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相互依存を追いかける このページをアンテナに追加 RSSフィード

 ハンガリー・カーロリ・ガーシュパール大学の若井誠二(わかいせいじ)です。日本語教師です。10以上年前より学習者自律に関心を持ち、現在は学習者自律を支える「相互依存」を追いかけています。そして『学び合い』が相互依存の1つの形かなと思っています。(ご連絡等はszeidzsiアットマークfreemail.huまでお願いします。)

2010-08-11

私の心の中の問題

| 17:40 | 私の心の中の問題 - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 私の心の中の問題 - 相互依存を追いかける 私の心の中の問題 - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

経験が少ない教師が課の事項や順番を加工しても一貫性が失われるだけだ。結局は学習者のためにならない。「教科書を教えるより教科書で教えよ」というのは、豊富な経験を持つ教え手に対するある種の忠言である。しかし経験が少ない教え手の場合には、創造性を発揮するより先に、授業ですべきことがある。それはまず、ある教科書にその内容をすべて暗記するくらい入り込むこと、ついでその内容をモニターしながら学習者を子ども扱いしない関係作りにつとめること(『もしもあなたが外国人に日本語を教えるとしたらp.168)


昨今、初中等教育の世界では「ゆとり教育」「個性溢れる創造性」といった題目のいわばアンチテーゼとして、構造性を持つドリルをさせることや、丸暗記させることの重要性が言われ始めている。日本語教育の枠組みでこれを言い換えると、文型をきちんと理解させること、ドリルでそれを定着させることなしには創造的なコミュニケーションなど不可能だ、ということになる。これは現場の視点に立った、まっとうな考え方だ。(同pp.98-99)

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「教科書を順番にやる」「文型を(ドリルなどで)理解させる」・・・反論できません。ただつまらないです。この枠組みの中で名人芸を見つけるという方向性もあり、そこに喜びを感じる教師も多いと思います。そして学習者側もそれを望んでいるところがあります。それでも個人的にはなんかそれじゃつまらないです。その枠組みを越えたい・・・そんな気持があります。

名人芸を身に付けることが重要なのではなく、学習を学習者の手に戻すというのが『学び合い』の1つの考え方だと思います。名人芸を身に付けたい人の中にはそれがつまらないと思う人もいるかもしれません。つまらないんだから理論は理解できても受け容れられないのでしょう。

今の私の場合、そこにこだわりはないのですが、「教科書を順番にやる」「文型を理解させる」という枠ぐみが嫌いというところが、『学びあい』によって更に負として増幅されているようなところがあります。(下のKAIZENのところとリンクします)

いずれにせよ、『学びあい』が問題というよりは、自分の心の中の問題のようです・・・

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学校と教育全般

2010-05-14

ちょっと方向性が見えてきた

| 08:29 | ちょっと方向性が見えてきた - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - ちょっと方向性が見えてきた - 相互依存を追いかける ちょっと方向性が見えてきた - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

今年度の授業を実質終了し、反省を始めたら悩み始めてしまった私。悩みの1つが「自分の掲げる目標」が学生に理解・共有されていないのでは・・というところです。例えば今回はあるクラスで「ハンガリーに住む日本人が「へ~!」と思うハンガリーに関することを書いた冊子をつくる」というコースの目標をたてました。この目標が理解・共有され「やる価値がある」と判断されれば、それぞれが記事を書くだけではなく冊子全体の構成、項目の選択、レイアウト、パイロット版をつくり日本人にチェックしてもらう・・・ところにいたるまで学生が工夫して行うはずです。その中でいろいろな場面で生きた日本語を使う必要が出てくるでしょう。でも目標が共感されなかったら、単に自分がいいと思った項目を調べて書くだけです。

それで元同僚の仲間に聞いてみました。すると、日本の語学学校だったら日本語の授業ばかりだから、オーソドックスな授業は飽きちゃう。だからプロジェクトワーク的な課題は新鮮味がある。しかし、海外の大学では日本語を学ぶ意義をみつけにくいし、さらにハンガリーの大学の場合、日本語の授業数が非常に少ない。そして授業を受けるのは伝統的な形式で語学を習得し入試で高得点をとってはいってきた学生である。そのような状況の中、「オーソドックスな授業」は望まれているものでり、飽きられているものではない。だから、そこでいきなりプロジェクトワーク的なことをやっても受け入れられない可能性はある・・・とのことでした。テーマについても、彼らに共感が得られるためには、彼らにとってもっと身近なものも見る必要があるんじゃないか・・とも言われました。

あと言われたのは、『学び合い』の考え方はわかるし、授業のねらいも理解できる。でも教師が語る時間を短く・・というのは形式だ。毎週1回で13~14回の授業なんだから、1回の授業内での構造を気にするのではなく、コース全体で考えれば最初の数回は語りつづけ、信頼をえるためにオーソドックスな授業をやっても、信頼を得て教師の示す方向性が共感されれば、コースの残りのは一言も話す必要がなくなるはず。それでいいじゃないかということでした。ゴールさえゆれなければ、手段はなんでもいい・・・て学生に言ってるんでしょ。自分もそうすればいいだけ・・・ということです。

学び合い』を始めてから、数年。「○○の教え方」「○○メソッド」への関心がほぼ0になっていたのですが、信頼を得るための引き出しの1つとして、これらの知識・技術を持っていればいいと思うと、少し気が楽になりました。

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学校と教育全般

2010-05-13

勘違いしているつもりはないけれど、今後も勘違いないために

| 23:51 | 勘違いしているつもりはないけれど、今後も勘違いないために - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 勘違いしているつもりはないけれど、今後も勘違いないために - 相互依存を追いかける 勘違いしているつもりはないけれど、今後も勘違いないために - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

教師の威厳というのは非常に脆いものなのです。その、脆さを知っていないと、酷い目に遭う。

教師の方が生徒よりも強い、教師の方が生徒よりも知識がある、教師の方が生徒よりも高い技術を持っている、教師の方が生徒よりも倫理的に正しい、教師の方が生徒よりも人間的に完成されている。こういう、パワーゲームで自分の権威を保とうとしている教師は常に綱渡りをしているのです。実際の話、本気のパワーゲームに持ち込まれれば、負けるに決まっているのですから。教師対生徒の戦いは一対多の戦いで、しかも教師の威厳を保つには、一度も負けられないのですから。

実際、教師の威厳というのは、こういうパワーゲームではありません。殴り合いの喧嘩になったら俺の方が強いと思っている生徒も、黙って自分より弱い教師の言いなりになっていますし、この分野では明らかに自分の方がよく知っていると確信している生徒も、黙ってその教師の授業を受けています。 教師の威厳というのは、先ず生徒が認める事によって成り立っているのです。教師の威厳を否定されてしまえば、教師は只のおっさん、おばさんに過ぎません。小学校高学年から中高生の、いわゆる反抗期の若者にとって、普通のおっさん、おばさんはそれ自体、軽蔑の対象です。

そうして軽蔑されながらも、普通のおっさん、おばさんが生徒を従わせようとすれば、今度こそパワーゲームしかありません。そしてそのパワーゲームに、大抵の教師が負けてしまうのです。教師の威厳とは、実は教師自身の威厳ではありません。社会構造自体の威厳なのです。学歴社会のレールから外れたくない。無事、小中高の卒業証書を手に入れ、大学に進学し、大学卒の資格で安定した企業に就職したい。生徒達のそういう願望が、教師の威厳を支えているのです。 生徒が敬意を払っているのは評定点や卒業証書なのです。教師自身を尊敬している訳ではないのです。

でも、駄目教師は学歴社会、階級社会への恐怖感を、自分自身の威厳に対する恐怖感と勘違いしてしまっているのです。だから、自分が何をしても生徒や保護者は唯々諾々として従うに違いないと思い込んでいる。(教育の売り方7http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai2000-1/iitai149.htm

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自分では権威をちらつかせているつもりは全くないですが、成績などでしばっていることも事実です。ただ今いろいろ反省中です。

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ラポールが築けていたのか

| 21:58 | ラポールが築けていたのか - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - ラポールが築けていたのか - 相互依存を追いかける ラポールが築けていたのか - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

自分が学生だった頃、自分の担任の教師などから言われた言葉、された事に対して、今でも腹が立つ事は沢山あります。その中の一つに、私の保護者に担任教師が言った次のような言葉があります。「牛を水辺に連れていく事はできますが、無理矢理水を飲ませる事はできないのです。ですから、自分で自覚を持って、もっとやる気を出してもらわなければ」この言葉を、今の私の感覚で言い換えると、こういう事になります。 「牛を水辺に連れていく事は誰でもできますが、牛に水を飲ませる事ができるのは有能な牛飼いだけです。私は無能な牛飼いなのですから、自分でやる気を出して貰わなくては」生徒にやる気を出させるテクニックは色々とあるでしょうが、先ず一番大切なのが、ラポール、つまり、信頼関係を生み出す事なのです。上の言葉を口にした教師は、要するに生徒との信頼関係を結ぶのが下手な教師だったのです。 (教育の売り方4http://www006.upp.so-net.ne.jp/takagish/opinion/iitai2000-1/iitai146.htm

今年度の授業もそろそろ終わりです。一年を振り返ってみると、(今ちょっとネガティブ思考に入っていることもありますが、それだけではなくきっと)自分は信念を持って授業に臨んでいるつもりでも、「自分がサボりたいから何もやらないんだろ。」「やる気がない!」と思われているのでは・・・と思われていたのでは・・と反省させられます。

学生との信頼関係・・・大きな課題です。

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迷い

| 16:35 | 迷い - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 迷い - 相互依存を追いかける 迷い - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

教師主導型学習では、学習リソースとして見た場合に、教師、教科書の執筆者、教材の製作者の有する経験の方が、学習者自身の経験よりもすぐれたリソースであると捉えられ、それゆえに教師は、これら専門家のリソースを学習者に伝授する責任をもつのだと考えられています。一方、自己主導型学習では、学習者の経験は、専門家のリソースとともに活かされるべき、非常にゆたかな学習のリソースと見なされるのです。『学習者と教育者のための、自己主導型学習ガイド』25

この中の「学習者の経験は専門家のリソースとともに」という部分の「ともに」をどう解釈するか・・・が気になります。

私の大学での授業は、何かの作品をつくることが多いのですが、この「授業で作品をつくる」という作業が、「日本語学習」とは結びついていない(ハンガリー語のやりとりですんでしまうことも多いでしょうし)ということで「こんなの日本語の授業じゃない」「お前は日本人なのだから、その日本人というリソースを授業でもっと活かすような配慮をしろ!」と学生に言われているような気が(常に)しています。

私は私というリソースを授業でどう使えばよいかちょっと迷っています・・・下に私は「能天気」と書きましたが、自分の抱えている不安を見ないようにしているだけかもしれないな・・・と思い始めました。

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2009-12-12

こんがらがったら・・・

| 15:50 | こんがらがったら・・・ - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - こんがらがったら・・・ - 相互依存を追いかける こんがらがったら・・・ - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

自分が今おかれている状態・・・というか、所属する大学の日本語教育や日本語教員養成を考え出すと、もうこんがらがった糸みたいで、どうしてよいかわからなくなってしまう状況にあります。でもこれは自分の1人の頭で考えようとするからでしょう。自分が問題だと思っているところが、実はまわりにはさほど問題ではなかったり、自分がさほど問題ではないと思っているところが、実はまわりには問題に見えたり・・・

こんがらがったら、やっぱり誰か(気楽に話せる人)に相談するか、ちょっと距離を置いて眺めるかですかね・・・

2009-09-25

クラスに何を望むかを語ると、それだけが一人歩きしてしまう気がしてしまって

| 16:45 | クラスに何を望むかを語ると、それだけが一人歩きしてしまう気がしてしまって - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - クラスに何を望むかを語ると、それだけが一人歩きしてしまう気がしてしまって - 相互依存を追いかける クラスに何を望むかを語ると、それだけが一人歩きしてしまう気がしてしまって - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

私はCEFRでいう異文化(よその国、違う言語をつかう民族レベル)ではなく、自分の隣にいる人(クラスにいる人)の持つ異文化に注意してほしい・・という気持ちを持っていますが、「注意する」ことを強調すべきかで少し迷っています。というのは『学び合い』の考えでは、目標をみんなが達成することを求めれば、結果として異文化に気を配るようになる・・と読めるからです。

強調すると、それ(だけ)が目標のようになってしまうし、かと言ってクラスにそれが見えないと気になってしまうし・・何をどう語るか・・悩みます。(去年は語りが「学び合わせ」に繋がってしまい、クラスがおかしくなってしまいました。今年はそこに気をつけています。)

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