次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2019-08-31

    さ,あそぼうかー(^^)

    09:42

    「あそびから何もかもが始まる、子どもの時の対話はあそびの中に生まれる。」

                          

     先月のイエナプラン教育協会全国大会(@大日向小学校)での分科会の中で語られた言葉。

                  

     私にとってとても印象的な言葉。

     (ああ、あそびがあそびとして他者と一緒に成立するってそういうことかもなあ…)

    と感じました。

     それぞれの「~たい」を出し合いながら,一致点を見付けようとする。それぞれの「快」のためだから,そこに「なんとかいい感じにしたいよね」が双方にあるから,そこを諦めないで「対話」を重ねるって感じかな。

     「ぼくはこうしたい。」

    「私はこうしたい。」

    「じゃあ,どうする?」

    「いいこと思いついた!こうしてみたら?」

    「いいねえ!そうしよう!」

    みたいな感じかな。

     まあ,いつもいつもそううまくいくとは限りませんね。もしかすると物別れに終わるかしれません。

    「もうあそばない!」

    みたいな感じ。まあ,それも選択肢としてはありですね。

     時間をおけば

    「あそぶ?」

    になるかもしれないし。


    いじめの事件の報道なんかで時々耳にする言葉。

    「あそびのつもりだった…」

    なんて聞くことがありますが,それってそもそも「あそび」として成立していません。

     すごく残念な言葉です。


    「あそび、そこから何もかもが始まる。」

    「あそびが子どもにとっての最初の対話」

    「あそぶ中で対話が生まれる。」

     今まであまり「あそび」と「対話」をつなげて考えたことのなかった私にとって、まさに「目から鱗」の言葉をいただいた気分です。ノートにはしっかりと赤字で書かせていただきました。


     近頃,学校現場や各種研修会で何度も聞く「主体的・対話的で深い学び」というフレーズ。

    私はそれを聞く度に

    (それって「遊ぶ」ってことじゃんね?)

    って思ってます笑。

     だから,センセイたちもあそぼう,だと思うんですよね。「お遊び」ではなくて「あそび」。

     私たちは,みんな,なりたくて先生になったはず。そのために試験も受けて人によっては何度も挑戦して。

     だから,なりたい先生になっていいんだってこと。それが「あそび」。

     学校は子どももたちも,同僚の先生方も,保護者の方々も,地域の方々もたくさん関わりながら一緒に創って行く場であり,「社会」そのもの。「教育分野」なんて言うけど,それって関わる方々全部のことを視野にいれたら,分野になんかなりません。全部だもの。


     だから,自分の「~たい」を大事にして(ここ大事),その中で三方よし,を見付けるバランスって必要だよねえ,と思っています。今までの多くの失敗をしながら「今ここ」ってところ。それをしながら前に進む,それぞれの「~たい」を少しずつ実現することを「あそぶ」。

    「『遊』という漢字には、もちろん『遊ぶ』という意味もありますが、ほかにも『自由に歩き回る』『楽しみにふける』というような意味もあります。」らしい。


     そのために「対話」もあるってことなんだな,って思います。

    「あそびから何もかもが始まる、子どもの時の対話はあそびの中に生まれる。」

     だから,大人も子どもも「あそぶ」の大事ってことで。


     今ここ。


     2学期は,いろいろ面白そうなチャレンジが目白押し。それをみんなであそびながら,

    「2学期もタイヘンだってけど面白かったねー!」

    って言ってる姿をホントウにするために,対話を重ねよう。

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     急がば回れ。

    2019-08-30

    「~たい」から始まることは「あそび」

    06:22


     朝の職員打ち合わせ。

     文化祭(小中併設校なので)担当の先生から

    「文化祭担当者のミーティングで、今回の文化祭のコンセプトや大事にしたいことを先日話し合いました。担当グループとしては、〇〇〇〇な方向性でできたらいいな、と考えているところです。近々担任の先生たちとも意見交流したいので、それぞれ『どんな文化祭にしたいか、なるといいか』について自分の考えをもっておいてくださいね。」

    と。

     いろんな方がこうして

    「どんな〇〇にしたいか」

    を話題にして、多くの方々の「~たい」を問いかけていることはとても意味があると思っています。

     つまり「~たい」から出発することを大切にしているってことだから。


     そして4時間目は、子どもたちの総合的な学習。秋に行う

    「自分を元気に、みんなを元気に、まちを元気に」をテーマに行うOGATSU COMPANYまつりプロジェクトのスタート。

     テーマの確認は、先日までのロゴマークの作成・決定のプロセスの中で行えているので、今回は企画会議その1。

     「雄勝と言えば?」

     「やりたいこと、やれたらいいことは?」

    について3~6年生でアイデア出しと整理。


     子どもたちには、

    「やりたいこと、やれたらいいこと、をとにかく出してみてね。『やりたいけれど無理だな~』と思って言わなかったら、それはやっぱり無理になるよね。でも『やれるかも?』って意見として出してみれば、案外やれることもあるかもよ。全部が全部実現しなくてもその一部でも実現できれば、それはそのあとに続くからね。それに『今回は』やれなくても意見を出しておくことでそれは『ストック』されるから、次のチャンスや実現できる条件が整った時に『あ、この前でたあのアイデア、今回はできそうじゃない?』ってことになるかもしれない。ね?だから自分や自分たちの『~たい』はとりあえず出してみることだね。」

    と伝えました。

     大人も子どももやることは同じ。

    「~たい」から始まるものは「あそび」。

     一人一人の「~たい」はもちろん違うから、そこをみんなですり合わせて、みんなの「~たい」をつくる、みんなの「~たい」のなかに自分の「~たい」もちゃんと入っているよ、って自覚できること、自覚できるようなプロセスをみんなでつくること、そこを大事にすることが私の

    「~たい」


     それには、聴き合うこと。時間は少々かかるんだけど、急がば回れ。ここを軽んじると「行うこと」が目的になってしまいがちだと思っています。


     文化祭にしてもOGATSU COMPANYまつりにしても、そこに向かうプロセスだって「あそび」にすることができるんだなあー。楽しみ楽しみ。


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    2019-08-29

    OGATSU COMPANYロゴマーク決定

    06:48

     昨日は、その最終決定の話し合い。

     そもそも、どういう経過を経てここまで来たのかを、スライドショーで簡単に振り返り。

    その後、何のためのロゴマークだったかな、ということで

    〇誰が

    〇誰に

    〇何を

    伝えたい、の確認。

     新しくできるOGATSU COMPANYのロゴマークは、「顔」。一目で

    「ああ、こんなことを伝えたいんだな。」

    「こんな“カイシャ”なんだな。」

    「こんな風に見てほしいんだな」

    が分かってもらえるように。

     「こども芸術の村」とデザイナーの根さんから提案されたA案かB案、どちらを採用するか、の最終決定。


     どちらの案も、子どもたちの話を根さんが丁寧にかたちにしてくださり、迷いに迷い中のこの間。話し合えば話し合うほど、半々に分かれていました。


     でも、それって、どちらでも自分たちの思いが十分込められて居るんだよね、ということ。マークのデザインは違っても、「意味は同じ」ことをなんとなく子どものたちの中で感じとってきた、そんな感覚を得ていました。


     だから、いざ話し合い、というときに

     直感的に

    (あ、この子たちだけに任せたほうが、いい感じだな…)

    と感じたので、突如プラン変更して

    「はい、ということで、後は皆さんにお任せしますね。

    大事にしてほしいことは

    ①一人一人の意見や思いを大切に

    ②みんなが納得することを大切に

    ③20分以内で決めてね。

    ということ。

    では、先生たちは、あっちのワークスペースにいますので、決まったら呼びにきてね~」

    と。



    子どもたちも

    「え?まじで?」みたいな顔をしたけど

     一緒にいた他の先生たちが

    「え?!」

    「そうくる?」

    みたいな顔をしたその後すぐ

    「にこっ」

    と笑顔を向けてくれたのがすごくうれしくて、びりびりきたなあ。

     そうきたのかーみたいな感じ。

     

     まったくの、その場の思いつき。笑


     ワークスペースで担任陣と

    「どうなってるかなあ??」

    「見てみたいよねえ」

    「モニターとかあればいいのにー」

    とか話ながら、20分をどきどきしてまっていました。


    「あと、5分延長させてください!」

    と子どもたち申し出があったので、特別ね、ということで。

         

        

         

     決まった、と知らせがきたので、部屋に入っていったときの、子どもたちの満足したようなほっとしたような、あーつかれた笑、みたいな顔がとってもよかったなあ。


     A案、になりましたー。

     OGATSU COMPANYのロゴマークが決まったということは、子どもたちの「校章」ができた、という意味。決まるまでのプロセスの中で、マークで「伝えたいこと」について何度も話すことで、「ぼくたちが目指したいこと、伝えたいこと」を子どもたちの中で対話を重ねられたことの意味、それが大きいなあ。


     子どもの振り返りの文の中に

    「いろいろたくさん話し合ってタイヘンだったけど、話し合ううちに、どっちのマークも意味は同じだということが分かってきた。」

    とありました。


     放課後、その時の様子を担任の先生たちと話していて

    「きっと、マークを作ってくださった根さんと、直接会って話して、デザインの意味も根さんから聞いて、話して、ってそんなことがあったからだね、きっと。」

    とにこにこ一緒に話せた時間がとってもよかったなあ。


     いい時間でした。いいどきどき感でした。

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    2019-08-28

    通信表所見の読み合い会、なかなかよかった

    06:45

     今回の通信表(9月末配付)から教科も含め、全て記述式に変わった本校の通信表。

     新学習指導要領の総則にある評価の考え方と、本校のような極小規模校という実態を考えるとそれが記述式の通信表が可能になるしよりよいのではないか、と考えてのこと。

     「資質能力の3つの柱」を踏まえ、その子その子のその教科における典型的なエピソードを入れながら記述することにしています。今まででも、子どもの具体的なエピソードを取り上げて話し合うことについては、経験を積み重ねてきてはいますが、いざ通信表の所見となるとなかなか難しいところもあるかと思います。


     そこで、今回は9月末配付の、今書いているそれぞれの通信表の所見を読み合おう、そこからみんなで学び合おう。という先生たちの学び合いの会を拓きました。

     自分たちが書いた、通信表の所見文をみんなで読み合って感想や意見、アドバイスをしたりする時間。これがなかなかよかったです。時々子どものすてきなエピソードや頑張りを思い出してみんなで盛り上がったり、担任以外の先生からいろんなその子のよさや頑張りが提供され、みんなで共有できたり。


     学習評価に関する事、子どもの学びを見取る観点をみんなで考える事だから、授業研修のかなりのど真ん中の部分。これを何回かやっていくと、日常の授業をどうするか、子どもの何を、どんな姿を見取っていくのか、学校としての授業の考え方のベースができてくる気がします。

     基盤にあるのが「自ら考え、共に歩み、未来を拓く子どもの育成」という学校教育目標と学習指導要領総則その他。そこを考えながら、毎日のエピソードとつなげてみる、みたいな感じ。

     「やってみてよかった。」

     「他の先生たちの書きぶりに触れられてよかった。」

    など好評だった時間。

     「こんなふうに通信表の所見を読み合って、みんなで話すなんてしたことなかった。でもこれいいねー!」との声もいただきました。

     ありそうでなかったこんな時間。



     やっぱりあったほうがいいよね。

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    2019-08-27

    OGATSU COMPANY始動

    06:43

     始業式。

     校長先生もそのお話の中で、OGATSU COMPANYスローガン「自分を元気に、みんなを元気に、まちを元気に」について触れて子どもたちにこれからの2学期を語ってくれました。


    OGATSU COMPANYは「自分を元気に,みんなも元気に,まちを元気に」を目指す仮想会社。雄勝小中学校の児童生徒と職員が「今のところの」メンバー。でも、地域の方々や様々な形で学校に関わってくれる方々皆さんが

    「私もOGATSU COMPANYのメンバーだから(^^)」

    と感じてくれるとうれしい。そんな方々が増やしていくことが、COMPANYの「しごと」とも言えます。



    ある先生は、夏休み中にそのスローガン

    「自分を元気に、みんなを元気に、まちを元気に」

    の大型掲示物を1階廊下につくってくれ、子どもたちを迎えてくれました。

    うれしい。


     4時間目は、OGATSU COMPANYとしての2学期の大きな取組、小中文化祭についてまずは5,6年生が

    「どんな文化祭にしたい?なるといい?」のコンセプト会議。まだ十分イメージを作りきれずにいたようだけど、そこからスタートすることに意味があります。


    そして5時間目はOGATSU  COMPANYのロゴマーク案が「こども芸術の村」のご協力とサポートでアイデア候補2案が発表され、子どもたちとどきどきのわくわくの検討会。


     いよいよ、このOGATSU COMPANYにロゴマークができます!

    スローガンは学校教育目標とダイレクトにつながっています。学校教育目標がじっくりと自分たちのものになっていく、そんな2学期スタートの日




     放課後は、文化祭担当職員チームで

    「どんな文化祭にしたい、なるといい?」ミーティング。

    それぞれの思いを語り聴き合いながら目指していく方向性を共有しました。


     “OGATSU ORIGINAL”を児童生徒の主体性と創造性を活かしてつくろう、ということ。

     ここがこれからの「立ち戻る場所」


    OGATSU COMPANY、早速初日から動き出してきました。



     みんなが動かす、OGATSU COMPANY

    そこが2学期チャレンジ。

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    2019-08-25

    手帳のことばから

    08:56


    「デザイナーとは,

    作る人が満足することと着る人が満足することが

    イコールになるようにどうするかを考えて

    それを考えている自分も同じように満足する,という仕事だとぼくは思っています。

    その3つの関係性がきれいになることを考える仕事です。

    (皆川朗さんが『幸福を入れる,しごとの話。』の中で)



     そうそう,こんな感じを目指しています。

    教務主任としての私の仕事,役割ってここにあると思っています。

     先生たちが,それぞれの「なりたい先生像」に向かって思う存分チャレンジできるように,つまり「~たい」を実現できる環境を整えること。

    子どもたちの「~たい」を実現することとの関係性の中で。


     それぞれの「~たい」は人によって異なるのが当たり前。一人一人は違うから完全には同じにはなりません。

     ずれが出てくるのは当然。だから,それを感じた時には対話で埋めていける環境や場をつくっていければいいですよね。


     まずは,職員室がそういう環境になり,お互いの「~たい」を尊重し合うことでお互いに居心地がいいし成長もできる,みんなにとっていい学校になる,と体感できれば自然とそういう文化は教室に降りていくはず。

    「職員室で起こることは教室でも起こる。逆も同じ」。

     教室のチャレンジは職員室のチャレンジでもあります。


     先生たちに書いていただいた,1学期の振り返り記録用紙を読ませていただきました。多方面から,本当に丁寧に書いてくださったなあ,と思います。よかったこともたくさん記述してもらいました。気持ちが温かくなります。そして困っていることや課題も同時に。そこを具体的に改善するための動き出しを早くすることで,

    「意見を出すことで何かが変わる。変わるかもしれない」

    につながると思っています。出した意見を大事に受けとってもらった,出した意見で何かがよくなった,そんな経験。小さなことでもそこからスタートしたいものです。




     子どもたちが,総合的な学習×特別活動でやっている“OGATSU COMPANY”のスローガンは

    「自分を元気に,みんなを元気に,まちを元気に」

     ここでも,3つの関係がきれいになる仕事,を目指しています。

    そして,出発点は「自分を元気に」なんです。まずはここスタート。


     月曜日から新学期が始まります。

    「うちの学校ってさー,毎年違うことやってるよね~笑」

    っていうのは,子どもも含めて毎年改善を重ねている証拠。

     「いやあ,2学期もおもしろかったねえ,たいへんだったけどさあ」

    と笑って言い合える2学期末をイメージして始めたい(^^)

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    2019-08-24

    そこにストーリー,なんだな

    11:53

    前から噂を聞いていて,

    (いつかは行きたいなあ…)

    と思っていたお料理のお店があります。




     店主の方は,震災を機にボランティアで石巻に入り,様々な活動や経験を通して,ここの人や食材に魅力を感じ移住を決めた,とのことです。

     もともと公認会計士を目指していたらしいんですが,「すぐに諦めてしまった」。とのこと。そこからイギリスに渡ったことで,海外に興味をもったそうです。言葉が通じない中で、不安だったけれどなんとか、2ヶ月過ごせたことが自信につながったようでした。

     

     そして

    「せっかくだからフランスにも…」

    「せっかくだから…」、とあちこちの国を回り,1年2ヶ月、世界をまわったそうです。いろいろな国を電車やバスで回るうちに土地土地で食文化も変わっていて,。

    「食って面白い、と思った。」

    そうです。そして日本も同じように回りながら,日本料理も面白いと思って、料理の道に入ったそうです。そのとき26歳。

     26歳で始める,というのはこの世界では遅いらしく,だからこそ

    「料理人が少なくてすぐやらせてもらえそうなところ、それでいて高級な食材も扱わせてもらえそうなところはどこか?」を調べたらしいです。

     親方は厳しかくやめていく先輩も多い中

    「そうなら,早く食材を扱わせてもらえる。チャンスだ。」

    と考え,頑張ったとのこと。そういう修業時代だったそうです。

     そして出身地に戻ったところで,2011年,東日本大震災。

     「なにかできないか…。」

    と考えて」石巻に。

    「はじめは泥かきからでした。」

    と。その後,活動を通して出会った方々とこの地の豊かな食材に魅力を感じて

    「石巻に残ろう。」

    と決心されたそうです。

     そして,いろいろあった中でようやくお店を開いた,とのこと。


     「いまむら」さんから私が聞いた,ストーリーの一端。



     そんな時に,お仲間からお誘いを受けてそのチャンスが到来。

     調理場を囲むように配置されたカウンターですから,店主の方ともスタッフの方がお仕事しているのを見ながら待つことができます。ときどき私たちのおしゃべりも混ざってくれます。

    一つ一つお料理(お,を付けたくなる)の説明もしてくれます。そこにはやはり,ストーリーあり,です。お料理のおいしさだけでなく食材や,生まれたアイデアまで含めたストーリーも一緒に味わう,そんな豊かな時間でした。



     大皿にのったお刺身が出されました。

     三輪田窯の青く美しい大きなお皿です。


    「石巻のよさと,ここの方々との出会いとこれから,をイメージしています。」

    「お料理にストーリーをこめています。お皿は夜の海、そして月明かり。陶芸作家さんと直に話しながら作ってもらった特別注文のお皿なんです。」

    「お刺身は石巻の皆さんを表しています。みんなで前に向かって行進しているイメージ。」

    「お塩はそとの人。移住者とか外から石巻に入ってきた方々。」

    「一緒に街をつくる、そんなイメージです。」

    「そして,食材の生産者の方々ととともにつくる料理,なんです。」




     こういう大人に,たくさんたくさん出会わせたい,と思って

    「あの,今村さん? お願いがあるんですが・・・・・・・・」

    願いは叶うといいな!


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    2019-08-23

    やれば分かる、行けば分かる

    06:50

     とりあえずやってみること、なんだな、やっぱりそうだよね、と思った。


     このところ、(ああ、ここにつながっていたか…)と今なら思うおしゃべりや対話、機会があって。

     「それは遊びなのか、ギョーム(業務)なのか?」

    とか

    「遊びと仕事、学びはどういう関係なんだろう?」

    とか。


     そうしていたら、昨日、かねてから交流のある相模国白龍太鼓保存会という団体が学校に来てくれて演奏会をしてくださいました。

     その中に「遊ーYUU-」という曲があり、その一言解説の中に以下の記述。

    「曲名となっている『遊』という漢字には、もちろん『遊ぶ』という意味もありますが、ほかにも『自由に歩き回る』『楽しみにふける』というような意味もあります。」


     太鼓の演奏も

    「幸せを届けられるように、と願いを込めて演奏します。」という言葉からスタートするまさに元気、エネルギー、笑顔あふれる明るく力強いものでした。


     この「音」が表すものと「遊」の意味、それぞれの意味づけ。


     そんなところを2学期の私のテーマにしてみようかな、と思いました。

    うまく行くかどうかはそんなの分からなくて。

    やってみなければ分からないってこと。

    とりあえずやってみる、やってみれば分かる、行ってみれば分かる。


    そんな感じでやっていきたいな、と感じたこの日。

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    2019-08-22

    3万歩!

    07:06

    神戸に住んでいる叔父。

    「船が石巻に入るから、会わない?」と電話が来ました。

    オーシャンドリームという船で日本一周???している最中とのこと。

     この叔父、何でも一人でこなすし、趣味の木工もプロ級だし、いろんなことに興味をもってやってみる、そんなタイプの方。

     私が子どものころも、よくあっちこっちと連れていってもらった。


     早朝、石巻の港について、日中は埠頭から石巻駅まで(これ結構な距離です)歩き、そこから女川というところに列車で行き、そこでまた歩き、また石巻駅から船に戻ってきたとのこと。スマホの歩数計を見せてもらったら、この日の歩数は3万歩越え!(私、1日でそんなに歩いたことたぶんありません…(^_^;)

    「3万歩!すごすぎ!」

    と騒いでいたら。

    「このくらいはよくあるよー」

    と…。

     もう80歳越えてますが、本当に元気。船で世界一周も2回くらいしているし…。

     

     今度は、オーストラリアに船で行く、とか。

    いやあ、すごすぎる。

    今日の出来事も楽しそうに話してくれた。

    (すてきな生き方だなあ…)

    とも思った。

     仕事を引退してから、そうなった訳でもなく、考えて見れば現役のころからとやっていることはそう変わってないのかも。

     もちろん時間的余裕があるから、やることのスケールは大きくなったけど、とにかく今を少しの努力しながら楽しんでいるなあ、という感じ。


     そこが、やっぱりすごいな。


     このときも

    「この、ショートメールっていうのがうまくいかんのんよ。」

    といっていたけど、教えたら

    「あ、そういうことなんね。このマークが紙飛行機ってことなんや。」

    と。

     習得。


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    2019-08-21

    バランス

    07:30

     毎日毎日いろんな事があって

    いいこともあれば

    いやなこともあったりして


     それはそれで変化があっておもしろんだけど

    いいことがあって、喜んだりして

    時に調子に乗り

    嫌なことがあって落ち込んだりもして

    どうかするといらいらしちゃったり


    それはそれで、結構困ったことにもなったりして


     バランスだなあ。


    いいときも、ちょっとよくないときも

    バランスをとりながら

    おきたことに引っ張られ過ぎず、

    それで冷静さも失わないで、

    「じゃあ、どうするかなあ…」

    を考えて動けるようになりたいな。

    そうしないとなあ。



     難しいけどー。

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    2019-08-20

    昔の苦い思い出が浮かんだ件

    07:47

     うちの学校では、養護の先生とまちの保健師さんや栄養士さんと一緒に「学校地域の健康課題の改善」を目的にしているプロジェクトがあります。

     活動が始まって2年目になります。2ヶ月に1回くらい集まり、企画をつくったり振り返りを行ったりしながら進めているところ。

     学校は学校、地域は地域って分けないで、こうやって接点をつくり続けているところがいいなあ、と思います。

    「地域と共にある学校」を目指す、1つの取組でもあります。


     その話し合いは、私がファシリテーターを務めながら、ホワイトボード・ミーティング®で行っています。

     私は進行役ですから、その話し合いに意見を出すことはせず、あくまで話し合いのメンバーの意見を可視化し、軸を立て、今後の方針や計画をつくるお手伝いをするのが役目。


     それをしながら思い出したことがあって。






     かつて、ずっと前に勤めた学校で研究主任をしていました。経験もまだ少なかったのですが、それでも預けられた重責を果たさねば、と思い、いろいろ考えに考えてプランをつくり、研究全体会などで提案するわけです。


     でも、そういう時の進行役は、私。私が提案している案件について私が進行役を務めることになります。当時はファシリテーションなんていう概念も知識もないものですから、場の構成もでっかいロの字型です。遠くに座っている皆さんに向かって私が案件についてだーーーー、と説明して、

    「意見はないですか?」

    みたいな進め方。


     何も意見がでなくて、そのまま通ってくれればまだいい、と思っていたくらいにして(笑)

     でもどうかすると、いろいろ意見をいただいて、もとのプランがひっくり返ってしまうことも…。

     そんな時に、

    (なんだ、なんだー、こっちはこの事についていっちばん時間を掛けて考えてるんだぞーー、いろんなことを考慮しながら、これで提案してるんだーーー)

    (そんな思いつきみたいな意見でひっかきまわさないでくれーー)

    (それ、言いっ放しにしないでくれるんでしょうねえ??)

    (普段、このことに取り組んでないでしょ?なんでここでそんなこと言うのさー)

     ついつい、今までの苦労?が泡となるのが悔しくて毒を吐いたり…、心の中で。


     提案者が「進行役」をしているので、自分が意見をいうタイミングをどこにしたらいいのか分からず、そもそも「進行役:が主張してはいけないんじゃないか?とも思ったりして。自分の意思とは関係のない方向に進んでいく話し合いをコントロールする術もなく、まるで、ひもの切れた凧を呆然と見送る?みたいな気分になったものでした。

     ああ、サヨーナラー笑


     その時に、

    「ところで、なんで提案者が進行役をするんだ?それ別じゃないとだめじゃない??」

    「提案者が意見を言えないんじゃ、まな板の上の鯉だよね、まるで…」

    って思ったんだよなあ、そんなことを思い出したってこと。


     今思えば、ファシリテーションのスキルとか、役割を分けるとか、ももちろん要素としてはあるんだけど、根本的には合意形成の意識が自分にも参加者にも足りなかったんだろうなあ、ということ。


     つまり、簡単にいうと話し合いを、「勝ち負け」みたいな捉え、というか「どちらの意見を採用するか」みたいなカタチになっていたし、それがスタンダード、って思っていたんだと思います。


     ファシリテーターとサイドワーカー。

    そんな言葉に置き換えられるとは思うけど、お互いに一致点を見付けようとするそういう気持ち、そっちの方が気持ちがいいよねっていう経験を積むこと、そんなことかなあ、と思います。


     ぞんな昔の苦い思い出から10年以上たっての今ここだなあ、とも思います。

     

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    2019-08-19

    トライアンドエラーを楽しく繰り返す

    06:50

     「学習指導要領の読み方・活かし方」をぱらぱらとめくりながら再読。

    新学習指導要領では「授業改善」を求めている。何のためかというと「よりよい社会を創るため」である。

    「よりよいとは?」

    を考える、みんなで共有するために対話ができることが必要であって。

     だれかに「お任せ」でも困るわけで。

    だって「答え」はないから。

    「答えのないこたえを探る」ってこと。ひとりひとりにとって「よりよい」って細かくは違っていてあたりまえだし。

     まさに「個別最適化」をみんなで探るみたいな作業を続けることだなあ。

    そしてその作業自体を楽しめるようになることが実は肝心だと思っていて。

     だって「答え」はないから。そういう社会になりましたーっていう完成形はない。だから、そこにむけるプロセスに実は意味があるんじゃないかなー。


     そのプロセスを体験するのが「授業」であったり「学校生活」だったりするんだと思っていて。

    「ここにいるみんなにとって、よりよい学びを創るために、さあ、どうする?」

    「ここにいるみんなにとって、よりよい学校を創るために、さあ、どうする?」

     授業も「社会」、学校も「社会」

    「社会」という実態はないから、その実態は「ひと」

    「〇くん」「〇さん」という一人一人。

    もちろん、そこに自分。

     「みんな」は曖昧。どうかするとぼやけがち。

    だから、この「みんな」をより具体的にイメージできるようになったり、「みんな」を意識の中において具体的に行動できたりすることだって、やっぱり練習が必要。

    「みんな」をイメージできる範囲だって一人一人違うはずだから。

     急にはできない。

     だから「教室」「学校」で練習しよう!ってこと。

    だから、授業の中で、授業を通して対人スキルも磨かないとね、って思う。それが「主体的・対話的」な学びじゃないの?

    「深い学び」は、各教科の「見方・考え方」を活かして、身の周りの様々な事象や課題に対して意思決定できるようになるってことじゃないのかな。


     そもそも、「答えのないこたえ」を求めて、意思決定できる(「よりよい社会を創る」)ことを目指すんだから、毎日の普通の授業でそれをするってことですよね。そのトライアンドエラーを楽しく繰り返す、そんなイメージ。


     そして、そのためには、やっぱり日常のコミュニケーションを豊かにしていく、ためのスキルも磨けたほうが断然いい、そんな風に考えているところ。

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    2019-08-18

    「人とつながり希望を紡ぐ」

    08:12

     夏休みのテーマ,アソビゴコロの中には

    「会いたい人に会う」も含まれる。

     お盆も過ぎた,もう終盤,雄勝花物語代表の徳水さんに時間をつくっていただきお話することができた。

    http://ogatsu-flowerstory.com/about/


     予期せぬことが起こり,この日にうかがえなくなりそうだったのだが,この日のチャンスを逃してはいけない,という直感があってなんとか時間を作り午前中の1時間ほどだったけれど行くことができた。

     結果,この日に行ってやっぱりよかった,ということ。



     今は「徳水さん」だけど,あえて徳水先生と呼ぶ。というのも徳水先生は元小学校教員で,私が若いころからお世話になっている石巻地区の「教育研究サークルあすみの会」の立ち上げにも携わった方。そして元同僚の(それも震災前の雄勝小で)先輩教員でもあった。

     その卓越した実践力も当時から本当にすごく,私から見たら羨望の域。

     

     震災当時も雄勝小学校に勤務されており,津波が迫る中子どもたちを先導しながら山に避難した経験ももつ。そしてご自身も雄勝に居を構えていたので,ご自宅も大きな被害を受けた。

     そして今は,雄勝花物語の協同代表として,雄勝ローズファクトリーガーデンを中心にしながら雄勝のまちづくりに取り組んでいる。


     じっくり1時間ちょっとお話をお聞きしながら感じたことは,

    「やっぱり,徳水さんはすごい…」

    ということ。

     そして,こんなふうに思える方が考えて見れば20年以上身近にいてくれるてことに感謝,そんな気持ちになる。


     「やりたいことをやり続ける。」

     身の回りの魅力的な方々はみんなそんなところがある。

     それは同じことを同じように,とはちょっと違って,

    「やりたいことをやり続ける」ことを続ける,ということであり

    やりたいことが「実現したいこと,世界」とイコールでつながっている,そんなイメージ。伝わるか分かりませんが。


     徳水さんとお話をして感じたこともまさにそう。

     そういうところが本当にすごい,惹かれる。

     

    【以下HPから引用】

    『人とつながり希望を紡ぐ』

    ・”人とつながり希望を紡ぐ“。この言葉は一歩踏み出せば、地域の人とつながって足元から小さな希望を生み出し、さらにもう一歩行動を起こせば、全国の皆さんとつながって大きな希望を生み出すことができるという、震災から立ち上がった私達の歩みから生まれた言葉です。希望とは与えられるものではなくて、自ら生み出すものであることを学びました。よかったらあなたも雄勝ローズファクトリーガーデンに一度足を運んでみてください。そして被災地とつながり、全国の皆さんと一緒に「花と緑の力」で心を癒す花園を造り、雄勝の森・川・海のひとつながりの生態系と雄勝石やホタテ・ホヤなどの地域資源を生かした「地域内経済循環」を構築し、持続可能な新しい町づくりの物語を一緒に紡いでみませんか。(記・共同代表 徳水博志)

    【引用終わり】

     今回は,上記に書いてあることの,具体的な今こことこれからの話。

    すごくわくわくする話。

    「持続可能な雄勝のまちづくり。歴史あるこのまちを次世代に残したい。」

    「誰もが幸せに暮らせる社会をここ雄勝でつくりたい。」

    そういう話と,そこに向けた具体的な活動。

     高齢化が進む,過疎のまち。しかもそこに震災が起こったというそこからのスタートなんだけど,徳水先生たちの地道なチャレンジが身を結びつつあるのが見ていても分かる。だからすごい。


     震災直後,徳水さんと偶然出会ったことを思い出した。そのときに話したこと。

    「みんな食料とかもないんだよ。でもね,あるものを分ける。それだけでいいんだ。分け合うことで分けてももらえるってことなんだと本当に分かるよ。自分のことだけを考えていたら,やっぱりもたないんだ。震災でこんな状況になって,本当にそのことの意味が分かるね。」

     たしかそんな話だったと思う。


      そのことを,今も「雄勝花物語」で実践しているってことなんだと思う。

    「やりたいことをやり続ける」って実はそういうことなんだと思う。


     私には何ができるんだろう,雄勝の学校の一教員として何ができるか。

    学校現場だからできること,しなくてはならないこと,そして自分がしたいこと,できること。


     そんなことを考えた一日。


     前を進んでている,現在進行形の方が,「ここ雄勝に」いる幸せを感じた時間でもあった

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    2019-08-17

    「交渉」

    08:47

     対話の重要性。

     うん、分かる分かる。

    でもなんとなく、大きすぎて、その価値は十分分かるけどなんか掴みきれないものどこかにあった。


     ある本を読んでいて、


    やりたい、やれる、やるべき の交点

    という表現があり

    「あ!」

    って思いました。


     ある言葉を表す他の言葉を得たら、それが余計鮮明になって自分の前に現れた、そんな感覚。

     「交渉」は「衝突」でなくクリエイティブな瞬間、醍醐味。


     おお、そうだなー。

     そういう瞬間に

    「わがまま」とか「むり」ってしないで、

    やりたい、やれる、やるべき の交点を探る。


     それが話し合いだったり、会議だったり、学びだったりってことなんだ

    な。

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    2019-08-16

    終戦の日に思うこと

    07:35

    終戦の日に合わせて、先の戦争について考える機会をいろんな場面でいただいている。


     なぜ、人と人とが殺し合わなくてはならないのか。シンプルに考えるとそう。

     誰が望んで、戦争が起きるのか?

     それとも誰も望んでいないのに、起きるのか?

     

     誰も望んでいないことが、本当に起きるのか?



     しかし、「戦争が起こりたくさんの人が殺し合い、そして亡くなっていった」という大括りの事実は、確かな事実。


     私の祖父は戦時中、輸送船の仕事をしていて、ガダルカナルでなくなったと聞く。母は何度も何度もその話をしていた。年をとっていろんなことがおぼつかなくなるに従って、その話が何度も出てくるように感じている。

     母はなくなった祖父とは2歳、3歳の頃?に分かれて以来なのでその記憶もないだろうに、それでも心の中に強く残っているのだろう。

     もちろん、その事実が後の人生に大きな影響を及ぼしたからにも他ならない。




     誰も戦争なんて望んでいない。

     そこは、人間として信じたいところ。

     なのに、なぜこうも何度も何度も戦争は起きるのか。



    権力者のせいなのか?

    仕方ないのか?

    守らなければならないものがあるからか?


    撃ち合う兵士の映像や、特攻隊として相手の船に突っ込んでいく戦闘機、迎え撃つ砲撃。

     いったい、どんな思いでそこにいて、戦っているのか、その気持ちを考えると胸が本当に苦しくなる思いだ。


     もう、想像もできない。

    なんでこんなことになっているのか…。

    なんでここにいるのか…

    そう思ってはいなかったか。


     戦場で殺し合わなければならなかった方々は、個人的には相手のことを知らず「その人」と戦わなくてはならない理由なんて本当はなかったはず。

     普通のお兄さん、お父さんであったのに。

     床屋さんだったり、画家だったり、料理人だったり、したかもしれない。

    お店のご主人だったり。

     それなのに、「命をかける」なんてことになってしまったのは、いったいどういうことなんだろう…。



     私が見ていた番組では

    「事実とは何か」

    最後に問いかけていた。


     人が起こす事実は、人によって操作ができるんじゃないかな。

     本当は。

     楽しい、うれしい事実もつくれる。

     嫌なつらい事実は回避できる。

     そのはず。


     一度動き始めた大きな「事実」は個人では止められないのか。

     なら小さな「事実」の時に止めればいい。

     大きな動きになってしまっても、みんなが、それこそ本当に「みんなが」止めようと思えば、やっぱり止まるんじゃないのかな。



     個人と個人、組織と組織、個人と組織…。

    いろいろあるのは分かるけど、最後は個人。

    個人があっての組織だもの。


     やはり、最後は「個人」を重視するってことなんじゃないかな。

     それもお互いに。

    無理かな?

     いやいや、全員が「戦争はやめよう」って言って行動すれば、戦争にならないんじゃないかな?

     単純?

     

     でもそうですよね。



     いじめ問題だって、本当は同じこと。

     誰もが幸せになろうとしたら、その選択肢はないもの。

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    2019-08-15

    とりあえず動いてみる

    11:22

     今年の夏季休業(あくまで子どもたちの,ですが)の私のテーマは

    アソビゴコロ

    だったわけです。

     会いたい人に会いその地の空気を吸うことを目的にした7月の佐渡行きは,その幕開け。

     そこから今日まで,とにかく直感を頼りに

    会いたい人と会って話し,

    行きたいところに行ってみて感じてみて

    また話して

    みたいなことを繰り返してみました。


    けっこうわがままに過ごしたかな,とも思います。

    だからこその充実感。

    話したな,学べたな,新しい選択肢や感覚を得たな,と思います。


     そして昨日は,一日誰とも話さないで過ごす1日になりました。

    今まで避けていたことに向き合わざるを得ない時間でもあり,それなりに忙しくとも,好きなことをするのとはまた違った感じで

    行きつ戻りつしながら。

    それでも

    「やんないとな…」

    と一人悶々と,

    今まで開けてこなかったものを開ける,そんな一日でした。


     やりたいことをするのも,やりたくなくて避けて通りたいことに向き合うのも,どっちにしても前には進むんだろうなあ,そんなことを感じます。


     動かないと始まらない…。

    楽しいことも避けたいことも,どっちもそうだなあ,と

    誰とも話さない一日で考えたことは,それ。

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    2019-08-14

    「このグループってどんなグループ?」

    09:45

     お誘いしていただいて,あるところで,あるメンバーで飲み会でした。

     6人。

     あちこちにあるクラフトビール提供店を回って楽しむ,そんなオリエンテーリング?みたいな感じ。

     おもしろい。


     すでに数店回った,最後の方のお店で

    「あの…,このグループってどんなグループなんですか??」

    って女性の店員さんに尋ねられました。

    「???」

    「どんな…って?」

    「だって,学生さんみたいな若い方もいるし,そうじゃない方もいるし,女性の方もいるし,お仕事帰りのワイシャツ姿の方もいるし…。」

    「年代も服装もばらばらですし…」

    「どういう集まりなんだろう?ってなんか気になって笑」

    と。



     なるほど,たしかに。

    ぱっと見,変かも笑

      

     

    「あー,なるほどー。実はこのメンバーはですねえ…」

    とみんなでそれぞれ,ああだこうだと説明するんだけど,みんな笑顔。

     それだけで,話が再び弾みました笑。

     店を出るときにも,みんななんかいい気分になって

    「いやあ,いい人だったねえ。」

    「このメンバーに入ってもらおう!」(笑)

    とか,まあ,楽しかったわけです。




     今まで,お店の方に

    「このグループ,どんな集まり?」

    って聞かれたことなんかなかったから,

    「え?」

    って思ったけど,おかげでなんかおもしろかったなあ。

     東京の,それもちょっとおしゃれな街の,それでいて路地?がいろいろあって,個人商店ががたくさんあって,いろんな年代の人がごちゃごちゃと歩いている,そんな活気を感じる街だからこそそういうことは普通なのか?それともその方がそういう方なのか?

     よく分からないけど。


     「あれ?」と感じて尋ねてみる,そんなちょっとしたことで,コミュニケーションが開通する,そんなことを感じた出来事でした。

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    2019-08-13

    バランス

    09:49

     トップダウンだけでもうまくないし,

     ボトムアップだけでも,機能しづらい。

     そんなことを感じることがあります。

     どちらがよくてどちらが悪い,とかそういうことじゃないんだなあ,と思います。

     バランス?

     確かにそうだなー。


     そのバランスをどう取るのが,自分や自分たちで

    選べる,決められる,

     それが大事なんだなー。


     だれかにバランスをとってもらう,(まあ,そういうことも時にはあるんだけど)ことだけを期待しても,やっぱりそれじゃあ,ねえ。


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    2019-08-12

    「普通」でいいんだね

    09:57

    「真に個性的な人は,

    個性的になろうとは思わない。

    個性的であろうと思うこと自体が,

    個性がないということである。

    (後略)」

     ある本をめくりながら見付けた一文。


     ああ。そっか。

    そうだなー。たしかに。


     「普通」あれば,自然とそうなるってこと。


     思い出したこと。

     

     学校統合後の開校後から毎年学校に関わってくれている地域の方々がたくさんいる。

     その方々といろんな場面で話すことってあるんだけど,よく言われるのが聞かれるのが

    「子どもたち,ほんっと,一人一人個性的だよね~」

    って言葉。

     にこにこして言われるから,本当にうれしい。


     十分関わってくださっているから感じてもらえることでもあり。


     私たち教員が,一番うれしい言葉かもしれないなあ。


     「普通」の環境を子どもたち,関係者,私たちみんなで試行錯誤しながらつくっている「今ここ」ってことで元気がもらえます。


     さて,これからも「普通」にやっていけばいいんだね~。

    あ,そうそう,さっきの本の続きにこう書いてもあったんだ。




    「そして重要なのは,

    基礎や型を十分に身につけて,はじめて個性が出てくる。

    先に,個性ありきではない。」


     またまた考えさせられます。

    同じところと違うところ

    08:04

     そもそも,人はそれぞれ違うのが当たり前。

     性格も,それまでの経験が違うんだから。


     だから,日々いろいろな人と出会って話したり,記事や本を読んだりしている中で,

    「なるほど」

    と思うこともあれば

    「へえ,そう考えるのかー」

    と感じることがあるのは,当然。


     だから

    「この人とは,考え方が似ているなーと思っていたけど,この部分は違うんだー」

    もあるし,

    「この方,こんな風にも考えるんだあ。今まで正反対だと思っていたけど,ここは同じなんだな,意外だー」

    なんてこともあったりする。


     だから,ちゃんと話してみないと分からないんだなあと思います。

    もちろん話しても完全に「分かった」にはならないんですけどね。

     平田オリザさんの本で「わかりあえないことから」っていうのがあるけれど,まさにそれ。


     だから「違う」ところを認識した所からが「始まり」なんだよなあ,と感じる。「同じ」じゃなくていい。同じなわけがないから。


     「同じ」と簡単に思ってしまうところのほうが実は困ったことかもしれないな。

     だって「同じ」なわけないもの。

     そこに「同じ」でないと不安だったり,「同じ」にしておくことて考えなくていい,とか,まあ「同じ」なほうが「楽(らく)」だというのがあったりすると,ね。


     楽,だけど不自由になるかもしれませんね。


     こんなことを考えたのは,ある考え方について批判的視点述べている記事を読んだときに,

    (へえ,そんなふうに考えるんだあ。私はそんなふうに考えたことがなかったけれど…。でも,そういう視点もあるってことは知ってよかったなあ)

    と思ったので。

     厳しい表現だなあ,と感じたものの,時流に流されずに自分の考えを表現できることは大事なことだとも感じた出来事でした。


     「同じところはここで,違うところはここだよね」

    それが確かめられるといいんだな。

    「違う」だけでも「同じ」だけでも,辛いから。


     やっぱり,私は「自然体」」でいこうっと。

     そして,同じところ,違うところの両方を見付けられるようになりたいな。

     

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    2019-08-11

    人はそもそも優しい

    08:55

     「『学び合い』仙南の会@イーレはせくら王国」に参加しました。

        

     この「仙南の会」,『学び合い』の考え方を基盤に,「地域と学校」を中心テーマに教員,福祉,行政,医療・・・様々な職種の方々が,まさにそこで「学び合う」場を継続的に創っています。

     今回は,「学校教育目標を中心にした地域との協働・今ここ」の話題提供もさせていただきました。


     そして,そのあとのフリートークを通して感じることは

    「やっぱり,一人一人には力がある」ってこと。

     どうしたいのか,どうなったらいいのか,そのためにはみんなでどうするとうまくいきそうなのか相談しながらやってみる。

     よかったことは何で,うまくいかなかったこと困ったことは何だったのか。

     それでは今度はどうするのか,どうなったらいいのか…。

     それをお互いに聴き合うこと。


     自分考え,みんなで考え,聴き合い,そしてやってみる。

     それだけで,「一人一人の力」ってちゃんと発揮できるじゃんって。


     あーだからできない,こうだからできない…

    うんうん,確かにそういうこともありますよね,そうしか考えられない状況もある。私もあったし,今もあります。

     

     ただ,

     「今さー,○○で困ってんだけどね~」

    なんて言ってみると,力を貸してもらえたり,いいヒントを与えてもらえたりすることも多くて。聴いてくれる人はいるってことだなあ。


     できないことも多いけど,できることもあるってこと。だからできることからやっていけば,できなかったこともだんだん

    「あれ?できるようになっていたじゃん!」

    ってことになっていくよな,と。


     補助輪付けた自転車をずっと乗っていたら,いつの間にか補助輪が地面に付いていないで乗れていた,みたいなイメージ。そうなれば,もう補助輪はいらないですね。

     

     お互いがお互いの補助輪。

    それは大人でも子どもでもでも。

    大人と子どもでも。

     同じだなあ。

    そして,そこの中心にありのは,きっと「聴き合うこと」

    聴き合える関係性を育むこと。


     いろんな職種の方々と話していると,やっぱりそこに行き着く。

    いろんな課題は,教育でも福祉でもビジネスでも結局根っこは同じ。

     人と人。


     だから,教室,学校もいろんな人がごちゃごちゃと混ざりながら,それそれの課題を解決したり,チームで解決したり,時には「トラブル」という課題の解決にチャレンジしたり,そんなことを楽しみながら経験していく場になればいいよね。


     そんなに難しくはないなー。

     人はそもそも,優しいから。






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    2019-08-10

    「その日暮らし」と「南国モード」

    07:54

     ただいま、夏季休業中。それは、もちろん子どもたちの話で。

    教員は勤務なのである。

     でも(他の方は分からないけど)私は、気持ちに余裕が生まれて、たくさん学びたいなあ、と思える期間として重宝している。

     勤務でも「遊び」。勤務であり遊びでもある、そんな感じ。


     今年の夏の私のテーマはまさに「ブラ雄勝」。

    学校のある地域、雄勝をブラブラする。ブラブラしながら人と話す、面白そうなものを見付ける、やってみたいことをやってみる、そんな感じ。


     かっこよくいうと「地域から学ぶ、地域を学ぶ」

    その場に行き、人と話し、感じる、その効用は分かっているつもり。

    「地域に開かれた教育課程」「学びの地図(学習指導要領)を地域の方々とも共有して」なんて難しいこと言っていても、結局は人と人。

     どこの誰か、どんな人か、何が好きで、何が嫌いか、そんなことも知ろうとしないで、そんな難しいことはできない。

     「コミュニケーションの量があってはじめて質に転換できる。」

    「良好なコミュニケーションは自然発生的には生まれない」まさにそうだなあ、と感じる。



     話を戻す。

     キャッチフレーズは「その日暮らし!」「南国モード!」(これしいたけ占いにあった言葉笑)

     「夏季休業」は今だいたい半分を過ぎたあたり。

    結構やりたいことやれている感じ。

     ウニ獲りしたし、韮浜行ったし、モールス信号やったし、羽坂でマジックショー見たし、まち協や公民館の方々とたくさんしゃべったし、早朝の漁港で水揚げ見たり漁師さんとしゃべったりしたし、古川で雄勝トークしたし、沢に行ったし、雄勝のおいしいものたくさん食べたし、外で雄勝のこと話したし、考えたし、本も読んだし、そしてこの先の新しい次やることも決まったし。

     いやあ、おもろい。

     


          

    テーマが「その日暮らし」だから、

    「今日はこんなことしたいな~」

    「この本読みたいな~」

    「これしないとな~」(もちろんこれもある!)

    って一応は考えるんだけど、やりながらの変更ももちろんあり。

     面白そうなことを見付けたらそっちにしちゃうし、偶然の出会いがあればそっちに進んだり。

    計画性があるようで、計画性なし。

       

         

     考えて見れば、それって結構、夏季休業中に限ったことじゃないかもな…、と今気付いた。

     東京出身なのになぜか宮城の半島部に来て(自分なりの理由はもちろんあるんだけど)、結構やりたいことをやりたいようにやってきたなあ、と思い返してみる。

     うまくいったことばかりじゃなくて、その日暮らし的な直感を結構優先してきた…。それで困ったことももちろんたくさんあったんだけど、今となればそれも何とかなってきたし、まだ困りごとではあるんだけど、誰かのサポートをいただきながらもなんとかかんとか維持できていたり…。



     うーん、あんまり我慢がきくタイプじゃないみたい。

    我慢していても、もたないし。

     結局、やりたいことやっちゃうし、言いたいこと言っちゃうんですよね。


     かといって、特別な能力はないから結局人に手伝ってもらったり、ご縁をいただいたりしながらここまでやってきたんだなあ。

     成長しないなあ、とも思うけど、まあ仕方がない…。



     この夏は「ブラ雄勝」だ、なんて言って書き始めたけど、なんだ、ずっと「ブラ〇〇」だったんだな…と気付く今ココ。


     こりゃあ、ずっとそのまま行きそうだ(生きそうだ)、どーする、どーする??




     ま、いっか…。


     こうなってしまうだな、結局。

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    2019-08-09

    「~とは?」って考える

    07:40

     地区の教育課程説明会に参加。

     出張ってことで。


     来年度から、小学校も新学習指導要領が全面実施になります。

    したがって、地区として、その「趣旨と指導内容等を周知することで、小学校教育の改善及び充実を図る」

     それが目的。


     「社会に開かれた教育課程」も改訂の大事な柱のひとつ。未来を生きる子どもたちにとって学校はどうあるといいのか、この学習指導要領をベースに社会(保護者、地域、…)と共有しながら、共に子どもたちを育てていきましょう、ということだと思います。

     「生きる力」とか「育成を目指す資質・能力」とか、「主体的・対話的で深い学び」に向けた授業改善とか、カリキュラム・マネジメントとか。


     総則にあるそんな改訂の基本方針に関わること、それから各教科領域の指導内容、評価に関わること、1日を通してたくさん説明を受けました。


     本校では、職員会議の度に改訂の内容に関する情報提供やミニトーク、学校教育目標ワークショップなどを通してここ2年間少しずつ準備をしてきているので、ただ説明を聞いているだけでも、

    「ああ、そういうことね。はっきりした。」

    「え、そうだったのか。じゃこういうのはどうなんだ?」

    「ここは、まだ理解が足りなかったなあ…」

    なんてある程度主体的に聞けたのではないかなあ、と想像します。


     予習が必要。

     そのための移行期間だから。

     何かやったり試してみたりしていないと思考停止になり、説明されたことをただこなす、になりがち。どうかすると

    「結局、同じだよね~」

    と自分に都合のいい解釈をして、そのまま、なんてことにもなるかも。


     いかんいかん。


     学習指導要領総則。

     

     これ、ちゃんと読んでいる、何度も読んで考え続けるってことが必要だなと思います。「社会に開かれた教育課程」はここに書いてあることを社会と共有するってことですよね?これを元に対話する。何度もする。


     「予測困難な社会の変化に主体的に関わり、感性を豊かに働かせながら、どのような未来を創っていくのか、どのように社会や人生をよりよいものにしていくのかという目的を自ら考え、自らの可能性を発揮し、よりよい社会と幸福な人生の創り手となる力を身に付けられるようにすることが重要である」(総則P3)

     これが「生きる力」に関する記述。

     だから、「よりよい社会とは?」「幸福ってどんなこと?あなたにとっては?自分にとっては?」「創り手というと?」「主体的って?「感性を豊かに働かせるとは?」なんていう問いと具体的な目の前の事実を照らし合わせながら、今を創る、そんなことが大切だよねって思っています。

     そこが教室であり、学校であり、その延長につながって地域がある。そんなイメージ。

    「主体的・対話的で深い学び」は子どもたちもそうなんだけど、それ以上に教員を始め、大人に向けられたメッセージであるって、私は思っているんです。


     そうじゃないと、始まらない。


     「よりよい社会?そんなの無理無理」

     そう言わないといられない状況にある方もいると思います。だから、やれる人からやれることを始める、それだけしかありません。

     

     でもきっとそれには大きな力があると思うんですよね。


     新しい学習指導要領、いろんな意見もあるでしょうが、まずは「総則」を読んでからですね。読んだ上で、対話し、行動し、また対話し、思いを共有し、また行動し…。そんなことの地道な繰り返ししかないでしょう?


     ウルトラマンが来て、「よりよい社会」を創ってくれるわけでなし。小さな小さな創り手に、一人一人がなりましょうってこと。

     教室、学校は、子どもたちに

    「一人一人全員(ここ大事)に適切な環境調整を行い、その子が創り手になれる力を引き出す育てる、なれた体験を積み上げる、次のチャレンジをイメージできる…」そんな経験ができる場であるといいんだよね、と。

     私の今の雑感。


     自分自身が

    「~とはなんだろ?」

    って考えて

    「いいこと思いついた!」

    ってやってみる。そんなふうにしたいなあ。





     


     

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    2019-08-08

    夏休みのプール開放当番をしながら

    06:33

     夏休みのプール開放。

     うちは、極小規模校だから、大きなプールも本当にゆったり使える。

     贅沢と言えば贅沢。

     プールも新品だし。

     6、7人も来れば

    「おお、今日はずいぶん来たなあ。」

    と思えるくらい。

     

     晴天、プール日より。この日もプール通いのレギュラーメンバー登場、全部で7人。

     自分自分で潜ったり泳いだりしていたり、水中で鬼ごっこが始まったり。

     ビート板の他にいろんな浮くための道具なんかもあるんだけど、この日は倉庫からそれをたくさん引っ張り出してきて、何やら「島」を作ろうとしていた。

     

     最初はビート板をただたくさん並べて、その上に乗ろうとしていたんだけどそうすると、ビート板がすぐ離ればなれになってしまう、そこで彼らは互い違いに組んでみたり他のグッズを使ってつなぎ留めてみたりいろんなことをするわけで。

     その度にうまくいったとこも(少し、ね笑)まだまだうまくいかずハプニングも起こったりして、ほんとみんなで大笑いしながらやっている。

    「あ、いいこと思いついた!」

    とか言って。そのいいことも、全然うまくいかないこともあるんだけど、そんなことも構わずに

    「あ、今度はこうしよ?」

    とかって、ずっとやっている。


     おもしろいなあ。



    そうこうしているうちに休憩時間になり、とりあえず全員プールから上がった。

    そのタイミングである子のお母さんがお迎えに来たんだけど、そうすると、

    「あ、ママきた!泳げるようになったの見てもらいたいな~」

    って言うので、

    「そうだね~、じゃあ特別今プールに入っていいから見てもらったら~?」

    って言ったら、喜んでお母さんに自分がもうすっかり潜れるようになったり泳げるようになったことを見せたりしている。

     それを見ながら、いわゆる水から上がって、まあ「おあずけ」を食っている子たちも、それで

    「えー、〇ちゃんだけずるい~」

    とか文句言うわけでもなく見てる、そんな感じ。


     私は、けっこうそんな感じがすきだな。


     夏のプール。

    来ても来なくても、どっちでもいい。

    遊んで(いるように見えても)いても、練習(しているように見えて)しても、どっちでもいい。

    来ていない子には

    「〇くん、来てないけど元気かなー?」

    とか子どもたちと一緒にしゃべっていたり。

     それでも、子どもたちは何かを学んでいたりするし、私たちもただぼーっと見てるだけでもなく

    「お、いいね~」

    「あれ?もう耳まで潜れるんじゃん!」t

    「そこまでいけるんだったら、あそこまではどう?」

    「イチ、ニ、サーーン、イチ、ニ、サーーン」

    など、まあ、ほどほどに声を掛けたり応援したりする訳で。


     

     夏のプール。

    普段の学校も、こんなふうな空気が流れながら、大人も子どもも学び合えるといいな、と思ったりして。

     

     「こんな風な空気」

    分かりづらいよね~。自分の中でもまだぼんやり。

     でも悪くないんじゃないかな、と実は思っていたりする。


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    2019-08-07

    シャッターを切る

    17:05

    面白そうなことを探す,そんな感覚をより意識しながら楽しめるようになったのは,ある写真家さんとの出会いから。

     その方は,子どもたちの図工の学習のゲストに来校してくださった。

     子どもたちにr伝えたことは



    「どんどん撮りましょう。」

    「迷わず撮りましょう。」

    「シャッターを切る,とは自分で決めるということなんだよ。」

    「ズームは禁止ね。面白いと思ったものとの距離を自分で決めるんだよ。近付いたり離れたり,見る角度も変えて見たりね。」

    「撮りたい人がいたら,声掛けてね。人へのアプローチも自分で。」


     たしか,そんな感じ。


     

    「写真を撮るってことは,自己選択と自己決定の連続なんだ。」

    「思った通りに撮れるときもあれば,そうじゃないときもある。」


     子どもたちと一緒に聴きながら,なんかどきどきしました。


     (そして,チャンスをまつときもあれば,チャンスをつくる時もある,そうだろうな,きっと…)




     上手く,とか美しく,もあるけれど,

     

     アンテナをはり

     撮りたいものやことを見付け,

     自分で距離を測りながら

     自分でシャッターを切る

     そんなことが実に楽しくなった。


     ああ,自分がこれが見たかったんだな,と気が付く瞬間。

    そして,そうなると一方で,フレームの外にあることも見えてくる気がする。

     見えていないことが分かるようになる,とも言えるかな。

     だんだん,だけど。


     そんな風に考えて身の回りをよく見ていると,

    いろんなことが,関連付けられて,

    意味あることのように見えてきます。


     意味付け。


     意味付けできると,世界は変わる,そんな気がするんですよね。




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    2019-08-06

    「ある種の暴力的な感じ」

    07:06

     帰り道。

     巨大なものが、でん、とある場所がある。

     はじめの頃は

    「なんだ?」

    と思っていたのだが、だんだんとそれが風力発電に使われる巨大な風車のパーツであることに気が付いた。

     「こんなでかいものが世の中にあるのか?」

    という感じ。

     羽1枚が50mくらいあるような。それがひとつのパーツ。

         

     もちろん、世の中には「これ」より大きいものは、山とあるはずなんだけど、第一印象はやっぱり

    「これよりでかいものあるのか?」


     そう感じるのはなんでなのかよく分からずにいたんだけど、最近になって感じるのは、ひとつのパーツとしての大きさが尋常じゃないからかな、ということ。

     羽一枚が、やたら、でかい。

     柱ひとつが、やたら、でかい。

     もうすでに、近くの山に2基ほど立っているんだけど、遠目から見ても異彩をはなっているように、私には感じる。

     この違和感はなんだろう…、と自分の中でなんか整理できないものを感じていて。

     それは、その「巨大さ」からだけじゃないものが何かあるんだよなあ、と思いながら、それでもそれが何なのかよく分からずにいた。


     そんな中、ある方から以下のようなコメントをもらった。

    「今日は午後から常磐道を通って新地~浪江をはしりましたが、高台の高速からみえる海沿いの発電所群、また、山々を越えて掛けられる送電線群はあまりに巨大で、そこに投じられるお金と桁違いであることが分かります。ある種の暴力的な感じというか、この風景をどう気持ちの中に収めていいかわからない感じでした。しかし、その先には私たちが求めた豊かさを形にした都市がある。裏表です。

    再生可能エネルギーといわれるものに対しても、震災以来、大きなお金が動いているようですが、それは求めたものではありますが、同様の違和感をもってしまう。

    私は、エネルギーとくらしの関係を学ぶ場をつくる立場にいます。何をどう伝えていけばいいか、悩みます。

    トルストイの「人が生きるにはどのくらいの土地が必要か」という寓話を思い浮かべてしまう。

    福島を走った今日、同じようなことを感じた時間でした。」


     なるほど、これか。

    「ある種の暴力的な感じ」

    「求めたものではあるが、違和感」


     風力発電は、自然の力を借りたエネルギーで、まあ普通に考えれば「環境にあまり負担をかけない」エネルギー、なのかな。

     昨今、地球温暖化問題で化石燃料の消費による二酸化炭素の排出量が問題にされていたり、原発事故を始め放射線の懸念もとても大きい。そんなこともあっての、自然エネルギーの開発であり、その流れのこれなのかな、とも思うのだけど、なんか自分のなかでしっくりと来なかったのはここだったんだなあ、と。

     火力発電所をつくるよりいいでしょ。

     原子力発電所をつくるよりいいでしょ。

     確かに、私もそう思う。そうは思うんだけど。何だろ。

        

     「自然」じゃない、ってこと。少なくても自分の感覚では自然ではないから。

    「ある種の暴力的な感じ」という表現が、私にはやっぱりぴったりくる感じ。


     「いいものなんだからいいだろ」


    表現が適切ではないことは分かっている。でも私がそれから感じるメッセージは、そうなんだな、と思う。

     「正しい」のかもしれないが、優しくないという印象。そう印象なんだな…。

    「印象をもつ」以上の働きかけができない状態。

     大げさにいうと、個人の感情が無視されている感覚。

     

     もちろん、それをよしとする方々もたくさんいることも想像はできるんだけど。



     ここにでんと横たわる巨大な羽と柱。

     これもやがて、今すでに山に立っている2~3基の風力発電用に風車になるのだろう。

     私にとっては「異彩」。

     でも時間がたつと、見慣れてしまうのかな?気にならなくなってしまうのかな?仕方ないと思うのかな?

     それが、こわい。


     世の中は何で動いているんだろう。




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    2019-08-05

    私の「夏休みの宿題」

    07:00

     私たちの職員室の、「宿題」。

     それは学区「雄勝」のいろんな魅力を、遊ぶように体感すること。

    できたら、それを何らかの表現としてまとめること。


     やらなくても「罰」はないけど、やった方がきっと楽しい。


     自分たちのPBLみたいなイメージ。

    私たちが、地域の中に自分から入っていって、自分の感性を中心に据えて楽しんでみよう!って感じ。

     

      私のテーマは「ブラ雄勝」。

    ぶらぶらしながら、思いついたことを、直感でやってみたりすること。

     写真を撮ってみたり、人と話してみたり、おいしいものを食べてみたり、面白そうなことをしてみたり。


     時間的にちょっと余裕があるからできることなんだけど。

     それでも、きっと学校の先生の役割って、こんな風に十分で学ぶことを楽しむ、そして子どもたちにも

    「いろいろやってみよー!」

    「まあ、うまくいかなかったらもう一回やってみればいいさー」

    なんて心から言うことも、その大事な柱なんじゃね?

     ってお気楽に考えるのでした。


     昨日は、大崎ってところでお店を経営している、雄勝出身の方とそのお店でコーヒーをいただきながら、トーク。

     これも「ブラ雄勝」(^^)。つづく。



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    2019-08-04

    「ういてまて」だな笑

    10:13

     Facebookの「思い出」のコーナー、過去のこの日の投稿が読めるようになっているんだけど、これがなかなか面白い。

     もう一回

    「あ、そうだそうだ」

    なんて思い出したり、考え直したりするきっかけを与えてくれる。


     この時のS先生の言葉もそうだなあ。5年間。

    @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

    「学校で子どもたちにやれることは?」

    との私の質問に,その,美術館のSさん

    「常識の多様性に気付いて,それに耐えられることだよね。そういうふうになるといいんじゃない?」「それがないからいじめも起きるんだよ。ちょっと違う,とかいう理由で。」「勉強すればするほど多様性に気付くようになるよ。」

    「教員ははどうするといいでしょう?アドバイスはありますか?」

    との私の追加質問に

    「それを,各自が考える。それが僕のアドバイス」

    とすてきな返答。

     このやりとりを全体のなかですることに意味がある。


    「美意識?見たいものを見る。見続ける。そういうことができるようになればいい。見たいものしか見ないし見えない。そこに行くために図工がある。美術技術になってはダメ。上に乗っかるものは各自でやればいい。」

     県美術館の方のお話から。そうだよなーと思いました。

    生活科の研修会だったんですが,教科なんて飛び越えてます。

    @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@


    自分自身が、自分のことを

    「異端なのかも…」

    って思うこともるんだけど、あったんだけど、いや今もあるんだけど

    「それぞれが違う」

    ってことを考えれば、そう思うこともないわけだなあ。

    「異端」って思うこと自体、「正統」ではないってことを認めていることでもあったり、あえて正統でないことをよしとするみたいなところがあったりで、それって「正統」を主張するのと実は根っこが同じなんじゃないかとも思ったりする。

     そういう意味でも「常識の多様性」って言葉はいいなあ、と思う。

    どれも「常識」。その人にとっての「常識」

    絶対ではないことも承知の上での「常識」なんだな。

    自分にとっての「とりあえずの正しさ」みたいなもの。

     そ、とりあえず。そこからのスタートがしたいなー。譲らないのともまた違うから。

       

    「耐える」ってことも他者と「違う」こと自体不安要素でもあるから、「違っていていい、違っていて当たり前」ってことを自分の中ではっきりと意識する、ある意味、強さが必要なんだと思う。

     そういう意味で「耐える」ってことかな、と思った。

    「自立」に近い意味でも考えられる気がする。

     

     沈まず浮かんでいるのも、なかなかタイヘンだ。

     ふふ「浮いて待て」だなー。

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    2019-08-03

    過去と今とこれから

    09:43

     昨日は、以前の同僚の方々と久しぶりの飲み会でした。

       

    いろんなことがたくさんあって、なかなかハードな数年を一緒に過ごさせていただいたのですが、それでも

    「あのときは面白かったよね。」

    って話せるのが、本当にうれしい。

     大変だったけど、楽しかった、そう思える時間を過ごせたことは幸せなことだなあ、と思います。ありがとうございます、って気持ちです。

     

     そういえばその時も、僕らの中では

    「ありがとう!」

    「ありがとうございます!」

    をよく使っていた気がします。

     

     言ってうれしい、言われてうれしい、そんな言葉だなあ、と当時のことも思い出しながら感じます。当たり前のことかもしれませんが。


     昨日とはまた違った場面では

    「ほんと、ひとりじゃできないことばかりなんだよね、だからみんなの力を借りながら一緒にやっていくしかないんだよね。」

    「自分だけでできることには限界があるからね。」

    としゃべっていたことも思い出しました。

     

     あのときはよかった、ではなくて、

    「あの時は面白かったね」

    をみんなで思い出して、それからまたそれぞれの場所に戻って

    また「面白い」を自分たちでつくっていく、そういうことなんだなあ、と思いました。


     このメンバーでまた一緒に仕事をすることはもう二度とないでしょう。それはそれぞれが今いる現場でのメンバーでも同じこと。


     前があるから今があるわけで、今の先にもこれからがあるから。

    つながっていくんだなあ、どんどん先に。

     

     そんなイメージ。


     いい夏の夜でした。


     「温故創新」と「温故創進」だな。


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    2019-08-02

    小学生も、中学生も、高校生も、大人も同じだな~

    07:03

     ある高校の授業を参観する機会を得ました。

    話し合いの仕方を学ぶ時間。

    対話を積み上げていくプロセスを、短時間でぎゅっと。

    その短時間の中にも、いろんなドラマが見え隠れします。

    (ああ、小学生も、中学生も、高校生も基本同じだなあ)

    と思いました。


     関係性の中に学びはあるんだと感じます。


     帰ってから、職場の学校の「1学期振り返りシート」の記入をしました。項目ごとに自分の見方で「よかったこと」「今後の課題、チャレンジ」を文章にしていました。


     やっぱり、職員室も教室と同じだなあ、と思います。

     関係性がよくないと前に進まないし、一方で「仲良し」を目的にしてもきっと停滞するでしょう。

     

     クラス担任のころ、学級目標なんかを話し合う時に、子どもが

    「けんかをしないクラス」

    なんて意見を言ってくれることもあって。

    「なるほどね、大事なことかもね。それだけなら誰とも話さなかったり遊ばなかったりしたら達成できそうだねー」

    なんて意地悪をいうと

    「それじゃ意味ないでしょ!」

    なんて言われたことあった笑。


     そうそう、そういうことですね~。

     2学期も楽しくガンバロー(^^)

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    2019-08-01

    話し合うことの意義と価値が分かっていること

    07:12

     その体験がベースにないと、ってことなんだと思うなあ。

     話し合うことが、よりよくなることにつながるとか気持ちいいにつながるとか。

     「話し合ってよかったなあー」

    という経験を積んでいることなんだと思う。

     反対に

    「話し合っても無駄だった」「意味がなかった」

    なんて経験を積み上げてしまうと、話し合うこと自体に意欲的になれない。

     小さなことから大きなことまで、自己選択と自己決定が尊重されることが「自分らしく生きる」基本的な人権がもっとも大切にされている状態。

     話し合うこと、他者とコミュニケーションをとることが、ココにつながってくるという体験を丁寧に積み上げていくことなんだなあ、と思う。

     そこに「学校」「教室」って場が、子どもたちにとっての、まずは「社会」であることの意味なんだなあ、と感じる。

     そして、それは職員室がモデルになるってことなんだと思うなあ。

     

     いけるいける(^^)

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