元気と勇気は誰でも出せる 

2013-01-13

[]リーダー考

 リーダーや集団(組織)の方向性として2つの軸を立てる。

 横軸:成果(課題達成)に関心を向ける

 縦軸:関係性(メンバー)に関心を向ける

 そこには4つのリーダー像ができる。

 1 成果・関係性志向リーダー

 2 成果志向リーダー

 3 関係性志向リーダー

 4 成果・関係性非志向リーダー

 2は、「独裁者」と呼ばれ、3は「いい人」と呼ばれるかもしれない。真の意味で成果を上げるリーダーとは1であるわけでる。

 4は、リーダーの体をなしていない。

 しかし、世の中には、2でも3でも4でもリーダーになれる構造を持っているのである。

リーダーとしてもっとも適切なのは1であることは言うまでもないだろう。そしてもっとも適さないのは4。問題は、2と3、どちらを優先するかということである。

 3は、頼まれると断ることができない。規則や原則にルーズである。決断できない。

 2の方が、組織のリーダーとしてはふさわしいと思われるかもしれない。世の中の集団は、ほぼ、課題解決集団だからだ。しかし、成果を追い、人員のメンテナンスをしないリーダーに人はついていくだろうか。メンバーと会話ができない、メンバー同士の関係性に関心がないので集団の良好な関係性は育まれない。組織の関係性の低下はやがて生産性の低下を招く。

 よい人はリーダーとして様々な問題を持つが、独裁的リーダーよりはふさわしいのである。

 封建的関係性においては、独裁的リーダーの方が生産性が上がる。それは、リーダーの権力とメンバーの非主体性に支えられる。リーダーが右と言えば、メンバーは右を向く。号令一つで目標に向かうことができる。リーダーはメンバーに安全をもたらす代わりに、メンバーは、主体性という権利を放棄することで安全を手に入れることができた。

 しかし、今は民主主義の世の中である。もう少し踏み込んで言うと形式的民主主義とでも言おうか。封建時代と違ってメンバーは、さまざまな権利を手にした。リーダーと自分は人としては対等であることも知った。リーダーの号令がリーダーの命だからといって通る世の中ではなくなった。情報流通の大量化・高速化によってリーダーよりも情報を持っているメンバーが多数存在する世の中になった。現代において「情報は力」である。

 相対的にリーダーの力が弱められているのである。力のあるリーダーがいない、と批判する人がいるが、そいうリーダーが極めて出てきにくい世の中になったのである

 むしろ、組織、集団の混乱は、力を持ったのにそれに見合うだけの義務や責任を知らないメンバーの在り方にあるのである。システムは民主化したにもかかわらず、その民主主義を受け入れ運用する構えができない。民主主義の世の中で、様々な権利を行使、享受するならば、主体性を獲得しなければならないのである。

 今、強いリーダーが求められているという。父性が世の中に足りないという。頑固親父を懐かしむ風潮もある。しかし、戦後日本は、それがイヤだと言って、全力を挙げて頑固親父を撲滅してきたのではなかったか。「強いリーダーがほしい」という叫びは、主体性を放棄した人の嘆きにも聞こえる。

 決断できる独裁性とあたたかさと誰からも好かれる親和性を両方兼ね備えたリーダーが望ましい。しかし、そうしたリーダーは数から言ったら少ない。(人材育成の面から見ればそうした人物を増やすことは必要。しかし、野球の4番バッターのように天賦の才能もある。野村克也氏は言う「4番バッターは育てるものではなく出会うもの」。)かつて力を持っていた独裁的リーダーはこれからは機能しない可能性が高い。だからといっていい人がいつも機能するわけではない。リーダーとして機能するには、メンバーの成熟度が必要なのである。

 1月10日の書き込みから 

 学級が荒れていないと「荒れ」が見えない。」

 子どもが問題を起こさないと問題が見えない。

 これも当てはまる。

 リーダーではないからリーダーのやっていることがわからない、ではなく。リーダーではなくても、リーダーの立場を理解しようとする。これには当然、リーダー側からの配慮が前提となる。

 リーダーとは孤独なものである。 

 その立場にならないと見えない世界があるからである。

 リーダーはその孤独に耐えなくてはならない。

 

 しかし、リーダーを孤立させるようなメンバーにしてはいけないのである。それがリーダーを選ぶというシステムを持った者の責任である。

 現代の社会においてリーダーシップ論が様々議論されるが、民主化された社会ではメンバーシップやフォロアーシップの議論なくしては、成立し得ない構造を持っているのである。

 教職大学院を退官された教授が最終講義で言った。

民主主義はただではない。」

 その意味の重さを日々感じている。

 民主主義は自然に理解され、浸透するものではない。それが実現するにはコストがかかる。しかし、今の学校教育子どもたちは民主主義を学ぶ機会があるのだろうか。

 総理大臣が1年ごとに代わるこの国で、その理由の一つにちょこちょこと発表される内閣支持率が影響しているとしたら、そのしくみを真剣に考えなくてはいけない。

 毎年のように野放図にとられる保護者向けアンケートの結果を教師に配布し、極めて個人的な意見に対し、学校体制で応えるような回答をして、教師のやる気を削いでいるとしたら、そのしくみを真剣に考えなくてはいけない。

 フォロアーシップは決して、空気を読んで黙ることを言っているのではない。協力とは、言うべきことは言い、するべきことはすることである。口も出すけど、力も貸すよ、という態度である。

 国においても学級においても、建設的な意見、動きがあまりにも日常的に日が当たらない風潮がある。まっとうな意見や考えを持ち行動している人は世の中にも学級内にも大勢いるのに、そこに注目が集まらないようになっていることが問題なのである。つまり、まともなことをしていると注目されない。その結果、反対の方向性を持つ考えや行動が目立つ。大局的な視点に立った未来志向のそれであり、公共心や相手意識のそれが注目されずに、反対のそれが注目され重用されたりする。

 少数意見を無視せよと言っているのではない。しかし、ともすると静かな多数派が蔑ろにされることがあるのが問題なのだ。まともだけど静かな多数派意見がきちんと世の中や学級集団を照らすには、真の意味で民主主義を実現することが必要である。

 その民主主義を教えるためにもっとも適切なのが学校なのである。 

2010-01-02

[]声のチカラ

 テレビをつけるとお笑い番組のオンパレード。普段は、お笑い番組だけは見るようにしているが(なんで?)、これだけ続くとちょっとねえ。 最近は、芸人さんのネタより声が気になる。声はリーダーシップにとってとても大事だと思う。声のいい芸人さんは、話し声を聞いているだけで心地よい。この人の話を聞いちゃおうかなと思ってしまう。

 ちなみに、好きな声の主は、「ブラマヨ」、「タカトシ」、そして、M-1で伝説の「鳥人」を披露した「笑い飯」の左の人。これも好みだから絶対的なものではない。きっと自分の声に張りがなくなっていることに危機感を持っているのかも。

 

2009-10-08

[]発想の転換

 国の予算編成で、かつてはいかに資金を持ってくるかで評価された大臣が、今度は削減で脚光を浴びている。評価システムが変わったからだ。

 評価とは価値観である。優しくいうと注目のポイントだろう。人は注目された方向に能力を伸ばす。そう考えると評価の在り方は、われわれの在り方と言っていい。学校も評価の在り方で変わることが期待できる。今の、教員評価や学校評価が先生方のやる気を高めているとはとても思えない。

 生活指導主任のときに、いじめ不登校児童生徒に関するアンケートをさんざん書いた。あれは、いじめ不登校がどれだけ無かったかを見るものと解釈した。

 しかし、あれでは、当事者は救われないなと思った。無いことを前提とすると、深刻な問題にならないものは見過ごされる。これは恐ろしいことだ。深刻な問題になったら、やれることなんてほとんどない。教師の勝負はそうなるまえにどれだけ手を打つかだ。

 むしろ、問題を見つけ出して取り組む教師を評価するようなシステムにしないと、これからも泣く子ども、親は減ることがないだろう。それは結局、教師の苦しみになる。学級状態が悪くて教師が明るい気持ちで仕事に取り組めるわけがない。

 問題がないことをよし、とするのではなく、問題に対して解決したまたは取り組んだことを評価する。しかし、これは書類や評定で表されるものではないだろうと思う。書類上はいくらでもきれいに整えることができるからだ。教師を本気で評価しようと思ったら、管理職が普段から個人の取り組みを見て、また、聴き取るなどの複数の評価の方法で判断する必要がある。もっと言うと、個人評価なんてやめてしまえばいい。どうしてもしたいなら、生徒指導部や学年部などのチーム評価にする。安易な個人評価は、職場の人間関係を分断するだけだ。この学年団は、どれくらい学校課題に取り組んだかをみる。

 どんなシステムにもメリットとデメリットがある。しかし時代の要請に合わせて、大胆に発想の転換をあちこち図っていくことは、よりよい社会をつくる上で不可欠ではないだろうか。

 秋元康氏の言葉である。

 「ここをがんばろう、あそこをがんばろうとするのではなく、このがんばりとあのがんばりはいらないと見直すことも必要ではないか」

 がんばりを否定するのではなく、がんばり方を変える。必要のないがんばりは潔く捨て、必要ながんばりにはこだわる。そんな生き方をしてみたい。

2009-09-30

[]久しぶりの学食

 あまり学食にいかない。

 でも、せっかくNJ先生が誘ってくださったので、mizuochi先生と共に久しぶりに学食で食べた。そのときに、しつこくかかってくるマンションの売り込みの電話の話になった。

 NJ先生は壮大なユーモアでかわすのかと思ったら、単刀直入に断るらしい。納得。片やmizuochi先生は、「ゼミです」と言うらしい。あれま、私と同じ。気の弱い私としては「いやあ、すみませんねえ、関心がないもので・・・」「先生、ちょっとだけでいいですから聞いてくださいよ。この前は、東京の物件をご紹介させていただきましたが、今度は大阪の物件です。これはお奨めです・・・」こんなやりとりをこれまでに何度聞いただろうか。「すみません、これから会議なので、ガチャ!」とこんな展開になる。

 向こうさんも必死である。しかし、ときどき考える。彼は一日に何件くらいこんな電話しているんだろうなあと。どこからか高額で購入した名簿を前に、ひたすら電話をしているのだろう。本当にすばらしいマンションで、購入した方々が幸せになるのだと思って、熱心に売り込んでいるならそれでいい。しかし、そうでなかったら・・・・。

 やはり、仕事をするならば誰かを幸せにする仕事をしたい。誰かが笑顔になる仕事をしたい。すぐに成果が出れば、それは嬉しい。でも、すぐに笑顔が返ってこなくても将来的に笑顔になるならそれでもいい。仕事は、誰かの幸せのためにやりたい。仕事とは、そういうものであってほしい。

2009-09-13

[]問題

 今世間は、政権交代でにぎわっている。負けたJM党は、いろいろと大変そうだ。若手が、総会などで意見を言っている。ベテランを糾弾する場面もある。もっとそういうことを早くしていたらヨカッタんじゃないの?と言いたくなる。しかし、立場を守るためいろいろな駆け引きをしていたんだろう。

 マスコミはJM党の「混乱」として報道しているが、果たしてこれは「混乱」か?正常化したのだと思う。やっと物議が醸せる集団になったのだ。若手がベテランにものが言える集団になったのだ。

 

 世間には、問題が起こるとその集団は良くない集団と烙印を押す風潮がある。平和がいい、と。平和とは問題が起こらないことが平和なのだろうか。そうではないと思う。平和とは、いろいろなことがある、問題が起こる、しかし、それを主体的に解決しようとする状態を言うのではないだろうか。

 個人の自由な生き方を尊重する一方で、平和がいいという。これは、甚だしい矛盾だ。人々が自由を追求しだしたら必ずぶつかる。権利を制限された方に不満が起こるのが普通だ。問題解決とは、その問題についてホンネを出し合い、「折り合い」をつけることだ。しかし、人には、「問題に向き合わない」という選択肢もある。問題から目をそらしたり、ほうっておいたりする。しかし、大抵の場合抑圧された負のエネルギーは、もっと困った形で出現する。

 ホンネを出すと言っても、その過程で人を傷つけていいとは思わない。傷は最小限にするべきだ。だから、スキルがいる。だから、我々は学ばねばならない。そのスキルが想定されていない者には教えなくてはならない。

 子どもたちによく言った。問題が起きないクラスがよいクラスではない。問題を解決しようとするクラスがよいクラスである。

 なんてねえ・・・日曜日に出勤し、仕事の合間にこんなこと考えているって・・どうなんでしょう?