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manabiai school から創り出す僕たちの交響体 ~安心な僕らは旅に出ようぜ~

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2013-11-02

「方法でもなく人間でもなく、おそらくはシステム」 13:39

とんたんさん(坂内先生)のブログから引用

※全文はこちら

http://d.hatena.ne.jp/tontan2/20131101/p1

(引用ここから)

そして10年前に「究極の人間主義」と言える『学び合い』が登場します。このブログを昔から読んでいる方は、ぼくがどれだけ『学び合い』に影響されそして実践を築き上げてきたかご存じのことと思います。西川純さんは、授業は100%子どもという人間関係性の中で成就するとし、教師の介入は出来るだけしない方がよいことだと論じました。

 

しかし、こうした人間主義の教育にも大きな問題がありました。教師によって「ゆらぎ」がとても大きいということです。非常にうまくいく教師がいる反面、多くの教師が子どもを学びの場に乗せることに困難を感じることになります。また、多くの教師が持続的に学ばせることの難しさを実感することになります。どうしてこうした「ゆらぎ」が出てきてしまうのかというと、人間主義の授業では、構成するマックスファクターがその場を構成する「教師という人間」だという、矛盾したものだからなのです。教師の教育技術から離れ、子ども主体にしたはずなのに、実はその学びの場を構成するのは「教師そのもの」だったのです。

(引用ここまで)


僕が『学び合い』の発展に関して一番伸びしろがあると感じてるのはまさにこの部分。

『学び合い』を深く理解して実践したことがある人は、『学び合い』は、一斉指導よりはるかに教師の「色」とか「思想」といったようなものが集団に浸透する、ということを実感したことがあるんじゃないかと思います。2、3年ほど前、新卒ですぐ『学び合い』をはじめた小学校教師のりっきー(堀)やかじお(梶谷)と当時よく話していたことが、「『学び合い』の方が集団に大きな影響力を与えることができるから、一斉指導よりよっぽど怖いよね…」ということでした。

『学び合い』では、だいたいのセオリー的には、最初に「語り」というものをします。「全員達成することが大事」「一人も見捨てない」といったようなことです。これを教師は、自分自身の言葉で(それは教師という職によって語られる言葉というよりも、「人として」語る言葉として)集団に語りかけます。そしてその後は、その教師の普段の動き、身の振り方などから、こどもたちはその「全員達成することが大事」「一人も見捨てない」というメッセージを受け取り続けることになります。(広義の意味でのhidden urriculumかもしれない)

そして、その語りを理解した”一部”のこどもたちが、その言葉に呼応し、動き出します。30人いれば、だいたい、1人か2人くらいは、教師のその言葉に強くシンクロし、3人から5人くらいのこどもが、一定の共感と納得をする、といった感じでしょうか。この数値はもちろん教師の力量によって多少左右されるでしょうが、10人とか20人ということはまずありません。人間は多様です。しかし、逆に言えば、30人いれば、1人か2人は、「完全に分かってしまう子」がいます。そういう意味では、「人間はその程度でしか、多様ではない」とも言えます。(逆にそうじゃなければ、映画や小説によって多くの人が感動するというこもまた、ないでしょう。)

そうして、その1人か2人のこどもの中の深いところまで入り込んだ教師の言葉は、その子の中で育ち、むくむくと発露していきます。そして、最初の子に浸透した教師の思想は、その子の発する言葉の中や、あるいは行動の中に見出すことが出来るほどになり、さながら感染病のように、じわりじわりと、集団に浸透していくのです。(それはもともとその子にその芽があって、それが教師の語りによって一気に成長するというイメージ。最初からまったく無い子に種をまくことは出来ない。)

こうして、教師の思想が一定浸透した集団は、「全員達成しよう」「誰も見捨てない」という意識を共有する集団となります。そして大多数のこどもたちは、「安全・安心」を感じることが出来るようになり、学習に没頭することが出来るようになります。また、学び合うことで質・量共に膨大なコミュニケーション(言語活動)を行うようになるため、結果的に学力が飛躍的に向上します。


と、こんな感じで書くと何も悪いことはなさそうですが…


とんたんさんのブログに戻って、この部分。

>人間主義の授業では、構成するマックスファクターがその場を構成する「教師という人間」だという、矛盾したものだからなのです。

僕自身もここは課題だと感じていて、やはり『学び合い』であっても、学級という集団を「1人」の人間が構成してしまうということに、大きな問題がある、と考えています。1人の人間が集団を構成してしまうから、人間主義の『学び合い』であっても、構成するマックスファクターが教師という1人の人間になってしまうのです。

ただこれは、『学び合い』とか、「学びの共同体」とか、あるいは「一斉指導」とかTOSS(法則化)といったようなレイヤーの話ではなくて、「学級」という問題だと思います。

ではここを打開するためにはどうすればいいか。僕はモンテッソーリ教育のシステムにそのヒント(というか答え)があると考えています。モンテッソーリ教育では、こどもたち「集団」に対して、教師「集団」がいます。決して「1人」の教師が場を構成するわけではなく、教師も複数いるのです。そうすることで、1人の教師の強い思想が浸透する集団ではなく、教師「たち」の思想が、こどもたちに「まだ緩やかに」伝わっていき、より「こども主義・人間主義」に近づくことができるんじゃないかと感じています。


最近の『学び合い』の研究は、単学年から異学年の『学び合い』に軸が移ってきているようです(そこからさらに1年くらい前から、西川先生は「学校」を超えて「地域コミュニティ」について言及されはじめています)が、これは『学び合い』の発展を考えると必然だと思います。

また、世界的に見ても、オランダのイエナプラン教育をはじめ、異年齢構成による教育が少しずつ増えてきているような気がします。

僕たちが今、議論すべきなのは、『学び合い』とか「学びの共同体」とか「一斉指導」とか「TOSS」といったような、考え方や方法論といったようなことではなく、「そもそも学級というものは必要なのだろうか?必要なのであれば、どの程度それは必要なのだろうか?」ということなんじゃないかと思います。

scorpion1104scorpion11042013/11/02 14:43「そもそも学級というものは必要なのだろうか?必要なのであれば、どの程度それは必要なのだろうか?」という一文の感想です。
支援学級を担任し、『学び合い』を交流学級や異学年で行ってみて感じたことです。個別の課題に応じて『学び合う』学級を変えてみるのもおもしろそうだということでした。在籍学級に拘らず、異学年『学び合い』も教師が決めた学年カテゴリーではなく、その子どもが達成すべき課題を解決するための集団で『学び合い』ができるともっと凄いのではないかと思うようになっています。実は、学校という枠も外してみたい…という、のもあります。あんまり書くと馬鹿に思われるのでやめておきます。すみません、まとまりのない感想になってしまいました。

jun24kawajun24kawa2014/02/02 11:38おそらく、教師を人、であるという常識的な前提があるのでしょうね。そのあたりは、本日中にアップします。今から、家族で買い物に行きます。

toukonyukitoukonyuki2014/02/02 16:29はじめまして。ブログ初めて読ませて頂きました。私は、広島で中学校の教員をしております。『学び合い』で救われた一人です。「学校にクラスがなくて、三年間ですべき学習内容はあって、担任もいないか、いても複数いて…」そんな妄想をしていたら、何だか知らない世界を覗き見したようでドキドキワクワクしてきました。社会の変化に合わせて学校現場ももっと変わっていっていいのでは…と思いながら、日々したたかに、を心がけています。また読ませて頂きますね。ありがとうございました。