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学び続ける集団へ

愛知県の小学校で教えています。情報交換をしながら皆さんと学び合い、そして多くの人と繋がりたいです。いつでも連絡ください。なお、メールはyudai7.iとgmail.comをアットマークで繋げています。よろしくお願いします。

2019-08-03

自己責任論

19:07

ひょっとしたら僕は、血の通っていない自己責任観を、子どもに押し付けていないか。


そう考えたとき、この職業はなんと恐ろしいものだと思った。


暴力的ともいえよう。


当然のごとく、学校現場には安易な自己責任論が蔓延っている。


ちょっとでもまずい指導をした、自分の意にそぐわない在り方の教員を影でバッシングし、指導が通らない生徒を自己責任論を免罪符にし放置。それどころか、他の生徒にこれみよがしに知らしめ晒し上げる。


自分の首を自分で絞めていることにも気づかず、他者の背景も理解しようともせず安易に断罪していく、そんな学校が生み出してしまったものが今のこの日本社会なのではないか。


この問いから僕たち教員は逃れられない。いや、逃れることはあってはいけない。

時代をみる

14:20

大阪セミナー終了。


一貫して自分には時代を俯瞰する能力と言うか、見ていこうとする意志みたいなものがなかったのだと感じた。


その必要性すら感じることなく今に至ってしまった。。


だからこそ、限られた時間の中、本を読むという選択をするのなら、内容は教員向けのものに行き過ぎることは危ういなと今回のセミナーを通して感じた。


むしろ読まなくてもいい、偏っているがそう思いさえした。


今自分の部屋を見渡すとそんな本ばかり。


つまり今の自分を形作っている世界は、こんなにも狭いものなのだ。


最近自分が考えているのは、どっちかというと国語をどうするかとか算数をどうするかというよりも、自分の抱えている問題意識を子どもに還元するためにはどうしたらいいかということにシフトし始めている。


学び合い』も出発点としてはそこだったけど、今はもっと深層に届きたいという意識が自分の中でうごめいているのを感じる。


そのためにも教科、教員という狭い枠組みで考えすぎることを意識的に調整し、時代を俯瞰するものの見方を養っていかなければなと。


結局はバランスなんだよな。教員向けの本を読まなすぎてもいけないし、読みすぎてもいけない。


そういうある種折り合いを自分の中で付けていかないことには、いつまでたっても変われない。


転換をしないと、子どもに響く道徳の授業はできないのだろう。

2019-07-29

2019年夏

23:44

明日から大阪、8月は富山、新潟と、「研究集団ことのは」や堀さんのセミナーに参加する。


こんなのは夏休みにしかできない。学校の研修も当然ある。バランスなど取れていない(笑)


でも時にはバランスを欠いた状態から得られるものもあるに違いない。


この夏、ひたすら考え続けることで見えてくるもの、逆に見えないもの、遠くに感じるもの、そうでないものを自分自身の手でかき分けていきたい。


子どもたちに秤を磨けと言っている以上、そうすることで得られるものを語れなくちゃいけないのだ。


それが本気となり、響く語りになる。

2019-07-27

イエナプランから見えるもの①

22:13

 初任校にいた3年間、僕は先輩教員からよく、あなたには泥臭さが足りないと言われてきた。自分ではそんなつもりはなく、落ち着いた佇まいに見えるから、そこにきっと誤解が生じるんだろうなと思い、その指摘に向き合おうとしてこなかった。まともに考えることなく、今の学校にやってきた。そこからさらに3年経とうとしている「いま」と、初めて見たイエナプラン校の「いま」が無意識に比較され、昔の記憶を呼び起こさせた。

 そう、僕には泥臭さがかけていた。イエナで展開されている「いま」を見て思うこと、それは昔の僕は理想郷を追い求めていた、絶対的な回答を得ようとしていたということ。どこかに答えみたいなものがあって、こうすればこうなるという見方でしか教育を、子どもを見れていなかったように思える。職場の先生よりもほんの少し多く本を読んでいるくらいで、ちょっとだけセミナーに行っているくらいで、そんな錯覚を呼んでしまい、盲目的になってしまっていたのかもしれない。

 そうやって僕は、安易に最適解を追い求め、拠り所となる場所にもたれ掛かるような教員だったと思う。それが、僕のお世話になった先生方からすれば、泥臭さが足りないという姿だったのだろう。

 イエナプラン校で展開されているそれは、泥臭さそのものだった。僕はイエナさえあれば、『学び合い』さえあればと心のどこかで思っていた気がする。だからこそ今この文章を書いているわけだし、書きたくなったわけだ。そこにあったのは、ひたすら個と向き合う教員の泥臭さ。そうだ、僕はこの教育の原理とも呼べるべきことから逃れようとしていた。

 もちろん、今も意識的にバランスを取らなければと思うことばかりだ。

 今日行ったイエナプラン校から学んだことの1つである。

strongmind222strongmind2222019/07/29 11:28泥臭さ、わかる気がします。いくら教員がスマートに振る舞っていても、子どもたちに届いていなければ、教育という営みは意味がない。
子どもたちと丁寧に話しながら、一緒に歩んでいくしかないのだろうなと、最近思っています。
そうでないと、空虚でやってられないなぁと。

yudai7-iyudai7-i2019/07/29 23:38スマートすぎるねん先生は。そう言われたことも思い出しました。きっとテクニック先行の僕の在り方は子どもたちに見透かされていたのだと思います。
今思えば、その先生の子どもへの語り方、接し方にはテクニックのテの字も感じさせることのない、一直線のものでした。

2019-07-24

断罪思考

23:14

断罪思考、全か無か思考は、自らの中に問いをたてる習慣を排除してしまう。これは本当にこうなのか、いやもっと別の角度から見たらこうじゃないか、そういった思考の入る余地をなくしてしまうのだ。そしてそれは、自然に心の秤を錆びつかせてしまう。秤を使わずとも、テレビで見た、それっぽい意見をもつことができるんだ。


ボクたちが断罪し続けてきたからこそ、長年たった今、巡り巡って、決して失敗の許されない社会という形で還ってきてしまったんだ。


そしてその一助を担っているのが、ボクたち教員なのではないか。


自分の子どもの前での立ち振舞を顧みざるを得ない。

2019-07-23

切り捨てる

22:52

何かを大切ではないと決断すること、切り捨てる覚悟を持つこと。


その瞬間、自分が何に対して豊かさを感じ、何に対して幸せを感じるのかがわかる。