次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2019-06-17

    「見たくないものを見る」「見ていないこと」に自覚的であること

    06:24

    ■「コラボノチカラ」振り返り1

    「そのフレームの外には何が起こってるのか?何があるのか?」

    そのことに、無自覚であることに気付かされる。

         

     写真にすると、まさにそれがはっきりする。

    「はっきりするはず」なのに、余計そこに気が付かなくなり、いつの間にかその意図的に切り取った、(そう意図的に切り取った、なんだな)「フレーム」の中が、「全て」のように思い込みたい、そんな作用が働く。

     それは無意識的なのか?意識的なのか?

    おそらく両方だな。


     きれいなもの、美しいもの、和むもの、おもしろいもの…。

    自分が(そう自分が、なんだな)価値があると思い、見たいものにフォーカスする、目を向ける、レンズを向ける。それはそれで悪くないし、

    (ああ、自分は今ここに目が向いているんだな、ここが「見たい」んだな)

    と分かることは大事なこと。

     

     でも、その「見たい」ものが生まれると、同時に「見たくない」ものが生まれるってこと。

     

     そこに無自覚になることが怖い。

    「見たくない」「見ようとしなかった」「見ることを避けてきた」ものをあえて「見る」。

    そこまでできないときは、少なくても、それがあることに気付く。

    意識的になるだけでも違うよね。


    「見たくない」「見ようとしなかった」「見ることを避けてきた」ものを見ようとすることで、それがきっと「ちゃんと」向き合うってことなのかもしれないな。

     

     そして、私が「見たいもの」「見ているもの」が、全ての人のそれじゃないってこと。

    そこも大事。


     コラボノチカラ、まさにここにあり。


     しばらく「見たくないもの」を,見てみよう。


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