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てつのりだーのノリノリだー(memorandum)

2011-07-10

マナーは個人の価値観とは関係がない

19:24

 教師というものはそれを望むと望まざるとに関わらず、子どもに多大な影響を与え得るものである。

 故に教師のマナーの欠如はその影響範囲内にいる子どもたちのマナーの欠如に間違いなくつながる。

 そしてマナーというものは、常に人や社会との関わりのなかで生まれている。そのマナーというものの公共性は、したがって、人や社会を無視又は度外視して、その関係の中からでなく埒外からでは考えられぬものである。

 故に公共的ルールとして必要性から存在するマナーは個人の考え方ではなくて、他者との間に在るものであって、あくまでも個人に帰結せられるものではないということは忘れてはならない。

故に教師は人との関わりにおいてマナーを自然身につけることが必要である。

いじめ

19:12

 まず「いじめ」というものを撲滅するを目指すに置いて、(その可能か否かの議論は行わないで、)その撲滅のために先ず考えねばならぬことは、いじめがなぜおこるのかということであるが、しかし、そこであってはならぬことはいじめを行う子どもたちが罪深い(行わぬものに比べ、又は起っていないクラスの子どもに比べて、という意味で)というような前提である。

 私が最も嫌うのは、人を断罪するような想像力に欠ける思考である。誤解を恐れずに言うと、わたしにとって全ての犯罪的行為や罪は自分が被りうる可能性のあるものなのである。

 ある犯罪者の報道を見て、「なんてひどい人間だ」「馬鹿なやつ」「どんな育ち方したのだ。(哀れみ又は理解できぬというニュアンスで)」などと言うのは簡単であるが、実に想像力に欠ける思考と言わざるを得ない。それらの犯罪に関してその犯罪者と同じ状況に陥った時あなたは同じように考える事ができるのかと問いたくなる。

 全ての人間の行いにはその背景が大きく広がっており、そこへの想像を働かせずして何を言っているのか。


「いじめ」も同様で、そのいじめを行う又は見て見ぬ振りをするクラスメイトたちを内心断罪して、発言することは実に想像力に欠ける。

 それらのいじめを行う人間や見て見ぬ振りする人間の思考、感情、背景を想像すらせずにそのいじめの原因をいじめる側の精神的未熟と捉えてしまう愚かさは恥ずべきものだ。


 誤解されてはこまるのだが、私はいじめを肯定しているのではないということだ。以上に述べた事に陥らずに、私はいじめをなくすためにということを常に自らの課題意識として持ち続ける。

そしてそれはひとりでどうにかなる事でなくて、その社会や集団、コミュニティーの文化ともいうべき、雰囲気とその前提にあるクラス内記憶に対して回顧省察する視点を持つという規範を作り、それによってそれが撲滅され得る、どころか発生し得ないものにしたいのである。