2017-01-31
権威
教師の心 | |
今日、ある生徒とのやりとりのなかで、「先生、怒りませんよね」と言われました。
試しに「怒ってみようか?(笑)」と聞いてみたら、「だめ、不自然すぎて吹き出しそう(笑)」と言われました。
「吹き出しそう」って…。
でも、まあ、そんなことをしなくてもちゃんと子どもたちには「権威」を認めてもらっているように思います(「権力」ではありません)。「ここは‟人間としてどうか”って考えると、ずれているよね。少し修正できるように、みんなで声をかけていこう」とゆったり伝えれば、子どもたちには伝わります。ありがたいことです。
シュタイナー教育では、「教師は権威であらねばならない」ということが言われていましたが、なんとなく、「権威としての教師」ということがわかってきたように思います。
やっと、教師としての初級レベルをクリアできたかな、という感じです。次は、「ゴールイメージを固めること」かな、と思います。
『学び合い』は、こんな感じで「自分自身の思想」「考え方」を練っていくことでレベルアップしていくのかもしれません。
「知」の限界と仕事の限界
人生 | |
その人の「知」の限界が、その人の仕事の限界を決めてしまうように思います。
かく言う私も、書籍を通じて『学び合い』に出会っていなかったら、「子どもたちを信頼していく」という方向を好む教師にはなれなかったかもしれません。
自分はまだまだ知らないことの方が多い。
人は経験ベースで物事を考えがちですが、この「知らないことの方が多い」という知的廉直の姿勢をもっていると、謙虚にならざるを得ません。
2017-01-30
信頼と承認
授業 | |
『学び合い』は、学級の中に生徒間の信頼や承認があればあるほど、落ち着いて取り組めるように思います。
逆も然りで、落ち着かない(静かな生徒が動けない場合も含む)ことが多いクラスは、生徒間の信頼や承認が薄いように思います。
これは、マズローの欲求段階説にあてはまると思います。お互いに安心できる場をつくっていくことが、教科学習ででもHRでもできたらいいのにな、と考えています。
この「信頼と承認」があれば、個々人の勉強が促進されるだろうに、と思います。
教科の内容だけではなくて、人間としての「生き方」や「在り方」を示すことも、学校における教師の大事な仕事でしょう。塾や予備校ではそのへんはあまりありませんから。
そういう意味で、学校の「授業」という言葉を考えると、知識を教えることにとどまらず、やはり「子どもを大人に育てる」という言い方がふさわしいように感じます。
もちろん、「知は力なり」という言葉があるように、知識だって大事です。いろいろな知識が組み合わさって、自分が幸せに生きていくためにはいろいろなことを知っていた方が相対的によいに決まっています。
でも、「愛は知に勝る」という言葉の通り、人間としての生き方で上位に位置づけられるのはやはり「人間性」のように思います。
2017-01-29
伝えるということ
教師がどんなに高邁な理想を掲げ、語っても、当の子どもたちに届かなければその言葉は意味をなさないように思う。
では、どのようにすれば伝わるか。伝えるためには、子どもたちの「頭のなか」を想定する必要があるように思う。
本当に教師の話を聞きたいと思っているのか。それとも、仕方なく座っているだけなのか。
難しい言葉はどこまで理解できるのか。「一人も見捨てない」という言葉がいいのか。それとも、「みんなができるようになろう」の方がいいのか。
とにかく、プレゼンテーションのように、相手の頭のなかの語彙などを想定して語っていくのがよいように思う。特に、教師の目線で考えることのできる2割の子どもに届くように語っていくことが大事であると考える。
2017-01-28
子どもたちの授業観
授業 | |
昨年、『学び合い』を導入したてのときに、「この授業、教えてないじゃないですか。授業料どうなるんですか」という感じに生徒から言われたことがあります。
そのときは苦言を呈するしかなかったのですが、少し思うところがあります。
要は、子どもたちのなかでも「授業とは教師が教えるものだ」という考え方が既成概念としてできあがっているのではないか、と思われるのです。
でも、それだと「形だけ」という感じがします。授業者の話を聞いている自分が、本当に「学んでいるかどうか」ということについては、考えが及んでいないのではないかと思います。
もちろん、その子を責めるつもりはありません。教師も含めて、そこまで思い至っている人はそれほど多くないように感じます。
この「子どもたちの授業観」も、『学び合い』やアクティブ・ラーニングを始めていくにあたって、転換が迫られてくるであろうものだと感じています。
2017-01-27
勉強を通して仲間になろう
授業 | |
どうしても、学びに向かわない生徒がまだまだいます。課題のレベルを調整しても、状況は変わりません。別の学年ではもうすでに集団が安定しているのを考えると、「私の心」の問題もありますが、「闇」の大きさを感じます。丁寧に語っていくしかないように思っています。
――
ネームプレートをひっくり返すだけが目的になってしまっている人がいるように思うよ。でも、そろそろこれは必要なくなってきているように思う。
もっと勉強しよう。勉強を通して仲間になろう。私はみんなが遊んでしまっているのを見ると、本当に心配になってくる。だって、仲間ができないのを放っておいて、まる写ししてごまかして…。そんなの、本当の仲間じゃないよ。
そんな人たちが、将来、数人で集まったらどうなるだろう。愚痴を言うだけの集まりになってしまわないか。もったいないよ。
将来、何かのきっかけで集まったら、仲間の悩みに『こうしたらきっとよくなるよ』『こんなアイディアがあるよ』とかって知恵を出し合って、すこしでもプラスを生み出すことができるように、今からしていこうよ。
いま、与えられている時間を大切に使って、「チームでやっていく」ということを学ぼう。勉強は一人でもできる。でも、学校では何人も人が集っている。せっかくだから、学校でしかできないことを学ぼうよ。
それはやっぱり、「勉強を通して仲間になる」ということだと思うよ。
みんななら絶対いいチームになれる。期待しているよ。
見通し
仕事・経営 | |
来年度の大きな行事のミーティングがありました。
昨年は新たな科目の教員免許取得の試験と重なり、かなり大変だった行事です。しかし、今年はある程度余裕があるように感じています。
そこでやっておきたいのは、仕事の内容の「見える化」です。準備日程、項目、準備体制、運営体制、発注物、図面、共有事項などを一箇所に集約し、誰でも一覧できるようにしておきます。
そこから逆算して仕事の詰めをします。
この発想はやはり「ファシリテーション」を学んでいなければ出てくることはなかったでしょう。自分自身が媒介することで、全体の仕事を促進する。これだってかなりの付加価値です。
ちょっと、がんばっていこうと思っています。
言葉のはしばしに…
言葉 | |
人の言葉を聞いていると、その人が「あぁ、こんなことを考えているんだなぁ」とわかることがあります。言葉のはしばしを切り取ってしまうのはよくないとわかりつつも、クセでそれをやってしまいます。
最近、自分の使う言葉は、「子どもたちを勇気づけたり、ほめたり、励ましたりするものになっているか」という「プラスができたかどうか」の観点と、「子どもたちのやる気を削いだり、気持ちを沈ませてしまったりするものになっていないか」という「マイナスを生じさせなかったか」の観点から振り返るようにしています。
だんだんと前者のプラスの言葉を使えるようになってきました。しかし、まだまだ後者のマイナスの言葉も出てきます。
自分の言葉には敏感でいたいなぁと思っています。
2017-01-26
2017-01-25
内の仕事、外の仕事
仕事・経営 | |
ようやく、ホワイトボード・ミーティングのセミナーに参加する段取りがつきました(http://wbmf.info/seminar/osaka-20170218-2/)。
これも、「仕事」の一貫であると思います。しかし、「外の仕事」であることには変わりはないと思います(オランダだと、教員の研修費用はかなり補填されていたと思いますが)。
今回、なんとか出れるようにしていただいたのは、なんとか職場のみなさんが合意してくださったからです。
まだまだ、自分自身の仕事が足りていないな、と思います。もちろん、量はかなりやっていますが、「質」はまだまだ改善の余地が大有りです。
外での活動をすんなりするためにも「内」を固めていくことは大事だなぁと感じた今日この頃です。これは、「家(うち)」にもあてはまりますね。
夏の『学び合い』フォーラムも運営側に回ろうと考えていますので、「内」の仕事を手早く、見通しをもって固めつつ、フォーラム側にも貢献していきたいと考えています。
就職活動
仕事・経営 | |
私、就職活動をしたことがありません。大卒後は自分がアルバイトをしていたところに引き続きお世話になり、そこから声をいただいて臨時採用で小学校の講師をやり、その後は自分で見学に行って頼み込んで使ってもらったり、たまたま出会った方と面談をしてすーっとそこに勤めることが決まったり…
でも、いずれ就職活動をしていく人たちを相手にしているわけなので、以下のような記事を読むことを初めとし、しっかり勉強していきたいものです。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=1626608454315395&id=1480223138953928
2017-01-23
経営資源は目の前に
「学校」が限界を迎えている気がする。授業、保護者対応、会議、部活、校内研究、校務分掌、各種の文書作成、生徒指導、授業準備…。
明らかにリストラすべき仕事はたくさんあるように思う。でも、一度始めてしまったことは、辞めることが難しい。
「無駄なことは仕事そのもののなかにある」という言葉がある。おそらく、教師の仕事で無駄が多いのが「授業」だろう。
ここを、生徒たちに権限移譲できれば、かなり負担が減る。それは「自立への道」であり、決して教師の怠慢ではない。きちんと目的さえ伝えることができれば、必ず応えてくれる子どもはいる。
経営資源は、実は目の前にあるのだと思う。子どもたちと一緒に授業を創ることは、とりもなおさず「学校を皆で一丸となって創る」ことにつながる。どう考えてもwin-winだ。
『学び合い』はそういった示唆に富んだ「考え方」だと思う。
yudai7-iどんな難しいことでも、それが君たちのためになると教師が心の底から願って集団に語り、求めれば、それに応えてくれる子どもは一定数いますよね。その方が教師として楽しいです。
strongmind222yudai-7iさん
コメントありがとうございます。
仰る通りだと思います。そして、それが子どもたちに伝わっていかないのであれば、やはり「自分の心」に問うのが良いと思っています。
「あの子は無理」とか、「これは難しいよなぁ」とか、諦めの気持ちがあったり、うまくいかないことを子どもたちのせいにしてしまう心があるように思います。
セオリーに立ち返って、「君たちのためになる」という確信をもう一度つかめば、やはり子どもたちは応えてくれるように思います。
2017-01-22
できる、できないを乗り越える
言葉 | |
人間って、できることよりも、できないことの方が多い。
学校の教科で言えば、私は国語はできるけど、他の教科はからっきしできない。
子どもたちも同じだろう。勉強はできるけど、運動や音楽はできない、とか、よくある話だと思う。
でも、学校では苦手なことも一定水準までやらないといけない。それは仕事でも同じだ(私は今でこそ高速で実務ができるが、数年前は電話の受け応えさえできなかった)。
実際に「苦手な子」に接するとき、大人は「なんでできないんだ!?」という否定的な言葉を用いがちだ。これは年下の大人に対するときもよくあると思う。
「なんでできないんだ?」と言われたら、言われた側はどうしようもない。子どもなら尚更だ。「そもそも、なんでこんなことやらなきゃいけないんだよ?」という感覚を持っている子も「苦手な子」のなかにはいるだろう。大人は「やって当然」と思っているのかもしれないが、当の子どもにとっては良い迷惑なのかもしれない。
それよりも、できること、できたことに目を向けよう。「これ、できてるじゃん!」「そうそう、いい感じ!」「ここはできてるよ!こっちも惜しいじゃん!次はいけるよ!」
そうやって、否定的な言葉ではなく、肯定的な言葉を意識して使っていく。「過大評価してお世辞になる」ということは、子どもたちの信頼を失うことにつながるから気を付けなければいけないが、やはりプラスの言葉を使いたい。
それを教師が続けてこそ、子どもたちの間でも「プラスを強化する」という行動が生まれていくのではないか。
その時点での「できる、できない」を乗り越えて、その子自身が少しでも成長したことを見取れるクラスをつくっていきたい。
scorpion1104とても、わかります。
strongmind222scorpion1104さん
コメントありがとうございます。
ある生徒の行動と、それに対する別な生徒の行動を見て、「こういったことを、教師だけでなく生徒たちの間でできるようになったらな」と考えました。
子どもたちに学ぶこと、とても有意義です。そういう姿勢を忘れずにいたいと思っています。
2017-01-21
ファシリテーション
仕事・経営 | |
まだまだ「協同」という方向性は社会のなかで弱いのかな、と思います。しかし、社会はそうではない。本来、先見性を持って子どもたちを導くべき教師がこれでは、先が思いやられます。
どうやったら、もっと「協同」のよさを伝えられるか、考えています。
「はい、ど~ぞ」記念日
親ばか | |
娘が「はい、ど~ぞ」と言うようになりました。
私のごはんの食器を台所から持ってきては「はい、ど~ぞ」と言います。
私がトイレに行こうとするとき、先回りしてドアを開けて「はい、ど~ぞ」と言います。さらに私が入ったあとにドアを閉めます。
子どもはよく親の行動を見ているものだなあと思いました。
というわけで今日は「はい、ど~ぞ」記念日です。
2017-01-20
静かな学級崩壊
「静かな学級崩壊」ということについて考えています。おそらく、「力押しで生徒たちを従わせようとする」教師の学級や授業で起こるのではないかと思います。
そういう学級の子どもたちはなんだかやる気なく見えるような気がします。覇気がないというか、みんな目が死んでいるというか…。昨年度、私の『学び合い』導入直後に失敗したのは、こういったことにも原因があるのかもしれません。
当時は、「発問の工夫」とか、「教材の工夫」とか、そういう技術的なことでどうにかなるようには思えませんでした。もっと本質的なこととして、生徒たちに「とにかくコントロールされている」という感覚が強かったのかな、という感じがします。
自由がなく、誰かにコントロールされないと学校生活が成り立たない状況…今の私であれば、そこからすぐに出て行きます。しかし、生徒たちはそうはいきません。保護者の意向あり、周囲の目ありで、難しいと思います。
この「静かな学級崩壊」という視点、非常に重要なように思います。この状況に陥ってしまっているクラス、もしかしたらけっこうあるのでは…というように感じます。私自身も中高とそんなクラスばかりでした。
これを打開するのは、やはり教師のマインドと、「言葉がけ」なのかな、と考えています。
縁起の理法
人生 | |
仏教には「縁起の理法」というものがあります。「因果応報」と言ってもいいし、ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』とも同じです。
この「縁起の理法」ですが、学校では特にストレートにこの法則がはたらくのではないか、と考えています。
努力して勉強をすれば、成績があがります。部活でも、努力を積み重ねれば、上達が早くなります。また、「人のために何かをしていこう」と行動していけば、自然と感謝されるようになります。
大人の世界では、努力がストレートに結果につながることはあまりありません。しかし、学校にいる間はわりかし早く結果が出ます。
この縁起の理法を習得することって、けっこう大事なことなのかなぁと考えています。
2017-01-19
リーダーとフォロワー
チームや組織のなかにいると、案件に応じて「誰に働きかければよいか」というのが見えてくることがあります。これは経験則によるところも大きいと思います。
しかし、「リーダーになるべき人」は2割程度で、「フォロワーになる人」というのは8割というのは、概ねどの組織においても同じなのかもしれません。パレートの法則(8割2割の法則、ニッパチ理論)はどこにいてもあてはまるなぁと思います。
そこで考えるのは、「リーダーもフォロワーもどっちも必要」ということです。フォロワーがいなければ、リーダーはリーダーとして成り立ちません。逆にリーダーがいなければ、フォロワーだらけで集団は「烏合の衆」になってしまいます。また、リーダーが多すぎると、「船頭多くして船山に上る」という状態になり、まとまりのない集団になります。
そういうわけなので、「この場面はこの人がリーダー」「ここはこの人」という感じで、得意分野でリーダーをたてていき、またあるときには別な人がリーダーとして立ち…という感じで、「リーダーになる練習」をたくさんできるというのが学校という場なのかもしれません。
それはホームルームの企画でもいいでしょうし、調理実習でもいい。また、特定の座学中心の教科学習でもいいでしょうし、体育でもいい。フォロワーに「人の秀でた部分を見習う」という態度があれば、その人がリーダーになり得るのだと思います。
おそらく、吉田松陰先生もそんな感じだったのではないかと推察します。松陰先生は、獄中で書道の得意な囚人には書道を習い、またご自分は孟子について講義した、というようなエピソードがあったように思います。
そんなふうに、「お互いがお互いを感化する関係をつくり出す」ということも、学校教育の大きな意味なのかもしれません。
ちなみに、『学び合い』を学校単位で行なえれば、そういう状況を教科を変えて生み出すことができるように思います。やはり『学び合い』には大きな可能性があると思えてなりません。
2017-01-17
ばか笑い
今日、おもしろいこと(?)がありました。以下のやりとりをまったく嫌味なくできるクラスです。正直すごいなぁと思います。
帰りのSHRにて。
冬休み課題の返却をお願いしていたところ、どうも私が、予備の冊子にハンコを押して、返却物と一緒にしてしまっていたらしい。
それで、教卓の上に残っており…
担任「誰だ、名前書いてないよ!」
生徒:「違うんですよ先生、それ、誰もやってないやつなんですよ。ということは、ちゃんと僕たちが宿題やったかどうか見てないってことですよね?〇〇先生(つまり私)の怠慢です(笑)」
他の生徒たち:(爆笑)
以降数分、何を言ってもあーだこーだ言われました。
言葉の大切さ
今日、本格的に授業を再開していて思ったことは、「言葉は大切だ」ということです。
この「言葉」ですが、自分が普段どのような言葉を用いているかを意識してみると、自分の性格や心の傾向性などに気付くことが多いです。
仏教では伝統的な修行の方法に正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定から成る「八正道」というものがあります。正見から順に点検していくのですが、正語つまり言葉から点検していくというやり方もできます。その場合、言葉をふり返っていると、自分がそのときにどのような心持ちでいたのかがよくわかります。
たとえば、「いまいち勉強していないなぁ。居眠りが数名いるなぁ。これは言わないといけないんだけど、うまい言葉が見つからないなぁ」と思って苦し紛れに出す「勉強しよう」という言葉は、あまり伝わっていないことが多いと思います。それよりかは、「このまま放っとけなんだよ、居眠りして時間の無駄をしている人たちも、それを放っといている人も。誤魔化したままになるなよ」と少し荒っぽく言っても伝わるものはあります。
もちろん、人のキャラクターに依る部分もありますから、一概には言えません。私は『学び合い』の言葉がけ本で言われているような言葉がどうもしっくりきません。慌てて補足すると、その「心」は私も同じであり、わかるのですが、同じことを伝えるにしても私が言ったら少し違う言いまわしになります(まず自分のことを「先生」と言えませんから…)。
そういった意味で、「心を整えていく」ということと「言葉を整えていく」ということは近いものがあると考えます。
私自身、生徒たちを「徹底的に励ましていこう」と考える転機があり、そこから自分の言葉も洗練されていっているのを感じます。何より、否定的な言葉が明らかに減りました。そして、「プラスを見取っていく」ということがこれまで以上にできるようになりました。
もちろん、堕落していく自由に関しては少し言いますが、それでも「罪を憎んで人を憎まず」という姿勢は堅持すればよいと思います。
私の人生が豊かになるのは、明らかに「人に厳しく言っていこう」という態度よりも、「プラスを見取って励ましていこう」という態度の方です。
心がけ一つで、人生の質を変えることができると、言葉がけを起点にして考えてみました。
2017-01-16
「勉強したくない」
今日、ある生徒と話しました。曰く、「明日から6時間授業再開だから、学校行きたくない」と(決して不登校傾向の生徒ではありませんが、成績は低めかもしれません)。
多くの生徒の代弁になっていると思います。「学校が積極的に行きたいものではない。仕方なく行く」というような感じでした。
せっかく学校で仲間と集うわけですから、「よっしゃ、やるか!」という感じで通ってきてほしいものですし、成績が低かろうがなんだろうが、「そこにいて幸せ」「安心感がある」と感じられるようになってほしいものです。
しかし、そういう生徒たちの気持ちも痛いほどよくわかります。私自身、毎日、家にいるのも嫌だし、学校にいるのも嫌でした。安心して話せる友人もいませんでした。だから、「仕方ないから学校行こう」とするしかなかったのです。逃げ場所が他にない状態でした。おそらく、昔の私と同じように感じている生徒は少なからずいるのではないかと思います。
そして、学校が「安心感のあるところ」であるのかどうかは、やはりそこにいる教師の価値観に大きく左右されるように思います。教師は「テストが大事」「座って授業を聞くのが大事」「わからなくても座っているものだ」という価値観をもちがちです。これだけだと明らかに機能不全に陥ります。なぜ「あえて学校に集うのか」を説明することができません。
そういう考えの人が多いなかで『学び合い』で授業をしています。だから、「こういう生徒たちの気持ち」も、「そういう人もいるかもしれないよ」という形で語っていくことも大切なのだと思っています。
その上で、「学校は勉強を通して『仲間』『チーム』になっていくということを学ぶ場だよ」ということを少しずつ、少しずつ、浸透させていくしかないと思います。
私自身、『学び合い』の考え方で授業をし始めて1年が過ぎました。不徳の致すところですが、まだまだ、『学び合い』の考え方が集団に浸透しているとは言えません。もちろん、以前よりは冷静に状況を考えられるようになっています。しかし、やはり『学び合い』の考え方が浸透しきらないのは私の責任であり、私の心の問題です。
なんとか、突破していきたいものだと思っています。
2017-01-14
生徒自慢
教師ばか | |
しばし生徒自慢にお付き合いください(笑)
今日はセンター試験。生徒たちは先輩の応援です。で、私も現場に行くと、中1の生徒数名が「応援してます!」と一文字ずつ書かれたメッセージボードを持って送り出しをしているではありませんか!
お〜、と思って感心していたら、全部、企画するところから材料(紙、ペン、ラミネート、下地のダンボール)の調達まで自分たちでやりきったんだそうな。
去年まではこんなのなかった。小さい変化ですが、何より生徒たちが「自分たちで」発案してやったことが嬉しかったです。
ちょっとずつではあるけれども、全体が「皆でやろう」という感じになってきているということなのかもしれません。
高校三年生も、教師よりも大事な後輩たちがこのような行動をとってくれたことが、何より嬉しかったのではないかなぁと思っています。
あとから教頭に「先生(私)に言われたからやったって言ってましたよ」と言われたけど、そんなのは嘘だ。謙遜です。全部生徒たちだけでやったんです。
こんな生徒たちを、ほんとうに誇りに思います。
人間は捨てるのが苦手?
人生 | |
人間は、一度身についた「慣習」や「考え方」を捨てるのが苦手なのではないかと、しみじみと感じています。
学校でも、「それってなんの意味があってやってるの?」と問えば、「いや、前からやってるから」と返ってきそうなことがたくさんあります。そう問うことさえタブー視されているような風潮もあります。
私はそういうのが嫌いで、「これって意味あるんですか?」と突っ込んでしまうことがあります。でも、かき消されてしまうことが圧倒的に多いです。
職員会議も、「何が必要なのか」「何が正しいのか」ではなく、「誰が必要としているのか」「誰が正しいのか」で決まることもあります。得てして、声の大きい人、怒らせると面倒な人の主張がとおりやすい傾向にあるのかなぁと思います。それって、当の本人にとっても不幸であるのに…。
私は幸いにして、コツコツと実務を積み上げてきたり、学校にとってプラスとなる提案や企画を実施し続けているため、過激(と圧倒的多数の人からは思われるような感じです)な主張をしても平気な感じにはなっています。ただ、それをすると味方がいなくなるため、「いまの議論は、別の視点から見たらこういう考え方もありますよ」というふうに婉曲していいます。
保守的になるのもわかります。変化は怖い部分もありますから。でも、われわれ教師は、子どもたちに毎日「変われ」と言っているようなものですから、その模範であるに越したことはないと思います。
その原点にあるのが、自分の固まってしまった「慣習」や「考え方」をほぐし、あるものは捨てることだと思います。イノベーションは体系的廃棄の末にうまれることもあります。
ものでも考え方でも、「捨てる」は大事なことだと考えています。
2017-01-13
怒りの感情
教師の心 | |
何かにうまくいかなかったとき、怒りの感情を持つ人もいることは事実です。しかし、それを他人に向けてしまうと、相手はかなり嫌な思いをします。少なくとも気分のよいものではありません。特に、ボタンのかけ違いで起こったことであればなおさらです。
教師もそうなりがちなのかもしれません。感情にまかせて物を言うのは控えたいなと思いました。
なお、トップダウンのマネジメントに慣れている人には、「みんなでやろう」という方向性をもったマネジメントの仕方は無駄に見えるようです。
これは教師の世界も同じです。「ファシリテーション」という考え方も、いまの「学校」という文化には馴染まないのかもしれません。
なんだか、もやもやしています。
2017-01-12
認識と限界
人生 | |
認識が人間の限界を決めてしまう、ということを考えています。
自分が考えられること、つまり「認識」が、その人間の行動や思考の限界を規定し、そこから外れるものははじいてしまうように思います。
その意味では、「持っている知識」がその人がつくり出すイメージや思考に制限をかけてしまうのかもしれません。
たとえば、『学び合い』では「子ども集団は有能である」という子ども観に基づいて授業を行ないます。そういう授業を学校教育で受けたことがない教師であれば、各種資料(書籍を含む)で知識的に学んだことによって、それは可能であると最初はおぼろげながらスタートするものと思います。それで、だんだんと経験的に「子ども集団は有能である」という子ども観を実感していくケースが多いと考えます。しかし、その実感を他の教職員に語ってみても「そんなの理想論だ、できっこない」と否定されてしまう、そんなことが多いのではないでしょうか。
こういう場合は、否定する教員が知識的にも経験的にもそのような知識を「持っていない」ということが言えると思います。その人はそこが限界になるでしょう。「子どもたちだけで授業を進めていく」という状況が想像できないのではないかと思います。
その意味で、やはりインプットしておくことは大事だと思います。アウトプットを伴うのが理想であるとは思いますが、必ずしもアウトプットができるとは限りません。しかし、インプットし続けていると、自分の認識の幅が広くなり、多様性も認められるようになると思います。
2017-01-11
苦手なこと、得意なこと
教師の心 | |
人間だれしも苦手なことと得意なことがある。
たとえば、私自身は文章や原稿の校正などの緻密な仕事が得意だし、新規の案件の企画書であれば、ある程度見通しが立ったら30分もあれば仕上げることもできる。生徒指導ではどちらかといえば教育相談的な立ち位置の方が得意だ。
逆に、人と協調して仕事をしていくことはまだまだ苦手だし、厳しめの生徒指導も苦手だ(大声で怒鳴るようなことは不必要であるとも思っているからだろう)。
他の仕事に比べたら、授業にはまだまだ苦手意識はある。しかし、他の人にはなく、自分で意識して身につけてきた「エンパワーメント」はそこそこできるようになってきた。これは他の教員と比べたら(特に高校という場所では)大きなアドバンテージなのかもしれない。
自分の苦手なことを矯めていく必要はもちろんある。しかし、それよりも得意なことを活かしていくことが大事になるだろうと思っている。その方が自然体でいることができる。
「カリキュラム・マネジメントは教師集団のアクティブ・ラーニング」と、jun24kawa先生の次著(http://www.meijitosho.co.jp/eduzine/interview/?id=20170014)の表紙にあるが、教師集団が「それぞれの長所を活かし合い、短所を補い合う」という考え方なのではないかと感じている。
もっとも、これって経営理論では当然のことであるのだけれども、学校という場においてはなかなかそれができなかった(できなくなっている)ということでもあるのだろうと考える。
いずれにせよ、学校教育は教師一人でやっているものではなく、教師「集団」が組織としてやっているのだという認識が大事なのだと思う。
2017-01-10
システム
学校と社会 | |
良くも悪くも、人間は何かしらの「システム」のなかで生きている、と言えると思います。そのシステムに疑問を感じることがあっても、それを変えることは容易にはできないでしょう。
たとえば、社会制度もそうです。多くは法律で規定されているものだと思います。政治家を選ぶ選挙制度、生活保護制度…数えたらきりがないかもしれません。
学校教育制度もその一つでしょう。日本では明治期に導入され、戦後、6334制になりました。しかし、この学校教育制度も制度疲労を起こしていると思います。
また、教育内容もある程度システマティックに組まれていると思います。これが「絶対善」とされる風潮、慣習、なんとかならないかなぁと思っています。
これを破って自分の主張を通していくためには、そのシステム内での価値観において、有無を言わせないような結果をだすことに限ると考えています。
模試の偏差値が指標になるなら、その土俵で結果を出せばいい、ということです。これなら誰も文句は言えないでしょう。2学期までにそのためのしかけづくりは終わりました。3学期からそれに着手し始めています。あとは生徒たちに、「結果を出していこう」と求めていくだけです。
『学び合い』という言葉は使っていません。「アクティブ・ラーニング」という言葉も「能動的な学習」とだけ理解されている節があるので、使うのを控えています。もう、自分として「いろいろあったんですが、これが自然です」とだけ言っていこうと思います。
システムのことに戻りますが、これはやはり「制度」であるとともに「慣習」でもあると思います。それを崩すためには、声高に正しいことを主張するだけではなくて、その既存の枠組みで有無を言わせぬ結果を出すことに限ります。
いまのままでは学校教育が立ちいかないことは自明です。こういった視点からも考えていくことが大事であると考えています。
2017-01-09
大企業病と学校教育
仕事・経営 | |
大企業病というものがあります。大きく言えば、企業が大きくなればなるほど、セクショナリズムが進み、各部局の仕事の関連が見えなくなってしまう、ということです。これはマイナスの要素が大きいから「病」となるのでしょう。
たとえば、経理部門と営業部門では、その仕事内容も成果目標もまったく違います。組織が大きくなってくると、経理部門の人間は営業部門の人間の仕事が見えなくなります。また、営業部門の人間も、経理部門の人間の仕事はなぜ大事になるのかがわからなくなっていきます。
経営幹部も営業出身の人間なのか、経理出身の人間なのか、はたまた人事出身なのか、いろいろと別があり、経営判断の傾向性は違ってくるようです。
それを大きくまとめるのが経営トップの掲げる「経営理念」や「社訓」ということになると思います。それに基づいてセクションを越えて仕事内容を見通すことができれば、組織の発展の速度は速くなると考えられます。
中教審の答申を読んでいて、カリキュラム・マネジメントの「各教科等の教育内容を相互の関係で捉え、学校教育目標を踏まえた教科等横断的な視点で、その目標の達成に必要な教育の内容を組織的に配列していくこと。」とあり、「あ~、現在の学校は『大企業病』に似ているなぁ」と感じた次第です。
一概には言えませんが、現在の学校は、学校の「教育理念」と、各教員の「教育理念(あるいは指導方法)」が一致していないな~と思うことがあります。また、「教科等横断」とありますが、これも各教員が他教科の内容を意識することは稀ではないでしょうか。
このセクショナリズムを打破するためには、学校の経営者がその「教育理念」を明確にし、教職員の間で「卒業時点で、生徒がどのように育っていればいいか」「育てたい生徒像はどんなものか」ということを共有すればいいのだと思います。
そうすれば、各教員の指導(教科指導、生徒指導問わず)が、その「教育理念」や「育てたい生徒像」と一致しているかということを議論しやすいでしょう。
以前も書きましたが、教員という職種の人は「対話」が苦手なように思っています。この「理念」と「指導方法」を往還させるという取り組みは、教職員間の対話を促すきっかけにもなると思います。
理想論ですが、これが実現できたら学校がよいものになっていくだろうな~と思います。
2017-01-08
夜泣き
親ばか | |
最近、一歳八か月の娘が夜泣きをします。
これがたまりません。「夜泣き」どころではなく「夜泣きわめき」という感じです。耳がかなり痛くなりますし、家内もかなりきついみたいです。
親ならば誰しも経験することなのだろうと思いますが、かなりこたえています。
「疳の虫」というおまじないを試してみようかなぁと思っています(笑)。
私たちは教師という職業につかせていただいていますが、子どもたちは保護者の方が本当に苦労なさって育ててくださったのだと実感します。
そう考えると、子どもたちを怒鳴って怖い思いをさせたり、罵声を浴びせたり、恐怖によってコントロールしようとしたりすることは、絶対にできないな、と思います。もちろん、生命の危険があるときや、他者を傷つけたりするときはビシッと言いますが、それでも相手を尊重するという姿勢は崩せない。
気をつけないと、教師という仕事は「自分の思うままに」子どもたちを洗脳してしまうこともできます。そうではなく、しっかりと正しい考え方、「智慧」をもって、愛を与えていきたいと考えています。
2017-01-07
学校の仕事、組織の仕事
学校と社会 | |
年末年始、学校外で仕事をする機会がありました。そこで感じたのは「あれ?前よりも他の人と一緒に仕事をするのが苦ではなくなっているぞ」ということでした。
でも、考えてみたら単純です。私が『学び合い』の考え方を身につけつつあるからです。
まず、向かうべき目的があります。『学び合い』だと、「一人も見捨てない」です。サービス型の仕事の場合は、「顧客満足度を上げ、売上を伸ばす」という感じでしょうか。とにかく、「向かうべき目的に最短で迫るための最善手は何なのか」ということに基づいて判断するようになりました。
その前提のもと、次の段です。他の人と仕事をする場合、意思の疎通が必要になりますが、以前の私はそれがほんとうに苦手でした。しかし、今では「折り合いをつける」ということができるようになりました。「目的への最善手」を打つためなら、自分が折れることも平気になりました。ただ、逆もあり、最善から著しく遠ざかる場合は止めないといけません。
また、チームプレーをしなければ成り立たない仕事も多く、個人プレーでは限界がはやく訪れます。協同学習のほうが普通なような気がします。
以上のようなことは、組織運営をしていれば当然なのだと思います。そして、『学び合い』は経営理論と親和性があります。学校教育よりも組織運営に効果を発揮するのかもしれません。
逆に、学校という「組織」は、協同のチームプレーも発生しにくいし、理念もあまり統一されていないような気がします。
なんだか、学校の外で仕事をしてみて、『学び合い』のよさに改めて気づかされました。
2017-01-06
「形だけ真似て失敗する」
『学び合い』失敗談 | |
年末にP4Cのミーティングに参加した際、「二重括弧の学び合いを実践しています」と、堂々と言いました。
すると、参加者の方から、「あ〜、うちの学校でも若いのがやってるよ。でも、"形だけ真似して"失敗してる感じがするんだよなぁ」と言われました。
正直、複雑な気持ちになりました。その実践されている先生方がどの程度『学び合い』を学んで実践されているのか、その批判した方がどのような観点から「失敗している」と判断しているのか、またその方がどのような「前提」(教育の理想)を持っているのかなど、不確定要素が多く、はっきりとしたことは言えません。
しかし、「『学び合い』のことをほとんど知らないのだな」ということはひしひしと感じました。同じことは校内でも感じています。
教師って、他の職業よりも勉強していないといけない職業だと思っています。だって、子どもたち「勉強の大切さ」や「生きる意味」を説くのですから。なんとなくですが、本当の意味で勉強が好きな教師って、そういないのかな、と感じています。
勉強好きな人、勤勉な人からは、「学徳」が感じられるようになると思います。その意味で自分は学び続けていたいな、と思っています。そして学んだことを仕事を含む実生活に最大限活かしたいですし、驕らず、たくさんの方と『学び合い』たいと考えています。
2017-01-05
iku-nakaあけましておめでとうございます。
拝見した記事にI小のことが書かれていましたが、あのような低俗な例えで紹介されていたことがとても残念です。
理念を理解もせずに現象だけ捉えて批評することの危うさを感じています。『学び合い』もその危険性をはらんでいるという現実を考えた時、我々教師が負っているものの重さを感じます。
strongmind222明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
なんだか軽い記事だな、ということはすぐにわかりました。「批判のための批判」というか…。
記事標題の「虐待」という言葉も、本来の文脈とはずれていますよね。
こういう「理念を鑑みない批判」がけっこう多いのかな、と最近感じています。
2017-01-04
仮面
「人は仮面をつけて生きている」という考え方があります。
たとえば、アダルト・チルドレンの文脈では、「ヒーロー(優等生)」「スケープゴート(身代わり、問題児)」「ロストチャイルド(目だたない子)」「クラウン(道化師、ピエロ)」「ケアテイカー(お世話係)」という仮面を、子どもの頃に自分の心を守るためにつける、という考え方になります。自分の欲求や感情よりも、他人の欲求を優先し、自分のものとして取り入れており、その他人の欲求を充足するために「仮面の役割」を演じる、という感じだったように記憶しています。
また、職業上の自分と家庭での自分を使い分けるという文脈で使われることもあるでしょう。
簡単に言えば、「本来の自分を隠すために仮面をつけ、別な役割を演じている」ということになると思います。
私自身もアダルト・チルドレンの要素はかなり持っていたと思います(今でもあると思いますが)。この「仮面」ですが、取るのにけっこう苦労しました。私が持っていた仮面の一つは、「人を信頼できない」というものでした。けっこうな曲者でした。これを克服したのは、本当に最近で、2年ほど前だったように思います。
私は大人になってから自分で心理学やメタ・フィジックなどを勉強し、少しずつ取り除いていきましたが、学校において形成された「仮面」もけっこうなものがありました。おもに「安心感」がないことに起因する仮面でした。人によって異なると思いますが、学校はこのように子どもたちに「仮面」をつくってしまう機能もあると思います。
「仮面」と表現していますが、「余計な価値観」と言ってもよいでしょう。こういった価値観を子どもたちに植え付けないためにはどうすればいいのか、という側面からも学校教育は考えられる必要があると思っています。
『学び合い』にその一つの解があるような気がしています。
2017-01-03
勉強の基本
勉強の基本は「精読・反復・要点の暗記」と考えています。だいたい、この三つで他の考え方を包含できると思います。
本を読むときも同じような感じになります。
まず、「大事だ」と思ったところに赤線を引きながら読みます。
次に読むときは、縦書きの場合は上の、横書きの場合は左右の余白に「ぐりぐりっ」という感じでオーバーラインを引きます。私の場合は弓型 ⌒ になります。
そして、また次に読むときはふせんを貼りながら読みます。
こんな感じで三回くらい読むと、大体、その本から学べることは吸収できます。自分の思考というか、フィルターに引っかかった考え方が中心になりますが、ただ読むよりも生産的ですし、数回読むことで本のエッセンスだけが残ります。
本当は全部読み返した方が良いのでしょうが、これだけ出版点数が多い現在、多読するためにはこのように「自分に引っかかった部分を再読していく」という考え方(あえてネーミングするならポジティブ・リーディングと言っても良いかもしれません)が大事だと思っています。
そして、さらに繰り返し読むべき本も、そうやっているうちに見つかるのだと思います。
こんな感じで「精読・反復・要点の暗記」と「多読」を繰り返していくのがよいと考えています。
学校の国語で「多読」を教えるのは難しいですが、少なくとも他の教科でも「精読・反復・要点の暗記」が勉強の基本であることを教えることは可能です。
2017-01-02
「遊び」の効用
人生 | |
「遊び」が大事と思うことが多くある。「遊び」と言っても、playではなく、「余白」という意味だ。
たとえば、車のハンドルや、本もそうだ。ハンドルには少し「遊び」がある。だから余裕をもってハンドリングができる。これがキツキツだとたまらないだろう。本には「余白」が設けられている。これがなく、ページのすみからすみまで字がぎっちりと書かれていたら、げんなりして読む気も失せる。
人生も同じだ。スケジュールに追い詰められたり、経済的に余剰が無かったりすれば、どこか切迫して、他の人を責めてしまいかねない。
教師もそうだろう。「これをやらなければ」ということで子どもたちに迫る。子どもたちは「面倒だからやるか」と思うこともあるだろうし、反発して終わることもあるだろう。ここにも、「遊び」や「余白」はない。
少なくとも、ちょっとした余裕をもつことくらいは心がけていたいものだ。それだけで自分がだいぶ楽になるし、周りの人も楽になる。もちろん、それが惰性につながるようになってはいけないが、バランスは必要だと思う。
2017-01-01
タイム・マネジメント
いろいろと考えているのですが、タイム・マネジメントは大事だな、と思うに至り、今年はそれをしっかりやろうと思いました。
タイム・マネジメントができないと、結局、余裕も生まれず、目の前のことにいっぱいいっぱいになってしまいます。これだと、一日一日が充実したものにならないし、人生も充実したものにならない。他の人に対するときも、何かぎすぎすしてしまいます。時間に「追われる」という感じになってしまうとそうなるのかな、と思います。
そうならないためには、見通しと計画性が大事と思います。もちろん、研究や探究はそう予定通りにいくものではないと思いますし、教師の毎日も人相手の仕事ですから新規案件は舞い込んできやすい。しかし、計画的に進めることのできる仕事もたくさんあります。
授業の準備や定期考査の問題作成もそうです。実は、ここがいちばん大事なところだと思っています。毎日あるものですから、前日には何らかの準備をしなくてはいけない。そのためにかける時間は短いほうがよい。そうすると、前倒しで準備をしておくとよいと思っています。その準備には、学期が始まる前を充てればよいと思います。
定期考査の問題も、学期の始まるがにつくってしまえば、直前に慌てることがありませんし、何より指導することが明確になります。生徒たちにも予定を示せますから、一石二鳥どころか一石三鳥くらいの効果があると考えています。
今のところ、四日以降の数日間を準備に充てることができるので、校務分掌まで含めて、三学期の見通しを立てようかと思っています。
時間は「ある」ものではなく、「創り出すもの」と思います。そのために、自分の仕事を可視化して、見通しをたてる。こうしてタイム・マネジメントをすることで心に余裕が生まれ、イノベーションのきっかけに気づいたり、新しい仕事を創り出したりすることができるようになると考えています。
あまり得意なことではないけれども、自分のため、家族のため、生徒たちのため、社会のために、今年はきちんとタイム・マネジメントをしていこうと考えています。
いろいろな方にお話を伺うのは、自分にとって本当に勉強になりますし、人生の幅が広がるような気がしています。
一緒に学んでいきましょう(^^)