ぼちぼちいこか

長野県諏訪郡で小学校教員をしています
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2008-11-22

[]違い 17:40

osugi-symphonicityさんのエントリ「私は、あなたと同じで、あなたと違う。」(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/osugi-symphonicity/20081118)を読んだとき、今やっている異学年の授業で感じたことを思い返しました。


同僚はすごく向上心がある人で、北陸から関東まで授業公開・研究会に参加しています。『学び合い』というよりも「学び合い」に軸足を置いています。教師用机も教室の後ろに置いてあります。(ちなみに私も後ろに机を置いてありますが、「共同体」の実践校に多いスタイルとは全く知らず、同僚に聞かれて知りました)


で、道徳の異学年をやっていて、同僚の言葉とか、動きとかが私とは違うわけです。教師の言動が全て同じということはないので、違っていて当然なのですが、「違う」んです。


「子どもたちのため」という目指すところは同じなんですが、そこに到達するためには教師が道しるべを設けなくてはならない。教師が声をかけなければならない。そんな雰囲気を感じるのです。「子どもたちのため」には「教師が○○をしなくてはならない」という雰囲気、なのかなぁ。うまく表現できないのですが。


私はというと、「子どもたちのため」には「教師は○○しなくてもいい」という、どちらかというと“引き算”の考えでいます。「ここで自分が声をかけていいのか」ということを常に意識しています。このあたりは西川先生もブログでおっしゃっていたように、『学び合い』の研究が年々本質的なものを求めて余計なものをそぎ落としてきている、(自分なりの解釈でスミマセン)に似ていると思います。



こう打ってくると、「足し算」と「引き算」というとらえ方もできるのかなぁ?



ただし、最後に確認しておきたいことですけど、どちらがよくて、どちらが悪いということではありません。それに、いつかの西川先生の記事でも『学び合い』はいろいろな指導法を包含する(だったかな?これもうろ覚えでスミマセン)と書かれていました。要は『学び合い』は考え方ですから、その“考え方”を持っていられているかどうかが自分には大事だと思っています。

janglejapjanglejap2008/11/22 18:29わかります、その感じ。「子どもたちのために」には「教師が○○をしなくてはならない」。
最近「勉強しなさいを言わない授業を読んでいてなるほど~と思った言葉、これにつながります。
引用「「指導なきところに進歩なし」などの言葉に端的に表れる。そのような誤解が生じる理由はちゃんとした測定がなされていないためとリッカートは分析している」

やはり、私たちはこどもたちの力を信じてsumimonさんのいう引き算でいきたいですね!

sumimonsumimon2008/11/22 19:20janglejapさん、ありがとうございます。
私も『○○しなさいを言わない授業』を再読しようと思いました。多分、西川先生はすべてご存じのことを私(たち)が追体験しているようです。