きかったように思います。


それから、今は小学校でもありますが、中学へ行くと完全に教科によって先生が変わるため、

先生と関わる度合いが減る、というのも要因の一つだと思います。

クラス担任がいたとしても、一日中そのクラスに居られるわけではありません。



このようなことを考えていて、ふと思いました。

学び合い』の考えを取り入れている小学校の学級に何度かお邪魔したことがあるのですが、

子どもたちがとても大人っぽいなあ…と、どの学級を見ても感じます。

それは、<子ども‐子ども>の関係が強いからだったのかもしれないなあ、と。

もっと言えば、先生に認めてもらいたいという気持ちは、もちろん子どもの中にあって、

でも、その認めてもらうための方法が、違うのです。

なぜなら、求められていることが違うから。

「みんなができること」を求められていると、自然と子どもの視点も先生ではなくみんなへ向いていきます。

これってすごくおもしろいことだなあ。


と、長野の先生のお話しからあれこれ考えていました。

FlipperKFlipperK2014/01/29 04:05行動力に感服です。次回も楽しみにしています。

mei-c5mei-c52014/01/29 13:18>>FlipperKさん
ありがとうございます。
大量に課題レポートが出される期間なので、ローペースになってしまいますが、引き続き更新していきますので、どうぞよろしくお願いいたします。

maya-1maya-12014/01/29 17:09S先生にもお伝えしたいと思いました。

mei-c5mei-c52014/01/30 00:13>maya-1さん
ぜひ、お願いします。
名刺も何も持ち合わせていなかったので、また長野に行ってお会いするしかないな、と思っていました。

2014-01-23

わたしの願い。

| 00:42 | わたしの願い。 - 幸福論 を含むブックマーク


今日は今期最後の心理学の授業でした。

最後にやったワークは、「わたしの願い」です。


どんな内容かというと、

自分の願いを紙に書いておいて、複数人の人にその願いを見てもらいます。

そして、その人たちには、願いを書いた人のことを思い浮かべながら、もし今この人にプレゼントを贈るならばどんなものがいいだろう?と考えてもらいます。

そして最後に、考えてもらったプレゼントをカードに書いて贈ってもらう、というもの。


例えば、わたしの願いが「ゆっくり自分のことをできる時間がほしい」だったら、

『温泉旅行をプレゼントします』

『すてきなアロマオイルを贈ります』

『毎日の笑顔を贈ります』

こんなカードが贈られる、というような感じです。


もちろん、贈りますと書かれてあるけれど、実際にもらえるわけではありません。

でも、その人が「わたしの願い」をみてわたしのために贈り物を考えてくれたんだ、と思うと、なんだか嬉しい気持ちになりますよね。





わたしは、最近寒いせいもあってか、服装も部屋もモノトーンだらけなので

「もっと色のある生活にしたい」

という願いにしました。


今日は時間の都合上、2人の人に願いを見てもらうことに。

そして、その2人にもらったカードには・・・


『虹色のカーテンを贈ります』

『わたしcolerをプレゼントします!みんなの色があつまればカラフルだ~』


と書かれてありました。

発想がおもしろいですよねえ。

まさか、自分を色に例えてしまうとは思ってもみなかったし、

虹色のカーテンなんて、わたしの頭ではきっと何十年たっても現れない単語だったんじゃないかな、と思います。

わたしは自分自身の願いについて考えたとき、

「洋服に色を取り入れてみようかなあ」くらいしか思いつかなかったので、新鮮な気持ちになりました。

それと同時に、この2人はわたしのために贈り物を考えてくれたんだ、という思いから、やっぱり嬉しくなりました。


準備するものは紙と鉛筆くらいですし、

時間もそんなにかかりません。

それなのに、この幸福感。

なんてお手軽!

お暇があればぜひ試してみてください~。

2014-01-22

障害。

| 01:43 | 障害。 - 幸福論 を含むブックマーク


今日、バイト先の方から

「障害とは何か?」

と聞かれました。


「あなたは視力があまりよくないのかな?」

「あ、はい。コンタクトが無いと、全然見えません」

「僕は、実は視力がすごくいいんだよね」

「そうなんですか」

「僕は視力がよくて、あなたは視力があまりよくない。僕は身体が動かせなくて、あなたは身体が動かせる。

 障害って一体、何なんだろうね?」


わたしは、答えに詰まりました。

分かっているつもりでいたけれど、そして、普段も使う言葉なのに、

そう言われてみると、自分が何を以てしてその言葉を認識していたのかが、分からなくなってきました。




障害には、医学モデルと社会モデルというものがあるそうです。

医学モデルは、「障害は個人の能力・機能によって起こるもの」という定義づけで、

社会モデルは、「障害は社会の障壁によって作り出されるもの」という定義づけ。

前までは、医学モデルの考え方が一般的だったそうですが、

今は社会モデルに変容しつつあります。


社会モデルは、つまり、障害があることが生きにくいのではなく、障害のレッテルを貼られることで生きにくくなるということを表しています。

その方も、知らず知らずのうちに、自分にレッテルを貼ってしまっていたそうです。

中途障害で、最初のうちは、「(この身体で)今の自分に何ができるのだろう?」と悩む日々だったのだとか。

でも、それは自分自身で可能性を狭めてしまっていたのです。

「何ができるのだろう?」

と考えているよりも

「何をするか(したいか)?」

やることが決まれば、どのようにすればそれができるのか?の方法を考えればいいだけのこと。


思い返せば、わたしも「わたしに何ができるのだろう?」とよく考えています。

でも、「わたしって何をするの?」と考えたとき、一気にその考えの幅が広くなることに気づきました。

案外、できないことって、ないのかも……と、自分でもびっくりするほどのプラス思考になってしまいます(笑)

なんだか、今日、その方のお話を聞いて、自分が翼を手に入れたような、いい気分になりました。

FlipperKFlipperK2014/01/23 04:26 障害はその人が持つものではなく、社会がその人を受け入れきれないことからら来る、と考えれば、周りさえ変えれば簡単ですよね。それは、『学び合い』の考え方にもつながると思います。

mei-c5mei-c52014/01/24 00:11>>FlipperKさん
お話しを聞いていて、「あ、『学び合い』だ」と思うような考え方がたくさんありました!
重度身体障害の人でも安心して暮らせる世の中になれば、きっとみんな安心して暮らせるんじゃないかな、とその方はおっしゃっていました。
『学び合い』の考え方が学習という範疇だけでなく、社会全体に広まっていけばいいですねえ。

2014-01-20

祈る。

| 04:02 | 祈る。 - 幸福論 を含むブックマーク


「祈る」という言葉を打っていて、そういえば、と思い出したことがあります。

以前、学校で先輩とお話ししたときに、


人間は、人間を超える大きな存在に自分を寄せることで救われる


というような話題になったことがありました。

これって、つまり、「祈る」行為なのかもしれません。

(大きな存在というのは、神様に限らず、人間を超えた何か、ということです。)


人間は、人間の力を信じすぎているのかもしれない、とたまに感じることがあります。

内田樹さんの本や、佐藤優さんの本にもこういう内容のことがかかれてあるのを見かけますし、

伊坂幸太郎さんや打海文三さんの小説にも、「祈り」について問うような内容をみかけました。

わたしは、あまりはっきりとは分からないのですが、こういうメッセージ(問いかけ?)が、とても大事な気がします。

すぐに答えが出でないもの、というか、答えがあるのかすらも分からないものだけれど

自分なりにどう思うのかを考えておく必要はあると思いました。





と、ここまで打って一度投稿したのですが、もう一度見返してみると、

抽象的すぎて何を書いてあるのか全くわからないような……。

すみません。

もっとわかりやすく表現するのにはまだ時間が必要なので、とにかく今日思ったことのメモとして残しておきます。

2014-01-19

形式。

| 06:17 | 形式。 - 幸福論 を含むブックマーク


穂村さんの本の中に、これは彼の作品ではなくて、別の人のものですが、

こんな短歌が載っていました。



一秒でもいいから早く帰ってきて ふえるわかめがすごいことなの



すごいことなのって。

でも、自分がふえるわかめを使ったときのあの衝撃が、わっと浮かんできます。

確かに、あれはすごく増えるからなあ。

それを知らずに使ってしまったんだろうな、この人は、と思います。

でもその瞬間を切り取って短歌にしてしまおうとするなんて、すごいと感じます。

しかも、「一秒でもいいから早く帰ってきて」とあることによって、相当に困った状況なのだろうということがうかがえます。


その場のことをすべて言葉で表しているわけではないのに、

(たとえば、その増えた分量や、誰がそうしてしまったのかとか、この人はどんな表情でいるのだろうとか)

手に取るようにわかってしまえるなんて、おもしろいですよね。


逆に、「ボールに入った何グラムのわかめが水を加えることによって、何時間で何グラムにまで増えて、キッチンで24歳と4ヶ月の女性が……」と言われると分かりにくくなります。

表し方としては正確になっているはずなのに、どうしてなんでしょうね?

そもそも、正確な表し方ってどういうこと??


もしかすると、「正確だと一般的に思われている形式」を正確だと、わたしは信じているのかもしれないな、と思いました。

FlipperKFlipperK2014/01/19 09:17「正確」と「伝えたいこと」は、微妙に違うからかもしれませんね。また、詩は基本的に言葉を削って行くものですから、読み手の文脈にゆだねる部分が多くもなりますよね。

>その場のことをすべて言葉で表しているわけではないのに、

(たとえば、その増えた分量や、誰がそうしてしまったのかとか、この人はどんな表情でいるのだろうとか)

手に取るようにわかってしまえるなんて、おもしろいですよね。

 この場面が、もしかしたら映像となって頭に思い描かれたのではないですか?
きっと、料理をしたことのない方や、乾燥わかめを知らない人にとっては「???」の内容でしょう。
 読み手の中には分かってくれる人もいるはず、と相手に預けて放っているという意味で、歌人や俳人は受け手を信じている(もしくは受け手がいることを祈っている)表現者なのかもしれませんね。

mei-c5mei-c52014/01/21 03:20>>FlipperKさん
そうです!頭の中に、場面が映像で浮かびました。
でも考えてみれば、実体験の無い人にはその映像すら浮かんでこないですよね。
(あと、あれの名前は「ふえるわかめ」じゃなくて、「乾燥わかめ」でした。笑)

>歌人や俳人は受け手を信じている(もしくは受け手がいることを祈っている)表現者なのかも
もしかすると、表現をしている人はみんな、祈っているのかもしれないです。
教師という仕事も、祈る仕事かもしれませんね。「2割の子に届け~!」と。

2014-01-18

短歌。

| 05:59 | 短歌。 - 幸福論 を含むブックマーク


今からちょうど一年ほど前に偶然本屋で手にとった本は、歌人の穂村弘さんのものでした。

あとで調べて歌人だと知ったけれど、その本は日記をまとめたエッセイ集のようなものだったので、

最初は、エッセイストとして有名な人なのかな?と思っていました。


穂村さんのかく言葉には、いっこもとげがありません。

とげが無い代わりに、不安や戸惑い、だらしなさやゆるさはたくさんありますが(笑)

それを差し引いても、すべて許されるような心地よさを感じることができます。

それに、不安や戸惑い、だらしなさやゆるさといったものには、わたしの共感できる部分がたくさんあって、

世の中のちょっとしたことで心が揺らいでいたりする文章を見ると、

わかるわかる、そうなってしまう気持ち!

と思わずにはいられません。


で、後に穂村さんの短歌が書かれてある本を読んで、

なるほど、この人は歌人だったのか、と知りました。

お気に入りがこれです。



こんなにも二人で空を見上げてる 生きてることがお祈りになる



こんなにもって、どんなにだろう?

二人でって、どういうふたり?

何のために空を見上げてるんだろう?

それで、生きてることがお祈りになるんだから、それってどういう状況?


初めて短歌がおもしろいと思った瞬間でした。

kota_02kota_022014/01/19 18:34こんばんは。
穂村弘、いいですね。
私は、初期の『ラインマーカーズ』小学館¥998、が好きです。

中3では、これが票を集めました。

 終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/kota_02/20130216

mei-c5mei-c52014/01/21 03:09>>kota_02さん
いいですよねえ。
落書きの色塗りとして使っていたラインマーカーはどこへいったのだろう、と考えさせられました。

ブログを拝見しました。ランキング結果、おもしろいです!
身近に感じられるものが票を集めたのでしょうか。
でも、実はわたしもその中では
卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピン抜けば朝焼け
が好きです。
それから、kota_02さんは「元気が出るはじまりの歌」と書かれてありましたが、
わたしはちょっと泣くのをこらえているようなイメージを持ったので、見る人によって捉え方って本当に違うんだなあ、と面白く感じました。

2014-01-15

模擬授業。

| 02:10 | 模擬授業。 - 幸福論 を含むブックマーク


忘れないようにメモしておきます。

中学校の道徳(模擬授業)を『学び合い』でしてみようと思い、

実際に道徳の授業をされていた先生からアドバイスをいただきつつ、なんとか考えてみました。



授業が終わってみると、納得のいかないことだらけでもやもやして、

さらに生徒役で授業を受けてくれた人たちや先生からのフィードバックでは、

「その通りだよなあ」と思う指摘だらけで落ち込み、

でも、結構回復は早くなってきているので、わたしも成長したのかな、と思います。(そんなところで。笑)




わたしの選んだ教材の主題は、4‐(1)について。

(「法やきまりの意義を理解し、遵守するとともに、自他の権利を重んじ義務を確実に果たして、社会の秩序と規律を高めるように努める。」というところです。)


模擬授業だったので、与えられた15分間の中で

主発問についての考えを○人以上と意見交換をして、似ている・違う意見の人を見つけ、なぜそう考えるのか、その背景を聞いて共感できる

という部分をやりました。


が、意見交換の際に、流れが「きまり意義」というよりも「思いやり」の方向になり、

これでは主題通りになっていないのではないか、という指摘を受けました。


こうなってしまった原因としては、

・主発問が良くなかった

・時間が少なかった

・意見交換のときに教師にもっとうまく声がけをしてほしかった

・生徒から出る発言をもっと予想して指導案に書いておくべきだった

・子どもたちがどういう答えを言うのか、をもっと考えておくべきだった

・ねらいについて、自分なりのブレない解釈を持っておくべき

ということが出ました。


本当にその通りだ、と思います。

特に、ねらいについての解釈で、自分なりの意見を持っておくべきだというところは、勉強不足だな、と実感しました。

法についての本や、それに関連する本も読んでみたのですが、結局、自分がこれだ!と思う立場を決められないまま時間が来てしまい、

主発問も深く考えず、よく使われている無難なものにしてしまいました。



それと、先ほどの原因に加えて、

・主題について提示していなかったこと

・意見交換をすることの意義についてしっかりと話せていなかったこと

もあるだろうな、と思います。


もう授業内ではリベンジする機会もないので、せめて自分は最後まで頑張ったと思えるくらいに向き合っていれば……と後悔中です。

次こそは、こんな後悔をしないようにしたいなあ。

FlipperKFlipperK2014/01/16 03:54 具体的な主発問(中心発問のことですよね)が、なんだったのかはよく分からないので、いい加減な意見は言えませんが、次のようなことが考えられたかもしれません。

① 課題が複雑だった:課題の中に、「人と同じ意見・違う意見を見つける」「なぜそう思うのかを共感できる」といった、複数の要素が混ざっていると、短時間では難しいかもしれません。たとえば
「主人公の気持ちについて、○人以上の人と意見交換をして、誰に当てても自分の意見を言えるようにする」位だったら、何をすればよいのか学習者も見えやすかったかもしれません。

②意見の可視化:「予想される学習者の反応」を考えるのは難しいですが、主題を押さえておけば、「こんな意見が出ると好いな」というものは、ある程度予想されます。そうすれば「○○さんの意見はすごいな。そんなことに気がつけるんだな」「そんな考え方もあるんだ。他の人の意見も聞いてみたいよね」などと、大きな声でつぶやくことによって、学習者の意見を「可視化」することができます。そうすれば、どこに行けば、どんな情報が得られるのかを学習者が見つけやすかったかもしれませんね。
③主題について:気がつかれていたように、主題について事前に提示していれば、学習者が何について考えればよいかが見えやすかったかもしれませんね。

 学習者が積極的に動くためには、「この時間で何をすべきなのか」を行動レベルで把握している必要があります。課題について悩む先生が多いのも、その辺にあるのかもしれませんね。私は適当なんで、あまり深くは考えませんけど。以前よりは…。

mei-c5mei-c52014/01/17 09:45>>FlipperKさん
①に関して、そう言われてみると、時間と課題が釣り合っていないように思います。
実際よりも時間が短縮されることを考慮できていなかった、つまり、授業についてまず自分自身がどのようにしたいかというイメージを持てていなかったことに気づきました。
意見の可視化も全然できていませんでした。
言い訳になってしまいますが、とにかく緊張をしてしまって、何を話せばいいのか、もう頭が真っ白で……(笑)
いえ、笑い事ではないですね。次は一言でも二言でも多く言えるようにしようと思います。
とても詳しいご指摘をありがとうございました。

>学習者が積極的に動くためには、「この時間で何をすべきなのか」を行動レベルで把握している必要があります。
本当にその通りですね。身をもって知ることができたので、このお言葉が胸に突き刺さります。ずっと忘れないようにメモしておきます。

2014-01-14

14歳。

| 05:59 | 14歳。 - 幸福論 を含むブックマーク

14歳の世渡り術というシリーズの本を、22歳になって読んでいます。

とても分かりやすい言葉で書かれてあって(14歳向けなので。)

なおかつ、内容は世の中の問題の本質的な部分について触れられているため、

これを足掛かりにもっと深く考えたい、調べてみたいとも思えます。


こういう本を読むと、これに14歳の頃に出逢っていれば……と思ってしまいがちですが、

よく考えてみると、今だからこそ読んで分かることもあるんだろうなあ。

2014-01-13

納得できること。

| 01:10 | 納得できること。 - 幸福論 を含むブックマーク


今読んでいる本にこんなことが書いてありました。




人間が「正しい」と思うのは、「本当に正しいこと」ではなく、「その時の知識で納得できること」である。




なるほどなあ、と思います。

一般的に「正しい」と言われていることを「正しい」と思うかどうかなんて人それぞれで、

しかも、それに時間的要素(いつの時点で「正しい」と判断できるか)が加わってくると、さらにその正しさは曖昧なものになります。

そう考えると、「正しい」とか「真の」とか「一番良い」とかいう言葉の前には、常に「いつ、誰にとっての」という言葉が隠れているのかもしれません。


こうやって、理屈で理解をしていても、普段生活をする中では、ついつい

「えっ。これって正しいことなんだろうか?」

「それは良くない気がするけど……」

と、その時々の自分が勝手に判断して、自分なりの解を出そうとしてしまうのですが。

なんにしても、「その時の知識で納得できること」を着々とこなしていって、それで少しでも自分や誰かが「あ、なんかいいかも」と思えるのなら、それは「一番良い」ことだと、

とりあえず今のわたしは、そのように納得しています。

2014-01-11

もし、明日に。

| 05:58 | もし、明日に。 - 幸福論 を含むブックマーク


ある小説を読み返していると、「明日死ぬって言われたらどうする?」という台詞がありました。

明日って、思ったよりも急ですよね。

長いように見えて、全然時間が無いです。


わたしだったら、そんな限られた時間で何をするのかなあ。

うーん。。。

とりあえず、誰かそばに居てくれる人を探すと思います。

もう死んでしまうという状況の中ひとりでいるなんて、怖くて絶対に耐えられないので。

それから、一緒にわたしが死なないための方法を探してもらうと思います(笑)

そして、悪あがきの末、ついにもうだめだと分かったら、

残った時間全てで、こんな状況でもそばに居てくれる人に、精一杯の感謝の気持ちを述べたいです。

それ以外何もしないまま、明日を迎えると思います。

まあ、そんな最期でも、それはそれで満足です。


考えてみれば、明日死ぬ覚悟ができたらやろうと思うことって、思ったよりも簡単にできそうなことでした。

それに向けて特別な準備がいるわけでもなさそうだし、なんだか少しほっとしますね。


ちなみに、その小説で質問された人は、

「変わりませんよ」と答えていました。

そして、「明日死ぬのに?」と言われて、こんなふうに問い返していました。


「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?

 あなたの今の生き方は、どのくらい生きるつもりの生き方なんですか?」

karakusa01karakusa012014/01/12 23:34自分の生き方に自信をもっている人は「何も変わらない」んだと思いますよ。いつ死んでもいい生き方をしたいものですね。

mei-c5mei-c52014/01/13 23:57>>karakusa01さん
確かに、その台詞を言った人物は、嫌な意味ではなく、とても自分の生き方に自信を持っている人でした!
ほんとうに、そうですねえ。
ちょっと欲を言うならば、いつ死んでもいい、プラス、誰かが悲しんでくれるような生き方をしたいです。

nishinaonishinao2014/01/14 00:09「あ、これ自分死ぬかもしれない。」と思う経験をしてから、毎日の生き方が変わりました。必ず来ると思っていた明日は来ないかもしれないのだと思いながら生きるようになりました。
何気ない日常を繰り返していても、生物は生まれた瞬間から死に向かって歩みを進めているのですから、必ず死にます。しかも、いつ死ぬかなんて誰にも分からない。もしかしたら、歩いている時に突然事故に巻き込まれて死ぬかもしれません。
だからこそ生きている今この瞬間に、自分が正しいと思う信念に従って生きてかなければならないと思えました。そしてそれを行動に移して、自分がやりたいことをする生き方を選びました。
そう思えてからの毎日はそれ以前とは比べ物にならない程違います。極端に言えば、みんな死の淵を経験した方がいいのではないかと思うほど生き方が変わりました。

だから、今の自分は「明日死ぬとしたらどうする?」と聞かれたら、「別に何も変わらないよ。だって毎日そう思って生きてるから。」と答えると思います。

mei-c5mei-c52014/01/14 01:34>>nishinaoさん
>みんな死の淵を経験した方がいいのではないか
これは、死以外のことでも言えるのかもしれないなあ、とコメントを拝見して思いました。
例えば勉強だと、子どもが今のように勉強ができなかった時代、仕事が終わってへとへとなのに、夜遅くまで薄暗い中勉強をしているなんてこともあったと思います。
これがやらされる勉強では、そうはいきませんよね。
勉強ならば、なんとか自発的に勉強したくなるような環境にできなくもないですが、「生きること」となってくると、なかなかそれを体験しろというのは難しいです。
こういう体験できないことを感じ取る足がかりにするためにも、勉強するのかもしれないですね。

なるほど。。。
もしわたしが質問した人だったら少し悔しくなるくらい、素敵な答えだなあ、と思います。

2014-01-10

意図。

| 03:24 | 意図。 - 幸福論 を含むブックマーク


今日は方法学の授業がありました。

この授業は、学生が戦後の教育実践者について調べて、授業内でそのことについて発表するという形態で行われています。


今日クローズアップされた教育実践者は、有田和正さんでした。

わたしはこの方の著書を読んだわけではなく、教科書として扱われた本に記載されたほんの十数ページ分とインターネットで検索して出てきたいくつかの情報しか知らないため、あまり理解が及んでいないと思うのですが、自分なりのまとめをメモしておきたいと思います。


有田和正さんという方は、教材づくりを中心とした授業づくりで有名な方だそうです。

有田さんの授業は、よく「ネタのある授業」と表現されるのだとか。

教科書には、この「ネタのある授業」の真意とは、子どもが


・これまで既知だと思い込んでいたことを大きくゆさぶられる

・自らの認識の甘さを思い知らされる

・追求せずにはいられない心境に追い込まれる


ことにある。

そして、彼から学ぶべきこととは、


・少しでも子どもたちの追求を生む教材をつくろうとする授業改善の意欲

・「教材から授業をつくる」という授業づくりの道筋について


である。とまとめられています。

いろいろと考えることもあったのですが、ここではそれは割愛して……

今日は、この授業をしてくれた人(学生)が、主発問として出した問いについて書いておきたいな、と思います。

その問いとは、


「授業づくりは誰のためにするのだろう?」


でした。

で、えっ。と思ったのが、

授業に参加していたみんなが、「子ども」もしくは「教師」のためだと答えたのです。


「理解の難しい子に対して、より分かりやすくするために」

と答える人もいれば、

「いや、どんな子どもに対しても平等にあるべきだ」

という意見が出て、

「教師が授業づくりをすることで成長していけるから、教師のためでもある」

「でも、その成長って、結局子どもに良い授業を提供するためにしていることだから、子どものためって言えるんじゃない?」

というやりとりもありました。


そんな中、わたしは自分のワークシートを見て、あれ?おかしい。と思っていました。

もちろん、「子ども」「教師」という言葉も書いてあるのですが、その他に、

「地域の人(お店、施設、周辺で暮らしている人・働いている人たち)」

「家族(親、祖父母)」

「学校(同学年、異学年、先生、別の学校)」

と、思いつく限りの人たちを書いていたのです。

同じ問いを見たのに、どうしてわたしだけこんな勘違いをしてしまったのだろう、と残念な気分になりました。


みんなの出した意見を聞いたあとだと、自分がどういうふうに書くべきだったのか、ちゃんと分かります。

じゃあ、どうしてこんなふうに勘違いを起こしてしまったのか。

授業時間中、ずっともやもやしたままでした。


でも、帰ってよくよく考えてみると、もしかして、わたしは出された問いに勝手に自分なりの解釈をつけてしまっていたのかもしれない、と気づきました。

わたしの答えからすると、きっと問いは

「授業づくりは誰のためにするのだろう?」

というよりは

「授業は誰のためにつくることができるのだろう?」

になるはずで、しかも

「思いつく限り挙げよ」

というような注意書きがありそうです。


今日の授業をしてくれた人のように、どんなに頑張って考えた問いにも、こんな勝手な解釈をして訳の分からない答えを書いてくるような子どもがいるんだろうなあ。と思うと、

教師の立場だったら、「なんで!?」となる反面、今日のように授業を受ける立場だと、その子どもの気持ちがすごーーーーくよく分かる気がします。

だって、頭の中で勝手に変換されちゃったんだもんね!

よくよく見てみると、そういうふうに解釈できなくもないよね(だいぶ肩を持っていますが…)、と。


もちろん、前後の流れを考えながら質問の意図を読み取る力は大切なので、反省しないといけないということも十分に分かっています。

でも、こんな子どもがいたら共感できるに違いない、と思えた一時間でした。

FlipperKFlipperK2014/01/11 11:07 え、???あなたの答えのどこが間違っているのですか?????
 私がその授業の指導者なら、あなたの答えをAに、教師と子ども両方を書いていればBに、どちらかのみならCに、何も書いていなければD似評価すると思いますけど。

scorpion1104scorpion11042014/01/11 15:47FlipperKさんと同じように思いましたよ。

daitouirukadaitouiruka2014/01/11 22:04子どものためでも、教師のためでも、どちらも個に閉じられた印象を受けます。
もちろん個人の幸福を大切にしつつ、共同体全体の幸福、しかもより大きな共同体の幸福を視野に入れることが大切だと思います。

sweetsdaisukisweetsdaisuki2014/01/11 22:36うふふ。おもしろいです。もし私のそばに、mei-c5さんのような生徒がいたら、
かわいくてかわいくて、つい頭をなでまわしてしまいそうです(笑)

mei-c5mei-c52014/01/12 06:10>>FlipperKさん、scorpion1104さん
授業中は、わたしもどこが間違ってるんだろう????と思って、腑に落ちませんでした。
でも、あとから考えたとき、それはわたしの基準での見方であって、この授業ではそうではなかったのかなあ、と思ったのです。有田さんの授業をベースにした問い、として見ることが必要だったんですね、きっと。みんなは、そういうことが分かっていたからこそ、同じ答えが出せたんだと思います。
前提がそうでなければ、わたしの考えでもありだったのではないかと思っています。

>>daitouirukaさん
両方を大切にしていきたいです。欲張りかもしれないですけど。
みんなが欲張れば、共同体全体の幸福も夢ではないと思います。

>>sweetsdaisukiさん
出来の悪い子ほど……ってやつですね(笑)
でも、本当は「出来が悪い子」なんていないのかもしれません。「出来が悪い子」と見る人がいるだけで。

sweetsdaisukisweetsdaisuki2014/01/13 00:28いえいえ~!出来が悪いとかではないですよ!自分の書いたことにモヤモヤして、
素直に純粋に考え続けるような人っていいなぁと思いまして。
その実直さが本当に愛しいです^^

mei-c5mei-c52014/01/13 23:52>>sweetsdaisukiさん
ありがとうございます。
自分の中でぐるぐると考えすぎてしまうところは、短所だと思っていたのですが、
そう言っていただけてとても嬉しいです!あと、ちょっと照れます…(笑)
これからも、似たようにもやもやと考えているような内容の日記になると思いますが、どうぞよろしくお願いします。

2014-01-09

SP。

| 01:59 | SP。 - 幸福論 を含むブックマーク


心理学の授業で、サブ・パーソナリティという言葉を知りました。

サブ・パーソナリティ(以下SP)というのは、誰もが心の中に持つ性格や癖、そのひとつひとつの人格のこと、だそうです。


分かりやすい例が出ていたので引用させてもらうと、

“カレー”は“スパイス・にんじん・たまねぎ・じゃがいも・お肉……”などでできています。

“カレー”が自分自身だとしたら、SPというのはスパイスなどにあたるのです。

さまざまなSP(スパイスやにんじんなどのもの)が1つになって、自分(カレー)という存在をつくっています。




そして、今日の授業では、SPトランプという道具を使ってのワークショップでした。

SPトランプは、名前の通り、普通のトランプとは少し違います。

ハート、ダイヤ、スペード、クラブのマークや1~13までの数はあるのですが、それに加えて、真ん中に代表的なSPが文字と絵でかかれてあるのです。


例えば、ダイヤの10は「優柔不断な迷子さん」で、迷子の子どもの絵。

クラブの8は「努力家」で、汗をかきながらマラソンをしている人の絵。

というふうな感じに。



ペアワークですが、まずは個人作業です。

このトランプにかかれてあるSPを見て、「これは自分に当てはまるな」「これは自分とは違うな」と思うもの2種類に分類しました。

52枚もあるというのに、案外時間をかけず、すぐに分類することができました。

それから、「当てはまる」に分けた方の山から、さらに「自分ってこうだ!」と表現できるもの10枚を選び抜きます。

そして、その選び抜いた10枚を机に好きなように並べます。

並べ終わったら、おそらく他人からはこう見えているだろうな、と思う自分や、人には見せていないけれども実は自分ってこうなんだよね、という自分があれば、それをペアの人に話します。

ペアの人は、それをただ聞くだけ。(それは違うと思う!と否定してはいけません。)


それから、個人作業をしているのと同時進行で、

ペアの人にも自分のイメージを思い浮かべながら、カードを10枚まで厳選してもらって、それを見せてもらいます。

そのペアの人が選んだカードと自分が選んだカードは、全く違う場合もあれば似ている場合もあって、

それがとてもおもしろいのです。

わたしは、ペアの人が選んだカードと似たカードを自分自身でも選んでいて、

やられた~、見抜かれているなあ。

わたしってそんなに分かりやすい??と感じました。



でも、この10枚のカードを選んで分かるのは、それだけではありません。

このようにカードを選んでいくと、自分がどういう傾向の人間か、ということまで分かってしまうのです。


その傾向は、ハート、ダイヤ、スペード、クラブを見れば分かるような仕組みになっています。(そういうことも計算してSPの絵がかかれてあるんですね。)

ちなみに、分類はこのようになっています。



ハート:能動的・感覚的

ダイヤ:受動的・感覚的

スペード:能動的・論理的

クラブ:受動的・論理的



これだけ見てみると、自分はダイヤに分類されそうだなあ、と思ったのですが、意外にも選んだ10枚の中にダイヤは1枚しかありませんでした。

残りはハートが6枚、スペードが3枚。クラブは1枚もありませんでした。

それなのに、ペアの人が選んだ10枚にはダイヤが5枚も。


あれ……?どうしてだろう??


と、思ったのですが、先生曰く、これは全くおかしいことではないそうです。

なぜなら、自分と相手の能動的と判断する基準は異なっている場合もあるし、相手との関係性で自分の見せているSPは変わるから、だそうです。

この選んだ10枚が自分の全て!

というわけではなく、「そういう傾向にある」ということなのですね。


来週はこのSPトランプを使った対人関係の考え方について勉強するそうです。

楽しみだなあ。

FlipperKFlipperK2014/01/10 20:37 そのトランプ、ほしいですね。是非うちのかみさんとやってみたいです。

sumi-chansumi-chan2014/01/10 22:03面白そう〜!!
早速、検索してみました♪^^
都合が合ったら、講座に参加してみたいです。
http://www.yao-ec.co.jp/schedule/

mei-c5mei-c52014/01/11 03:18>>FlipperKさん
調べてみると、1組3000円ほどで手に入るそうです。
どんな結果になるのか気になりますよね。わたしもやってみたいです。

mei-c5mei-c52014/01/11 03:22>>sumi-chanさん
URLを貼っていただき、ありがとうございます。
こんな近日(一番近いところでは1月13日!)に講座があるんですね。驚きました。
しかも、関東、関西とさまざまな地域で開催されているなんて、思ったよりもメジャーなものなんだなあ、ということにも驚きです。
実践講座もあるようですし、面白そうですよね(^^)

2014-01-08

『学び』。

| 23:43 | 『学び』。 - 幸福論 を含むブックマーク


12月に、同じゼミの先輩のお手伝いをしてきたことについて、ようやく自分の中で、考えがまとまりました。

卒論のことで、『学び』についてどう考えるか、というインタビューを受けたのですが、これがなかなか難しかったのです。


とりあえず、「『学び』を何か他の物に例えるならば?」という質問には、すぐにいくつかの言葉が浮かびました。


「生活」「仕事」「人生」「遊び」「勉強」


ただ、「この言葉というのは、『学び』とはどういう関係を持っていると思いますか?」という質問には少し悩みました。

ぽんぽんっと出したけれど、これって『学び』と全く同じというわけではないです。

でも、だとしたらどういう位置関係にある言葉なんだろう??と。

そこで、悩んだ末に、「人生」という大きなくくりの中に『学び』と「生活」が入っているイメージで、

「仕事」や「遊び」や「勉強」はその狭間を行ったり来たりしている

という説明をしました。

すると、そこへさらに難しい質問が。


「では、『学び』と「生活」を分けて考えているけど、その違いってなんですか?」


ん?

違いなんてあるんですか??

と、聞きたくなるのですが、分けて考えたのはわたし自身でした。

ということは、心のどこかで何かしらの違いはあると思っているのかもしれません。


どうしてだろう……と考えてみると、「生活」は川に水が流れるように、意識しなくても過ぎていきますが、

『学び』というのは、何かしらの関わりや気づきや引っかかりがそこにある、というところに違いを感じているのかな?という結論に至りました。

もちろん、過去から未来までの時間も考慮すると、あのときは「生活」だったものが今考え直してみると『学び』になる、なんてこともあるのだと思います。

一瞬を切り取った「生活」が積み重なっていき、それがもしかしたら未来の『学び』になっていく、ということも。

と、これも即興でこんなふうに答えてしまいました。

(今考えると矛盾だらけのような気もします。)


あと、面白かったのが、「他に出てきた「仕事」「遊び」「勉強」という3つを何かに例えるならば?」という質問でした。

わたしは何も考えず、ぱっと思いついた色を色鉛筆を使って紙に書きます。


「勉強」・・・濃い青色で、短い縦線が何本もつながっているような感じ。

「遊び」・・・山吹色で、ぐるぐるっと適当な丸をかいて、それがいくつも点在している感じ。

「仕事」・・・深い緑色で、最初はぐるぐる丸をかいているけれど、そのうち縦線で上から塗りつぶしていく感じ。


先輩がこれを見ていて、

「あ、じゃあ、「勉強」と「遊び」が混ざったから「仕事」で緑になってるイメージかな?」

とおっしゃったのですが、その言葉を聞いて初めて、

あ、ほんとだ、混ざって緑色になってるなあ、すごい!と思いました。

しかも、このことについて、インタビューが終わったあともずっと考えていたのですが、どうも、最初は「遊び」だけどあとの方は「勉強」の真面目な感じで必死で隠している気がしてならないのです。

これは一体どういう気持ちなんだろう?

自分のことなのに、よく分からないです。

もしかして、姿勢もそんなに真面目ではなくて好き勝手楽しくやっているけど、表向きは真面目にしておかないとまずいかもしれない、という心理があるのでしょうか。

これ以上考えてもどこに行き着くのか分からないので、とりあえずそういうことにしておこうと思います。

何かに例える作業というのは、やっているうちは楽しいのですが、あとになって考えてみると自分のことなのに迷路にはまってしまったような気分になりますね。




こんなふうにインタビューを受けることは初めてのことだったのですが、普段考えないようなことについてじっくりと考えることができて、楽しいひとときでした。

また何かの機会があれば、こんなお話を誰かと出来れば楽しいだろうなあ、と思いました。

2014-01-07

教室。

| 22:30 | 教室。 - 幸福論 を含むブックマーク


いただいた名刺の整理をしていると、以前お会いしたS先生の名刺に


「教室を夢と希望のディズニーランドのように!」


と書かれてありました。

いただいたときにも相当の衝撃だったのですが、今見返してみても、やはり衝撃は尽きません。


わたしはディズニーランドに行ったことが一度もないので、その感覚がちゃんと分かっているのかというと、細かいところまでは理解しきれていないと思います。

でも、きっと楽しい教室だろうな、ということは想像できます。

毎朝早く行きたくて仕方なくて、夕方になると帰りたくない、と思うんだろうなあ。

素敵な場所に違いない!と。


それから、わたしは一体どういう教室にしたいのかな?と考えました。

こういうことは、何かひとつ正解があるというものでもないだろうし、人それぞれあっていいと思うのです。


わたしが子どもだったら、間違いなく図書室のような教室だと嬉しかっただろうと思います。

なぜ図書室なのかというと、自分の好きな本がたくさん置いてあるし、時にはソファで寝ることだってできるからです。

要するに、自分の好きなものに囲まれて、ホッとしていたいのです。

ワクワク、ドキドキ、ハラハラ、というよりは、ホッとする方が好きです。

だから、もしも理想の教室があるとするならば、別にすごーく行きたい場所でもないけれど、行くと安心するし、しばらく行かないとちょっと寂しくなるようなところかなあ、という感じです。


世界にはたくさん先生がいて、その数だけ理想の教室があるのだから、面白いですよね。

全部聞いてまわれたら楽しいのになあ、と思います。

理想の教室図鑑、みたいな本、誰か作ってくれないですかねえ。

FlipperKFlipperK2014/01/08 19:39 むかーしむかし、卒業文集に、学校の中で一番好きな場所は?という質問に対して、「教室」が1位で書かれたのを見たとき、泣きそうになったのを思い出しました。

FlipperKFlipperK2014/01/08 21:44 でも、そのクラスでも今思えば生き辛さを感じている子はいました。我が身の至らざるを恥じ入るばかりです。だからこそ、『学び合い』にすがっているのです。

mei-c5mei-c52014/01/09 00:35>>FlipperKさん
わたしが先生だったら間違いなく泣いちゃってます。すごく嬉しいですよね、そんなことを言われたら。
たとえどんな場所に居ても生きづらさを感じることはあるけれど、こういうことで生きづらいんだよね、とその中の誰かに言えるような環境になればもっと楽になりそうです。

『学び合い』にすがる、という表現が新鮮に感じました。
この言葉、『学び合い』があってよかったという気持ちがにじみ出ているように思います。
それだけ大切だと思える考えに出会えたのは素敵なことですよね。

2014-01-06

言葉遣い。

| 05:18 | 言葉遣い。 - 幸福論 を含むブックマーク

今読み返してる小説に、こんなことが書いてありました。



「原因やきっかけがどうであれ、不自然な言葉遣いを続けていると、人間関係はおかしくなる。呼び方や敬称から力関係はできあがる。」



なるほど。

そう言われてみれば、普段の呼び方、言葉遣いなどから関係性は決まっているように思います。

小学生の頃も、「○○ちゃん」と呼ぶよりは「○○」と呼び捨てにする方が仲良しに見えたし、呼び捨てすることに慣れてくると、その人との関係性がもっと親密になった気がしていました。(それが心地の良い親密さかどうかは置いておくにしても。)


でも、と思います。

この本には「不自然な言葉遣い」と書かれてあったのですが、その言葉を遣う人は、その先に出来上がる関係性を目指して、進んでその言葉遣いをしているのかもしれません。

それがたとえ無意識であったとしても、その目的に応じた言葉遣いを自分の意思で選んでいるのです。

つまり、本人にしてみれば、全く不自然なことではない、ということです。

例えば、この本は、子どもが父親のことを「あの人」と呼ぶことによって二人の関係に壁が出来ている、という内容でしたが、それって、子どもにとって壁を作りたくなるような出来事があったからこそ呼び方が変化した、と考えられるのでは?と思うのです。


しかし、さらに考えていくと、呼び方などの言葉の遣い方が自分の意思ではままならない場合もあることに気づきました。

身近な例を出すならば、わたしは親に対して敬語は遣っていないけれど、それは「親ともっと親密になりたい」と思ってそうしているわけではなく、ただ、そういう習わし(決まり?)があるから、そうしているだけなのです。


そして、驚くことに、世の中は「そういう習わしだから」という理由で行われていることだらけです。

もちろん、それで助かっていることもたくさんあります。

そういう習わしがなければ、いちいちその定義について自分で考えなければならなず、とても大変なことになります。

それを過去の人たちの力を借りて過ごすことが出来ているのですから、ありがたい話ですよね。

ですが、たまには立ち止まって、「普段何気なくやっているけど、これってどうしてだろう?」と考えることも必要ではないかな?と思います。

その作業がなければ、何のためにそれをしているのか、ということがわからないまま事態が流れていってしまうからです。


昔、「どうして歴史を勉強するんですか?」と先生にたずねたときに、

「過去の人と同じ失敗をしないため」だと教わったのですが、

本当の理由はそれだけではなくて、自分たちのおおもとを知るためというところにもあるのかな?と思いました。





最初に話していることとはだいぶ違ったところに着地しました。

が、いつものことなので、もう気にしません。

FlipperKFlipperK2014/01/07 20:04習わし=システムと考えると、ないと困るものですし、縛られるのも困りものですよね。
このことについては、考えていることがあるので、そのうち私のブログにアップします。

mei-c5mei-c52014/01/07 22:28>>FlipperKさん
書いていて「習わし」というと現代に合わないなあと思っていましたが、なるほど!これって、システムのことですよね。
なければ困るのに、それが顕著になりすぎても困る。なんだか空気中の酸素のようです。

FlipperKさんがどのようにお考えになるのか、とても気になります!楽しみにしていますね。
コメントありがとうございました。

2014-01-04

向日葵。

| 03:05 | 向日葵。 - 幸福論 を含むブックマーク

友だちと向日葵を見に行ってきました。


えっ、こんな時期に??

と思われるかもしれません。

わたしも「向日葵って夏の花じゃないの?」と思ったのですが、どうやら夏に咲くのとは品種が違うようで、少し小振りで背の低い向日葵でした。

お正月ということもあってか、見に来ている人は、わたしたちを含めても3組だけです。

そのうち1組は、家族連れでした。

わたしたちがひとしきり向日葵を見てまわって、もう帰ろうとしていたとき、

一面の向日葵畑にお母さんや子どもたちが並んで、それをお父さんが少し離れた場所からカメラで撮影しようとしていました。

あ、と思って、じっとそちらを見ていると、友だちが

「ああいうの見ると、行きたくなるでねえ?」

と言って、すっと向日葵畑に入って行きます。

それから、お父さんに「よければ撮りましょうか?」と声をかけました。


わたしは、心底すごいなあ、と思って、この人と友だちであるということが誇らしくなりました。

「行きたくなるでねえ?」と同意を求められたけれど、わたしはそこまでは行動できません。

視線に気づいてくれたら……。

それで、シャッターお願いします、と言われたら……。

そう思って見ているだけで、結局は何も動いていないのです。

物理的に行動できないわけではないのに、どうしてなのか。

うーん。

もしかすると、単に慣れの問題かもしれません。

こういうことを普段から自然にやっているからこそ、このとっさの出来事にもこうして対応できるんだろうなあ。


日頃の行いに人柄があらわれるとよく言われますが、本当にその通りだ、と強く実感しました。

2014-01-03

伏線。

| 03:44 | 伏線。 - 幸福論 を含むブックマーク

わたしは、小説の伏線がすきです。

伏線というのは、小説が展開していったときに備えて、事前に手がかりやキーなどがほのめかされている、あれです。

伏線が張り巡らされるほど、最後にそれが回収される瞬間に気持ちよく感じます。


それで、さっき気付いたことがあります。

これって、いろんな情報を頭に入れて、それが繋がっていく瞬間にそっくりなんです。

その瞬間はとんでもなく気持ちいいし、すっきりします。

ついさっきも、高校の頃に読んだ小説で、消化不良のまま放置していた事柄があったのですが

暮れから読んだいくつかの本や、ネットで調べたことと繋がり、やっと

「ああ、こういうことを言いたかったのかな?」

とわかってきて、最高の気分になりました。


このことから、伏線というものをもっと大きなくくりで考えてみると、

普段、そこまで重要ではないニュースをぼーっと見たり、図書館で新書のコーナーにある本を何気なく手に取ってみたり、こんなのこれからの人生でどういうふうに役立てていいのかさっぱり分かんないな。。。と思うような講義を受けている、

これらのこと全ては、わたしの人生の伏線になっているかもしれないと言えるのでは……?と思うのです。



もし、伏線(無駄、もしくはあまり必要がないと思われること)の少ない人生だったら、どうなるでしょう。

当然、それが回収される機会も少なくなる上、よほど注意していないと回収の機会を逃してしまうこともありえます。なんせ、数が少ないですから。

こんな人生って、おもしろいでしょうか?

別におもしろさを求めていない、という方にとっては問題ないことかもしれません。

けれど、少なくともわたしはおもしい方がすきだし、おもしろい人生を送っている人と関わることができれば楽しいだろうな、と思います。


それから、人生の伏線は<その場限りの使用ではない>という点で、小説の伏線よりも優れています。

小説であれば、その物語の中で伏線が回収できないと、

「あの伏線、一体なんだったの?」

と疑問を残したままになってしまい、物語のその部分が無駄に思えたり、矛盾が出てきたりします。

それにひきかえ、人生の伏線は人に放り投げることができます。

つまり、自分が回収できなくても、誰かが回収してくれるかもしれないのです。

もしも80年間の人生だとして、その中で回収しきれなかったとしても、その子ども、そのまた子どもが時を経て回収することも可能。

誰かがやってくれるならば、無駄がありません。


では、このように無駄を出さないために必要なこととは何なのか。

それは、どんな些細なことでも、ふーん。と思ったり、見逃してしまいそうだけど、これってどうなの?と思ったりしたことを、こうして誰かに共有しておくことではないかな、と思います。





と、ここまで書いてみて、不思議な気持ちになりました。

大発見だ!と思ってこのことを書き始めたのに、見返すとなんだか陳腐な内容です。

きっと、もっとずっと先の将来に自分の日記を読み返してみると、こういう内容のことを20回くらいは書いているはずです。

でも、その時々に感じることは、常に自分の中では少しずつ変化していて、新しいつもりなのです。

とりあえず、これが最新のわたしです。


些細なことだからこそ、書いてみました。

FlipperKFlipperK2014/01/04 05:13 いえいえ、素敵な内容ですよ。私なんか、書いている内容が下らなかったり、間違ってたり、過激すぎたりして3回に1回は破棄しますから。
 伏線を感じ取るというのがいいですね。伏線は自分で張り巡らしたものが生きてくると言うのもおもしろいですけど、自然に張られた伏線、いやこの場合はつながりといった方がいいかもしれませんが、感じ取れる方がよいと思います。きっと、つながりを感じ取れる人を幸せな人というのでしょう。拝読させていただいて、私の好きな言葉(冗談ではなくて)を思い浮かべました。
「風が吹けば桶屋が儲かる」

mei-c5mei-c52014/01/05 02:30>>FlipperKさん
もったいないお言葉をありがとうございます。
FlipperKさんの破棄された日記にはどんなことが書かれてあるのか気になります。以前お話をお聞きしたときも楽しかったので、きっと楽しいんだろうなあ、と思うのですが……。
確かに、伏線を張り伝えるだけではなく、気付く力もあればなお良いのでしょうね!そういう力は、具体的にはどのようにつけていくものなのか、様々の場面を想定してみるとおもしろいです。

「風が吹けば桶屋が儲かる」
これについて、わたしのすきな芸人さんが「風が吹いた」から最終的には「桶屋が儲かる」までのたくさんの道筋(ストーリー?)をコントにしているものがありました。
一見、繋がらないでしょ!と思うような事柄が繋がっていく瞬間は気持ちがすっとします。本当によい言葉ですねえ。

daitouirukadaitouiruka2014/01/05 04:45伏線のたとえ、おもしろいですね。
自分の人生の伏線については、物語の読者の立場と違って、出会ったどんなものでもその気になれば「自分で伏線にしてしまえる」のがおもしろいですね。
「何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うか」というところでしょうか。

mei-c5mei-c52014/01/07 05:32>>daitouirukaさん
そうですね!そこまで考えていませんでしたが、物語とは違って、人生は自分が書き手の立場になれるのもおもしろいところですよね。
与えられているものをどう使うか、それから、与えられているものに気づけるか、ですね!

2014-01-02

お参り。

| 12:59 | お参り。 - 幸福論 を含むブックマーク

新年のお参りに行ってきました。

いつもは

「今のところ何事も滞りなく、家族ともども健康に過ごしています。ありがとうございます。これからも健康に気を付けますので、どうぞ見守っていてください。」

礼!

で終わりですが、今年は思いっきり私欲を入れてみました。



「なにとぞ、なにとぞ、弟と妹が大学受験に合格しますように!!!!」


聞きもれがあってはならないので、これを5回くらいやりました。

これだけやればなんとかなるかもしれません。

がんばれ~。

誰のためか。

| 11:52 | 誰のためか。 - 幸福論 を含むブックマーク

以前の日記(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/mei-c5/20131226/1388035412)でボランティアのことについてお話ししました。

そこで、swprismさんから、こういうコメントをいただきました。




私がボランティアに参加している気持ちとしては、「自分のため」という理由に尽きている気がします。ただ自分の関心が向いているだけで、「誰かを救っている」という事実は副次的な位置に来てしまっています。

本当に自分本位ですが、苦しんでいる人や困っている人を放っておく自分に幻滅してしまうのが嫌で、それを回避するため行動のように思えます。




このお言葉、とても分かります。

困っている人をそのままにしておく自分がいる。

その自分を発見してしまうと、いやだなあ、という気持ちになるのです。

でも、わたしの場合は、自分に幻滅してしまうよりももっと利己的(?)な理由で、いやだなあ、と感じてしまいます。

それは、困っている人がそのままにしておかれるようなこんな環境なら、もし自分が困った状況になっても、きっと助けてもらえないんだろうな……という気持ちです。


学び合い』がすきな理由も、そこにあるのだと、先日I先生とお話ししていて気づきました。

I先生がわたしに

「どうして『学び合い』がいいな、と思ったんですか?」

とたずねられたとき、わたしはとっさに「わたしも受け入れてもらえそうだから」というふうにお答えしました。

どんな人がいてもいい。というと、わたしもいていいんだと思えてとても楽な気持ちになります。

自分がそう思うことによって、相手も自分のことを許容してくれるとは限らないのですが、きっとどこかで期待をしているんでしょうね。

わたしも○○してるんだ、だからどこかにはわたしに○○してくれるような人もいるに違いない!みたいに(笑)


わたしはいつもこういうことを考えているときに、自分のことばかり考えて動いているみたいで、いやな奴だと思います。

swprismさんのように、win-winの関係だと思えるともっといいだろうな、とも思います。

そう思えるようになるまで、心の成長がもう少し必要なんだろうなあ。


でも、そういう自分も「許します」(笑)

天国コトバ。

| 11:06 | 天国コトバ。 - 幸福論 を含むブックマーク

いつの間にか、1月です。

あまりにもあっさり年を越してしまい、おどろいています。

昨年は皆様方に大変お世話になりました。

今年もどうぞよろしくお願いします。


今年の始まりも、笑顔で迎えることができて、幸せです。


家に帰省してきて、驚いたことがあります。

母が、何かと言葉の最後に「感謝します」というのです。

どうしたのかと思ったら、斉藤一人さんという方のお言葉をうけて、『天国コトバ』というものを使っているのだとか。

『天国コトバ』って何?と思ったので調べてみると、

「ついてる」

「愛してます」

「楽しい」

「嬉しい」

「幸せ」

「感謝してます」

「許します」

などがそれにあたるそうです。

逆に、『地獄コトバ』というものは、暗い後ろ向きな言葉のことをいいます。


どうして『天国コトバ』がいいのか、というと、明るい前向きな言葉をいつもしゃべっていると、脳が勝手に幸せな出来事を探し出すからだそうです。

だから、とってつけたように(わたしの母のように。笑)でも、「ついてる~」とか「感謝します」とつぶやいていると自然と幸せになっていくのかもしれません。

こういう言葉を聞いていると、まわりの人たちも嬉しい気持ちになりますよね。

わたしもこれからもっと積極的に言うようにしようかなあ、と思います。