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学び続ける集団へ

愛知県の小学校で教えています。情報交換をしながら皆さんと学び合い、そして多くの人と繋がりたいです。いつでも連絡ください。なお、メールはyudai7.iとgmail.comをアットマークで繋げています。よろしくお願いします。

2019-07-29

2019年夏

23:44

明日から大阪、8月は富山、新潟と、「研究集団ことのは」や堀さんのセミナーに参加する。


こんなのは夏休みにしかできない。学校の研修も当然ある。バランスなど取れていない(笑)


でも時にはバランスを欠いた状態から得られるものもあるに違いない。


この夏、ひたすら考え続けることで見えてくるもの、逆に見えないもの、遠くに感じるもの、そうでないものを自分自身の手でかき分けていきたい。


子どもたちに秤を磨けと言っている以上、そうすることで得られるものを語れなくちゃいけないのだ。


それが本気となり、響く語りになる。

2019-07-27

イエナプランから見えるもの①

22:13

 初任校にいた3年間、僕は先輩教員からよく、あなたには泥臭さが足りないと言われてきた。自分ではそんなつもりはなく、落ち着いた佇まいに見えるから、そこにきっと誤解が生じるんだろうなと思い、その指摘に向き合おうとしてこなかった。まともに考えることなく、今の学校にやってきた。そこからさらに3年経とうとしている「いま」と、初めて見たイエナプラン校の「いま」が無意識に比較され、昔の記憶を呼び起こさせた。

 そう、僕には泥臭さがかけていた。イエナで展開されている「いま」を見て思うこと、それは昔の僕は理想郷を追い求めていた、絶対的な回答を得ようとしていたということ。どこかに答えみたいなものがあって、こうすればこうなるという見方でしか教育を、子どもを見れていなかったように思える。職場の先生よりもほんの少し多く本を読んでいるくらいで、ちょっとだけセミナーに行っているくらいで、そんな錯覚を呼んでしまい、盲目的になってしまっていたのかもしれない。

 そうやって僕は、安易に最適解を追い求め、拠り所となる場所にもたれ掛かるような教員だったと思う。それが、僕のお世話になった先生方からすれば、泥臭さが足りないという姿だったのだろう。

 イエナプラン校で展開されているそれは、泥臭さそのものだった。僕はイエナさえあれば、『学び合い』さえあればと心のどこかで思っていた気がする。だからこそ今この文章を書いているわけだし、書きたくなったわけだ。そこにあったのは、ひたすら個と向き合う教員の泥臭さ。そうだ、僕はこの教育の原理とも呼べるべきことから逃れようとしていた。

 もちろん、今も意識的にバランスを取らなければと思うことばかりだ。

 今日行ったイエナプラン校から学んだことの1つである。

strongmind222strongmind2222019/07/29 11:28泥臭さ、わかる気がします。いくら教員がスマートに振る舞っていても、子どもたちに届いていなければ、教育という営みは意味がない。
子どもたちと丁寧に話しながら、一緒に歩んでいくしかないのだろうなと、最近思っています。
そうでないと、空虚でやってられないなぁと。

yudai7-iyudai7-i2019/07/29 23:38スマートすぎるねん先生は。そう言われたことも思い出しました。きっとテクニック先行の僕の在り方は子どもたちに見透かされていたのだと思います。
今思えば、その先生の子どもへの語り方、接し方にはテクニックのテの字も感じさせることのない、一直線のものでした。

2019-07-24

断罪思考

23:14

断罪思考、全か無か思考は、自らの中に問いをたてる習慣を排除してしまう。これは本当にこうなのか、いやもっと別の角度から見たらこうじゃないか、そういった思考の入る余地をなくしてしまうのだ。そしてそれは、自然に心の秤を錆びつかせてしまう。秤を使わずとも、テレビで見た、それっぽい意見をもつことができるんだ。


ボクたちが断罪し続けてきたからこそ、長年たった今、巡り巡って、決して失敗の許されない社会という形で還ってきてしまったんだ。


そしてその一助を担っているのが、ボクたち教員なのではないか。


自分の子どもの前での立ち振舞を顧みざるを得ない。

2019-07-23

切り捨てる

22:52

何かを大切ではないと決断すること、切り捨てる覚悟を持つこと。


その瞬間、自分が何に対して豊かさを感じ、何に対して幸せを感じるのかがわかる。

2019-07-21

最適解

21:43

 教育に最適解などあるのだろうか。この最適解という言葉、「現状の自分」という範囲を限定した上でそれを使用するにしても、そこには思考をとめることでカタルシスを得ようとする自分がいないか。安易に最適解を見つけた、自分の中の理想に到達したなどというのは、幻想なのではないか。


 自分も、よくこのような思考に陥ってしまうことがある。その瞬間、僕が抱く教師像が、教室で機能しなくなってしまう。最適解を見つけたとのたまう教師のもとで、果たして複雑な社会の中で、多種多様な選択肢の中から最適解を探ろうとする「構え」を子どもたちに身につけさせることができるのだろうか。


 ただ、覚悟を決めてそれ以外の選択肢を見えなくさせる決断もまた、欠かせないことだと思う。偏ることで見えてくる気づき、得られる新たな発見もあるだろうから。中庸、バランス思考を取ることもある種の「偏り」とみなし、その思考に対してもバランスを取らなくてはと思う。

2019-07-20

1学期雑感②

23:25

学び合い』の中で、個々の子どもの中に入り、雑談や相談、学習法のアドバイスや、問題出したりと、今学期も授業中多くの子と関わりを持つことができた。


そしてどこかの時間で、自分の選択した学習方法について振り返りジャーナルを書いてもらう。


翌日また個人へのフィードバックの旅。


ジャーナルを授業通信で紹介して集団にフィードバックすることも取り組んだ。


とにかく今年度の僕は、子どもを集団で見ることと個として見ることのバランスを取ることを心がけている。


過ぎたるは及ばざるが如し。中庸。先人の考えついたこれらの言葉は、要はバランスを取れということではないか。極端をとってしまうと、たちまち大事なものが見えなくなってしまう。そして自らに問い続けることができなくなってしまう。


それでは日々の授業通信も出せなかったし、何より子どもたちにチャレンジングに取り組み続ける自分を見せられなかった。

2019-07-19

1学期終了 雑感

22:15

終業式が終わった。今の自分にとっての現在地が教室にある。今の教室こそが、自分の現在地である。そして自分は、自分と地続きにしかない実践を失敗や成功を繰り返し、試行錯誤していくしかないのだ。

そのような構えの大切さを再認識した1学期だった。


何よりボクが彼らに成長させてもらった。彼らもそんなボクから成長することの価値を少しではあるが、感じ取ってくれたような気がする。


子どもたちのおかげで自分は成長し、その自分に相まって、子どもたちも変容していく。教育とは、教師と子どもたちの成長の相互のスパイラルでその機能性が高まっていくのかもしれないなぁ。


だがやはり学期末は自分の心が擦り切れていくのを感じる。無意識的にも意識的にも子どもたちに求めてしまう自分がいる。


学期末だから変わらなければいけない、成長しなくてはならない。


そのようなボクの考え方の中には教室の子どもたちはいない。


自分の理想と子どもたちの成長が緩やかに折り重なっているのだろうか。


そして、その場その場でそのような、教室と乖離した自分を意識的に捉えることができているのだろうか。