元気と勇気は誰でも出せる 

2015-10-28

尊敬するあるベテラン教師から連載に対する心のこもった感想をいただきました。

「今頃ようやく、教育相談11月号の 『 もし今フォローできるなら』を読みました。泣きました。

ヒデノリさんの姿が、言葉が胸にきました。今の姿をクラスメートに見せるということは、クラスで過ごしたその時間がかけがえの無いものだったからでしょう。私たち教師は、言葉を使って子供達とコミュニケーションをとることが主だと思いがちですが、私の振る舞いや佇まい生き方そのものが子ども達に影響を与えているのですね。子どもとの信頼関係があっての先生のご指導だと思います。

森俊夫先生の『信頼することとは、リソースとストロングを見つけること、信頼しないということは,信頼しないということは問題と病理を見つけること』という一文に触れたばかりでした。先生の指導は信頼の上に立ったものだったのですね。ヒデノリさんのストロングを見つけていたからこその指導だったのだと思いました。方法だけ真似たら火傷をすると思いました。」

毎回ヒリヒリするような思いで書いていますが,こうした感想をいただくと報われる気がします。

連載だけじゃありませんが,文章を書きながら「教育はなんのためか」といつも考えています。学力向上と地域を挙げてスローガンを盾ながら,何のための学力向上かが議論されない。学力向上のために学級経営をと言われながら,実は,子どもたちを管理するためというような現状が見られないわけではありません。

 「共生社会の実現」などという美しいスローガンを掲げながらも,本当かという現実を見聞きします。ユニバーサルデザインの教室を志向すると言って,「間違ってもいい」「多様性を認め合う」教室の実現などといろいろは発信で見ますが,社会がそうなっていないように思います。社会がそうなっていないのに,教室だけ美しく仕上げようとするとその負担は,子どもたちや現場の教師にいくのです。

 教育の目的は,人格の完成だと言われながら,それが応援されるのは大人の強いた(敷いた)レールに乗れる子であり,そこからはみ出る子や自分でレールを敷こうとする子を認めなかったりしています。子どもたちは生きるために,レールに乗ります。そして,それが自分に合わないと気付くと急速に意欲というエネルギーを失います。エネルギーがなくなった子どもは,走ることをやめるか,脱線します。停止し,脱線すると「故障車」というレッテルが貼られます。そのレッテルは,けっこう長くつけられます。「学級崩壊させた子」とか,「問題児」とか,子どもたちは環境次第でいくらでも変わる可能性があるのにです。

 しかし,子どもたちの周辺にいる人の中には,「故障車」にエネルギーを注入し,また,その子達が走りやすいレールを見つけたり,自分のレールをつくることを支援することができる人がいます。その人に出会えた子どもたちは,また,エンジンを回転させることができます。しかし,そういう人たちは子どもたちの周囲に標準装備されていません。

 国語,算数の授業をできる教師はたくさんいますが,子どものやる気に火を付けることができる教師はごくわずかです。そこが問題なのです。そのひとつの大きな要因に,後者のステイタスが低いことです。真面目な人たちが多かったこの国では,やる気を高めることの専門性が認知されていないと思います。

 やる気が起きなくて様々な問題が起こっているのに,そこに注目せず,生み出したものや数字だけに目を向けるシステム,それ,そのものが子どもたちのやる気を奪っているです。世の中では,評価権をもっている人が,世の中の流れを決めています。世の中には,それを自覚している人と自覚していない人がいる。人を育てるためには,人のやる気をたかめること,これに気付き,そのための技術をもつ人が人を育てることができるのだと思います。

 知識や技術を教えることができても,それを発動する意欲を高めることができなかったら,それらは持ち腐れとなります。子どもたちのperformanceを高めたかったら,子どもの意欲を高めることであり,それをできる教師が増えることであり,そうした教師が増えるための評価基準を「えらい人」たちがもつことだと思います。