2019-07-31
ふるさと・ありんこ塾終了。ありがとうございました。
2日間の「ふるさと・ありんこ塾」終了しました。
1年生から6年生までと,そこに地域の大人の方々も混ざっての2日間の生活でした。
ウニ剥きしたり,流しそうめんをしたり,カレーを作ったり,キャンプファイヤーをしたり,広い場所にみんなで布団を敷いて寝たり。
モールス信号体験,も。
家族と離れて初めて一人で泊まる,という低学年もいましたが,
「来年も,また,ありんこ塾に来る!」
と言って帰って行きました。
流しそうめん用の竹を切って準備してくださったり,船を出してくださったり,キャンプファイヤーの場所の草刈りを事前にしてくださったり,多くの方々の影ながらのお心遣いに感謝です。
駐在所のお巡りさんや神楽の師範さん,調理師さんなど,今までも学校の子どもたちと関わってくださった方々も,今回もまた違った役割で一緒にいろいろやれたこともありがたいなあ,と思います。
2019-07-30
もちゃもちゃ
「探検隊の気持ち!」
「新しい何かを発見したりする時間になるといいよね。」
「新しいところで違う雄勝の発見したり再確認したり。大人も一緒に楽しみながらねー」
「子どもたちに違う者を見せる,場所とか風景とか,遊びとか…」
そんな企画会議を経ての「ふるさと・ありんこ塾」
雄勝まちづくり協会と雄勝公民館の主催。
いろんな大人と学校の子どもたちがごちゃ混ぜにまって泊まりがけで遊ぶ毎年の夏の入り口です。
今年は,船にのって,船でしかなかなか行けないプライベートビーチへ「上陸!」するのが新しい企画。
砂浜近くまでに漁師さんに船を寄せてもらって,そこから海に入りながら砂浜にあがる,そんなのもなんか冒険って感じ。
先日のイエナプラン教育協会全国大会で心に残った
「遊びは子どもにとっての最初の対話」
って言葉を,確かめながらの時間になった気がします。
今,布団の上で起き出したいろんな学年の子たちが,戯れてごろごろしてもちゃもちゃして遊んでいます。
まだ寝ていたりする子がいるので
「しーっ…」
なんていいながらも,それでももちゃもちゃ寝っ転がりながら,くすくすわらたりしながら。
2019-07-25
わらしべ、な日
なんか、いろいろと考えることもあり、けっこう気分低空飛行で職場に行ったんですけどね…。
ある打ち合わせで、保護者の方が来てくださっていて、いろいろ話しているうちに、なんかいいこと、おもしろそうなことをたくさん思いついて。
保護者の方と一緒になって
「それ、面白い!」
とか
「あ、いいこと思いついた!」
とかって話していてだんだん調子が戻ってきました、そんな1日。
それは午前中なんですが。それでもって、さらに午後もいろいろあって。
「これどうすっかな~、なんか誰かからヒントもらえないかな~」
と考えていたら、またもやまさにどんぴしゃの方が目の前にいたりして。
わらしべ長者のような1日。
いろんな方々に、いろんな偶然で出会って、それでもっていいこと思いついた日。これからまたなんか起きそうな予感がする日。
それで、最後には、思いがけずこんなすてきな写真をプレゼントしてもらいました。
これにも実はエピソードもありまして。
そこは省略(^^)
田んぼ×海ですよ、すごくないですか(^^)
今日の文章は、特定の人向け、ですね…笑。
ぎりぎり7/25付けになったのも、また神ってる!
2019-07-24
無題
思い通りに行くわけがないってこと。
全てが思い通りになるなんてそんなことはなくて、うまくいかないことの方が実は多いんだよね。
当たり前だなあ。
人が相手だとなおさら。
それを忘れてしまうと、変に傷ついたりしちゃって、それが嫌でアプローチするのも意見を伝えるのもやめてしまったり、下手をすると
「どうせ…」
みたいな、おかしい思考に入っていったりしちゃう。
あぶないあぶない。
思い通りに全ていかなくても、そりゃあ当たり前。
だってそれぞれに事情や状況があるんだからね。
それはそう。
応えてくれる方がいるわけだから、そこに感謝しないとね。
そして意見や思いが違う人ともお互いのちょうどいい、を探っていけるといいし、これから先も考えていけるといいんだな。
そして、やっぱり自分が実現したいことについては、自分で決めて自分で動き続けていきたいな、そう感じる。
2019-07-23
「自分のアソビゴコロ×雄勝」 先生たちのワールドオリエンテーションお試し版
学校教育目標ワークショップ。
ネーミングはなんかカタイけど、あえてこれ。
でも、目標は
〇アソビゴコロいっぱいのぼくらの「夏休み」計画を立てる(どきどきわくわくのPBL企画書づくり)
〇どどきどきわくわくからスタートする探究的な学びについての理解を深める。
と設定。
先生たち自身が、「自分のアソビゴコロ×雄勝」をテーマに、夏の探究活動を考えるもの。
ファシリテーターは(株)アソビジ代表の中川綾さん(組織開発ファシリテーター・日本イエナプラン教育協会理事)をお迎えしたので、
〇イエナプランのワールドオリエンテーション
〇PBLとは
の学習を事前に。
私たちが学ぶこと、探究することを楽しんでみよう、そんな企画。
「自分を元気に、みんなを元気に、まちを元気に」のOGATSU COMPANY 職員部!
ワールドオリエンテーションお試し版。
子どもたちにいつも言ってる
始まりまーす。(^^)
2019-07-21
看護、介護、医療、福祉と教育
看護、介護、医療、福祉、そして教育。
最近、わたしが参加している学びの場には、そういう分野の専門職の方々が集まっています。
そこで出されるテーマは、ケアでありサポート。
対象が大人の方、それもご高齢の方を想定している場合も多い気がします。
そこで共通して大切にされているのは「ご本人の意思、言葉」
そして、ご本人に関わる方々が持っている情報を、エピソードベースで共有すること。
それぞれが持ち寄るその情報をベースに、ご本人に最適と思われるケア・サポートをみんなで多面的に考える、役割を分担する、そんな感じ。
看護、介護、医療、福祉。
この分野の方々の見方考え方から、本当に学ばされます。
もっと削いで行かないと、ここに行き着けないのかもなあ、と感じました。
2019-07-20
アソビゴコロ
「先生たちにもっとアソビゴコロをもって,いや出してほしいんだよね。」
「『あれしたら面白いんじゃないか』,とか『これがしてみたい』とかね。ゴールを決めるのも,大事だとは思うけど,目の前の面白さから思いがけず学びがスタートする,そんなことあるよね。」
「できない理由がでてくるんじゃなくて,どうしたらやれるかな,そんな感覚で楽しんでほしいんだ。」
「子どもになったみたいにさ,自分が楽しいを体験していないと,その楽しさをつたえられないよねえ。」
1学期終業式の昨日,校長先生と話していて,そんな内容の話を受け取った。
(言葉は私が受け取ったメッセージなんで文責は私(^^))
アソビゴコロ。
何かを夢中になってやること自体が遊び。
そうなってくると,遊びなんだか学びなんだか分からなくなるし,そもそも区別することなんてあるのか?って話になるよね,と思う。
子どもたちも夏休みに入り,先生たちもいつもよりはちょっと余裕が生まれる。
さてさて,大人にとっても「どきどきわくわくのチャレンジ」ができるような「夏休み」の始まり。
「遊びは学び,学びは遊び」を大人がやろうよプロジェクト笑。
そのキックオフミーティング?は22日,職員の「第2回学校教育目標ワークショップ」で。
ゲストのファシリテーターをお迎えして(^^)。
いろんな意味で楽しみです。
2019-07-19
「障害」は「生まれる」んだな
希望研修として「発達障害教育研修」に参加。
午前は医療現場から見た「幼児児童生徒の理解と支援の在り方」について、午後は児童生徒支援をされている方とのワークを通して、困り感のある子どもたちの感覚を疑似体験する講座。
学びの多い一日。感謝です。
「ユニバーサルデザインとは、始めから『いろんな子がいるよね』の前提。選んで、その方法を選択するってこと。バリアフリーだと、障害、をカバーするみたいな意味合いになる。」
なるほど。
個人の特質と環境の双方の関わりから、障害が生まれる。差分を埋めていく働きかけはどうだといいのかな?
そこを考えていくことだな。それも教師だけで考えるのではなくてみんなで考えていくことなんだな。
「個人と環境の「ちょうどいい」を探る。環境を変えていく。」
「最終的には障害を感じなければいいよね、ということ。」
環境調整。
環境設定でもないんだろな。ちょうどいいを探り続けること、それ自体がお互いを尊重し合うことになるんだと感じる。誰かが誰かのために我慢するってことじゃなくて「ちょどいい」を探るってこと。
きっとそこに対話があるんだと思うなあ。
「究極の目標は子どもたちがペアレンティングスキルを身に付けること」こと。
つまり、「子どもたちが子育てのスキルを身に付けること。」とのこと。
持続可能な社会、次世代を育てるスキルってことなんじゃないかと思う。
お互いに尊重し合うことで「共に生きる」ってことだな。
そういうことがつまりインクルーシブってことなんだろうなあ、と感じた。
小規模少人数小中併設の本校。
開校3年め、「地域と共にある学校」を目指しながら、「異年齢での学び」や「地域の方々との協働でつくるカリキュラム」を「模索してきているけど、それと重なる、そんな風に確かめられた1日になった。
2019-07-18
放課後
帰りの通学タクシーを待っている1年生と校庭で遊んでいた。
鬼ごっと、というハードな遊びになって、
(まじかー笑)
と思って、まあ、一緒にやっていたとき。
3年生教室前のウッドデッキのところをうろうろしていたら
担任の先生が窓から顔を出して、
「あ、よかったら子どもたちのリコーダー聞いてもらえません?20分くらい練習して、上手になってきたので!(^^)」
と声を掛けてくださった。
「へえ!ぜひ!」
と言い。一緒にいた1年生も誘って、ウッドデッキから直接教室に入って聞かせてもらいました。
「おお!いいねえ。」
「今度、また発表会するといいよね!」
と声を掛けながら、お礼を言ってまた1年生と一緒に教室から出た。
こんな感じがすきだな。
2019-07-17
所見文をかく学び合い
通信表がオール記述になる今年度。
各教科の評価も通信表では文章で表現します。
先日は、先生たちとその所見文を書くときの学校としてのポイントや留意点を確かめ合い、そして実際にお試しに書いてみるという学び合いの時間。
「単にエピソードだけを拾って書くのではないから、これは、なかなか難しいよね。」
という声も。
確かにそう。
なぜそのエピソードを取り上げたのか、その意味付けが自分のなかにないといけないので。そこから子どものどんな力が付いてきていると見取っているのか、ということ。
苦しいけど、楽しい。
そうなるようにしていきたいな。
でもまずは、小さな成功体験。
ここからなんだな。
2019-07-16
「本、旅、人」から学び続ける人生は楽しい
「『忙しいのは当たり前』への挑戦」(妹尾昌俊:著)を読了。
よく言われる「働き方改革」。
何のための、が大切。
たしかに。時短が目的というのでもない。
この本の中で、特に特に好きなフレーズは
「『本、旅、人』」から学び続ける人生は楽しい」
という一文。
学校の先生が学ぶことを楽しんでいないと、子どもたちにそれを伝えることなんてできない。
ぼくらが、本来時間を掛けないといけない「学ぶことを楽しむ」ために何をやめるか、ってこと。
ちゃんと考えよう、そして試しに「やめてみる」ことを増やしてみよう。
そして、その結果、私たちが何がほんとうにしたいのか考えてみる、そんなことをゆっくりやってみよっと。
2019-07-14
通信表が変わる
みんなで話し合って、今年度から通信表をオール記述式に変えます。
いわゆる「よくできた」「できた」「もう少し」の欄に〇を付ける、ああいうのじゃなくて。
昨年度、通信表の時期になると先生たちからよく聞かれた
「あー、書きたいこと、伝えたいことたくさんあるのに書き切れないなあ。」
「もっと〇くんのいいところや頑張りを伝えられたらなあ…」
「うーん、□くんの努力を『よくできた』『できた』『がんばろう』に当てはめて伝えるなんて、ちょっとできない…」
という言葉。
来年度からの新しい学習指導要領では、未来を生きる子どもたちに「育てたい資質・能力」が示され、それを元に各教科領域の目標もつくられています。
だったら、当然評価も変わりますから、通信表を改訂するにはいい機会です。
うちの学校らしい通信表って?ってを考えるチャンス。
学校教育目標「自ら考え、共に歩み、未来を拓く子どもの育成」につながる毎日とそこに向かっているプロセス、歩みが記された通信表って?ってこと。
コンセプトは、
1 子どもにとっても,大人(教師,保護者)にとってもよいものにする。
(子どもにとって:受け取ってうれしい,成長につながる,自信につながる…)
(保護者にとって:受け取ってうれしい,子どものよさや頑張りがリアルに分かる…)
(教師にとって:書いてうれしい,自身の成長につながる,より適切な評価になる、子どもを後押しできる…)
2 学習指導要領総則「学習評価の充実」P93に沿う改訂・改善にする。
3 持続可能なものにする。
1,2,3のバランスをとる。
昨年度から、毎職員会議の中で少しずつ新学習指導要領の意図・目指す方向性等について資料提供をしたり投げかけたりしてきました。
今年度からは、「育てたい資質・能力」とその評価の一体化を図るために、観点を持ちながら、子どもあたちのエピソードを記録していくことを話題にしてきました。
事前の先生方からのヒアリングと校内での通信表検討委員会の議論と情報提供を経て保護者会での説明、とプロセスをつくってきました。
そして、今ここ。
あらためて
「評価って難しい…」
本当にそう思います。
通信表の作成は、今年度より前期と後期の2回。
夏季休業中に、担任の先生方は各教科についてある程度の評価所見を書くことになっています。そして9月吟味期間をおいて月末に子どもとの面談を通して家庭配付、といスケジュール。
小学校全校児童17名だからできることかもしれません。
だからこそのチャレンジ。
カタチは整ったので、あとは中身をみんなでいいものにしていくことです。
週明けには、夏休み前に先生たちみんなで「所見文をどう書くかワーク」をする予定。
私たちの学び合い。
難しい、を実感することもまた大事なことだとも思っています。
難しい、を「でも楽しい」にできるかが大きなチャレンジ。
2019-07-13
簡単じゃない
先日、グラフィックデザイナーとしてお仕事をされている方に来ていただいて、子どもたちと出会ってもらいました。
「自分を元気に、みんなを元気に、まちを元気に」をテーマにしている総合的な学習の時間。
今まで、「ふるさと雄勝」をフィールドにした活動やほってぇ皿つくりなどを通して、テーマに向かったプロジェクトをしてきました。
オガツカンパニー、と名付けた仮想会社もこの2,3年の活動でだんだん自分たちのものになってきたこの段階で、「会社のロゴマークをデザインしよう」ということです。
イメージとしては、「ふるさと雄勝」や「オガツカンパニー」を象徴するマークをみんなでアイデアを出し合いながら考えることで、今までを振り返り、これからをイメージする、そんな機会になるだろうと思ってのこと。
そして、そのロゴマークを元に、雄勝のまちのみんなと一緒に「自分を元気に、みんなを元気に、まちを元気に」に向けてゆっくり進んでいけたら嬉しい、と思っています。
それから、もう一つ。
地域の方々を含め、多様なステキな大人たちと出会ってほしいと願っています。小中併設校の本校の総合的な学習のゴールは、キャリア教育としてのそれでもあります。ですから、学ぶことと社会で役割を果たすこと、自分の「好き」や強みを生かして生きることにつなげていく、そういうことも大事なテーマ。
デザイナーさんとの1回目は、まず
「自分をあらわすロゴマークつくりに挑戦」
でした。
やってみるとわかる、その難しさ^_^。
あーでもない、こーでもない、と描いては消し描いては消し、という子どもたちもたくさん。
3年生から6年生までの一緒の活動なので、いろんな友達と
「ねえ?これどう?」
「◯ちゃんのいいところはさ…」
なんて相談もしながら。
机の上は消しゴムのカスだらけになりました。
結局、時間内に「これだ」というものまで出来た子はいません。
それだけ難しい。
そりゃあそうです。本気で考えるってきっとこういうことなんだと思います。
出来なかったから残念、じゃないんだな。
簡単にできるようでは、むしろ困るかも。
「難しいから面白い」
多分、仕事ってそんなもの。
だから、「出来ない」ことの価値を伝えることだって、私の役割だと思って、みんなとの総合を楽しみながら組んでいます。
難しいけど、楽しい。
【追記】
子どもたちと出会ってくださるステキな大人たちは、誰もが
「好きなことをやってここまできた。好きなことを続けるのは、苦しいけど楽しい。」
大体の方はそういうことを言います。
やっぱりな、と思います。
2019-07-12
「楽しい」「やってみたい」そして行動しちゃう
いろんなプロの方々と出会う機会がある。
写真家、デザイナー、陶芸家、お菓子職人、漁師さん、硯職人さんなどなど。たくさん。
学校に来ていただき、子どもたちと出会ってもらったり。
学びの場でご一緒させていただいたり。
講演、という形でお話を伺ったり。
一緒にお話したり、聞いたりするなかで、私の感じるそういう方々の共通項は、
1 「おもしろい!」「楽しい!」「やってみたい」、を見付けたら行動に移すのが早い。(迷いがない、ように見える)
2 好きなことに一生懸命。好きなことをやっている。もしくはやっているうちに「好き」にしている。
先に挙げた方々以外でも、本当はどこの誰でも「おもしろい!」「楽しい!」「やってみたい」はあるし、それを実際に行動に移していることって多いはず。
だから、子どもたちにも
「うん、それでいいんだ。」
って行動や姿で伝えられたらいいんだな。
教師としての私は、そういう大人たちと子どもたちが出会える場をつくる、そういうことが、自分が楽しいってことでもある。
身の回りに、すてきな大人は、もちろんすてきな友達はたくさんいるよ、そういうことがちゃんと感じられる自然な場をつくっていきたんだな。
それが私の「楽しい」「やってみたい」なんだな。
今週出会ったのはこの方々。
刺激をいただきました。
http://www.enround.com/w_onuma.html
https://magazine.hitosara.com/article/852/
2019-07-11
無理難題
無理難題。
ときに
「え?」
なんて無理難題と思われる要求がきたりもする。
「そんなの無理だよなあ…」
ってことにして、無理な理由を並べてみたり、どうかするといらいらしてみたりして、その「無理さ」をアピールしがち。
それは、自分の「文脈」で「無理」だから。
でもふと考えると、その自分にとっての「無理難題」は、要求している方にとっては「無理じゃない」「文脈」があるってこと。
こう思えるといい。
ならばもう少し聴かないと。
聴いた上で、求めてくる方の思いと自分の思いの一致点をどこに置くかってことになるわけで。
ふむ。
時に、その「無理難題」に乗っかってみて、その中で自分の思いを活かせる道をさぐるのも案外、思いがけない新しいアイデアが生まれるかもしれないな。
そして「無理」ではなくなったりして。
「無理」にしているのは、けっこう自分だったりするかもしれないから、時には、「無理難題」の枠に入ってなんとかしてみるか。
次に行くチャンスかもしれないから。
2019-07-10
翻訳する
毎日、いろんなことがあったり、忙しかったりして余裕を失うと、いろんな弊害が起こる。
「あ~、もう、〇〇だよなあ…」
とかまあ、自分に向いているのはまあ、いいんだけ。
時に、他者が話していたりすることが気になって、
(そんな、誰が悪いとか、何のせいだとかって言っても、そりゃあ仕方ないでしょ)
と思ってしまったりすることもあったりするんだけど。
でも、それって、言葉そのものを受け取ると、「人やもののせい」にしているように思ってしまいがち。
自分がちょっと落ち着いて考えられると
「私、いま困っているんです…」
だったり
「ちょっとつらいんです…」
に翻訳できることに気が付くな。
日常のコミュニケーションがちょっと足りなくなっていますよ、というサインに気が付けるアンテナをちゃんと働かせないとね。
自分自身に余裕がなくなってくると、言葉を言葉通りに受け取ってしまって、意識的に自分でいらいらをつくりがち。
いかんいかん。
2019-07-09
傷つくかもしれないけど、大事なことだと思うのなら、話そう。
自分の首を絞めるのは、自分だってことだな…。
と思った。
自分を守るために、自分で誰かを悪者にしたり、環境のせいにしたり、ものにせいにしたり。
「だってさ…」
「~だから仕方ない」
とか。
あきらめて他の選択肢にすっきり切り替えられるのなら、それもよし。
そういう時は、きっと十分な対話があってこそ、なんだろうなあと思う。
他者とも、自己内でも。
それがしっかりやれていないと、「こと」に縛られて、気持ちをどっかに置き忘れてしまうことになる。
気持ちを置き忘れると、「こなす」ことに「流されたこと」にしてしまって、自分を納得させようとしてしまうんだけど、それってひとつも解決にならない。
「こと」に居着いてしまう状態、とも言ったらいいのか?
居着かないようにするには、解放しないと。
だから、話そう。
傷つくかもしれないけど、大事なことだと思うのなら、話そう。
ある程度のリスクは負わないと。
そういうことだな。
お互いにとって、それはきっと大事。
気付いてよかった。
あぶないあぶない。
2019-07-07
「ローカルな価値観」と「グローバルな価値観」
見ていた番組での問題提起。
捕鯨に関するニュース。
話題は和歌山太地町。
捕鯨のまち。
捕鯨のまちとしては,日本の商業捕鯨再開をよいこと受け止める。
一方で,世界ではそれを
「なんということ!」
と非難する動きもある。
石巻地区で言うと,鮎川をはじめ,捕鯨が盛んだったこともあり,地元新聞的には好意的な報道。
「捕鯨か反捕鯨か」
この問題は世界の縮図,が番組のテーマ。
相容れない価値観とそれを進める「分断」。
「伝統や文化を今まで大事にしてきたんだ」
「伝統や文化だからといって,それでいいのか」
激しい対立。
「正義」と「正義」のぶつかり合い。
自分と違う正義をもった人との共存とは?
「ふたつの正義」
○○にとっての正義。
二つの正義の折り合い点はどこにあるのかな?
三方よし。
生き残る,みんなが,という一致点かな。
「みんな」は文字通り「みんな」
『学び合い』でいうところの「一人も見捨てない」かな。
「少数派を大事にするのは,やがて大多数を救うことになる」
共生社会か,競争社会か,みたいなところと似ている感じ。
自然界だって多様な生き物がいるからこそ,持続しているんだろうし。
個人の余裕がなくなってくると,まずは「自分が」生き残ることに注力してしまう,それも分かるし。
「みんな」を考える,それも余裕があってこそ。それだけの余裕があること。
余裕がある人が丁寧にそこを伝え続けるってこと。
その人だって,いつも余裕があるという訳ではないから,それを伝える人は入れ替わったり複数いたり,そうでないと続かないよね。
それぞれが当たり前に「違う」を認める。「正義」も違う。
囲われていると,「正義」が自分だけのものになる?
分断が,偏った正義を生む?
ふむふむ
居心地のいいところだけにいると,価値観も偏るなあ。確かに。
自分が居心地のいいところ「だけ」にいると自らで自らを「分断」することにもなる。
外にも出て,違った価値観の中に入り込んでみるってこともいるなあ。
いろいろな人と関わり,時には対立したり傷ついたりすることだって,それはそれでありなんだろうと。
適度な「不安」。安心と不安の行ったり来たりが自由にできるといいんだね。
川を下る魚が汽水域で体を慣らす,みたいな感じ?
「分断」しようとする動きや気持ちは自分の中にもある,と認識することが必要だな,自分は「違う」と思ってしまいがちだけど,そここそが危ない,危ない。
余裕を失うと…ってことでもあるな。たしかに。
共感はしなくても「知ろう」とする。それが「余裕」かな…。
どこまで見ているか,見ようとしているか。
見えていない自分に気がつけるかってことでもあるよなあ…。
そんなふうに感じました。
2019-07-06
普通,かあー
「もっと『普通』を疑え」
が,たまたま今見ていたドラマの最後の言葉…。
ふむふむ。
「普通」は何のためにあって,誰が決めるものなのかな~。
それじゃあ,『普通』はないか,全部『普通』かどっちかってことになるのかな?
2019-07-04
「自分を元気に,みんなを元気に,まちを元気に」
「総合的な学習の時間」
3~6年生の11名と各担任の先生4名とで進めている。
「自分を元気に,みんなを元気に,まちを元気に」をキャッチフレーズに「ふるさと雄勝」をフィールドに「やりたい,やってみたい」プロジェクトをあれこれ相談しながら進めている,そんな感じ。
だから,いろんな話し合いは日々いろいろ行われる。
だから,そのスキルは時に練習。
本校では,ホワイトボード・ミーティング®のスキルをそこに取り入れています。そこがまずは出発点。きっかけ。
「自分を大切にして,相手も大切にするってことなんだよ。つまりはね。」
そんなことを毎回伝えながら「聴き合う」練習。
この日は企画会議と役割分担会議。
2019-07-02
分かってもらうには
「分かってもらうには、分かってもらうだけのものを見せていかないといけないよね。」
校内のある話し合いの中での言葉。
「いくらいいことだとしても、それが分かるように見せていくこと、それは必要でしょ。変えるってことは、だから大変なんだよね。」
確かに、なんだ。
だから時間もかかるし、かけるんだよな。
覚悟を決めてやらないといけないってこと。
いろんな意味でも。
2019-07-01
それぞれちゃんとやってる、からスタートしたい、しないと。
ちゃんとやってる、それぞれがそれぞれのやれることを(自分からはそう見えない時があったとしても)今の現状の中で「ちゃんと」やってるんだ、という視点に立つっているよね、と思った。
自分に余裕がなかったりすると、
(もう、ちゃんとやってよ!)
ってことになったりする。
それでいらいらしちゃったり。
でも、それで事態がよくなったことはない。
人それぞれ、いろんな条件状況下で「今できること、今しないでおけないこと」を「ちゃんと」やってるんだよね、本当は。
どこから、それを見るかの違いだけ。
その規準は「快」だったり、「命身体の安心安全」だったりを、それぞれが判断してのそれなんだと。
自分に余裕がないと、そこをどこかに置いてきぼりにしてしまうな。
結局,自分なんだな。