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相互依存を追いかける このページをアンテナに追加 RSSフィード

 ハンガリー・カーロリ・ガーシュパール大学の若井誠二(わかいせいじ)です。日本語教師です。10以上年前より学習者自律に関心を持ち、現在は学習者自律を支える「相互依存」を追いかけています。そして『学び合い』が相互依存の1つの形かなと思っています。(ご連絡等はszeidzsiアットマークfreemail.huまでお願いします。)

2012-03-27

「わかった」から「わからない」へ

| 10:41 | 「わかった」から「わからない」へ - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 「わかった」から「わからない」へ - 相互依存を追いかける 「わかった」から「わからない」へ - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

守屋慶子(2000)『知識から理解へ』新曜社に

「わからない」から「わかった」へ、「わかった」から「わからない」へという章があります。ここでは科学的な知識についても、「わかった」ことが、実は次の「わからない」のステップにすぎないということが書かれています。

どんな授業を受けていても、学生は「わかったつもり」のことを、次の「わからない」につなげることができるでしょうが、その「わからない」について自由にやりとりできる場があればいいだろうなと思います。自分の授業がそういう場を保障できているのか考えます。

g5o0t9o9g5o0t9o92012/03/28 11:50守屋慶子(2000)『知識から理解へ』新曜社 さっそく読んでみます。

2009-08-03

なるほど・・・・

| 00:07 | なるほど・・・・ - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - なるほど・・・・ - 相互依存を追いかける なるほど・・・・ - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

NAKAHARA-LAB (http://www.nakahara-lab.net/blog/)に次のように書いてありました。

わたしたちは、とかくワークショップや授業などで、子どもや受講者に、「自由に行動すること」を求めてしまいがちである。

「はい、今日は皆さん、自由にやっていいですよ」

「今から、自由にお願いします」

 しかし、突然「自由にしてよい」と言われると、学習者のほうは適切な行為がとれなくなったり、不思議なことに、クオリティの高いものが、できなかったりすることがある。

 自由になるために、最初は「枠」をもうける。

 そして、「枠」はいつでも学習者自らが壊してよい

 結果として参加者が「自由に振る舞うこと」を可能にする。

 多くの人々にとって「枠を壊すこと」は快感である。

 この快感を通じて、学習者の身体を自由に導く。

 をなるほどな、と思った。

.................

丸投げじゃ駄目か・・・・とか、「課題設定」というのが「枠」になるのかとか考えさせられました。

yukari0841yukari08412009/08/04 05:48文脈が重要な意味をもつというところと、評価を教師(と学習者)が(共に)探る・・・みたいなイメージが出てきますのところが、どうかな・・・と思っていたのですが、
具体的な例を書いていただいて、本当にそう!と思いました。私も、同じような視点で家庭科の授業を組み立てています。ご回答いただきありがとうございました。

szeidzsiszeidzsi2009/08/04 08:55yukari0841さま
こちらこそ、質問ありがとうございました。私も大変勉強になりました。(ネット中継でyukari0841さんの姿も拝見しました。発表時のパワーポイントをアップロードできるようであれば、是非お願いいたします。)

2009-05-28

『学び合い』を経験すると無気力になりにくい

| 15:54 | 『学び合い』を経験すると無気力になりにくい - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』を経験すると無気力になりにくい - 相互依存を追いかける 『学び合い』を経験すると無気力になりにくい - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

下のセーリックマンの調査だと、事前に「自らの行動によって不快・ショックが避けられるということを学習した場合、不快・ショックが避けられない状況になっても無気力化しにくい・・」そうです。

人はまわりの環境で動くし、学習者は教師の腹を読んでいるので、『学び合い』文化があるクラスでも、教師が変われば、見た目すっとそれが消えてしまう・・そうです。

ただセーリックマンの調査を見ると、学習者事態が意識していなくとも、『学び合い』文化にいた経験がある人は、その後自分の意志で動けなくなっても、すくなくとも無気力にはなりにくいのでは・・という気になります。

無気力にならないために

| 06:05 | 無気力にならないために - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - 無気力にならないために - 相互依存を追いかける 無気力にならないために - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

(古典的な研究なのかもしれませんが)セーリックマンは「不快・ショックの回数や長さが自分の行動と無関係に決まっているのだということを学ぶと、それは無気力へと導く」ことを見つけました。

教師が、(教師が不快に思うような)クラスの生徒の行動を見て「あいつらはバカだから・・」と嘆くのは、教師である自分の行動と生徒の行動が無関係に発生していると考えているのと同じです。結果的にその教師は無気力になります。

一方、クラスを「教師である自分も一員であるクラス」と捉え、授業中に発生する出来事を見れば、不快に思う生徒の行動には必ず教師である自分と繋がっていると考えるでしょう。そうすれば、教師である自分が変われば生徒の動きも変わる・・・と考えるわけで、結果無気力にはなりません。

・・・と通勤途中で読んだ本にメモをしたので可視化します。

2009-04-21

やる気を自律と置き換えてもいいかも

| 22:47 | やる気を自律と置き換えてもいいかも - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - やる気を自律と置き換えてもいいかも - 相互依存を追いかける やる気を自律と置き換えてもいいかも - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

  • 「やる気があるかないか」という意味づけ(ラベル)は、上司(会社)- 部下間の政治的交渉(駆け引き)によって決まる
  • 本人はやる気があるが、会社の上司の意図にあわない場合は、「やる気がない」とされる
  • ゆえに、やる気があるないを論じるときには、上司の判断、会社の判断が妥当なのか? もしかして、本当は大切にしたいものを「やる気がない」と判断してはいないか?
  • という長岡の主張する「やる気」を自律に置き換えても同じような気がしています。もともと自律というのは能力の1つであり、まわりの環境によってそれを使用するかどうかは自律しているかどうかとは別と言われていますが、実際には目の前の学習者の動きをみて自律しているかどうかを判断せざるを得ないところがありますし・・・

    2009-02-11

    トレーニングの意味

    | 21:10 | トレーニングの意味 - 相互依存を追いかける を含むブックマーク はてなブックマーク - トレーニングの意味 - 相互依存を追いかける トレーニングの意味 - 相互依存を追いかける のブックマークコメント

    内発的動機付けが語られるときには、「興味・関心」が中心になることが多いです。この点、必要性というものは外部からの刺激ということで、内発的動機とは別物として扱うこともありますが、実際の社会生活の中では必要性というものは重要な位置をしめるはずです。はじめは外部からの刺激であっても、それが自らの行動規範になる・・『学び会い』でもその重要性がうたわれています。(これを波多野は社会的内発的動機と言っています。クラス文化・学校文化をつくるという意味では、『学び会い』は個人的な内発的動機というよりは、この社会的内発動機を重要視していると感じています。)

    さて、我家の1歳の息子は、つい先日からトレーニングパンツなるものを履き始めました。このトレーニングの意味は「息子」にかかるものだと信じていたのですが、いやいやどうして親の私にもかかるのだ・・ということを実感しています。これまでだったら、あ~よごれた。はいオムツ交換~で終わりだったものが、トレーニングパンツには便利な昨日がわざと外されているので、あ~よごれた~。わ~あれこれあれこれあれこれあれこれあれこれあれこれ・・・と大変なわけです。息子も気持ち悪いでしょうが・・・私も気持ちわるい。トレーニングパンツは、親子ともに「必要性」を感じさせるものなのだなあ、親側の教育でもあるのだな・・と勉強になりました。

    確か高齢者の入る施設の場合、紙おむつは禁止なんですよね。(すくなくとも昔、オムツを洗濯する工場でアルバイトをしたときには、そう言われました。)


    右にgremzというエコアクション・ブログパーツを置いてはいますが、便利性に負け紙おむつに依存していたという点ではエコ失敗ですかね。(ハンガリーでも布オムツは売っています。)

    abematuabematu2009/02/13 04:45こんにちは。
    なるほどといろいろと考えました。
    ありがとうございます。

    >上記をやるなら、英語は(特にネイティブに対しては)選択肢としてはあまりよくないんじゃないかな・・と思います。たどたどしい英語をニコニコして聞いてくれるのは英語教師ぐらいじゃないでしょうか。

    ですが、これは「英語」を媒体として、日本人の子と日本人の子がやりとりをするということを考えているのだと思います。
    例えば、日本では「言葉を発しなくても通じる」という雰囲気というか文化がありますよね。
    しかし、英語を「媒介」することで、それができなくなる。
    つまり、「言葉」をしっかりつかってやりとりしないと、相手に自分の言いたいことは通じないのだよ。
    または、ボディランゲージなどを使って、自分の気持ちを伝えようとしないと、相手に伝わらないのだよ。
    ということを、体験を通して知ってほしいと願っているのだと思います。

    「道徳」との絡みですが、上と関係します。
    つまり、「相手」を思いやった態度で接しないと、つまり、相手が片言の英語やボディランゲージを使って説明している最中に、相手に目を向けないとか、知らんぷりしたのでは、相手に失礼になるよ。
    相づちをうつとか、うなずいて聞くとか、そういうことをしていかなければね。
    という、「思いやり」部分に焦点を当てて考えていきましょう。

    ということで、「道徳」のようです。

    szeidzsiszeidzsi2009/02/13 14:24abematuさま
    ありがとうございます。なるほど、そういう願いがあるんですか。勉強になりました。