次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2015-07-31

    『遊び』と『学び』

    11:07

     「遊び」と「学び」の違いは何だろう。

    遊んでいる時間でも学べるし,学んでいる時間でも遊ぶこともある。

    そもそも「遊び」ってなんだろう?「学び」ってなんだろう?

    楽しいのが「遊び」で,楽しくないのが「学び」??

    いやいや,違うでしょ(笑)

    やりたくてやるのが「遊び」で,やらされるのが「学び」?

    いや違うなあ…。(時に『勉強』っていうと,やらされ感もあるかな)

    先生がいないのが「遊び」で,先生がいるのが「学び」?

    うーん,なんかこれも違うなあ。

    気分で始めるのが「遊び」で,明確な目標があるのが「学び」?

    こういう一面はあるかもな…。でも目標がある「遊び」もあるし,目標のない「学び」もあるかも…。(笑)


    スマホの辞書では「遊び」には

    「気晴らしをしたり,楽しんだり,刺激になったりするような活動」

    「決まったルールよりも想像力に導かれるような子どもの遊び」

    「楽しみを与える行動」

    などという説明があります。

    一方「学び」は

    「学ぶこと」

    「学問」

    と。


     わたしの印象は,遊びの方が範囲が広くて,遊びの中に学びがあるってことだなと思いました。同一であることだってありますね。

     いわゆる学校で嫌われる「遊び」は,いわば教師の課題からはずれた,または教師のコントロールから外れた状態を指すことが多い気がします。いい遊び?(笑)と区別すると「お遊び」ともいいましょうか。(でも,そのいい悪いも実は教師の都合が決めるからなんとも言えないこともあるけど)

     徹底的に「自主性」「主体性」を達成して行けば,遊びと学びは,なんだ,同じなんだなあ。

     もうちょっと考え続けたいテーマです。

    2015-07-30

    「分からない」がスタート

    08:20

    「人間が勉強しようと思う時のきっかけは、いつだって『なんとなく』なんです。あることすごく学びたい。でも理由はうまく言えない。それが、人間がものまなぶときの、一番まっとうなマインドセットです。」


    数年前、河北新報に出た共同通信の記事、『学び合い』。群馬の八幡小の記事でした。

    「これは、なんだろう?」

    と思って、気になったのが『学び合い』との出会いでした。


    一応、その記事を切り抜いたのですが、しばらくそのままでした。

    しかし、なんかの拍子にその記事のこと思い出して、

    「『学び合い』」「西川純」

    で検索してみたのでした。そこからの新潟の「教室『学び合い』フォーラム」への参加でした。


    参加しながらも、

    (これは一体なんなんだ?)

    が次から次へと浮かんできて、ずっともやもやしていたのを思い出します。



    先日の「明日の授業のための教育講座」では、私やGさんが『学び合い』への質問を受ける側になりました。よもや、私が応える側になろうとは思いませんでしたが、できる限り丁寧に話したつもりです。しかし、おそらく十分納得してもらえなかったのではないかなと思います。



    でも、それでもいいのだとも思いますむしろ、そのほういいのかもしれません。

    そこからがスタートだと、今は思うからです。


    子どもの勉強も、実は「分からない」で終わっていいんだと思います。むしろ、「分かる」で終わるよりも「分からない」で終わったほうがいいのだと思います。

    2015-07-28

    権利としての

    07:23

    今年の11月に「子どもの人権フォーラム2015in石巻」が開かれます。全国規模の大会のようです。

    https://www.facebook.com/crc.ishinomaki


    昨日は、その何回目かの実行委員会でした。

    その中で、「子どもの権利条約と子ども参加」と題して、荒巻重人先生(山梨学院大学法科大学院)のお話もありました。


    基本的人権と視点からの「子ども論」、新鮮でした。新鮮でした、ということ自体「どうよ?」って話だと思うんですが(笑)


    お話が終わった後の質問タイムの中でのやりとりで

    (ああ…)

    と思ったことは…。



    「多くの先生方は、そう99%の人は、『子ども主体にやっていますよ。』とおっしゃる。でも、その多くは『教育手法』としての『子ども主体』であることが多いんです。」

    「御釈迦様の手のひらのうちはいいけれど、そこから出ることは…ということです。」

    「子どもが本当に意味で自主的自発的にやれるか、ということなんです。」

    「手法ではなくて,権利としての『子ども主体』なのかということなんです。」


    なるほど、そうか。手法でなく権利としての『子ども主体』。そういえば今までも

    (いい取り組みだとは思うけど、なんか引っかかるなあ)と

    感じてしまうものは、結局、主体性を手法に乗せていたものではないか?と捉えてしまったものかもしれません。


    ここで大切なのは

    「じゃあ、好き勝手にさせていいってこと?」

    とおっしゃる方もいそうですね。

    そうではないということ。それこそ、基本的人権を相互に尊重するという、ことがそこに貫かれていなくてはなりませんよね。そっちのほうが余程大変で厳しいはずです。でも、きっと楽しい。


    そのあと、学校関係ではなく、石巻で子どもにかかわるお仕事やボランティアされている方とおしゃべり。面白そうなことをまた思いついちゃいました。

    学校以外の方と話すと新しい発見があることに気がつきます。

    2015-07-24

    「職員室の学びは,教室の学びにつながります」からぼんやり考えたこと

    23:19

    ここ,というときにには

    「同じ方向を向ける仲間である」

    ということを,感じられる共通体験なのかな,と考えています。

    もしくは

    「同じ方向を向いて,進んできた事がある」

    という経験。それがベースとなっているいるから,だから「ここ」というときには

    「きっと同じ方向を向いていける」

    という安心感がある,そんな感じ。


     向かい合った関係だと,なかなかそうはならない。「させる・させられる」関係だったり,」「従わせる・従う「使う・使われる」関係だったり,「支配する・支配される」関係だったり。

     あんまり楽しそうじゃないな…。どうかすると対立の関係になる気がします。一時うまくいっているように見えても,長続きしなさそうです。

     それに対して,「同じ方向を向く関係」だとどうでしょう。「一緒に目指す関係」「手を携える関係」「後押しする関係」「モデルになる,モデルにする関係」…。これはどうだろう。なんか楽しそう。楽しいから続けられそうです。

     教室で子どもたちに向かう教師はどうでしょう。「させる・させられる」「従わせる・従う」関係になるとなんか疲れそうです。教師も子どもも。長続きするかな?

     リーダーが(リーダーの役割を担う人が)仲間と「同じ方向を目指す関係」になれた時に,長続きし確かに前に進むメンバーになれるかな,そんな気がします。リーダーと個々のメンバーもひもでがっちり結ばれている訳ではないから,ときには立ち止まるメンバーがいたり,ちょっと脇道にそれてしまうメンバーもいたりするんだけど,「同じ方向」は見ているから,効率が悪いなあと思うこともあるんだけど,トータルでみると前に進める。そんなイメージ,何より自分のペースで自分でコース選択して進めるから,楽しい。


     そもそも教師と子どもたちが「同じ方向を向く」ってどういうことかな。教室の授業の目的・目標を「かけ算」とか「テスト」とかのレベルで捉えちゃうと「向かい合う関係」になりがち。でも,教師がくるりと向きを変えて,

    「自分もこのクラスのメンバー。一緒に算数を通してクラス目標を目指そうよ」

    となれば,いいよね。それが算数でなくても国語でも体育でも行事でもいいわけですよ。教師「も」目指すところに目的・目標を置けばいいんですね。同じ土俵に立つ,ってこと。教師と子どもの間に目的・目標を置くんじゃなくて,教師と子どもの先に置く。そういうことですね。


     だから,お互いに失敗OK。


     『学び合い』の子ども観かな。


     昨日は「『学ぶ』とは何かを共に学ぶ」ワークショップ。校内研修でファシリテーター中川綾さんをお迎えしました。講師も我々も一緒にあれこれ考えました。


     そういう体験の場を,ちょっとずつ積み上げていくことに意味を感じます。

    「職員室の学びは,教室の学びにつながります」

    とのこと。

    うん,そうだろうなあ。


     

    2015-07-21

    学校は民主主義を学ぶ場であってほしい

    21:22

    私は,今は,極端にいうと

    「法律に違反しないなら,別に学校で禁止することは無いんじゃないの??」

    と思っています。

     私が極端なこと,ごくマイノリティな考えであることは自覚していますが,

    さらに正直にいうと

    (なんでマイノリティになるんだ?)

    が分かりません。

     だって,うまくいかない,不都合がある,のなら,そのメンバー間で合意出来るようなプロセスを組むしかないと思うからです。

     だって法律には違反していないわけだから。「禁止」しなくていい。話し合いをもてばいいと考える。

     


     だから,一方的に

    「こうしなさい」

    なんて話になると,どうしても口を挟みたくなってしまうんだなあ。

     合意形成のプロセスを組む,っていうのは,本当に意味で相手を大切にするってことじゃないのかな?だってそのプロセスを組むには丁寧に相手の話を聴き,一致点の探る努力が必要になるから。それには時間がかかる。効率的ではない。でもその効率的でないところに,民主主義のコアがあるんじゃないかと思っています。だって,効率的にやろうとしたら

    「いいから,こうしろ」

    「こう決まったから従え」

    でいいわけです。その方がはやいですから。

     丁寧に合意形成のプロセスを踏む,その経験を大切にすることが学校では実はとても大切なのではないかと思っています。子どもは将来の社会の担い手に習うのだから。みんなが,納得するようなプロセスを踏むか,とくに強者,権力?もったものがそのスタンスがあるかどうかだと思います。


     学校は民主主義を大切にしているか,とうことが問われます。

    2015-07-20

    「明日の授業のための教育講座」

    21:12

    https://docs.google.com/forms/d/1b_YIptBoPbTnhRIfShzpKRv_6Cm7QAqlQh9S2xtbol8/viewform?c=0&w=1

    上記の集会を宮城・南三陸町で行います。実行委員は,南三陸地方,石巻地方の教員です。

     震災から4年半近くが経ちました。もう4年半かという思いもあり,まだ4年半かといういう思いもあります。

     震災以後,宮城,とくに南三陸・石巻地方の学校・教員も様々な形で全国から多くの支援をいただきました。物品,義援金,その他人的支援。

     西川先生を始め,多くの方々も石巻の教員や子どもたちに届くようにと無償で学習会を開いてもくださいました。

     プロジェクト結も震災直後から今でも,学校サポートを続けてくれています。http://yui-school.org/



    組合教研でありますが,今回は今までとは趣を大きく変えました。今までにない内容になっています。今までの組合教研での定番的なものも残しつつ,これまでならありえなかった(笑)『学び合い』,「信頼ベース」「PA」「ブッククラブ」も加えました。

     今までの組合教研が守ってきたものも大切にしながら,上記のような新しい流れも加えることに実行委員会の狙いがあります。

     どれがいいとか,わるいではなく,休みの日に集まって学習会に参加するような方々なら,「宮城の学校をもっとよくしよう」という一点で一致できるはずです。

     宮城の学校は全国でも不登校率がかなり高いと聞きます。それが一つの要因だったとしても,だから仕方がない,とは出来ません。

     今回の研究集会は,今までなら「出会わなかった」人たちが「出合う」可能性があります。目指すは,ここでの教員同士の『学び合い』。いろんな出会いが,次の何かを引き起こす可能性がありますから。

     もっとも,今回だけで大成功になるとは思っていません。そんなに甘くはないでしょう。でもきっかけをつくれば,また次が狙えると思っています。

     まずは「きっかけ」をつくり,続けることかな。それがチャレンジ。

     宿泊参加は締め切ったようですが,日帰りや通い参加はまだ受け付けるそうです。他県からでも,教員以外でも参加できます。(なんとか宿泊,という方は相談にのります,と事務局長は言っていました。)

     『学び合い』分科会は宮城仙南の会のGさんと私でやります。そして分科会担当者には,石巻の教員2名です。講座というよりも,参加者との対話を中心とした構成になります。

    2015-07-18

    1学期が終わりました

    17:01

    1学期が終わりました。昨日は、職場の飲み会でした。有志の自由参加の飲み会だったんですけど、とにかく職員全員が参加、でした。それだけ充実した今年度前半戦、ということですね。

    トラブルもないことはなかったんですが、それでもみんなで乗り越えて次のステップを模索できたかなあ、と思います。


    クラスは、特別支援学級との交流学級になっています。飲み会では、1学期のサポート、その他に感謝して、特別支援の先生と支援員さんにお礼を述べました。本当に楽しくやらせていただいたので。たくさん助けていただきました。


    支援員さんが

    「ほんと、3年生かわいいよねえ。一緒にいると楽しいなあ。みんな仲がいいよねえ。男女で別れるってこともないし。給食だって、男子の中に女子が一人いることあるし、その反対の時もあるしねー。それでいて、別にぜんぜん平気なんだよねー。」(うちは給食は自由席なもので…)

    「女子同士でグループ作るわけでもないし、そん雰囲気ないもんねえ^ ^」

    と言ってくださいます。



    実はこういう評価は私が受け持つクラスは、毎年いただきます。それは、わたしがどうのこうの、ではありません。私の自慢でもありません。本当に。

    それは、たぶん、『学び合い』のおかげです。私の場合は信頼ベース×『学び合い』の力です。毎日毎時間、朝から帰りまでたくさんの友達とおしゃべりし、助け助けられる毎日を子どもたちは過ごします。私が特別なことをしているわけではありません。むしろ、特別なことを「しない」ことにしているだけ。

    トラブルもケンカもあるけど、

    「こういうわけだから、なんとかしたほうがいいよね。」

    というだけです。


    今学期、近くの保育所に何度も通いながら総合的な学習を実施しました。その活動を通して得た感覚は、

    「小さい子の方が、彼らのよさを教師以上に引き出すなあ」

    ということ。幼児は、いとも簡単に子どもたちの中にある優しさや思いやり、笑顔を引き出します。脱帽です。クラスではちょっと自分勝手な子だって、本当に優しい。特別支援級にいる子だって同じです。立派にお兄さんお姉さんになっています。

    誰かの役に立つこと、誰かに助けてもらうこと、ありがとうと言ってもらえることありがとうと言えること。そんなエピソードを毎日の生活の中で積み上げていくことの力を感じます。

    そんな、エピソードが積み上がる時間があるのは、そうできる、そうしていい時間を与えているから。何もしないから、できること。


    放任はしないけれど、見守り、励ましていきたい。まだまだ修行不足で、手や口を出したくなってしまうけれど、もっともっと彼らを信じて見守っていきたいなあ。

    ゆっくりでいいから、じっくり大人へと向かって欲しい。幸せな子ども時代を満喫して、その上で。


    2015-07-11

    おりあい

    10:41

    この間,ある先生が

    「鬼ごっこのことで,子どもがもめて…。」

    と言ってました。聴いてみると3人の子がAちゃんに不満がある,とまくし立てた?みたい。その仲裁にその先生がはいったらしい。


    ①Aちゃんは,鬼ごっこのときに本気でやってくれない。

    ②Aちゃんは,タッチされると,鬼をしてくれないで本気で追いかけなかったり,怒ってにらんだりする。

    ③今までは,それでも私たちは,わざとつかまってあげたりしていたけど,もういやだ。

    ④Aちゃんには本気で鬼ごっこをやってほしい。

     Aちゃんは,実は走るのが遅い。3人の子はある程度みんな速い。Aちゃんは,どうやっても,たぶん3人は捕まえられないだろうなあ,と思う。 

     3人の子は「正義」と思っている。だって「一生懸命は美しい」と思っているから。本気でやってくれないAちゃんに「本気でやって」と求めている。本気でやらないAちゃんに「Aちゃんの本気をシンジテル」と。

     

     Aちゃんの「本気」って何かな?

     Aちゃんが「本気」になったら,鬼ごっこは楽しくなるのかな?

     みんなが楽しい鬼ごっこってどんな鬼ごっこ?

     そもそも,「本気」ってなんだろうね。


     誰かが決めたルールや枠,カテゴリーの中での「正義」じゃなくて,その場にいるメンバーでの「正義」とか「丁度良さ」をつくるルールを,自分たちで創っていく練習の場。おりあい。


     「みんなが楽しいことが自分も楽しい」につながるんですよね。

    とはいえ,あの3人の子も,今まで「がまんしてきた」そうだ。「怒ってにらまれた」ときも,

    (自分たが悪かったかな?)

    と,思って,ごめんね,と謝ってきたとも言う。

    そんな流れがあっての今回。どっちが正しいとか,どっちが悪いとかっていう話じゃないんだよね。

     今回,言いたいことを言い合った,ということ。

     我慢は,長続きしない。

     「お互い楽しく遊びたい」という,ことが共有されていれば,言い合える関係になったのは,よいことですね。