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相互依存を追いかける このページをアンテナに追加 RSSフィード

 ハンガリー・カーロリ・ガーシュパール大学の若井誠二(わかいせいじ)です。日本語教師です。10以上年前より学習者自律に関心を持ち、現在は学習者自律を支える「相互依存」を追いかけています。そして『学び合い』が相互依存の1つの形かなと思っています。(ご連絡等はszeidzsiアットマークfreemail.huまでお願いします。)

2015-10-15

1対1での(文字での)討論の難しさ

| 04:24 | 1対1での(文字での)討論の難しさ - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 1対1での(文字での)討論の難しさ - 相互依存を追いかける 1対1での(文字での)討論の難しさ - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

タスクシラバスVS文型シラバスというtogetterのやりとりを読みました。

http://togetter.com/li/886949

「タスクシラバスでは受身が習得しにくい」というブログエントリーに対し、その問題提起自体に問題があるという反応があって議論が続いて行きました。そして最後に主義の違う人との議論は難しいという感じで終わっています。

私が読んだ感想では(主義の違いというよりは)タスクシラバスに対する認識・理解の確認がないまま議論が進んだため建設的な議論にならなかったのかなという気がしました。(もうちょっと言うとタスクシラバスとタスク練習がごっちゃになってしまった感じに見えました。)

日本語と外国語はもちろん、専門が違うと同じ言葉でも意味が変わります。(例えば日本語教育におけるレアリアと翻訳学のレアリアでは意味が違います。)しかし同じ専門分野だからといって(バックグラウンドや経験により)言葉の意味や解釈が同じとは限りません。だからまずは相手の話を聞くということが重要になってくるのだろうと思います。

でも、1対1でのやりとり(しかもこの場合はツイッターという制限の多い環境でのやりとり)だとどうしても煮詰まってしまいますよね。タイミングよく第3者が割り込めればいいのですが実際にはなかなか難しいと思います。

2015-08-05

Universal Design for Learning

| 18:16 | Universal Design for Learning - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - Universal Design for Learning - 相互依存を追いかける Universal Design for Learning - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

購読しているメールマガジンにUniversal Design for Learningについての記述がありました。それでいろいろと調べてみました。

既存のカリキュラムをよりアクセシブルにするためによくとられる方法は、カリキュラム自体、とりわけ教材や手法を生徒にアクセシブルなものに改変することである。教師たちは、多様な生徒の学習上のニーズに合わせてデザインされていないカリキュラムの要素を改変するために、自分で思い切った試みをせざるを得ない。このような“後付けの”改変に対して、“ユニバーサルデザイン”という用語が誤った用いられ方をしていることも多い。だが、学びのユニバーサルデザイン(UDL)とは、カリキュラム(すなわち目標、手法、教材、評価)をはじめから意図して体系的に個々人の違いに対応させるプロセスである。ユニバーサルデザインされたカリキュラムならば、新しい部分をつけたり、改変することによって起こる難しさの大半を軽減したり無くしたりすることができるし、さらには、全ての生徒により良い学習環境が実現できるだろう。

多様性という課題への取り組みは、単にカリキュラムを多様にするだけでなく、それを効果的に行うということである。そのために、UDLは“平均的な”生徒(もしそういう生徒が実在するならばの話だが)だけでなく、明らかに“平均的でない”生徒たちにも効果的であると証明できる実践とはどういうものかを特定しなくてはいけない。平均的でない生徒とは、障害のある生徒、英語学習者〈ここでは外国人の生徒などをさす〉、過去に最適とは言えない指導の下におかれていた生徒、“特別な才能のある”生徒、その他“枠からはみ出た”生徒たちのことだ。目下枠の外にいる生徒にとって最適で科学的にその効果が実証された実践についての研究は、すでに多数存在する。しかし残念ながら、これら最善の実践は、まだちらほらとしか利用されておらず、そして生徒たちが通常のカリキュラムから脱落した後に提供されるのが典型的だ。つまり失敗した後で、別の場所での補習や特別な措置として提供されるが、そうなると通常のカリキュラムやその高い学習基準から完全に切り離されてしまう。UDLのカリキュラムは、この切り離された結び目を復活させる方法を提供する。

UNIVARSAL DESIGN FOR LEARNING (UDL) GUIDELINES V1.0

考え方はよくわかります。ただカリキュラムを作成する段階で「すべての多様性を考慮する」というのが無理難題みたいです。そもそも「多様性は誰が判断するのか」「そもそも多様性を判断できるのか」という問題がありますし・・・結局、理論面でもかなり複雑なチェックポイントがあり、俗に言うユニバーサルデザインとは違い、バリアフリーを1つずつ作っていくような感じになっています。

もうちょっと調べないと・・・

2012-01-23

疑問

| 07:22 | 疑問 - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 疑問 - 相互依存を追いかける 疑問 - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

学び合い』の手引書や先行研究、ブログなどで答えがちりばめられているはずですが・・・・まだ腹に落ちていないことがあります。


1つは「習熟度の低い学習者(A)が習熟度の高い学習者(B)に対する教え手となる」という事実に対してです。理由として・・・


・そこに至るやり取りの中からAがBに対して「お!こいつはなかなか鋭い」という印象を持ったから。

・Aが第三者の情報からBについて「あいつは、○○について実はよく知っている」という情報をもらったから。

・(意識はしていないが結果として)AがBと話をしている間に何かひらめいたから。

・(知がネットワークにあると考えると)BがAが持たないネットワークから得る知識があるから。

・習熟度といわれる基準が実はそんなに固定化されていない。だからAとBの関係も常に流動的。


みたいなものを考えてみたのですが・・・あまり理論的ではないような・・・・


あと、『学び合い』の研究で取り上げられる、学習管理的な場面では「他者の力を借りる」とか「他者との関係をコントロールする」とか個が意識的に働きかけることができるイメージを持ちやすいのですが、認知スタイルとか、学習内容(自分が何を勉強すべきか決める)という場合は、個が意識的に「他者との関係をコントロールする」というイメージが持ちにくいです・・・結果としてそうなったみたいな感じで・・・・


もう1つは、「目標(学習)言語」と「使用言語」の関係です。例えばバスケットボールの練習を『学び合い』でやっているときには、生徒同士でたくさん話し合いをします。これは違和感はないです。一方、日本語会話の練習を『学び合い』でやっているときにも、学習者同士はたくさんローカルで話し合いをします。でもローカルの話し合いの言語は学習言語ではなくお互い共通の母語でやりとりをします。情報交換が目的なのでそれは当たり前なのですが、実はこの(ローカルな)話し合いこそ「真の対話」と考えると、そこが目標言語じゃないことがなんとなくもったいなく思えてしまいます。ローカルな会話を目標言語でやる・・・方法ってあるのかな・・・と考えます。

genkidesugenkidesu2012/01/23 20:03 習熟にむかう知識や技能、思考に関して断片的に完成している人が習熟の低い人、つながりがあって完成度が高い人が習熟の高い人としたときに,高い人の埋まらない部分を低い人がもっていると考えるとそれがうまく出会えれば学びになるとか?

 変な例ですが、教科書をすらすら読めて、内容を理解する生徒が体験からくる学びに気づけず、逆に体験からしか学べない生徒の言葉から、書かれている内容と体験やとらえ方がつながるとかそういう感じとか?

 実際には、広大な認知するという空間?次元の一部を使って自分の身の回りの問題をとらえているのであって、そのような認知の共有が広がることで、さらに知識を得ているのではないかなどと一人で考えて…

 だれひとり見捨てないことのよさを生かしていきたいと思うのでした。

szeidzsiszeidzsi2012/01/24 00:45genkidesuさま
コメントありがとうございます。更に考えるきっかけとなります。

言語教育の世界ではヴィゴツキーの社会文化的理論というのが1つのはやりになっています。ヴィゴツキーの主張についてある論文では「教育とは、発達途上にある者を、より有能な大人や仲間が、その現下の発達を基礎にして、さらに発達を促すように働きかけ、その協働の営みを通じて、その個人が精神発達の内化を進めていく過程」と紹介されています。この「より有能な仲間」を「習熟度が高い」と読んでしまうと視野が狭くなるのだろうとは思うのですが、ヴィゴツキーは何が言いたかったのだろうって思います。

あと、「学習者同士のインタラクションが日本語学習に及ぼす効果」という博士論文があるのですが、そこでは学生を「習熟度」をたよりに「高」「中」「低」とわけて、「高と中」「低と中」の組み合わせをつくって、「中」の学習成果を見たそうです。結果、どちらの組み合わせでも中は同じように学習成果をあげた・・とあります。ただ、その現象はわかっても論文を書いた人も「低」が「中」の学習に関し何を貢献したのかわからない・・・それは今後の課題としているようです。

『学び合い』では「結局はできる学習者です。」とありますので、習熟度の高い学習者がどういう経験を通じて、「見捨てない」を意識していくのかというところを追いかければいいのかなと思うのですが・・・・またいろいろ教えていただけると嬉しいです。

2011-08-29

これも文化の差?

| 05:53 | これも文化の差? - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - これも文化の差? - 相互依存を追いかける これも文化の差? - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

ブルガリアでお会いした先生とハンガリーで再会したとき・・・「大学では毎週漢字テストをやり、それも成績点にする先生が人気」と言うと日本の先生方は驚き、一緒にいた(他大学出身の)卒業生の方が「そういう先生は本当によい先生」とうなずくのを見て、再度驚いていました。

大学という場を考えると「毎週漢字テストをして・・」というのは不思議に見えるかもしれません。でもこれは6年ほど前にとったアンケート調査でもかなり明らかに出ている結果です・・・きっと、何を勉強すればよいのか方向性が示されていないため、学生は霧の中に放りこまれたようになってしまい、毎週の漢字テストが魅力的に見えてしまうのだろうなと思います。

そして確かに毎週テストがあれば、それが自律とか何かとか関係なく、継続的学習に繋がり、みんなではありませんが実力も上がります。

2011-07-07

(いつものように)新たな迷い

| 19:38 | (いつものように)新たな迷い - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - (いつものように)新たな迷い - 相互依存を追いかける (いつものように)新たな迷い - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

学習者自律・自律学習でときどき言われるのは、語学力と学習者自律が関係しているということです。このため、初心者では教師中心にすべきという暴論まであります。

学力・人格形成(・自律)はそれぞれバラバラではなく、切り離せないものとして考えるべきというのは理解できますが、じゃあ日本語学習者で日本語できない人は、人格が形成されていないのか?自律学習ができないのか?と問われると「否」です。

まあ、学力・人格形成・自律のバランスがそれぞれ違う学習者集団だからこそ、それらが切り離せないものとしたアプローチが有効ともいえますが・・