次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2015-08-15

    わかりやすさ、わかりにくさ

    15:53

    「わかりやすい」はいいことで、「わかりにくい」ことよりよくないことか?

    「わかる」のはいいことで、「わからない」には、よくないことか?

    教師っていう仕事は、確かに、割合でいうとだけど、「わかる」と「わからない」を多く扱う仕事も言える。「わかる」「わからない」「わかりやすい」「わかりにくい」…。そんな言葉にいっぱい接している中で、陥りそうな穴があることを知らないといけないなあ、と思う。

    どちらにしても、想像力、がいるんだと思うなあ。

    わかりづらいけど。

    「余り」を考える

    10:18

    明日があるさ (朝日文庫)

    明日があるさ (朝日文庫)

     本を読むことがけっこう好きです。夏休みみたいに時間がある程度使えると,あれこれ読んだりします。

     重松清さんの作品が好きです。今回,この本を読んでいて気が付いたのですが,「もやもやがいつも残るところ」が好きなんだなあ,と分かりました。

    重松さんはそれを「余り」と表現されています。

     8÷3=2あまり2,みたいな「余り」

     だいたい,身の周りのほとんどのことは「余り」がでます。すっきりきっぱり割り切れるようなことでも,本当は「余り」があるでしょう。見えない,見ないだけで。その「余り」の有り様を,重松さんは見えるようにしてくれる,そこが好きなんだなあ,と気が付いたわけです。

     この本はエッセイ集です。小説ではありません。

     その中の一つの,ある一節。

    @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

     ぼくは,小出先生にではなく,「優れた指導者」である監督を「教育者」だと言い換える政治家のセンセイがたに対して,不満と不信を抱いているのです。(中略)

    「指導」はもちろん,「教育」の中の重要な柱ですが,「指導」=「教育」ではないはずです。しかし,昨今の「教育」を巡るさまざまな議論を見ていると,「指導」=「教育」にしてしまおうという思想が露骨に覗いているような気がしてなりません。

     学級崩壊は教師の「指導力」が下がったから,とよく言われます。でも。たぶん,それ以前に「求心力」が失われている。「求心力」,言い換えれば子どもたちの心をつかむ魅力のないひとが,強引に「指導力」を発揮しようとしたら…。ほらほら体罰復活とかコワモテな言葉が浮かんできちゃうんですよね。

    @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

     身につまされます。こうありたい,という願いはあるものの,思い通りにいかなかったり,周囲との関係であったり,なにより自分の気持ちの弱さだったりして,「こうありたい」という思いがぶれたり,どこか見えないところに行ってしまったりすることもあります。そうなると,手っ取り早い(と思われる)強引な「指導」に走ってしまうこともあります。そしてその後に自己嫌悪に陥ります。今まで何度もありますし,ひどいことを言ってしまったり遣ってしまったりしたことあります。そういう時のきっけは,大概,目にした,本で読んだ,いわゆるすごい人の真似を無理にしようといたときなんです。一方通行。ごめんなさい。力が足りません。

     重松さんの,ここでいう「求心力」っていうのは,きっとシンプルに「君たちには力がある。失敗したりすることもあるけれど,前に進んでいける存在だよ」と信じ続けて応援することなんだろうって思います。何も特別なことじゃないんだと思います。

     私も,子どもたちも,みんなそれぞれ「余り」を抱えています。割り切れていそうでも,「余り」があります。しかし自分の,子どもたちの「余り」に無頓着になってしまって,それぞれが抱える「余り」を無視して事を進めようとすると,うまくいきません。うまくいっているように見せることも,人によってはできるかもしれませんが,いつかほころんだりするでしょう。それがいつかは,わからないまでも。

     でも,その「余り」と「余り」を足せば,また割りきれることに近づけるかもしれません。でもまだ「余り」は出ます。それなら,また「余り」と「余り」を足すしかありません。その「余り」と「余り」を足しながら割り切れる地点をさぐり続ける経験は(終わりは無いけれど),きっと子どもの力になっていくと思っています。

     教師も「余り」があるし,子どもたちも「余り」がある。だから,みんなで何とかしよう,それのほうが,きっといいはずです。