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愛知・東三河・豊橋で『学び合い』を深めよう!

愛知県豊橋市の小学校教員(30代前半)です。2011年1月から『学び合い』の実践を行っています。大きく3つの目標があります。 ①「愛知の会」や「東三河の会」を立ち上げること(立ち上がっているのであれば、発展の役に立つこと) ②身近な人や興味をもってくれる人と実践を深めること ③授業を積極的に公開し、自分の力量を高めること 以上です。志高くやっていきたいと思っています。どれか1つにでも興味を持たれた方は、paidorosu131★yahoo.co.jpに連絡ください。(★は@に変えて送ってください。

2017-04-25

新年度

00:44

今年度は、6年生の担任でした。

1年生から6年生なので、一気に変わりました(笑)

今年度は、これまでにやったことのないこいとも挑戦しています。


さて、昨日は授業参観等の代休でした。

少し時間ができたので、喫茶店で本を読んでいました。

ある大好きな作家さんの小説で、10冊以上ある本をどれもが2~5回は読んでいます。

今回も約2時間ぐらい読みました。


3回目でしたが、読むときのこちらの心理状況というか、どんなことを考えているかによって、ヒットするポイントが違うなぁと改めて思いました。

いろいろあったのですが、今回特に思ったのが以下のことでした。

学生から教師になったとき、忙しくはなりましたが、学生時代に戻りたいという気持ちは一度も思ったことありませんでした。

そのときの捉えとしては、学生時代は時間があるのにも関わらず、「こういう勉強したい」等を思っていても、結果やらず、自己嫌悪という状況が多くありました。

しかし、いざ教師としての仕事が始まると嫌でも、やらなきゃいけないことに追われます。結果、こなしているだけでも、充実感がありました。

だから、自分は学生時代に戻りたいと思ったことはないのだと思っていました。

これらのことを当てはまっているとは思います。


ただ、今回はもう少し思いました。

その本には、大人の社会は基本的には「約束」で成り立っていると書いてありました。

確かにその通りです。物理的な仕事もそうですが、人間関係という面でも「約束」で成り立っているのはその通りです。ただ、これらは基本的には簡単なことです。「約束」を守らないときの、ペナルティーはかなり重いので嫌でもやることになります。

一方、大切なのに守れない「約束」があります。


それは、自分自身に対する「約束」です。


そして、大抵はその「約束」を守らなくても、迷惑をかけることはありません。

が、自分自身がどこかで「約束」を破っていること自体は知っています。


こういうことを読み、そして考えながら

「あぁ、学生時代に戻りたいと思わないことに、どこかで自分のことを誇れると思っ

ている節がありましたが、結局、弱い自分に直面したくないだけなのだなと改めて痛

感しました。その点が、まだ学生の頃と比べて、止まっているところだなと。」

代休の日に、改めて自分を考えることができました。

2017-02-06

道徳~パッケージング~

23:31

道徳というものをそもそも忌避する風潮はあったと思います。

修身のがらみを除けば、単純に人間の中身、信条に関わるようなことだからだと思います。

また、教科内容ならいいかもしれませんが、完璧でない教師が教えるということもまた、関係するかもしれません。

特に中学生ぐらいからすれば、好きではない担任であったら、きっと何を言っても、心には届かないでしょう。

そういった意味で、よけいに道徳の授業のパッケージングは重要だろうと思います。

学び合い』を始めとする、アクティブラーニングの側面は特に必要だと思います。

なぜなら、教師が前面に立って、行う授業ではないからです。

上手に、授業の構成や進め方、もちろん資料(教材)を煮詰めれば、自ずと子どもたちも授業に乗るでしょうし、中身に関心が向いていくだろうからです。

もう少し、具体的なパッケージングを考えていきたいと思います。

2017-02-05

道徳~何が求められるのか~

18:10

教科化になることで、一体何が変わるのでしょうか。

教科書はできます。

評価、記述評価をすることになるでしょう。

これらのことも、関心はあります。


ただ、何を望まれているかという点では、

結局、効果だろうと思います。

道徳の授業をすることによって、何が変わったのか?

ということだと思います。

これまでの道徳は、心に種を植えるというような、

今日、明日ではなく、ずっと未来にいつか花咲くようであればいいという考えがあったように思います。

実際に聞いたことがあります。

もちろん、教育全般、そうといえばそうです。

当時は、いやな思い出のような出来事も、後々深い意味で理解することもあります。

これは大人にだってあります。初任研で言われたあの言葉は、こういうことだったのかなというように。私自身もありました。

しかし、だからといって、いつか役立てばよいというだけでは、ダメなような気がします。

行き着く先が、ただ1時間をこなす授業になってしまう気がするからです。

アクティブラーニングが、最終的な結果まで求めたものになっているように、

道徳も結果を出す必要があるでしょう。

ただし、これは1つ前に書いたように、押しつけたからといってうまくいく性格のものではありません。

まさに、アクティブラーニングがいうように、学修者自身の学びとなっていかないと、結果も出ないでしょう。

学び合い』で学習内容の理解も、人間関係の改善にも影響力をもっていることを考えれば、道徳の授業においても、もちろん可能でしょう。

ただ、現時点で実践した数が少なすぎます。


その点が、自分自身、どこか逃げているように思います。

能書きばかりではダメですね。

2017-02-04

道徳~心を揺さぶるのは何か~。

00:50

道徳の授業をもし、自分が受けていて、おもしろくないと思うものはどんな授業かと考えると、

1.きれいごとでしかない。

2.わかりきったことを答える。

とかでしょうか。少なくとも自分ならそうです。


道徳の授業を行う上で、心を揺さぶるというのは、重要なポイントだと思っています。


それは、前回書いたように、「あこがれ」や「こういう人になりたい」という思いを抱くうえで、欠かせないと思うからです。


では、どういうときに、心を揺さぶられるのかと考えると、

1.ある行動や考えに対して、人間の弱さという点から共感できること。

2.しかし、その弱さを超える行動や考えにふれること。

この2点。

さらに極めつけは、

3.その弱さを超えている人も、同じ人間だということがわかること。


学び合い』の道徳(明治図書)の書籍でも書かせていただいたが、

具体的にいうと

1.ある状況下において、悪口を言ってしまうという子に、共感する。

2.しかし、松井選手は、悪口を言わないという事実とその考えにふれる。

3.では、松井選手は悪口を言いたくなることはないのか…。もちろん、ある。ということを知る。

以上の要素を外さないように、『学び合い』をベースにした授業。

学び合い』をベースにすると、1のような負の出来事に対して、自分の経験を話しながら、共感することができる。(自分も言ったことあるのだけど…のように)

しかし、これで終わっては、「みんながそうだから、仕方ないよね」というものになってしまう。

だからと言って、言われた子のことを考えようというのも、低学年であれば、それは有効な面もあると思うが、

高学年ぐらいであれば、直球で聞くと、表面的な答えになってしまう。

どうしてか。求められる答えだけはわかっているからである。

しかし、それはでは効果はない。なぜなら、悪口はいけないこととわかっていても言うからには、言う側なりの理由や正義があるからである。

しかし、ここで、そうではない人の登場。

単純に、噓でしょ?本当に言わないの?

というような驚き、そしてすごいという気持ちになる。単純にかっこいいのである。

でも、最後は、その人は、何も感じないような神のような人かというと、そういうわけではない。

自分たちと同じように、言いたくなることはあるということを知る、でも、言わないのである。


これらの授業を、自分の学級でも、飛び込みの学級でもやったことがある。

手ごたえは、正直ある。

面白い上に、子どもたちに書かせる最後の作文も、どの子も、自分と向き合った上、自分の言葉で書く。

ただ、これは6年生での実践。低学年に、いけるような内容もつくりたい。

2017-02-03

道徳~あこがれ~

00:42

道徳を学んでいくうえで、「あこがれ」というか「いいな」、「かっこいい」というような感情は大切だなと思う。

ちなみに、この部分がきっと、道徳でいう「行動」だけに焦点を当てては見えない部分だと思う。


筑波の加藤先生の著書を読んでいるとよくでてくるのが、その行動の、「心のもと」になる部分を考えさせることの大切さである。

ようは、根底にある部分である。価値観に根差した理由のようなものだと思う。


例えば、『学び合い』では、よく人に教えることや困っている子に声をかけることは、自分に得があるからであり、それが自然であると考えられている面があると思う。


私自身、これはあくまでもスタートレベルではという感覚である。

最初は、いいと思う。

先生に言われるから、怒られるから、自分が困ったときに教えてもらえるから、いろいろな人間関係のなかで生きている子にとって、それらの理由から動いているのは、当然だと思う。

ただし、そのままでよいのか。

また、道徳の授業という側面からもそれでいいのかというと違うように思う。

つまり、「困って子に声をかける」ということには、本当に多様な理由が存在する。

そのなかには、「おぉ、そんなことを考えて、声をかけているのか」

というような、道徳的にいうと価値の高いようなものも存在しうる。

そこをとらえ、価値づけをしていくことは、重要ではないかと思う。

そして、その行動にある本当の「心のもと」にふれたとき、人は、それを「かっこいい」、「自分もあんな風にできたら。」という気持ちが出てくるのではないかと思う。

上手にやれば『学び合い』のなかでもできるであろうが、

きっと、道徳の授業で上手に取り組んでいけば、『学び合い』もよい影響を与えていくのだろうと思う。


もちろん、それは『学び合い』だけにかかわることでもないと思う。


なんて、ことを今日は考えていました。