ogymの日記 @浜松  このページをアンテナに追加

  • 浜松で『学び合い』に興味をもった方、連絡ください。浜松でも『学び合い』増やします♪
  • 2か月に1度定例『学び合い』の会してきます。
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  • 06/03つくる

    だれかにやってもらおう、体質から


    自分がやろう、体質へ。



    誰が悪いか思考から


    今何ができるか思考へ。



    自分はそれを『学び合い』と東日本大震災のその後の対応から学びました。


    実際に 00:22

    〇〇は何もしてくれない!と訴える人とできることをしよう!と動く人とを観た影響は大きい。


    しかし、それも薄れていくし、次に生まれてくる子らはそれらを観ずに感じずに育つ。


    知っている人が伝えなくて、誰が伝える、というところ。

    支援計画 00:47

    教育支援計画の特集が新聞に出ていた。


    http://www.chunichi.co.jp/article/feature/kyouiku/list/CK2018060302000008.html


    今後。ようやく知られていくようになる。

    教師より保護者が知るようになる。

    うちの子について作っているのか?と聞かれるようになる。



    「教師が」使うものと考えているか「本人」「保護者」が使うものと考えているかでずいぶん変わるがこの辺が現場では浸透していないように思う。


    「教師が使う」と考えている人は、開示をしない前提で書いて引き継ぐ。

    「保護者や本人が使う」と考えている人は、共に考え記載していく。


    その考え方を共有されない研修する暇もないまま進んでいくと、3年もたつとどこまでの内容が同意を得ているか分からない紙切れとなってしまう。


    教員は3年程度で異動してしまう。その子はずっと地域で生きていく。たとえば、「暴力を受けたかもしれない」とか「精神的に不安定なところがあり」とか書かれていたら、もうその後どうあつかっていいものか…となる。


    開示や共有、無断作成、そうしたトラブルが起こってから、通達がきて、ようやく「共有するもの」「積極的に活用・アピールすすもの」にゆっくり動いていくのだろうと予想する。



    自覚 00:47

    福祉分野の要介護の認定やケアプラン作成は、資格に基づいている共通のベースがある。資格が必要。



    教員は、そうした資格も無しに、支援計画を作成していることを自覚していなくてはいけない、と思っている。



    資格を作る人的余裕も時間的余裕も無いだろうから、せめて校内で共通のベースだけでもあるといい。


    保護者とともに作る、「支援計画を利用して生きていくのは本人である」ことを、早いうちに校内のベースにして、誤解トラブルを無くしていきたいものだと思う。

    06/02楽しみは

    自分で作り出すもの

    参加することで楽しみが生まれる。


    参加せずつまらないつまらないと言っていたら、自分でツマラナイと言い聞かせているのだからつまらないのは当たり前。

    05/31自立と協働

    考えA 00:29

    自立の無いまま共同学習をすると、主体性がなくなる、だから、まずは自分の考えをもつことが大事なんだ、


    だから、自分で考えさせる時間が必要なんだ、も考え方。

    考えB 00:29

    自分の考えをもてない子は、周囲の考えを真似たり取り入れたりすることで、自分の考えをもち、主体性を得ていくんだ、


    だから、他の人と関わっていく時間が必要なんだ、も考え方。


    考えC 00:29

    全員で行い、甘やかさずにやらせきることで、全体が引き上げられるんだ、迎合みたいな支援など許すわけがない、も考え方。


    考えD 00:30

    全員特性が違うのだから、それぞれの特性に合わせることで個々が生きるんだ、すべての子に支援が必要だ、も考え方。



    みんな 00:30

    世の中、折り合いを付けながら、運営している。

    経験側から選んだり、理論・研究に納得して選んだり。

    05/29道徳チャレンジ中

    試行錯誤中。 23:37

    試行錯誤と言っても、流れは『学び合い』なので、課題をどうするか。です。


    「相互理解」の価値について、「人と分かり合うためには、(     )が大切」を考え、みんなが2人に説明することができる。


    教科書の小見出しに書いてあった問いかけをそのまま利用してみた。

    「人と分かり合うためには、何が大切でしょうか?」と書かれていた。


    しかしながら、評価があいまい。何が必要かは大まかには同じだが、人によって ?? という回答もあった。

    そうした時に、どうなの?となる

     「言葉で伝える」「相手をはっきり見て言う」「ゲーム(仲介するものの意味?)」「分かろうとする気持ち」等々。



    失敗と言うのは無く、上手くいかない方法を発見しただけ、とかいう、こうするとうまくいく、いかない、こうなる、ああなる、ということが分かるだけ、という発明家の言葉も分かる気がする。


    そうするとよいことを例を挙げて説明することができる、だとハードルが高いか…等々。考えている間に次の日が来る。

    でもやることが大事。研修のつもりで続けます。

    流れ 23:37

    教材文の朗読→課題→『学び合い』→評価→感想。で行ってみています。


    学校生活適応能力 23:56

    支援級にいる子は、書くスピード、話を理解するスピードが追い付かない。

    通常の学級で生活する場合、書く速さ、話しの理解の速さ、がゆっくり目だと、やたら叱られることが増える。



    能の様に話していたらみんな発達障害と判定されるのだろうか。


    速読術教室に通常の人が入ったら、「普通じゃない」のは、通常の人だろうか速読の人だろうか。


    ピアノ学院にピアノが弾けない私が入ったら、右手と左手で別の曲が弾けることは「普通」だろうか「超人」だろうか。


    「普通」がどこかは分からない。

    だれも切り捨てず、一つ一つ進めば、先に進める。

    日大問題 23:56

    関東のリーグの事も知らない。

    アメフトの流儀も知らない。

    関係者もどんな業績経歴の人か知らない。

    だから何も言えることが無い。


    「今、何ができるか」「学べることは何か」思考    と   「誰が悪いか」思考


    きっと前者は、騒動に関わらない。君子危うきに近寄らずって、きっとそういう思考の問題かもしれない、などと思った。

    私だって、どんなに一生懸命やったとしても、なにかのはずみで「お前が悪い」と責められ巻き込まれるかもしれない。だから何とも複雑。


    切り捨てる、見捨てる、ような動きに世の中何だかなぁとは思うが、自分ができることは、自分の周囲の手の届く範囲で見捨てないことだ。

    流儀 00:17

    鳥を食べる実践について大学生の頃考えた。

    豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日

    豚のPちゃんと32人の小学生―命の授業900日

    先行事例から学んだり、屠場を見に行ったり、遊牧民経験者を訪ねて話を聞いたり。


    結果、文に表われない流儀があること、その流儀が大事、ということに気が付いた。

    (今思えば、これも「目に見えないこと」だった)

    遊牧民には遊牧民の流儀がある。

    屠場の人にも。

    畜産農家にも。

    ペットの様に名前を付けないとか、年老いたものから感謝して屠畜するとか、痛がらせないとか。祈るとか。

    学校での飼育動物にも流儀がある。

    http://www.vets.ne.jp/~school/pets/

    名前を付けてペットとして育て、それを殺して食べるのはいたたまれないことはPちゃん事例からも学んだ。

    年度をまたいで飼育動物を飼育するときには、教員の異動やその後の負担についても考えなくてはいけないことも流儀。

    屠畜するにしろ殺せばいいわけでなく、なるべく痛み苦しみ少なくする方法があることも遊牧民キャンプから学んだ。

    その際の殺す側の心の痛みを交わす方法も。


    単に、「飼って、潰して、食べる」や「採って、食べる」という形だけを真似して「命を頂いてるだろう、感謝しなさい」と単純化しても自分がピンとこないのは、そうした流儀を知らないままだったからなのだろう、という結論になった。

    屠畜の時うまれてくる感情は、「感謝」だけではすぐに消えない。うまく処理しきれなかったり、処理の仕方をいちから考え出さないといけなかったりする。その感情をうまくかわしたり昇華したりするために、儀式があったり手続きがあったり宗教があったりと、それぞれに流儀がある。


    目に見えないそれぞれの流儀を知らず、尊重せずに批判したり、責めたりしても、なんだか的外れになる。


    違う分野の物事に関わるには、それぞれの流儀考え方言い分を公平に聞くことができる、学んでいける、そうなっていけるといい。

    現実にはなかなか難しく、その世界の流儀などまったく無視して責めらてしまう御時勢だけれども。


    言論 23:56

    公平、双方の言い分が言い合えない、聞かれないというのが大変心配。

    何かしらの問題で「いや、それは違うんじゃないの?」と言おうとすると、


    「日本人なら贅沢はできないはずだ」

    「非国民」


    のような雰囲気がある。

    当時だって「洗脳されてた」なんて話ではなく、みんなその時々を必死に生きていただけだろうなぁということがようようわかってくる。


    今だって、後日談になれば「みんなどうかしてた」なんていう時代が来るかもしれない。

    スポ根だって、部活だって、授業だって。


    今、できることを一生懸命に生きるしかないのだろうなぁ、なんてことを最近考えます。

    05/28同じ

    人のせいにする


    自分のせいにする


    今できることをする



    考え方です。

    細かなことは、どっちでもよい、ということがわかってきました。


    いいのか?という不安はあります。

    できることをする、というシンプルな事が、自分の出来る範囲です。


    いろいろ 00:40

    TOSSは素晴らしい、明日から、全員実践しなさい、と校長命令されたら。

    仮説は素晴らしい、明日から、全員実践しなさい、と校長命令されたら。

    学び合い』は素晴らしい、明日から、全員実践しなさい、と校長命令されたら。

    100マスは…

    一読総合法は…

    群読は…

    音楽は…

    キャリアは…

    金融は…

    NIEは…

    ……


    どれも、皆がそうだそうだ!異議なし!と賛同するわけではないです。

    そんないろいろな雑多な人間が集まってやいのやいのやっているのは、メリットでありデメリットであり。



    雑多であること、私立にない、多様性を、逆に生かしていかないと。


    共通ルールとなる学習指導要領等の法の下に、納得いくように。


    いろいろな人がいる。それが生きるように、つながる繋げる、そんな仕事もいい。

    05/27授業

    人間関係の取りかたの基本3つ

     ① 一方的に従う

     ② 一方的に押し付ける 

     ③ 双方折り合いを付けながら

    一般的な授業 23:54

    【一般的】

     先生②→ →①生徒

    「Aです」  「Aですね」


     先生②→ ←②生徒

    「Aです」  「Bです」


     先生②→ ←③生徒

    「Aです」  「Aなの?Bかも」



    【押し切られ】

     先生①← ←②生徒

    「Aですか」 「Bでしょ」

    「Bですか」


    【逃走】

     先生②③→ ←②生徒

    「Aです」   「Cしかありません」

    「Aでどう?」 「Cでないなら…逃走・閉じこもり・反発・無関心などの取引手段で対抗し譲歩を引き出します」


    (そうした暴力的方法にしないために「言葉」を使うんだよなぁ…だから国語を学ぶんだよなぁ…)

    国語の「説明文」の基本は理由を述べること)

    (始め「Cです」・中「だって…」・終わり「だからCです」)



    学び合い23:54

    先生①②③   →③生徒たち →←

    「どうぞ」   「Aかな、Bかな?」

            「Aだろう、だって…」

    「なるほど」← 「うーん、Aだ」 

    「Aですか」   「だって…」      


    生徒から返ってきた反応に①②③どの考え方をもっているかで様子は変わるように思います。

    ああ、それ以前に「基本的な考え方は、このようにとらえています」という説明と、生徒の同意があるのか。

    従う・押し付ける・折り合い 00:08

    引きこもる子、暴力的な子、無気力な子、反発の子、学習に向かわない子、すべて、自分の意思を通すためにそうしている、という見方は、なるほどと思います。

    自分の意見を押し付ける方法のひとつです。

    そうでない、もっと得な方法でいったらどうかね、と③への同意を求め続けます。


    しかしながら、家庭の環境や地域の環境、学校の環境、触れてきた数年間の知識や情報から、①や②が「当たり前」と考えている、または①や②でないと生きていかれない、という状況もあります。選択は、そのひと本人の自由です。そうでなければ②の押し付けになります。


    同意を求めるまでは自分の領分、そこから選択するか否かは本人の領分。



    頭の中では 00:32

    シンプルに表されるのに、文字に変換するとまどろっこしくなります。

    05/26教職員 子供 今昔 同じ

    教員養成系学部 → 新規採用 → 「教師の世界を1から学ぶ」新入生

    子供 → 単元の内容に初めて触れる・学んだことが無いのが前提 → 「学問を1から学ぶ」新入生

    素直さが求められる。



    講師経験・転職経験・指導経験・サークル経験・最新教育・心理理論学習済の新規採用 

          → すでに知っている部分・従来の先輩を越えている部分があるなど様々な人の集まり

    子供 → 学習の度合いが様々、既に知っている子、初めて触れる子、学ぶ意欲すらない子など様々な人の集まり

    教師から教わることが「もう知ってるよ」という子も多数。


    すでに世の中が変わっているんだ、ということがようやく腑に落ちた今日この頃。


    学び合い』の本にも散々書いてあることであり、自分でも「わかってたつもり」だったんだが…改めて、納得しました。



    伝説の競技 17:59

    運動会でもはや実行は不可能だろうなぁと言う競技。


    パン食い競争 (アレルギー・費用・衛生面)

    ムカデ競争 (多人数の重力負担による怪我)

    組体操 (同上)

    騎馬戦 (怪我の危険)

    棒倒し (怪我の危険)

    小麦の中からあめ玉探し競争(アレルギー・衛生面)

    自転車リム転がし (手先の器用さの点からゲームにならない)

    借り物競争 (安全面・紛失破損の危険・運ゲームを理解していただけない場合の不公平感)



    時代によって、評価は変わるということ。 

    目的の達成のための手段であって、目的の達成のために別の手はいくらでもあるということ。

    05/25

    初任者といっても、講師と言っても、いろいろな経験を持つ方がいる。


    部活やサークルでトップをはってきた人もいるだろうし、塾やその他施設などで人を動かすにもたけてきた人もいるだろう。


    大学出たてで一から教えてほしい人ばかりでない。


    では「先輩教師」は何が長けているか。何が「さすがだなぁ!」なのか。


    授業か、観方か、仕組みの中での生き方か。


    先輩から盗む、盗むものがあるか。(盗まれる側として)



    一目置かれるものは自分で作っていくしかない。

    05/24物語性

    頭の中に描いた物語に自分を合わせていく、教育の物語性、という大学での講義がずっと印象に残っている。


    国会で 

    アメフトで

    学校で


    自分の描いた物語に合わないと、相手が悪いと責める、それではお互いの物語が違うのだからすり寄りようがない。

    頭に描いたストーリーに合わないと、嘘だ、という、真実は一つと信じ切る、違う。

    見る人によって、違うのだから、どれも、真実。


    自分ができることをする、お互いに歩み寄る 23:41

    障がい者に対する見方も、障がい者を一方的に守るべきという論調と、いや、同じでしょ、という論調と、同じ条文でも語られ方が微妙に違うなあと感じるときがある。

    しかしながら感じる所は目には見えない。


    特性・個性というのが、今は納得しているけれど、昔は全然意味が分からなかった。

    意味が分からなかった頃の感覚は、今は分からない。


    でも、その意味が分からなかった頃の感覚で見ている人も、いっぱいいるのだということを念頭に置いて、まあ8割伝わらないし誤解もあるだろうなと思いながら、話すこともある。


    きっと、『学び合い』を説明するときも同じだろう、と思う。


    困り感の無さ 23:44

    勉強をあきらめるなど、本人が困っていない子への指導が分かりやすい。

    「カウンセリングマインドで」のその先、な感じがする。


    今日の発見 23:53

    順序数でしか数を理解していない高学年を発見。

    そりゃぁ、つらい。


    集合数を学ぶことを一回スルーしてしまったら、

    大きな数の計算はそれはきつかっただろう。

    ひとつづつ数えたし、数えひきするのだから。

    5のまとまり、5と3で8だから3とると5、のような、集合数を使った計算方法が使用できないのだから。

    新・絶対学力―視考力で子供は伸びる

    新・絶対学力―視考力で子供は伸びる

    再教育の場は無いし、

    そこに気付くことより、筆算やらせる先生の方が多いだろうに。

    そりゃ、学校いっても「わからん」と言うしかなくなる。

    小さい「っ」や、低学年の漢字、小さい「やゆよ」、カタカナでつまづいているよーという。



    低学年で学ぶ、足し算の2種類、引き算の3種類、倍=いくつ分の概念、等々のつまづきをサポートできたら、よっぽど「LD」だの「学習障害」だのと切り捨てられる子は少なくなるのでは、なんて思いつつ、できることをしていくです。

    rx178gmk2rx178gmk22018/05/25 06:31それぞれの子どもの「分かり方」の問題に気づくのは、ある意味つらいです。でもその気づきができる「目」を持っていなければ、『』どころか教師としての職質や技量を問われると思います。
    気付きに対して何ができるかを考え、挑戦していくことが大切だと思います。

    ogymogym2018/05/25 21:47rx178gmk2さん ありがとうございます。

    教師も、周囲の子どもも、本人も、苦手得意はオープンにして、共有できるといいなぁ、気付く人気付く目が多ければ多いほどいいなぁ、そんなこと思いました。ありがとうございます^^。

    05/23疲れたら

    休養第一^^。

    運動会疲れがこちらにも子どもにも出ていた。


    折り合い 23:48

    春運動会、大きな行事は地域を巻き込む。時期をずらすのもとても大変。無くすのも縮小するのも拡大するのもとても大変。


    いろいろなしがらみの中、それぞれの地域で、それぞれの学校の様式に従って行われている。


    変えていくのは容易でなく一歩ずつ。亀の歩み。


    校長になったところで、教育長になったところで、市長になったところで、急に変わるのはあまり想像がつかない。



    急な変革 23:48

    でも、組体操のように「流れ」だけで一杯やっていたことがぐわっと変わることもある。


    棒倒しも、騎馬戦も、組体操も、安全策を取ると、もう行われないだろうな。


    思い出自体はいい思い出であるが、怪我や後遺症が周囲になかっただけ、ラッキーだったということで、

    それに代わるいい思い出をつくっていけばいい。


    できることは、今とこれからを考えること。