元気と勇気は誰でも出せる 

2015-01-25

[]効果的な学校

 なんと言っていいか。すごい学校だった。その片鱗は前日の懇親会から感じた。冗談が絶えないのである。ずうっとゲラゲラ笑っている。とにかく明るいのだ。しかし、こちらの疲労を考えて時間より少し前に「開放」してくださった。何しろ、この日はくたくただった。ライスチャイルドの時間が熱くて熱くて、火傷した状態でこの町に飛び込んだから。

 学活の授業3本。教科の指定研究を受けているというのに、学校ぐるみで学級活動を定常的にやっている。それも、学校で共通したスタイルをもっている。そのスタイルが、仮ものや追随ではないのだ。セオリーに基づきながらもそれぞれの担任が工夫している。だから、子どもたちに「やらされ感」がない。安心の雰囲気に包み込まれた子どもたちは、伸び伸びと言いたいことを言い合っていた。それがまた20代後半から30代前半の若手教師たちだから驚きだ。

 前日の懇親会からベテラン層の若手へのリスペクトを感じていた。若手をある一定の型にはめようというのではなく、それぞれの強みを理解し、共有し、それを伸ばそうとしていた。さらにすばらしいのは、その若手たちの在り方である。普通以上の実力(いや、そうとうなもの)を持ちながら、実に謙虚。学ぶ気満々。前日に懇親会でのあまりの謙虚なコメントに「おちょくってんのか!」と思ったくらいだが、授業を見て、子どもたちへの接し方を見て、本気だとわかった。

 だから、授業者に敬意を表して、事前に用意したプレゼンを全て捨てて、彼らの授業風景を撮った3枚の写真だけを使って70分間、彼らの授業について語った。そして、最後にこちらの学校の実践の意味を伝えて終えた。伝えたいものが強くあるときはプレゼンは邪魔になる。そう言いたくなるくらいよい集団づくりをしていた。

 20代後半から30代の在り方は、大事だと思っている。「勘違い」して実力派教師、大物、重鎮のような振る舞いをする人もいるが、たいていそういう人たちは、上手くやれていると思っていると同時に、新たなものを学ぶ意欲やあたらしいものをつくる気概に欠ける。また、一方で自信がなく謙虚モデルを演じながら、強いもの大きなものにすり寄ろうとしている人もいる。教室よりも別なところに強い関心を持ちがちである。

 この学校は、学びの土壌づくりに学校体制でコストをかけ、そのための理論と型を持っている。そして、実践、評価、再試行という研修サイクルがきちんと機能してた。学力向上の基盤は生活づくり、集団づくりであることがシステムとして理解されている学校だった。

 その中心にはやはり校長先生がいた。子ども、職員、保護者とにかく声をかけまくる。人と成果をバランス良く見据えて確かな結果を残しているリーダーがここにもいた。

 帰るときは、先生方がハイタッチをしてくれとみなさんが並んでくださった。ハグをしてくれ、という先生もおられた。校舎を出るときは、送別会のようにアーチをつくって送ってくださった。彼らは初対面である。この学校の雰囲気をおわかりいただけたと思う。

[]最後にすること

 駆け出しの頃,師匠に言われた。

「いいか,特活教師,道徳教師をやるんだったら,教科指導もプロでなくてはならない。世の中は教科,教科で動くから。」

 確かに,先生方の関心,注目,発言を聞いているその通りだった。いじめ不登校学級崩壊が未解決であろうともその傾向は今も変わらない。学校における主な時間は,教科指導だ。教科指導の力量は教師として極めて大事な力である。

 しかし,教師の職能発達を考えたとき,管理職になるならないに関わらず,ある程度の年齢になったら経営をしなくてはならない。教科中心主義でいけたのは,ベテランが7割,若手が3割という年齢構成のなかで,誰かがどこかで枠組みを造り,人材育成をやってくれていたからだ。これからの10年で年齢構成が様変わりすることが予測されている。というか現実に起こっている。希望するしないに関わらず指導層に組み入れられるときがくる。あなたが,同学年のメンバーを育て,同僚を育て,職員を育てなくてならないのだ。

 指導層がやる仕事は,経営であり人材育成である。自身のキャリアの後半には,経営の原理原則,理論と技術をどれくらいもっていて,どれくらいやれるかが問われるのである。理論だけでは人は育たない(広がりはあるが動かない)。実践だけでも人は育たない(動くかもしれないが広がらない)。理論と技術をもったリーダーが,人を育てることができるのである。