次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2018-01-03

    「生身の人間としての感度」

    10:45

     「生物としての人間が生きて行くための必要な資源や制度は等身大で,リアルです。そのような領域はそのような領域のための特別なルールで管理されなければない。でも,この常識的知見に与する人が今の時代にはもうほとんどいません。政治家官僚メディアももちろんビジネスマンも,全員が『全ての社会制度を政治と市場に従属させよ』と言い立てています。社会的共通資本も例外ではありません。僕たちの社会が『生物としての人間』にとってどんどん生きにくいものになっているのは,そのせいです。」(「内田樹による内田樹」)

    内田樹による内田樹 (文春文庫)

    内田樹による内田樹 (文春文庫)

      医療,教育,司法。人間が共同的に生きていくために必要な制度(「社会的共通資本」:宇沢弘文氏)。基準になっているのは,「生身」であり,尺度になっているのは「人間の生きる時間」。

     ただ一つの市場,ただ一つの通貨,言語…。市場経済の流れのみを考えるとその方が都合がいい,「売り」「買い」できるものに関して言えばそうなのかもしれません。すぐに売ったり買ったりするには都合がいい,すぐに(売り買いに関して)意志疎通できたほうが都合がいい,みんなが同じものさしで取引できたら都合がいい…,そんな感じなのかもしれません。

     教育の現場にも,少なからず市場原理が持ち込まれていることを感じます。「ただ一つの○○」「統一した○○」とかもそうでしょう。「○○スタンダード」とか。ものさし(評価)に関してもそんなところもあります。いいか悪いかは,その場で当事者が判断するものでしょう。見るべきは,それがそこにいる子どもや先生や地域の方々のハッピーにつながっているか,ということなんだと思います。そこ(「生身の人間の感度」)を脇において,「世の中がこうだからこうなんだ」「そのほうが効率的だ」「時間がないから仕方がない」という理由で「生身の人間としての感度」を置き去りにしてしまうようなことがあってはいけないなあ,と思います。


     ミヒャエルエンデの「モモ」を思い出します。「灰色の男」たちと,床屋の主人との会話。まさに今の私たちは「床屋の主人」。ここから,主人が「時間のむだ」ということからどんどん自分の生活を変えていってしまうことになります。それで,主人が幸せになったのなら良いのですがね。

         

     学校は「社会に適応した人」を育てるのではなくて「社会を創る人」を育てる。「自分が幸せな人」じゃなくて「他者の幸せをつくる人」。「人間の生きる時間」を物差しにした社会的共通資本の一つ。内田さんの言う「共同体の存続」を,目的とした場。それについて,私もそう思います。

     だから,

    他者の話を聴き合いながら,ともに前に進む」きっかけになる場をつくることに今年もチャレンジしていきたい。私はそう思っています。