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manabiai school から創り出す僕たちの交響体 ~安心な僕らは旅に出ようぜ~

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2012-08-20

意識的に。 15:51

古参が自らの居場所を守ろうとする姿勢に入ると、新規者が入りづらくなる。結果として、コミュニティ内の新陳代謝が遅れ、腐敗していく。新しい発展が生まれなくなる。長く役割を担っている者は、意識的に椅子を立ち、新規者に役割を渡すべきだ。そして、自らがまた「新規者」となる場所へ出かけていき、そこで役割をみつけるべきだ。そうでないと広がらないし、深まらない。僕は意識的に新しくしていく。もっと人間力があればこの行為を嫌われることなく出来るのだろうが、ある程度は仕方ない。ただ、この自分の中にある「破壊し、新しいものへ変えていきたい」という欲求(それは攻撃的な欲求を含む)を決して正当化することなく、ただ同時にそれを抑圧することもなく、粛々と淡々とやっていこう。そして僕自身もまた、「新規者」となるところに出かけていく時期でもある。また、この「新しくしていく」という役割も、次の世代にバトンパスしていかなければならない。後進を育てるなんて高度はことは出来ないから、後進が出て来るような環境を整え、出て来た時には潔く役割を譲る。こういうことは意識的にしないと出来ない。今やるべきことは何か。

jun24kawajun24kawa2012/08/21 07:35席を譲るというか、違った役割を果たす、というのが適切なのではないかと思います。私は30年、研究の世界に身を置いています。そして、その年齢での役割を話しています。不遜ながら、常にそのときの役割でトップランナーを走っています。役割を譲るためには、その役割を果たす若手を生み出すことです。私は私が過去にやっていた理科教育や認知心理学の役割を果たす博士研究者を育てて、その世界から身を引きました。そして、今は『学び合い』です。

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2012/09/04 13:47そうですね。違った役割を果たす、だと思います。自分自身もそれをしっかり意識していきたいです。

2012-08-18

さて僕はいったい何がしたかったのか。<学び合いフォーラムを終えて> (編集終了) 01:06

「学び合いフォーラムをどうするか」について僕が考えていたことについて書きたいと思います。

まず、一番強く考えていたことは、「学び合いフォーラムを『学び合い』っぽくするにはどうすれば良いか」ということでした。それは、これまでの学び合いフォーラムは学び合いっぽくなかったからで、そのことに対して僕は少なからず問題意識を持っていました。ただ同時に、学び合いフォーラムを『学び合い』として成立させるのはどう考えてもできないとも感じていました。(※もしそれをやろうとするのであれば自分が『学び合い』における管理者の立場に立たねばならず、そんなことおこがましくてできるはずない!と)

昨年の東京でのフォーラムは、まず最初に西川先生の講演があり、その後にリヒテルズさんの講演、そして分科会。2日目は分科会から始まり、水落先生の講演があって、最後に参加者同士話し合っての振り返り、というような流れでした。

このような、「講演」「分科会」「参加者同士の話し合い」というような形式では、参加者は安心して参加することができます。

「講演」の時間はじっと座って講演者の話を聴いていれば、「OK」とされます。最前列でうんうん頷きながら聴いてもいいし、中段で必死にノートを取りながら聴いてもいいし、また後ろでうとうとしながら講演を子守唄のように聴いていてもとがめられることはありません。(ただ、いったん講演が始まるとその場から抜け出す自由は与えられていないので(本当は与えられているが、抜け出してはいけないという暗黙の強制があるため不自由な状態)、マジメに参加しよう、という姿勢の人には少し負荷がかかる状態にあります。)そして、講演をずっと聴くのに疲れた頃に話は終わり、その後はある程度の「選択肢」が与えられた分科会があります。ここでは、自ら分科会を「選んで」参加することにより、講演の時間における不自由な状態から「選択できる」という自由が与えられた状態へと変わります。なお、分科会は講演よりも小さな集団になります。

講演→分科会→フリートークという流れでは、徐々に「大きな集団の中にいる一人」という「行動の責任を感じずに済む(ただ全体と同じことをしていればいいので気が楽)けれども、自由が制限される状態」から、「小さな集団の中にいる個人」という「行動の責任(自分で選択する必要がある)とある一定の自由が与えられている状態」へと移行していきます。フリートークの時になると、かなりの度合いで「個人」として動く必要があり、そこではどんな話をするか、どんな議題の場に参加するかという自由と責任が参加者に在る状態になります。

僕自身は、2006年から「教育フェスタ」というイベントを開催しており、これもだいたいこの形式と似たものでした。まず最初に基調講演があって、その後に、パネルディスカッションや分科会、そして夜は議論や対話が出来る場を設け、2日目に全体で振り返る、という形式です。場にある集団のサイズを徐々に落としていき、最終的には「個人」でいる状態にします。参加者の動ける自由度も徐々に大きくしていく−という流れです。


さて、「講演会」→「分科会」→「フリートーク」という流れは、安心して心地よく参加出来る一方で、そこで生み出される「学び」は、その場の構成の枠をはみ出ることはあまりありません。また、講演会でも分科会でも、学べることは概ね「話の内容」「発表される内容」に規定されます。この「規定される」というのは、目標の設定や、テーマの設定、でもほぼ同じことが言えます。この部分は、西川先生がブログで書いてくださいました。引用させていただきます。

(引用ここから)

今回の『学び合い』フォーラムの開始直後、主催者の一人に「ミッションを設定していなかったね」と耳に囁きました。その方は「あ!」とした表情になりましたが、微笑まれました。その方は一瞬のうちにそれを理解し、シミュレーションをしたのだと思います。そして、ミッションを明確にする得失と、それを明確にしないことによる自由度の得失を計算されたのだと思います。おそらく、『学び合い』の会で『学び合い』を成立させること以上に、多様な人の中で何が生まれるかを見出そうとすることを優先したのだと思います。その中には、『学び合い』の会は『学び合い』ではないことを明らかにすることも含まれると思っています。私はその判断は正しいと思います。

(引用ここまで)

ミッション、テーマ、目標…これらをどの程度の強さで設定するか。このさじ加減が、企画段階で一番悩んだところでした。たとえば「この場にいる全員で、未来の教育を変える具体的な方策を5つ出す」といったような目標設定を行うことも可能でした。しかし、僕はそこまで具体的な目標設定をすることを避けました。目標やテーマが具体的であればあるほど、そしてそのメッセージが強ければ強いほど、参加者はその「目標」や「テーマ」に縛られてしまう、と考えたからです。僕はそれよりも、参加者が目標やテーマに縛られるのではなく、自ら「主体的に」参加してもらうことによって生まれる「何か」が生まれる場にしようと考えました。参加者が「目標」や「テーマ」に規定された上での「主体的」ではなく、「その場に参加する」というその時点から後はすべて「主体的」に参加すること、その行為それ自体を学びとして捉えてもらうことを狙いました。テーマや目標などによって構成・規定された枠の「中」にある学び、を超えた、より高次の、よりメタな次元での学びです。

この狙いが達成されたかを測定するのは非常に難しいと考えていましたが、kogame200777さんが、tm43919さんのブログのコメントの中でこんなことを書いてくださっていました。

(ブログ本文引用ここから)

今日はとてもすっきりしています。

それは、「主体的に参加する」ことの意味がわかったから。

「主体的に参加する」というのは、会の目的が何であれ、どんな運営の仕方であれ、自分がしっかりとした目標や課題をもっていようとなかろうと、アクションプランができようとできなかろうと、その会を通して、自分自身と向き合うことができるかどうか。

(引用ここまで)

(コメント引用ここから)

私も気持ちはなぜかとてもすっきりしているように感じています。何もしていないように思える時間でさえ、常に自分との対話が必要であり、この会全体が他人事ではないのだという立場に投げ出されたからかな…。とにかく潜在意識レベルで自分の中に感覚のシフトがあったように感じています。

(ここまで)

この「潜在意識レベルで自分の中に感覚のシフトがあったように」という一文を見て、僕は今回のフォーラムが1つの「イベント」としては自分が考えていた通りのものになったことを感じました。(ただしこれは「参加者すべての人にとって素晴らしい会だった」という評価では決してありません。これは「自分が意図したものになったかどうか」という観点からの評価であり、「それがよかったかどうか」という観点からの評価ではありません。)

「学び」とは「変容」だ、とジャック・メジローは言っていますが、特におとなが「学ぶ」、そして「変容」する、というのは非常に難易度の高いものです。子どもは様々な経験によってどんどん学びどんどん変化していきますが、大人になるとなかなか「日常」を変え得るような変容はありません。tm43919さんの「主体的に参加することの意味が分かった」という気づきと、kogame200777さんの「潜在意識レベルで自分の中に感覚のシフトがあった」というのは、おとなの「学び」「変容」が起こったこを表していると感じました。そしてここで確信したのは、「主体性」「当事者意識」といった、「意識レベル」のレイヤーでの「おとなの学び」、「おとなの変容」は、構成(規定)された枠の中での学びでは難しく、その枠の外にあるメタなメッセージを体感してもらうことでこそ実現し得るのだ、ということです。

今回のフォーラムは、ミッションやテーマを明確にし過ぎてはいけない、という思いと、じゃあどうやって人が集まる場を創るか、というところで、最終的には「場の性質」をHPに載せるという選択をしました。それは以下の3つでした。

1.次の時代の「教育」や「学び」について考える”未来志向”な場

2.参加者同士の対話”による学びや気づきを大切にする場

3.その場で出会った人同士が、その場限りではなく”継続的な関係性”を作ることができる場

そして、OSTのやり方を参考にした「方法」をHPに載せ、さらに当日にはそれを紙に印刷して配りました。目標や目的をしっかり語って参加者に伝え、その「枠」の中で学んでもらう、ということを避け、場の性質を伝えることでなんとなく「そういう場なんだろうな」ということを感じてもらいつつ、当日は場の何かに規定されることなく「主体的に」動いてもらうことを願いました。

今回参加された方の中には、不満をもった方も何人かいらっしゃったようです。僕が思うのは、(まずそれは単純に「好み」の問題だと、いったん切り離した上で)、今回の形式に不満を持たれた方は、おそらく自分とは「主体的」という言葉のもつ範囲が違うんだろうな、ということです。そして、誰かや何かに「目標」や「テーマ」を与えられること、そしてそれに「構成」「規定」されることに対してはあまり抵抗がなく、むしろ主催者(オーガナイザー)はそれを与えることが責任だ、と考えておられるんだろうな、と感じました。ただこれは、どちらが良い、という問題ではないと思います。単純に、僕はその考え方は本当の意味での「主体性」「主体的な参画」にはならない、と考えている、というだけのことのように思います。

この「違い」は小さなズレのようで、実はかなり大きなズレのように感じます。世界の捉え方、他者の捉え方、自己の捉え方、という「世界観」のレベルでの違いを感じます。だから僕はもう、ここに関してはある種の諦め、というか、この違いによってぶつかるのは建設的ではない、と考えました。自分自身、8年ぐらい前からずっと神経をすり減らしてきたのはこの問題なんだ、ということが今回よく分かったことが、自分にとっては一番の学びだったかもしれません。それによって行動が変容したので。そして、同時に、自分が創る場を好んでくれる人(それは自分の世界観に共感してくれる人)と、あまり好んでもらえない人は、だいたいこんな感じで分かれるんだな、という指標を自分の中で得られたことも大きいです。

今回のフォーラムに不満があった方は、おそらく今後ご自身でご自身の考えられる「良い場」を創られるでしょう。また、そういった場に参加されるでしょう。そして僕は僕でまた、この「目標」「テーマ」「構成」「主体性」というあたりの塩梅を考えながら、自分自身が良いと考える場を創り続けていくでしょう。そうして、フォーラムが終わった後に起こる変化こそ、自己組織化が働いている、ということなのであり、また、本当の意味で一人ひとりが「主体的」に行動している、と言えるんじゃないかと思います。

そして、そうやって個々人が「良い」と思うものに参加したり、あるいは創ったりしていくプロセスが、世の中を良くしていく営みに繋がるんじゃないかと思います。(ただそれと同時に、はっきり違いが分かり過ぎてしまうことによる「あぁ違うんだな」と感じる一抹の寂しさも痛感します)

最後に、今回のフォーラムに参加してくださった方々すべての方に、感謝して、振り返りを締めたいと思います。ありがとうございました。

jun24kawajun24kawa2012/08/19 07:19ご苦労様でした。今回の経験を踏まえて、次にどのような会の運営をするかという、次の一手、興味あります。まとまったら、教えて下さい。例えば、小さな違いを持つ人に誤解を与えないためにはどうしたらいいか。また、小さな違いをもつ人の存在の積極的な意味を生み出すにはどうしたらいいか。おすぎさんはそのような人たちとのつきあいから離れられないと思います。私も。良き智恵を与えて下さいね。

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2012/08/19 23:29jun24kawa先生
コメントありがとうございます。はい、現在次の一手について考えいてるところです。今、身近にいる仲間の一人が想像以上に僕の抱いているビジョンを理解してくれていて、さらにそこからプラスを加えてくれそうな感じなので、ワクワクしています。
「小さな違いを持つ人に誤解を与えないためにはどうしたらいいか。」ーこれは先日先生が書かれていた「個にこだわっている限りは、解決はありえない。でも、個にこだわる心を失って、集団を動かすことは出来ません。個にこだわり、でも、それを実現するために個を封印する。」というところが肝だと考えています。ここに関しては、自分は個にこだわることが苦手なので、それが出来る人と組んで一緒にやる、という策を用いながら、うまく創っていきたいと考えています。
>「そのような人たちとのつきあいから離れられない」…そうですね。そう思いますし、離れてはいけない、と思います。ただ、今は少し近づき過ぎてしまっていてお互いしんどかったりすることもあるので適切な距離をとることが大事なのかな、とも考えています。うまく折り合いを付けていきたいです。
いつも深く理解していただき、助けられています。ありがとうございます。

twoyoshitwoyoshi2012/08/20 00:47 少なくとも、方法のレベルではなかったところが良かったのではないのでしょうか。話しましたよね、方法レベルで理解している1000人より考え方レベルで理解している30人を創りだす方が、長い目で見ればずっと『学び合い』にとってはプラスになると。

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2012/08/20 01:32twoyoshiさん ありがとうございます。はい、今回はメタレベルでどれだけ伝えられるか、が勝負だと思ってました。あと、『学び合い』にとってプラスになることを、と考えてやったことを、「おすぎがやりたいようにやった」と言われるのも少し凹みました。確かに僕は僕のやりたいようにやった、ということはその通りなんですが、ここらへんの苦労というかしんどさは、本当に理解してもらおうと思うのがバカなんだなぁと感じたりしています。もうちょっと自分に人間力がほしいところです!!笑

2012-08-14

さて僕はいったい何がしたかったのか。 <学び合いフォーラムを終えて その1> 01:48

ようやく書きます。今月の4日、5日に開催した学び合いフォーラムの振り返り。今日は14日なので、もう10日経ちます。やっとブログを開くことができました。どうしてこんなに時間がかかってしまったのかというと、まず1つには自分の中で実はまだあまりよく整理がついていなかったこと。そしてもう1つは、フラットな気持ちで書きたかったから、です。そのために、これだけの時間を費やしてしまいました。

まず最初に、この場を借りて、片桐先生と水落先生にお礼を言いたいと思います。お二方が主催され、ここまで大切に実行されてきたフォーラムを今回主催させていただくことができたこと、このような機会を与えていただけたことに感謝しています。こちらからの事前の情報共有も十分ではなく、おそらくいろいろとご心配をおかけしたと思いますが、それでもこちらのやりやすい形でやらせていただけたことが本当にありがたかったです。

今回、大阪でフォーラムを開催することは、1年前の東京でのフォーラムの夜に決定しました。懇親会の場で、水落先生から「おすぎさん、来年は大阪だー!」と言われ、それで僕が大会委員長をさせていただくことになりました。当初は、せっかく大阪でやるんだから、『学び合い』との親和性が高い大阪府豊中市の「共に学び、共に生きる」教育となんらかの形でコラボレーションが出来たらと考え、1月あたりから豊中市の市教委の方をご紹介いただいたりしていました。ただ、4月に僕が仕事の都合で東京に行くことになったこともあり、当初思い描いていたような協働を実現させることはできませんでした。これは自分の力不足を痛感したところでした。ただ、それでも何名か豊中の先生に来ていただいていたことは本当に感謝の限りでした。この部分については、もっと早くから自分より適任の人に上手に任せるべきだった、と反省しています。次に活かしたいです。


(つづく)




<以下はメモです>

【講 演】    大集団・責任低(受け身)・自由度低 

【分科会】    中小集団・責任中(選択)・自由度中

【フリートーク】 個人・責任大(自分次第)・自由度高

熟議はどうか。全国各地でいろんな「熟議」が開催されているので、その場その場によって若干の違いはあるでしょうが、熟議は、「大きなテーマが与えられている」「4〜8人程度のテーブルに座る」「テーブルにはそれぞれファシリテーターがいる」「セッションは2〜4回程度(3回が多いか)」というものです。「与えられた大きなテーマ」によって参加を「選択」している点においては自由と責任をもって参加していることが大前提です。そこから、「熟議」の場が始まるとテーブルを自分で選択することはできますが、その選択は「ただなにも情報がない状態から無作為に選ぶ」ので、「どんな人と話すか」という選択はほぼできません。直感的に「あ、この人と話してみたいな」という感覚でテーブルを狙うことはできますが、その程度の自由です。これはワールドカフェ形式の場では共通します。さらに、いったん議論が始まるとだいたい40分から60分間、テーブル間の移動は制限されているため、場を作った人間が行った時間のデザインに構成されることになります。話が面白くなくても、生産的でなくとも、いったん決められたその時間はその場にいることを強制されます。そして議論の最中にはファシリテーターがいます。「ファシリテーター」の存在は、見方によって価値が大きく異なります。分かりやすくするために少し極端に書くと、「参加者(市民)が立場を超えて議論することは難しい」という前提に立つのであれば、ファシリテーターは場の議論を促進してくれるありがたい存在です。しかし、「参加者(市民)が立場を超えて議論するのは確かに難しいけれども、それは乗り越えていけるし、それは乗り越えていくべきものだ」という前提に立つのであれば、ファシリテーターの存在は障壁にさえなります。『ファシリテーター』という役割を持った人がその場にいることによって、参加者は「ファシリテーターが促進してくれる」という安心感と同時に、受け身の状態にもなります。なにか議論がちぐはぐになったり、あるいは誰かが一方的に話を押し進めてしまった場合でも、「まぁファシリテーターがなんとかしてくれるんだろ」と思わせてしまうということです。この「ファシリテーターによる安心感と受け身の状態」と「テーブルによる場の構成とセッションによる時間の構成」は、熟議本来の「協働を目指した対話」という目的からは少しずれるのではと感じています。熟議は当初から「ワールドカフェ」をベースにした場作りになっていますが、おそらく「オープンスペーステクノロジー(以下OST)」をベースにした場作りにした方が、より熟議本来の目的を達成させることができたように思います。あるいは、ワールドカフェ形式に慣れつつある今、徐々にOSTに形式を移行していってもいいんじゃないかと思います。

2012-07-25

ふと浮かんだこと 13:29

どんな環境を<与える>か、が最初の教育的行為なのかも。

2012-05-18

5月18日 19:18

まだ、まだまだ全然、納得のいく自分でいられなくて、動けないでいる。思い描いている「ちゃんとした自分」とは、ほど遠い。すべて自分が自分をしっかりコントロールできていないことが原因で、関わってくれている人をハッピーには出来ていない。だから、自分の幸せを追求することをためらっているのか。欲しいものを欲しいとか、会いたい、声が聴きたい、とか、そういうことをずっと言えないでいる。自分を制限している。そういう欲求を持たないように、というか、自分を騙して日々なんとかやっている。慢性的な苦しさに慣れ、最近は苦しいと感じる神経経路が麻痺してきたのかもしれない。これは、妥協なのか。でも、これでいいはずはない。

それでも仕事は、少しずつ、少しずつだけれども、前には進んではいる。だけど、よく考えると、それがいけないのかもしれない。自分で自分に対し、「それでもまぁなんとかちょっとは進んでいるから」と言い訳しているかのよう。でも、このまま、このペースでは全然ダメだということは分かっている。分かり切っている。毎日、何かに負けている自分を一番よく知っているのは、自分だ。そして、まぁ仕方ないか、と割り切って、ちょっとだけ頑張って、また少しずつ、進んでいる。その繰り返し。だけど、ダメなんだ。このままじゃダメ。それは分かっている。


東京に来て、やっと、一人でいることが出来るようになった。時々、朝起きた時、なんで自分は今ここにいるんだろうか、と感じることはあっても、この先どうなっていくんだろうか、という漠然とした不安に襲われることは減ってきた。けれども、それも、恐ろしい「慣れ」なのか。状況は、まだまだ全然「良い」にはほど遠い。


もし今、声を聴いたら、甘えてしまうのだろうか。それとも、未来の希望を糧に、もっとちゃんと頑張れるようになるのだろうか。なぜ、今、何も出来ないでいるのか。このままでいいはずはないんだけれど、それは頭で分かっているんだけれど、なぜ、今、こうなのか。自分の意志は、なぜこんなにも弱くて、もろいのか。



衝動が必要なのかもしれない。

いや、衝動がくるのを待っているんじゃだめだ。意志を持つ。

違う。

ちゃんと、自分が幸せになるために、日々、やるべきことをやって、それで、自信をもって、求めたらいいんだ。

一つひとつ、やっていくしかない。


2012年5月18日。

twoyoshitwoyoshi2012/05/18 19:40僕は45で教師をやめて、おすぎさんと一緒にやっていこうと思ってます。大丈夫、前進していますよ。

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2012/05/18 19:52ありがとうございます。笑って泣きました。笑。
45って…あと数年じゃないですか!?それまでにちゃんと出来ているよう、頑張ります!

sumi-chansumi-chan2012/05/18 22:09忙しい日々だと思いますが、せっかくこっちに来てるんだし、今度うちにご飯食べにおいで〜!近所に温泉もあるし^^。都内からはちょっと遠いけども、、ヒゲさんも来る?w

twoyoshitwoyoshi2012/05/19 00:09ヒゲ、行きます!よろしくお願いします。

tm43919tm439192012/05/19 20:48コメントせずにはいられません(笑)ライフが充実すると、ワークもうまくいくと思うなあ・・・♪応援しております☆

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2012/05/22 01:29すみちゃん
ありがとうございます。落ち着いたらお邪魔します!温泉…いいですね!!!

osugi-symphonicityosugi-symphonicity2012/05/22 01:32にゃんともさん
笑。コメントありがとうございます!ライフが充実すると、ワークもうまくいく…確かに…納得です!もうちょっと頑張って、アクション起こします!