元気と勇気は誰でも出せる 

2009-03-23

[]失敗論 その2

 あらら、渡邉先生、飯村先生、私より先に失敗論を展開してくださってありがとうございます。私のブログは本文よりも、コメントの方がずっと質が高いのです(えへへ)。さすが、私が書こうとしていたことよりずっとわかりやすいので、読みふけってしまいました。書くことがなくなりました(汗)。

 失敗とはなんなのか、辞書を見ると、

 広辞苑「やってみたがうまくいかないこと。しそこなうこと。」

 とある。そして、そこには下の慣用句とともに示されている。

 慣用句「失敗は成功のもと」

 先人は、失敗が悪者だとは言っていない。

 しかし、子どもたちも含め、我々は失敗を悪者だととらえている。

 だから、こそ、優れた教師が下記のように子どもたちに教える必要が出てくる。

 土作氏「成功の反対は『何もしない』こと」。つまり、ここで土作氏が言いたいのは、成功と失敗は対立する概念ではないということを言っている。

 渡邉氏「失敗とは、成功する前にあきらめた人がたどり着く状態である」。

 勇気の出くる教えである。 

 誰が失敗を悪者にしたのか。

 何かをやってしくじったとき、自分の中にあるものは「うまくいかなかった」という事実であるだけである。なかには「悔しい」という感情を持つ人もいるだろう。「どうやればいいんだ」と再試行する人もいるだろう。「つまらん」と投出す人もいるだろう。しかし、少なくとも、自分の中には失敗が「怖い」という恐怖や不安はないはずである。では、なぜ、人は失敗を恐れるのか。そこには、他者評価が入るからである。たとえば、味噌汁を食卓で子どもがこぼす。本人は「あらら」くらいに思っているところに、母親に「あんたはもう!」とこっぴどく叱られたりする。すると、失敗と叱られたことの恐怖感や嫌悪感が結びつく。ただ一度や二度の失敗を責められた経験で多くの人はそうはなるまい。しかし、一度の強烈な経験によってそうした認識がつくられることもあるらしい。アドラー心理学ではこの「ファーストインパクト」を重視している。頻度よりも強度が重要ということだろうか。とにかく、うまくいかなった経験は、否定的な他者評価と結びつき、「いわゆる失敗」が形成されていく。つまり世の中の多くの人が思っている失敗とは、他者の否定的評価によって学習されたものだといえる。もともと自分の中には、「いわゆる失敗」は存在せず、成功までのプロセスしかない。しかし、そこに他者評価が加わることによって、否定的な失敗観がつくられていく。ここでいう「いわゆる失敗」とは他者の目から見た失敗である。しかし、本来失敗すると自分なりの対処法が蓄積されていくはずであり、失敗は成功への豊富な知恵が蓄積されているのである。

 ということは、である。他者によって学習されたものだと言うことは、その逆の教育の可能性を示唆するものである。今、教室に失敗を恐れる子どもたちが大勢いる。日本の教室には、「失敗を知らない子」と「失敗しか知らない子」ばかりと言い放つ人もいる。極端ではあるが、教室のある一面を示しているように思う。

 土作氏、渡邉氏、飯村氏のようなことを子どもに語って聞かせ、それを授業実践の中で体現する教師が増えていけば子どもたちはもっともっと積極的になるだろうと思う。

 いや、これは小学生だけの問題ではない。

 大学生も同じ。

 自分もそう。

 







 

2009-03-22

[]失敗論 その1

 盟友土作彰は言う、「成功の反対は失敗ではない、成功の反対は、『何もしなかった』である」と。成功と失敗は類義語である。学びに、達成感や成就感が必要である。その達成感や成就感には「試行錯誤」が必要である。そもそも、失敗とはなんなのか。