2019-09-30
「そうはいっても『楽園』ではありません。」
「そうはいっても『楽園』ではありません。」
昨日の「ことば」。
素晴らしい理想があったり、「素晴らしい環境」があったり、これぞ、と思える手法を取り入れたりしても、だからといってそれで「楽園」になるわけじゃないってことだなあ。
パーフェクト、はないってこと。
ましてや、誰かの用意してくれる「楽園」なんてないってことでもある。
当たり前と言えば当たり前。
「楽園だ」と思った時から、後退は始まっているのかもしれませんね。
破壊と再構築
そんなことを繰り返しながら、安定を探る、そんな毎日なんだな…。
その間、間に「小さなお祝い」をする、そんな感じか。
そりゃ、けっこう苦しいぞ。
だからこそ、小さなお祝いをしていかないとね。
でないと、もたない笑。
2019-09-25
刺激
今までとちょっと違うこと、違うものってやっぱり、刺激、刺激的。
刺激、と刺激的っていうのもちょっとニュアンスが違うな。
刺激が加わると、何かが変わる、変わろうとして緩やかに安定になっていくのかな。
どちらにしても、刺激は安定を揺るがす気がするけど、次の新しい「安定」に向けてのきっかけになる可能性も十分含んでいるってことでもあるな。
受け手の問題。
受け止める、そんな構えでいれば、「刺激」は必ず次の展開を見せてくれるはず、そんな風に思った。
いける、いける。
そう思えば、いける。
2019-09-23
「依存労働」
「依存労働」という言葉に出会った。
エヴァ・フェダー・キテイという哲学者の言葉みたい。
「依存労働は、脆弱な状態にある他者を世話(ケア)する仕事である。依存労働は、親密な者同士の絆を維持し、あるいはそれ自体が親密さや信頼、すなわちつながりを作り出す。」
そもそも、人は誰かに依存している、という前提。
そして、その依存を維持していくのには、「誰かがそれをやらなくてはならない」ことであり、それが専門家の仕事にとは見なされにくい、みたいなこと。
専門家しないままにして残ったケアの仕事。
当たり前のものを、さも当たり前のように提供することで、依存していることにさえ気付かせないこと
わかりやすい例で例えれば、赤ちゃんのお世話やお年寄りの介護、みたいなところ。
赤ちゃんのお世話のプロ、とか、介護のプロ、とかってあるのかな?プロという「専門家」になった時に、それは「当たり前のこと」じゃなくなっていく、そんなイメージ。
ん、専門家であることすら気付かせない、意識しない、そういうことかな…。
その「当たり前」の価値。それを維持していくこと、支えていくことの価値。専門家とかいう社会的評価の中に中に組み込まれてしまうことで、その中身も変質していくかも
もやもや、もやもや。
「ケアする人をケアする人。ケアし続けるには、ケアする人は多くのものに支えられることを必要とする」
当たり前を維持する「当たり前」の仕事。そして、それを支えるまた多くの人々。
概して、そういう人は見えづらいってことか…。
ううむ、見えづらくても「見える」
いないようで「いる」
何もしてないようで「している」
むむむ…。未整理。
もう少し考えてみたいこと。
2019-09-22
居着かないこと、だな
うまくいっているようで、実はうまくいっていないことも。
うまくいっていないようで、実はうまくいっていることも。
まあ、見る位置やポイントによってどっちもあるってことなんだなあ。
それが見えるか、見えないか。
見ようとするか、しないか、もある。
だから、うまくいっていると感じてもいい気にならず、
うまくいっていない…とがっかりして腐ることもなく、
ある面、たんたんと進んでいくことなんだなーって思った。
もちろん、一時的に
喜んだり、がっかりしたり
そんなことは、ほんとあっていいし、あったほうがいいかなー
とも思う。
そこに居着かないってことだな、と思いました。
2019-09-21
まずは聴くことだな。
まずは聴くこと、なんだな、と思った次第。
なんかうまくいかないなあ、なんかバランス崩れているなあ、と自分の中で感じる時って、それを外部の要因にしがち。
どうかすると、わたし。
でもね、いろんなことをばーっと書き出してみると
まずは自分でとりあえず、言いたいこと、考えていることを紙にでも何にでも、人に聞いてもらったりして発散してみると、
「ふー…。ところで自分は聴いているかな?」
と思ったんです。
聴いてほしかったら、自分も聴く。
そうだそうだ。
聴いてもらえていない、と思うのは、自分が聴いていないから、かもしれないもんね。
はじめから
「自分に原因があるかも…」
と考えるのは、ちょっとつらいときがあるから、まずはばーっと自分で発散してみると、
「まてよ…」
ってなるもんだな。
自分にできることをする、それだなー。
2019-09-19
境界線
「調子が悪くなって『おかしな』状態になるとき,心と体の境界線は焼け落ちる。」
これもある本にあった記述。
「境界線」って言葉が最近なんか気になっていることもあって,余計目をについた一文。
「境界」があると管理しやすくなるんだろうな,もしくは「分かった」ということにしやすくもなるってこともあるかも。
そっか,それでも「おかしな」状態になると,その境界線は「焼け落ちる」かあ。
そんなこと言ってられない,そんな状態かもしれないな…,と思ったこと。
ああ,私の中の文脈だけで言ってるな,と思いつつ。
2019-09-17
居場所、か。
「居場所とは『尻の置き所』なのだ。とりあえず座っていられる場所のこと」
ある本を読んでいて出会った一文。
「する」がなくても「いる」ができる、ただ座って居るだけでそれで「いい」って思える場所。
そんなことさえ考えなくて、ただ「いる」ことができる場所かな…。
ううむ、この本の続き、どうなるんだ。
2019-09-16
「平均値の子ども」は空想でしかない
「平均値の子ども」は空想でしかない
今年の「あすみの会合宿研究会」。
「発達障害のある児童生徒の疑似体験を通した理解」(講師:櫻井育子さん:生涯発達支援塾TANE代表・特別支援教育士,発達支援コーディネーター)についての貴重な学びの時間。
自分たちが「子ども」になって、「分からない…」「できない…」「なんで周りの友達はできるの??」「できないのは自分だけ??」「・・・・」を体験する時間。
「分からない、が分かる時間」とも言えますね。
私は個人的にはけっこう「できないことだらけ」な人なので、その辺りの感覚は普通の先生よりはあるんだと思いますけど、一般的には「先生は、できる」(すくなくとも教室では)人。だから「できない、分からない」体験が足りないってことでもあるかもしれません。
「『平均値の子ども』は空想でしかない」
ということ。
この言葉の意味を、私たちはほんの短い時間の中で疑似体験をしたことになります。
子どもたち一人一人にとっては、これが毎日毎時間だったりするかもしれません。そういう想像力をもたないといけないな、とあらためて。
あるメンバーは、
「『平均値の子ども』は空想でしかない、っていうのは、おらもいっつも思うんだよね。んでも、それをこうはっきり言ってくれる人はなかなか会えなかった。んだ!って思えてやっぱり確信が持てた。出会えたことが本当にうれしいなあ、感動的だ~」
と何度も言っていました。
そういうことなんだと。
当たり前のこと、なんですよね。考えて見れば。
ある若い先生の質問は
「すごくよく分かる内容でした。こうできたらいいな、と。どうしたらできますか?」
応えは、オドロクほど明快でした。
「『空気』を読まないことではないでしょうか。現場ではいろんな事情で『打たれる』こともおあるかもしれません。そういう時に、こういう『あすみの会』の」ような場に戻ってまた仲間と確かめ合う、そうしてください。」
「『平均値の子ども』は空想でしかない。」
だから
「私たちの教え方で学べない子には、その子の学び方で教えよう」
やっぱり、当たり前のことだから。
2019-09-11
本を読もう
いろいろ考え込んでしまうこともあります。
「さて、どうしたもんか…」
「うーん、困った…」
そんなことも、毎日の中には結構あって。
そんな時が続くときは自分の場合、本が読めていない時。
こまった時には、今まではいつでも手に取った本からちょうどいい言葉をもらえるんだよね。
筆者が
「なんだ、そんなことはね、こう考えればいいのさー」
みたいに。
本を読もう。
2019-09-10
子どもたちをみんなでにこにこ見ている時間
今週末になった「地域・祖父母学習交流会~ほってぇ皿をみんなでつくろう~」。
これもまた子どもたちの「幸せ創造カイシャ」OGATSU COMPANYの活動。
お迎えの挨拶だったり、OGATSU COMPANYロゴマークの発表だったり、ほってぇ皿のこれまでとこれから、だったりその作業の仕方だったり、子どもたちが前に立って話したり説明したりする役目がいろいろとあります。
「で、皆さんで、それぞれ分担してくださいね。」
「一応、一人一役になるようにしていますけど、無理矢理はなしね。」
「どうしても受け手が以内場合は、誰かがそこカバーしてね。今回は無理、って人は次回にチャレンジを回してもいいし。」
そんなことを言いながら、3~6年生の子どもたちに
「じゃ、あとはみんなでどうぞ。」
と任せます。
子どもたちはぐるっとまあるく集まって、あれこれ相談を始めたり、自然と一人が立ってファシリテーター役をしてみたり、そうなるとサイドワーカーも生まれたり。
どうしようかなーって迷っている下級生がいれば
「じゃあさ、〇〇ちゃん、そこ私がアシストするから一緒にやる?OK?」
「じゃ、やる!」
「OK!」
そんな子どもたちのやりとりを、担任の先生たちと眺めながら、
「すごいよね~」
「やるなあー」
とか言って、みんなでにこにこ見ている、そんな時間が本当にいいなって思います。
2019-09-09
憲法13条
日本国憲法について学ぶ機会を得ました。
憲法の「心臓」、とも呼ばれる大事な条文。
◯第十三条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
ああ、ここだなあ、と思いました。
大人も子どもも「個人として尊重される」。幸福追求に対する国民の権利についても最大限の尊重。
公共の福祉とは何か。
自分にとっても相手にとっても、みんなにとってもちょうどいい、そんな三法よしの辺りを自分たちで決められるってことじゃないのかな。
そのためには、お互いにちゃんと自分の思いや意見を伝え合え話し合える環境が必要になるし、そうすることが自分や社会を「前に進める」ことになるっていう体験を積み上げていくこと、かな。
全ての人が個人として尊重され、幸せになる権利がある、そういうことだから。
ああ、大事な条文だ。大事にして、そこをほんものにしないとね。
2019-09-08
まずは知ること、少しでも
石巻市環境市民講座「鹿セミナー~獲るしかないの?みんなで考えよう~」という学習会に申し込んで参加しました。
通勤途中の道で、夜なんかに鹿を時々見かけたりするので。震災前に雄勝に通っていたときには路上で見かけたことはなかったのに、最近は増えたのか時々みかけたりもするので。
やはり、確実に増えてきているようです。
そんなこともあって、なんとなく気になる存在。
そんなところに、案内のチラシが学校で回ってきたので、
「これは行くシカない!」
と思って。
講師の先生は、「狩猟女子」の若い方。(その「狩猟女子」のその方にも興味があった)
◯鹿が増えた原因として考えられるのは
・温暖化で冬期に死ぬ鹿が少なくなった
・天敵が減った
・ハンターの高齢化
・耕作放棄地が増えた
・メスジカの保護計画が 平成19まで行われていた
◯増えた結果
・森の中は鹿が嫌いな植物だらけ。単一な植生
・鹿が届く範囲が食べ尽くされる。
〇この先どうなるのかと予想すると
・土が流れていくだけに。
・山の斜面が削れる、その結果人間がコンクリートで固める…ということに。
・森林更新ができない
・生態系の多様性が低下
・土砂崩れ
・交通事故
・畑の被害
・林業被害
人間にとってはなかなか困る問題が起きてくるし、実際にもう起きているってこと。
だから、人間からしてみれば
「生態系のバランスが崩れたのが原因」
「生態系のバランスが崩れる」
とという話になるのかもしれないけれど、鹿に獲ってみれば
「バランスを保つために生息域を広げている」
とも言えるのかも…なんて思ったり。
このまま、ずっと何十年もそのままにしていれば、自然とちょうどいい感じでバランスって自然の力でとれてくるのだろうけど、そこに人間が入ってくるからきっとややこしいことになって居るんだろうなあ、とも思ったり。
自分も人間なんだけどね。
「どしたらいいいののでしょうね?」
というある参加者の方の質問に講師の「狩猟女子」の先生は
「まずは知ってもらうこと、です。」
とこたえていました。
まずは知ること。
知ることで、問いも問題意識も生まれるし、そこから自分にできることも考えることができますよね。
そっか、まずは知ること。知らないと始まらないってこと。
先日、ある方との電話での話の中で、尊敬するある先輩がよく言っていた言葉の話題になりました。
「そういえばY先生、『選り好みしないで学ぶんだぞ。』って言っていましたよね。」
と。
そういうことだなあ、またまた見事なシンクロだ。
2019-09-07
うまくいかないことは、けっこうあるわけで。でもなんとかなる。
なんかうまくいかない、困った、問題が起きた…。
そんなことはやはりあるわけで。
先日も
(さて、どうしたものか…)
ということがありました。
その間、ちょっとだけいらいらしてしまうようなこともあったんだけど、
でもそういう時でも、どこか冷静に
(このうまくいかない感とか、ぎくしゃくしている?感じはコミュニケーション不全が起こってるからだよね…)
(だから、そこをクリアすれば必ず前に進める、それどころか一段ステップをあがれるはず)
と、思える自分がいて。
そういうふうに考えられるたのは、なんかうれしくもあり。
早急にメンバーで情報を共有しそれぞれの立ち位置と判断で「適切」に動かないといけないこともあります。
職員メンバー一同に介して話すこともできず、それぞれが廊下やちょっとしたところで立ち話をしながら情報共有、この先どうするかの相談を1日の動きの中であちこちで行う、そんなことも。
そんなふうにばらばらに話していても、放課後集まってお互い話してみると結構情報の共有は進んでいたり、見立てや今後の方針についての意見は、
「うん、そうだね。やっぱりそこ大事にしたいところだよね。」
「じゃ、まずはここからかな?」
「そうだねー」
と、けっこう一致していたり。
うまくいかなかったり、困ったことが起こったり、問題があるなと感じる事だってありますが、やはり話し合い聴き合うことで乗り越えることはできるな~、と。
関係性をつくっていくことと、目的を共有すること、それをみんなで意識することを積み上げながらのことだな、と思います。
2019-09-06
「負担なくして~」
2学期の大きなチャレンジのひとつは「文化祭」
小学生、中学生、地域の方々も参加する、地域文化祭。
開校3年目、3回目の文化祭だからまだ地固め時期。
うちの学校らしさ、雄勝地区らしさのあるものに創り上げるにはまだ試行錯誤が必要な段階です。
今は小学生も中学生も
「どんな文化祭にしたい?なるといい?」
みたいな感じで、話し合っている最中。そこからイメージの共有を図りながらだんだん具体的な準備に入れるといいなと思います。
もちろん教員チームも、そういう話し合いを繰り返しながら、内容を子どもたちと相談しながら決めていこうとしています。
「やっぱりさ、負担なくしてできないよね、満足するにはある程度の負担はあるものじゃない?」
そういう話もできるようになった上で、それでみんなで
「さあ、一緒にやろう!」(^^)
ができるといいんだよね。
僕らも文化祭がよいチャレンジになるように、ちょうどいい「負担」を楽しんでいきましょう、ってところです。
2019-09-04
「ピンチかチャンスか」小さなことで変えられる、と信じる
困りごと、問題は、本気でやるメンバーだからこそ出てくるもの。
そう考えるといいね。
困りごとが出てきそうな予兆を感じて早めに対処し始めることもいるな。
困りごとが大ききなって疲弊しちゃうと、
「もういいや~」
「どうせ~」
なんて空気も出てきそうになるんだけど、
そこで、それを明るいチャレンジに変えていける、そういうメンバーであることを信じること、信じられること、そこだな。
ピンチかチャンスか。
ポイントの切り替えを、誰がいつするか。
できる人がそれをする、でいいってこと。
なんだ、子どもたちに話す事と同じだな。
2019-09-03
毎日の国語や算数から
「発達障害教育研修会」に参加しました。
□1「どの子にも手を差し伸べる教育であれ。そうであれば、特別支援、なんて言葉もいらない。」
□2「支援を受けることを差別的に扱わない。安心して支援を受けられるような環境づくり」
□3「自尊心を高める、ってこと。学校にいる間に『あなたにはこういう力があるよ、こういうよさがあるよ』をたくさん伝えてほしい。」
講師の先生の言葉の中で特に印象に残った言葉。
午後からは、「発達障害のある児童生徒の就労の実現に向けて」というテーマ。障害者職業センターの方のお話。
「就労に関することですから、主に普通高校の先生に向けての話になるかもしれませんが」
との前置きがあってのものでしたが、そこで伝えられことは、小学校の日常の授業の中でも練習や経験ができることばかり。
「分からないことやできないことがあったり、ミスをしたときに必要なコミュニケーションの仕方」
「問題に直面したときには相談して解決することの習慣化」
など、そのまんま、国語や算数、体育などの学習を友達と一緒に解決するワークにすれば、毎日の多くの時間で体験することができます。
異年齢集団で行えば、そのまま、教室・学校は「社会」になります。その中で
上記の3つを、学校では先生たちがモデルを示しながら、子どもたちを含めたみんなでそれを文化として創っていくようになるといいんだよね、それを地域の方々にも伝え分かってもらい力を貸してもらう。
持続可能な地域社会のシンプルなかたちじゃないかな、それは毎日の国語や算数からも出発できる、そんなふうに思います。
2019-09-02
9月 1年残り1/4
9月になりました。
なんか、そう思うだけで日が暮れるのがすっかり早くなってしまったことに気が付いて、ちょっと寂しくなったりして。
夕方が長いのがすきなんです。空がオレンジ色になっていてヒグラシが鳴いている、そんな感じがすき。
「1日は長いぞ!」
なんて思えたり、
「おいしいビールが待っている!」
なんてそんなふうに思えるのがなんかいいんです。
1年間、のこり1/4。
年頭にはこう考えてました。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/motoryou/20190101
これは割と意識の中に置くようにしています。できたりできなかったり、その繰り返しですが。
「『やりたかったことが実現されていく』という形での強運がすごいことになっています。」これしいたけ占いの上半期。わりとこれを信じて行動します笑。
そうすると、なかなかいい感じできたなあ、って思えます。
ちなみに下半期は
「2019年下半期のあなたのオーラは「私には私の幸せがある」の黄色が出ています。この時期の獅子座って、滅私奉公というか、「自分の生活のすべてを、自分のキャリアのために注ぐ」という姿勢から少しずつ距離を取っていきます。」
とのこと。
ふむ。そうだな…。そういう感じになってきているかも、と思います。
今年も残り3ヶ月。
今日明日で見ると全然進歩がなかったり成果を感じることができないことなんていつもの事なんだけど、1年前と比べたりするとオドロクほどいろんな事が変わっていたりします。
三歩進んで二歩下がる、そんな毎日でもちゃんと進んではいるから、いろんなことにあきらめずにというか、自分で自分に
「無理でしょ」
って言わないようにしていきたいな~、と。
1年で考えると、第3コーナーを回ったところ。
2019-09-01
まずは自分
「がむしゃらにやれ」
この日のワードの一つ。
「みんなで」「いっしょに」っていうのは耳障りの言い言葉で,そう言って批判されることはあまりない。
「やさしく」とかもそう。
でも,その言葉を自分がどういう意味で使っているのか,を自己点検する目をもたないと,いけないな,とも思う。
自分の願いとチームの目的,その両方の実現に向けての「みんなで」「いっしょに」であるわけで,「みんなで」「いっしょに」それ自体が目的ではない。
そこは忘れないでいたいところ。
だから,少なくとも自分の願いの部分に関しては自分ががむしゃらにやっていることが必要。それがチームの願いにどう貢献できるかそこを考えるのだから。
そこを自分で甘くして,「みんなで」なんて言っても伝わらない。
本気でやってるか,を自分で自分に問えればいい。全部が全部できることはないんだけど,とにかく進もうとしているか,ということでありもがいているかどうかってことかな。
それは別に他者にアピールすることでもなんでもなくて,水鳥が水面下で足を動かしている,そんな感じで十分であり。やれているかやれていないか自分だけが分かっていればよい。
「いつでもがんばっていないとイケナイ」
とかでもなくて,
「どうだ?やれてるか?」
と自分で自分に問えれば,それだけでいいなだ,と思う。
まず自分。
「みんなで」「一緒に」は確かにそうなんだけど,時にそれが,自分が「がむしゃらにやらない,やれていない」ことへの言い訳みたいに意識的にも無意識的にも使っていないか,使っているんじゃないかって自己点検する必要がある。自分が本気でやっていない時のその言葉は空虚だから。
自己点検。