元気と勇気は誰でも出せる 

2015-11-25

[]実践の蓄積

 昨日の研究会は見事だった。

 中学生たちが日常の音楽の授業で美しく大きな声で歌い,学級活動で生活の在り方を真剣に振り返り,国語,数学,英語で楽しそうに仲間とかかわりながら課題を解決していた。

 しかし,授業は至って「普通」。特別なことはなにもない。例えば英語では,タブレットもインターネットもなく,あのインテリ系の外国人お笑い芸人とそっくりなALTがいただけである。そう圧倒的に「普通」の授業群なのだ。

 研究校でもない一般校で,そこにいる教師達はみなあたかな笑顔で授業し,生徒達は笑顔で探求活動をしていた。でも今時,こんな普通の教育活動が展開できる学校は,何かどこかで特別なことをしている。研究計画が実にしたたかで的を射ている。昨年は,とにかく土壌づくりをしていた。そして今年から授業改善に取り組み始めた。

 それにしても,かつては荒れた時代もあったというのに,2年でこんなに変わるものか。やはりそこには隠れたシステムがあった。校長先生が前の学校で同様の研究指定を受けていて成果をあげてきた人だった。この校長先生は,そのシステムをそのままこの学校で適用したようだ。この地域が,教育委員会,学校,管理職,職員の関係性,同僚性がもともとよいというリソースがあることを加味してさらに,「蓄積」が機能していた。

 実践界のよくも悪くもどちらにも機能する伝統として「出典・引用」を明記しない文化がある。これによってうまく行く場合もあるが,うまくいかない場合は,いつも同じようなことを繰り返す傾向がある。つまり,別の学校の成功や失敗に学ぶことができないのである。先行実践に立脚して取り組めば,失敗も成功も一段上のレベルになるのに,それをしないから,良い学校の良い実践が発展しない。また,同様に,同じような失敗をしているがある。研究ではそれがなされるが,実践ではほとんどそれを見ない。みんな「オリジナル」なのである。そんなことは普通無い。オリジナリティなんてものは,湯葉みたいなもので,表層の薄皮のようなものがほとんどである。

 この学校の場合は,校長先生がデータバンクになっていたのである。前の学校でやった成功と課題をこの学校で修正し追実践しているわけである。だから,当然,質が高くなる。

 学校で出す研究紀要をデータ化した教育委員会などが整理して,各学校で共有したらいい。そうしたら研究主任や先生方の負担は驚くほど減るはずである。研究紀要に,出典,引用の欄が当たり前に記載されるといいなと思う。

 あ,そういえばこんなことを昨年学長と電車の中で話したんだった・・・思い出した。

 

2014-02-26

[]力になる研修会を創る

今月は、飛び込み授業が3本。3年生道徳、4年生学活(話合い活動)、5年生学活(PA)。実に学びの多い、エキサイティングな時間だった。たて続けで少しハードだったが、自分が小学生に授業をする姿を見せる意味が少しずつわかってきた。

今日の研修は、そうした気づきをたくさんいただいた。

1 授業

2 KJ法による学びの整理

3 Q&A

三回目の訪問であったので、前、二回は、しっかり講義をした。今回の演習では、講義はなかった。参加者は、2で互いの意見を意味づけ合うことで新たな学びを見つけ出していた。学びを整理する中で、疑問も生まれてきた。Qでは、焦点化された質問が出た。

柏崎のイベントでは、

1 模擬授業

2 カフェ形式による学びの整理

3 学びの共有

4 授業者コメント

これらをもう少し整理すると、なんだか効果的な研修会がつくれそうだ。

講義だけでは、学校は動かない。

また、公開授業と自虐的反省会的協議会でも学校は動かない。

1 学び

2 動き

3 振り返り

4 次の動き

のサイクルが機能し出すと、校内研修はおもしろくなるだろう。

2014-02-09

[]あるものさがし

 認知症への対応に関する朗報が飛び込んできた。

 STAP細胞の発見と同時期だっためにあまり騒がれていないらしいが・・・。

 注目したいのは、偉業を支えたその発想。

 認知症を発症しやすいマウスとしにくいマウスがいて、しにくいマウスがもっているものを調べたということだった。

 これは、予防にかなり効果があるが、治療にはまだ多くのハードルがあるというが、治療にも大きな期待を抱かせる研究である。

20年近くの試行錯誤結果である。

わかってしまえば「なーんだ」であるが、この「あるものさがし」的な発想は教育においても極めて重要だと考える。

 認知症を治すために、どうするか、ではなくて、それが押さえられているものからその理由を探す。

 帰納的発想だから、見落としているところもたくさんあるのかもしれないが、壁に行き当たったときは破壊力がある。

 学級崩壊もどうやったら起こさないかというという発想に立つのでなく、学級崩壊が起きてない集団が、なぜ、しないのか、いじめが起きていない集団は、なぜ起きないのか、やる気がある教室の子どもはなぜやる気が起こっているのかを探す。それは事例的で、個別的であるから、その調査結果一つをとって一般化することは危険だ。だから、これらの研究そのものが、学級崩壊の立て直し法を示すものではない。ただ、予防法にはわりと早く行き着くだろう。

 しかし、その数が集まったときに、なにか大きなことが言えるのではないかと思う。いずれ、立て直しの方法論の実践的エビデンスも見えてくるだろう。私は実践者であったから、立て直しの実践的エビデンスはもっている。それを実証的エビデンスをもって説明する院生も出てきた。

 学部生、院生の研究がある方向性をもって統合を始めている。

これはオモシロイことになってきたのではと・・・ちょっと・・・思っている。

2014-01-31

[]実践の本質

 学部卒論、院の論集作成ために学部生、院生と議論?指導している。

 学生や、院生のかかわったフィールドは見事に変容している。

 でも、クラス会議でクラスが変わったんじゃない。

 勇気づけで子どもが変わったんじゃない。

 協同学習で学力が向上したんじゃない。

 学級の変容に、クラス会議はどう寄与したのか?

 子どもの自信感情の変容に、勇気づけがどうかかわったのか?

 学力向上に協同学習がどう機能したのか?

 そこで起こったことをリアルに記述してください、と。

 実践者があなたが、その道具をどう使ったら子ども、学級が変わったのか、そこを明らかにしてください。

 複雑系の学級集団というシステムが、一つの道具で変容したと言い切るのはよほど、真実から目をそらすことが得意な者の所行である。

 きっかけはつくったかもしれないが、そのきっかけが動きとして現れるには、システムが動いているはずである。

 全部を記述するのは限られた時間の中では極めて困難な作業であるが、教師としての専門性を磨くならば、そうした事実と向き合うことが必要だ。

教育実践は美談であってほしい。

 しかし、美談で終わらせたら、深まりも広がりも期待できない。

教師の専門性とは、美談から課題を見つけ出し、さらに深みを追求することである。

2014-01-14

[]力量形成

 研修会に浴びるほど出ているというのに力がつかないと嘆く人がいる。力がついたかどうかは、個人の実感なので謙虚な人はそう言うだろうし、多くの人は、研修会で力がつきました、なんて自慢はしないだろう。人前で自慢ができる人ってのは、よほど空気を読まない力をもっているか、読めないかのどちらかである。それはさておき、研修会に参加しても力がつかない人は、研修会に参加することが目的になっている人である。研修会の参加の仕方は、人それぞれだから、参加して気持ちよかった、おもしろかったなどのカタルシスを得ることがあってもいい。そういう参加の仕方もあるのかもしれない。しかし、力量形成をしようと思ったら、そうした参加の仕方では力はつかない。

 

 研修会は通り道であり、道具である。あたりまえのことであるが、研修会だけでは力はつかない。研修会で力がつくのなら、映画『ロッキー』を見たらボクシングが強くなるだろう。そんなことは実際には起こらない。研修会で学んだら、やってみて、試行してみなくてはならない。そして、思考する。うまくいっても、いかなくても「なぜそうなった」のかを考える。

 ある授業や投げかけがうまくいったら、なぜ、うまくいったかを考える。うまくいかなったら、なぜ、うまくいかなったかを考える。しかし、うまくいったからと言って、同じ事は通用しないと思った方がいい。「全く同じ事態は二度とない」からだ。だから、うまくいったことから、ある程度いつもうまくいくだろうという要素を抽出する。それが抽象化である。ここにtheoryができる。

 そのtheoryの一般化を助けるのが、書籍や研修会などの外部からの情報である。他者のtheoryと比較し、その共通点が見いだされた場合は、個人のtheoryよりも汎用性が高くなる。標準化された理論、THEORYとの共通点が見いだされれば、その汎用性は高くなる。しかし、THEORYと食い違っている場合もある。  THEORY通りでも違っても、その気づきは、次の実践に影響を及ぼすだろう。こうして実践は進化する。考えないより考えた方がいい。しかし、外部情報のない状況で考えることだけとすると「這い回り」になったり「独りよがり」になったりする。

 人は得てして自分の体験を絶対視する。これが度を超すと、硬直した偏狭なtheoryができあがる。所謂、「思い込み」である。ベテランが子どもの新しい状況に苦労するのは経験を絶対視して、柔軟性を失うからだ。つまり、学習者研究がおろそかになるからあ。また、アタッチメントの方向性が、子どもよりも、自分に向くとも言える。

 それが全てと言わないが、力をつけるには、theoryとTHEORYの融合のサイクルをもつことが必要であろう。自己更新のシステム化である。

 これは研修会だけでなく、大学院進学についても言える。大学院に来れば力がつくのではない。大学院の学びを自分の勉強とどう融合するかである。大学院のカリキュラムだけで学ぼうとしても力はつかない。大学院でのカリキュラムを自分の成長の流れに位置づけられるかどうかである。

 研究をすれば、専門職として成長するのでない。

 その研究をすることで自分がどう変わるのか、その研究をしたことで自分がどう変わったのかと問いかけることが必要だ。

 

 インプットとリフレクションの時間を忙しい時間にどう位置づけるか。成長する人は成長のシステムを持っている。