2015-01-31
「体育」
【通信№107より】
学校体育の目的は,大雑把に言えば「運動が好きになる,将来にわたって心も体も健康でいられるようにする」という感じです。心と体。これ大切です。運動が得意な人も苦手な人ももちろんいます。でも得意な人も苦手な人も「みんなと運動するのって楽しいな」そういう経験を毎回の体育の中で,ちょっとずつ積み重ねること,そういうことを大切にしたいと思っています。うすいうすい層を重ねるみたいに。
O小と一緒に取り組んだマット運動もそう。個人個人の取組になりそうなマット運動でもみんなとやるとまた違った味わいです。発表までのプロセスに膨大なコミュニケーションが生まれます。
さて先日は発表会。少ない練習時間に子どもたちから「もっと練習時間欲しいー!」と言われてしまいました。うれしいことです。発表会でも練習の成果がうまく出せないグループからの「リベンジしたい!」の申し出も,それを聞いて,また拍手する他のグループのメンバーもステキでした。体育は「心と体」の勉強なんです。
うれしいフィードバック2
最近は,授業の途中にいい意味で「ひま」なので,算数のTTで一緒に授業をし,お世話になっているS先生と
「○くん,いいですよね~」
「前とは,■さん,こういう点で違って来ましたよね。」
なんておしゃべりをしながら,子どもたちの姿を眺めながら話しています。
それで,昨日の飲み会。そのS先生とお話しました。いろいろお話したのですが,その中からうれしかったことを一つ。
「1学期の最初あたりは,やっぱり,始めて見る授業のパターンで戸惑ったんですよ。だって,私は何をしていいのかそこを見つけるのが難しかった。やっぱり,大人も居場所がほしいし。(笑)それに,私が個別指導に入ったりすると,M先生『ほら~,S先生の手を借りずにやれるんじゃないのかな~』なんて言うじゃないですか。そうなると,私のせいで子どもが注意されてしまったみたいにもなるし,私もどうしたらいいのか,正直迷いましたー。」
と。
(ここは,私の反省ですね。1学期は子どもに語ることと合わせてS先生にも聞いてもらっているつもりでいたので,こちらの意図がわかってもらえていると思い込んでいた節があったのですね。授業をしながらのお互いの対話・会話って大事だなあ)
「それで,1学期のあたりは,やっぱりM先生がいるときといないときってやっぱり子どもたちの様子にも差が出るんですよね。たとえばM先生が出張でいなくて,私だけで算数をするときなんかは雰囲気が違うんですね。それで,私が注意をしたりするんですけど,なんか修正が効かない,みたいな感じになることもあって。」
「でも,最近では,M先生がいてもいなくても,あまり変わらない感じですね。もちろん一時的に華やいでしまう瞬間はあるんですけど,私が一言伝えれば,いつもと同じようにすっとなるし子どもたち同士でも声をかけているし。
ああ,こういう風になっていくんだあ,と。」
「それに,昨年までは,いろいろと失敗が多かったりちょっとだらしなかったりで責められてしまいがちな子もいたのですけど,今年は全然ないですよね。あ,そういえば『どうせ,おれなんか』なんていう言葉みたいな,自分を見限ってしまうような言葉には,ここでは出会ったことがないなあ。私が週1回行っている,別な学校のクラスだとけっこうそういうのがあったりするんですけど。」
「勉強が苦手な子も,自分で取り組んでいる,そんな感じがします。友達に自然にサポートを求めることもしていますしね。S君なんかは,今日はどうしても歴史の本が読みたくて仕方がなかったんですね。だから,算数をやっては歴史の本を読んだりして(笑)。私と目が合うと,『ここまで読んだら,算数しますから』とか笑。」
「今までずっと一緒に授業に入ってきて,やっと3学期の子どもたちを見ながら,『ああ,こういうことなのか,こういう風になるのか,って納得したんですよね。」
と。
この言葉は私にとっは結構意外でした。だって今までずっと一緒に授業をしてきたわけだから,とうに私の真意はわかってもらえていると思って,それこそ勝手に思っていたので。気になったので
「あら,そうなんですか,それは何が今までとは違うのですか?」
と尋ねてみました。すると
「3学期は,授業を,つまり子どもたちを見ながらM先生とけっこう授業の中で話したじゃないですか。そうすると,ああ,そういうことかあ,ってつながってくるんです。」
と。なるほど,そういうことなのですね。
やっぱり,お互いに同じもの,ことを見て話す,やりとりするって大切だなあと思います。私と違う人から見た見え方もいただいてうれしかったし,子どもたちにも返したい言葉がたくさんいただけました。
「S先生はこう,君たちを評していってくださったよ。3月まで,次はどうなれるといいかなあ?どうなりたいかなあ?」
と聞いてみよっと。
先
先日は,職場の飲み会。
1年間の校内研究の授業研究会が一段落したことで,そのご苦労さん会みたいな位置づけ。最後の授業研究会は3年目の若い先生が学年部のベテランの先生と丁寧な対話をしながら一緒につくってきた授業。そして,その授業を支え,応援しようとする職場の雰囲気もよかったなあ。
石巻は,昨日は大雪だったんだけど,それでも飲み会はする,したいで実施(笑)
校内研究を通して,目指す方向はなんだかんだいっても,こういうことの繰り返しの先にあるんじゃないのかな。数字で表せることも大切,でも数字で表せないことも大切。
うれしいフィードバック1
「M先生のクラスに補欠に入ると,気持ちいいし楽しいんだよな-。」
とは,昨日職員室で雑談をしていたときにかけてももらった言葉。
「ありがとうございます。というと?」
と伺うと,
「うーん,たとえばさ,給食の準備なんかするじゃない?あ,クラスには特に決まった給食当番ってないんでしょ?」
「はい。」
「でさ,それでも子どもたち勝手に分担して準備するんだよね。仕事しないでサボってるような子もいないし,むしろ,サボりそうだよな~なんて思っていた子が率先して運んでいたりして(笑)。」
「学習なんかもさ,うーん,なんていうのかなあ,それぞれ自分のペースでやていてね。もちろんたまには集中が続かない子がいたりも刷るんだけど,そういうときは,周りの子が『ほら~,ちゃんとやりなよ』みたいに声かけるんだよね。責めるというのでもなく。」
うれしいフィードバックでした。子どもたちにも来週,伝えよう。
2015-01-28
待ってみるか
3学期は,1週間分の課題を提示して,その解決の時間はある程度子どもの計画でやりくりできるような流れになっているので,授業の始めに私が何も言わなくてもいい感じの時があります。
今日の5時間目もそうだったんですけど,チャイムがなって1~2分はちょっとガチャガチャ気味なんですけど,そこでなんか言いたくなってくるん訳ですが,それでも
(待ってみるか)
と思って待ってみると,ある程度のところですーっと落ち着く時がやってきます。あとはOK。
声をかけたくなってから,ほんの30秒余計に待てば,冷やさなくていいんだよなあ。三々五々,学習に入っていくってほうが案外自然かもしれないなあと思ったのでした。
2015-01-27
「わかってもらえてよかった~」
「○ページの問題,どうやって解いたのか説明できることが課題ね。もちろん,みんながね。」
とした算数。
「答えだけわかってもだめね。どうやって解いたか,私にわかるように説明すること。」
と。
算数が苦手なTくんも考えます。時々周りの子に聞いたり,TTの先生に
「こう?」
なんて質問したりします。
こんなふうに質問できるようになったことだって貴重なことです。
しばらくして,やってきたTくん。
「説明できるかも。」
と。
「よっしゃ,チャレンジ!」
なかなか見事に説明します。
「ここ,何で150で割ったの?」
と尋ねても,
「ここは…。」
とさらに説明できました。
「合格ー!」
と。うれしい。
その後彼は,教室をぐるっと一回りし,他の友達Sくんの脇にいきました。どちらかというと,普段はその子から力を借りることのほうが多い友達です。わたしは,
(あれ,ほっとしておしゃべりにいったのかなあ。Tくんはまだ残っている課題があるんだから,そっちを進めてほしいなあ。声かかけるかなあ)
と実は内心思っていました。なぜなら,算数でその子に教える,ってことはないだろうなあ,と思ってしまったから。
(それでも,ちょっと様子を見てみよう。)
と思って,そのままにしていました。
何分たったでしょうか,そのSくんが私のところに説明にやってきました。するとTくんも駈け寄ってきて,一緒にSくんの説明を聞いています。Sくんの説明が終わり,私が
「OK!合格~」
というと,Tくん
「あーよかった。わかってもらえてよかった~。」
と言うではありませんか。
そうかあ,ちゃんとSくんにわかってもらえるように説明していたんですね。あのとき,余計な声をかけないで本当によかったなあ。
毎日の学習の中に,こんなことがちょこちょこと,私の知らないところで起こっているんだろうなあ。
教室のうれしい一場面です。
2015-01-25
「能力別」
http://d.hatena.ne.jp/tontan2/20130122/p1
「能力別にクラスを分けたら?」
「その方が子どものため」
今までも,様々な場面でそういう言葉を聞くことがありました。
その言葉は善意かもしれません。たぶんそうでしょう。しかし,そういう言葉を聞くにつけ,いつも思い出すのは坂内さんのこの記事。
子どもは出来るようになりたい,と思っているし,今できることも出来ないことも自分が一番よくわかっているはずです。だから,できないこともひっくるめて安心して受け止められ,必要なサポートがいつでも求めに応じて与えられ,応援してくれる人(友達,先生,親…)がいて,という環境を整えたいと思うのです。
出来ることも出来ないこともあるけれど,でも,僕だってみんなと一緒に前に進んでいける力がある,そういう感覚を体験を通して伝えたいし応援したい。
能力別に「分ける」ことが,そこにつながるとは私は今は感じられないのです。
子どもが求めているのは「みんなの中でやれる」ことなんじゃないかな。それが保障されて,「勉強ができる」のではないのかな。
2015-01-24
雑談サークル
昨日の地元の雑談サークルに集まったのは、50代、40代、30代、20代の各1人ずつの計4人。いつもの例会よりちょっと少なめですが、それはそれでもOKです。
雑談のテーマは、「子どもや保護者とどう接している?大切にしていることは何?」というもの。
50代の先生(理科専科)の話、なかなか興味深かった。
「荒れてるクラスなんかにいくとさ、黒板に『死ね』とか書いてあったのさ。はじめ気がつかない振りしてさ、振り向いたら今きがつきました、みたいに見るわけ。そしたらゆっくり倒れて死んでみせるわけ。しばらく倒れていると、心配して起こしにくるさ。さあ、始めるか、って始める。」
「まともに受け取って、『なんでこんなこと書くんだ!』って選択肢もあるけど、それじゃ、普通すぎるよね。」
まあ、これが、誰にでも、どんな状況でもやれるとかやった方がいい方法ではもちろんないけれど、その先生とそのクラスとそのタイミングではOKだったんだなあ。
若い先生には、驚きの想定外の対応かもしれないけれどその若い先生だっていずれ、余裕の対応をし出す時がきっと来るなあ、こんな話を聞いていると。笑
場の力
震災という事情もあり,体育や家庭科,音楽は2校合同で行っているのは今までも何回かお伝えしたとおりです。
さて体育のマット運動。せっかく2校の5年生が一緒にやっているので,もっとその条件をうまく使いたい,と思っていました。体育はおおざっぱに言えば
「運動することが楽しく,好きになって,これからも運動が好きでいられたり生活のなかに運動を取り入れていきたい」
って感じてもらうきっかけになるといいのではないかなあ,と考えています。もちろん,運動が得意とか苦手に関わらず,です。
で,マット運動。集団マットをやってみよう,と考えた訳です。両校のメンバーが混在するグループで,集団マットの構成を考えて練習し,発表会をするというプロセス。その過程においては演技の構成を考えることから技をリズムに合わせることまで様々な場面で,お互いにコミュニケーションをとる必要があります。
「仲良くなるのは,一緒に仕事をすることだよー」
「コミュニケーションの量をまずたくさん,ね」
と日常的に子どもたちには話しているので,その意味するところは概ね伝わっていると思います。
でも,練習はいまいちな感じ。なんか,技のリズムがそろわないー。
「そうか,視覚的なイメージが足りないのかなあ」
と思って,参考映像を見せたりしたら,多少の改善は見られたものの,まだいまいち。
それで,昨日発表会となったわけですが,子どもたちのほうからは
「先生,まだ,発表できる段階じゃないんですけど…。もう少し練習の時間もらえませんか?」
との打診。
私も内心,その通りだよね,と思っていたので,あえてうまくいかないのを承知で発表会をする意味も感じなかったので,そうすることに。
O小の先生と子どもたちの練習を見ていて話をしていたのですが
「なんか,リズムが合いませによねえ,そもそも,リズムを合わせる気があるのかなあ??」
なんて話をしているなかで
「あのさ,タンバリンのリズムが,たたく子によって違っちゃうじゃない,そうなると合わせようにも合わせられないんだよね。メトロノームなんかで決まったリズムを流した方がいいよ。マイクで。」
と。なるほど,です。
さっそくそうしてみたら,子どもたち各グループの練習が格段によくなりました。合わせて練習する規準がはっきりしたからですね。
「なにやってるの,合わせる気があるの!」
なんて口走らなくて本当によかったなあ。(^^;)
うまくいかないのはうまくいかない原因がどっかにあります。そこを考えないで,やる気,とか態度にばかりを求めてもいけませんね。
授業の最後に子どもたちに集まってもらって
「どう,今日,うまくいった?」
と尋ねてみたら
「うん,けっこうやれたー。」
「楽しかったよねー。」
と。みんなで技を合わせようとしながら練習したこと,そのことが楽しかったみたいです。技のできばえはもちろん個人差はありますけどね。
そして,子どもたちには私が感じたことをこう伝えました。
はじめは君たちのうまくいかなさに,実はちょっともやもやしてたこと,君たちにやる気が足りないんじゃないかと思ってしまったこと,でも実は原因はそこじゃなかったんだね,ということ。私が勉強させてもらったこと,私が今のことからこれから6年生に向かうみんなにアドバイスが出来るとしたら,うまくいかないことにはどこかに原因や理由がある。だからイライラしたり怒ったりする前に「なんでかなあ,どうしたらうまくいくかな」とちょっと考えてみることが必要なんだなあ,ということ,みたいなことを。
場の力,なんだなあ。場をどう整えていくか,子どもの側からすれば場をどうつくっていくか,ということだなあ。場がよければ,なんとかなるし,楽しくやれるものだなあ。
2015-01-22
できる,できない
できる,とか,できない,とかの価値観だけで子どもに向き合うと,いず「くさる」子どもが出てきます。できないよりは,そりゃあ,できるほうがいいし,子どもも出来るようになりたい,と願っています。だから多くの教員は,「できる」ようにしてあげたいという善意から,時には手厚く,時には厳しく,そして,もっとがんばれ,がんばろう,と叱咤激励します。すべては善意からなんだけど,そういう流れからも残念ながら,「どうせ」と自信をなくし,くさる子どもが出てしまいます。
誰もが同じことを同じ時間で同じように出来ることはありません。ばらつきがでるのは当然です。だから「できる」「できない」の先にあるのは何か,を毎日毎日子どもに伝えることが必要だと思うし,子どもにも「確かにそうだな」と感じてもらえるような経験ができる場に学校がならないと,と思っています。
「今できること」「今できないこと」はそれほどたいした問題ではないよ。でもね,前に進むことはできますよね,だから助け合って前に進んでいきましょう,そのことこそに値打ちはあるのだからね。くさることはないんだよ,くさってはもったいないよね。
教師は,子どもたちをくさらせちゃだめですよね。
「あの子,くさってしまったなあ,なんとかしたいなあ」とそういうところにアンテナをはれる教員でありたいものです。
急がば回れ
どんな風になりたいの?どんな風だといいの?どうしたらいいと思う?
そんなことを,みんなで時々話したり,書いたり,読み合ったりしながら,
今,どうだった?今はどんな感じ?
なんて,また話したり,書いたり,読み合ったり。
そんなことの繰り返しは,時間がかかるかもしれないけれど,大切にしたいんですよね。
急がば回れ。
2015-01-19
3学期は
3学期は一週間単位で課題に取り組むやり方に変えています。
もちろん,敷地内の隣接校との合同が学習(体育,家庭,音楽)などはちょっと別ですが,それ以外はできるだけ,時間割で区切らず,子どもたちで時間のやりくりをするような感じにしています。
時間枠を子どもに預けることで,子どもたちはすごく開放感を感じるみたいです。今までも『学び合い』ですから,一般的な一斉授業よりはいらない縛りはかなり少なかったはずですが,時間すらも自分・自分たちでコントロールする余地があることが,またいいみたいです。
一週間の計画表を元に,今進めたい,やりたい,取り組みたい学習に取り組むわけで,足りないところやさらに進めたいところは時間を十分にかけたり家や休み時間,朝の時間にもやるといった形になります。だから決められた「宿題」もありません。
まだ始めてみて1週間,今週で2週目になったばかりですから,やりながらうまくいかないところは,彼らと相談しながら改善していくといいかな,とのんびり構えています。
「みんなが」とあえて言わなくても,なんとなく「みんな」を感じられる,点数がどうのこうの言わなくても,そんなの関係なしで,みんなと学ぶことを楽しめる,そんな感じになっていくといいよね,そんな感じになっていくよ,と思いながら,ぼちぼちやっていきます,そんな5年生の3学期です。
2015-01-18
人間にしかできないこと

わかりあえないことから──コミュニケーション能力とは何か (講談社現代新書)
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近い将来、様々な仕事、役割が人工知能に取って代わられるのであろうか?(以前見たNHKスペシャルが非常に印象的だったもので…)
その時、人間しかできないことは何があるのだろう?と考えていたら、この本の中にヒントがあった。
問題意識を持っていると、ちゃんとそういう本に出会うし、そういう記述に気がつくものだなあ。
「共通理解」「共通行動」「みんなで統一して」
先日,地元研究サークルの例会がありました。時間前に集まったメンバーで雑談をしているなかで,
「うちの学校,いま生徒指導面でけっこう大変になってきてるんだよねえ」
という話がでました。つまり,子どもたちが落ち着かないクラスが出始めてそれが学校全体になんとなく広がりつつある雰囲気,そんな感じらしいです。それで,学校全体で指導を強化しようとしている,という話でした。
たとえば
「あいさつの励行」「次の時間の授業の準備をしてから休み時間にすること」などなどの統一行動?ルール?の徹底という形で。そのあたりの指導を全職員で共通理解共通行動のもと徹底して子どもたちに当たっていこう,というもののようでした。
要は,それで問題が解決するという見通しを職員や子どもたちがもてているか,ということは大事ではないかなあ,と思います。学校やクラスの問題を解決できるのは子どもたちであり,そこに教師がどうサポートしていくか環境を整えていくかが重要だと私は思っています。教師サイドからの一方的な指導だけでは本当の意味での解決にはつながっていかないかなあ,と思っています。
仮に統一ルールを強化しようとして行けば行くほど,いわゆる『問題をかかえている子ども』は注意されたり叱られたりする機会がおそらく増えることでしょう。それだけでなく,『問題をかかえていない』と見える子どもも同時に冷やされていきます。そうなると,そのストレスがどこにでてくるか,だれに出てくるか。内にこもりため込むか,外に噴出するか。今度はその対応に翻弄される,指導をさらに強化する,そんなサイクルに入らないかなあ,と心配になります。
子どもたちが落ち着かない,荒れてきているのなら,どうしてそうなっているのかな?そこを理解しようとしないと手は打てませんよね。どうしてそうなっているかは,子どもたちのことをよく見て,まずは子どもの意見を聴くこと,そして大人の願いや希望も伝えること,そしてその願いや希望は「君たちにとってもいいこと」であることを納得してもらわないとならないかな,と思っています。時間がかかりますし,時間をかけないといけません。
しかし,その学校の先生がおっしゃるには
「いろんな報告書だ何だで暇がないんだよね。」
「休み時間も,時には放課後も○○の練習だとかで埋まってしまう」
「放課後の会議の時間もとれないから,休み時間を削る特別タイムも設定するんだけど,それで余裕がなくなるし…。」
とのこと。「忙しすぎて,なかなか時間がとれない」「余裕がない」それが学校現場の現実だったりもします。
ストレスは,子どもにもかかるし教師にもかかります。指導が強まってくると「うちのクラスだけは,なんとか」と「がんばり」ますし,それがきつくなってくると,うまくいっていないように見えるクラスや教師を攻撃するまでいかなくても,やんわり指摘します。それでお互いがまたストレスをため込むことも考えられます。そして子どもにしわ寄せがいったりも。
世界でも経済格差だったり,宗教問題?だったり様々な対立が連日報道されています。心が,本当にいたみます。どうしたらいいんだろう,未来はどうなるんだろう,不安になります。世の中と学校,教室はつながっています。世界の問題を解決することと学校,教室の問題を解決することは根本ではおなじでしょう。お互いの話をまず聴こう,そして一緒に考えていこう,そこから出発したい。納得のない押しつけの「共通理解」「共通行動」「みんなで統一して」は,ちょっとね。
2015-01-17
自由参観
昨日は自由参観日でした。朝から放課後まで自由に参観OK,というあれです。
1時間目は0人でしたが2時間目からは常時2~3人が入れ替わり,立ち替わりという感じです。それくらいだから,保護者の方とお話しながら授業が出来ます。『学び合い』ですから。
今週月曜日から,一日1~2時間くらいの枠でブロックアワー的なことを試験的に行ってみています。「自分の学習に自分で責任をもつ意識」を高めたいと思うし,自分だけでやってみるところ(時間管理も含めて)と,協働的にやったほうがいいところと,自分の意志で決めて行動していく体験をもっと積ませたいと思ったので。
2時間目の算数は,そのブロックアワー。週の初めから中盤までは算数を中心にやる子が多かったので,ブロックアワーと言っても見た目は算数的でしたが金曜ともなると,子どもによってやる課題が違ってきていました。そのあたりの趣旨も,実際に子どもたちの様子を見ながらお話しできる機会になってよかったです。
参観に来てくださった保護者の方々と,授業における子どもたちの様子と計画表を見ながらお話しできたのがよかったです。
「○くんと○くんってあんな風に勉強できるんですね。」
「■くんとお子さんは,こと,休み時間の遊びの趣向だけ考えたら,大きく違いますよね?でも,算数となると,■くんはあんなふうにお子さんにアドバイスをもらうことが多いんですよ。説明がわかりやすって。あんなふうに関係をつくるから,ほら,ここにあるとおり会社活動でも一緒にやっているんですよ。」
「子どもたち,なんか楽しそうだし,緊張していませんよね。」
「だって,緊張していたらもたないじゃないですか,ははは」
なんて話をしながら。
子どもたちも,学習をしながら友達のお母さんとちょっとおしゃべりしたり,反対にお母さんたちが子どもたちに声をかけたりという,なんか温かい時間になりました。
お話をしながら,あるお母さんが言ってくださった
「ほんと,この学校に通えて,子どもたち幸せですよねえ。市内にも小学生をもつお母さんの知り合いけっこういますけど,いろいろ子どもたちどうしのことでトラブルもあるみたいだけど,この子たち,こうやってみんなで勉強している姿や仲の良さを感じると,よかったなあって思いますよ。」
と言う言葉は素直にうれしいです。学校っていってもらえてうれしかったです。学校っていう意識は大切だしもちろん学校という意識を持ってもらう伝え方は常にしていかないと,とも思っています。その通りですから。
けっこう,楽しい参観日でした。
2015-01-14
急がば回れ、と思うんですよね。
自分だったらどうかんじるかな?どんな教室で過ごしたいかな?ってかんがえます。想像します。
子どもたちには、
「どう?楽しくやれた?」
「うまくいったかい?」
「満足できた?」
っ聞いたりします。もちろん、
「楽しくやれなかったなー」
「うまくいかなかったー」
「ちょっと満足できないなー」
も、あり、です。そういう風に言えることこそ大事だと思うから。そういう風に言える雰囲気を大切にしたいし作っていきたい。
肩の力を抜きながらも、それでも、
「さ、やるかー^ ^」
だったり、
「きょうもみんなとやれて楽しかったなー」
と、ぼんやり、そうぼんやり何と無く感じられるような、そんな時間を作りたいんですよね。
成長成長っていって、焦らせても仕方ないでしょう。
急がば回れ、だと思うんですよね。それは、自分に言い聞かせます。
「心の健全さが第一」
ある方のFacebookの投稿にあった言葉。
当たり前といえば、当たり前ですが当たり前になっていないことって結構ある。
善かれとおもってすること、必要と思ってすること、いろいろあるけれど、それがかえって子どもの心の健全さを損なっていることもあるということを意識しないといけないと肝に命ずる。
やり続けること、やり切ること、やりたいことやれることをまずははじめて見ること。そんなことから、そういう経験から子どもたち一人一人が自信が持てるように応援して行こう。
2015-01-12
あ、それもいいかもね
今日はちょっと用事があったので、午後から学校に行きました。
一人で仕事をしていたら、もう一人先生がいらっしゃいました。
丁度今週から校内書き初め展が始まるんですが、その作品をどう貼るといいかなあなんて話をしていました。その流れで、
「コメント書いてもらうのってどうかなあ?」
という話に。今までの習慣からは、書き初め展の作品に子どもがコメントを付けることはありませんでした。でも、この書き初めだって子どもにとっては結構こだわる部分があったり、苦労していたところもあったわけで、そのエピソードなり思いなりを伝えることで、その作品を彩ることにもなるなあ、なるほど面白いかも、と思いました。そのエピソードや思いに、鑑賞した友達や大人がコメント返す、なんていうのもいいのではないかなあ。
作品を見てそれだけを鑑賞するというのいいけれど、作品を介してコミュニケーション図る、そんな楽しみ方もあってもいいかもしれません。
2015-01-11
「宿題っている?」
昨日、ある方と話していて話題になったのが、この
「宿題っている?」でした。
「いりますか」
と言う前に、そもそも、その「宿題」とは何意味するか、はっきりさせないといけませんね。昨日の文脈のなかでの「宿題」は、
「全員一律の、多くの場合明日までに、家庭で全員がやってくる課題」
だったと思います。だから、私は
「うーん、いらないと思うけどなあ」
応えました。きいたかたは、
「そんな風に言ってくれる人、はじめて会った!」
とは言っていましたが…。
全員一律である必要はないと思うし、家庭でやらないといけない、とも思っていないのでそう言う返答になったのですけど。
一般的に考えると、やらねばならない課題がある場合、それは「勤務時間」でやるべきことで、その勤務時間内に課題が終われば、オッケーなわけだと思います。ただ、いろんな事情でやりきれなかった場合は持ち帰り仕事(子どもの場合は宿題?)なってしまうこともありますよね。だから一律ってことにはならないし、家でなくても休み時間や放課後を使ってもそれはそれでいいのではないかと言う私の考え。
一方で、自分が課題をこなしながら、
「うーん、ここはちょっと練習が足りないから、もっと練習しないと」
と思って練習をしたりすることや、
「今度、ここを勉強するからあらかじめ、ちょっとやっておこう」
なんて言う予習なんかは、この場合で言う「宿題」には入りません。
だから、その時間だったり、その日だったり、その週だったり、とう期間の中での課題を子ども自身が理解しそれの解決を目標とし取り組めるような、プロセス作りがやっぱり必要になりますね。そこは考えないと。
2015-01-10
信頼ベース東北新春練習会
今日は、信頼ベース東北チームの学習会でした。
午前中から午後まで、その後の喫茶店でのおしゃべりも含めて、何時間話したかなあ。
テーマは多岐に渡るれど、話があっちこっちに行っているわけでない楽しい時間。『学び合い』についても、聞かれたので話しましたが、なんとも説明が難しかったなあ。感覚的なことを伝えるのは難しい。ただ、ファシリテーションのスキルは『学び合い』を安定的に続けていくのには、あった方がいい技術だと思うなあ。私にとってはそうだったなあ。
2015-01-08
今日から新学期スタートです
今日から3学期がスタートし、学校に子どもたちが戻ってきました。
1時間目の始業式の後は、みんなで教室を掃除しながら第3回教室リフォーム。その後くじ引きで席替え。そのごたっぷり、相手を変えながらペアトーク「冬休みどうだった?」。
新春ことわざカルタ大会をたっぷりやって、そして、「どんな3がっきにしたい?」テーマにみんなでおしゃべり&ジャーナル。
学区が広い本校の子どもたちは、会うのが終業式以来、という友達も沢山います。だからこそゆっくりみんなと話したり遊んだり、そんな時間は大切だよねー思っています。
2015-01-07
職員も対話からスタートする新学期です
1/5,6の午前午後,計4回の講演会を石巻市のほぼ全員?が参加したことになります。どなたのか,というと先日の栗原慎二先生。
正式な話はまだ聞いていませんけれど,もしかすると石巻市の正式なアドバイザーに栗原先生がなったのかも?しれません。4回の講演は,それぞれテーマは違うものの,同じ栗原先生がお話しされることですから,内容は違ってもコアの部分は同じはずです。本校でも4回それぞれに2~3人が分かれて参加しています。
明日は始業式で,午後はある程度余裕がありますので,その講演会に参加して考えたことや感じたことをベースに,全員でワールドカフェを行うことにしました。
今までは,誰かが研究会などに参加するとその内容を「伝講」という形で,一方的に伝えるという形になりがちでした。そういう場合はどうしても聞く方は内容もよくつかめず,かといって伝える人も十分理解しているというほどでもなく…。というわけで,なんか残念な感じなりがちでした。今回は同じ先生の話をテ,ーマは違えど全員が聞いているという条件を活かします。聞いたことをそのままにしないで,みんなでしゃべる。furutaさん風に言うと,インプット,アウトプット,インプット,アウトプット…,ですね。
職員同士で,子どもや授業のことをあれこれ話す。今までも校内研究でホワイトボードミーティングなどをしながらやってきたことではありますが,だからこそ,みんなで対話をして新学期をスタートします。
きょうは皆さんからたくさんのお土産のお菓子をいただきしたので,それぞれ,そのお菓子とコーヒーをもって,明日はワールドカフェです。
2015-01-06
「3学期スタート」
明後日から新学期です。
どんな3学期にしたいかなあ,どう3学期の舵取りをしていこうかなあ,とノートにあれこれと書き付けました。学期始めにすることです。学期という一区切りを大枠でとらえて,イメージしながら考えたいからです。学期中にはいろいろと細かいことや予定外のことも出て判断に迷う時も出てきますが,この最初のイメージが羅針盤になります。もちろん学期途中に付け加えたり修正したりすることもありますけど。
学期はじめの通信はその方針を子どもたちに示すつもりで書き,読み,話しながら了解を得るようにしています。もちろん全部伝わるとは思いませんし,私のイメージと子どもたちのイメージが一致しているとも限りません。しかし,時間をかけて双方で一致させて行くにしても,「始め」がないと話になりませんから。書いておけば,いつでも戻れるし,また子どもたちの背後にいる保護者の方々にも私がなにを考えているかを伝える一つの手段になりえます。同時に,校長先生はじめ,職場の先生方にも。
【通信№98】より
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冬休みが終わり,今日から3学期がスタートです。
ぼくらは4月に5年生をスタートさせて,その1年間の2/3が過ぎました。マラソンでいうと,35キロ地点,そろそろ勝負をかけていく段階ですね。
1学期は,勉強をはじめ,いろいろな活動を体験しながら,みんなは「よいコミュニケーションとは?」を考えてきましたね。自分もみんなもどちらも「楽しい」ときに,自分やクラスの力が十分に発揮できることを学んできました。2学期は,花山宿泊活動,学芸会,マラソン大会などの行事とそれと並行しての学習で「チャレンジ・バイ・チョイス」「ちょっと無理をする」などのキャッチフレーズのもと,チャレンジのレベルを上げて「ちょっと難しい,ちょっとだけ大変なこと」にチャレンジすることもみんなでやれば,「楽しい」になることを学んでほしいと思ってやってきました。どうでしょうか。そんな感覚,分かるようになりましたか?
さて3学期です。3学期は「一人でもやれる!だからみんなともやれる!」をキャッチフレーズにします。当たり前だけど,ひとり一人のみんなは違います。同じになる必要なんかないんだよね。だから,ひとり一人が自分の好きなことや夢中になれること,得意なことで自分の力を伸ばして欲しい。一人でも平気,一人でもばりばりやれる,そんな自信をつけるチャレンジです。そして,その自信をもとに自分の強みを活かして友達の「楽しい・うれしい」に力を貸せる,そういう人に成長して欲しい。
君たちが大人になる頃の日本や宮城,石巻は,今よりももっともっとひとり一人が力を合わせ,お互いの幸せや笑顔のために力を合わせていくような社会になっていくだろうし,そういう世の中を今の大人と一緒に,みんなの世代が作っていって欲しいと思う。難しい言葉で言うと「共生社会」「コミュニティ」って言うんだけどね。だから今のうちにたくさんの体験を積んで世の中に出ていく練習をしておこう。頭で分かるだけじゃなくて,心や体を使って,失敗もたくさんしながら学んでいこう。
「うまくいったことも失敗したこともあったけれど,僕たち『協力して楽しいクラス』を目指して,1年間やってこれたよね。」という自信が,6年生での1年間にも中学校での3年間にもきっと活かされるよ。だから,3学期のラストスパート,みんなと楽しみながらやっていこう。(楽しい,ってことはとても大切だからね。)
2015-01-05
地域をつくる「学力」
石巻市の学校教育の喫緊の課題は「学力向上」と「不登校問題」。市教委の挨拶で言うのだから,公的にも間違いないですね。
それで今日と明日は,石巻市のほぼ全員(くらい?)の教員が集められての研修会でした,です。招かれたのは,栗原慎二先生(広島大学大学院教育学科)。
【以下は,私がメモしたこと(文責 わたし)】
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◯いい学校とは、「誰もが行きたがる学校」である。
◯後発的PTSDは、今の小学生に現れるのではないか。将来的に。
◯子どもは大人と違う。子どもへのインパクトは、日常が壊れることや父母との絆が壊れること。幼児期にそれを経験すると一生引きずる可能性がある。
◯愛着,安心
◯心の傷の修正が十分可能なのは9歳くらいまで(紙粘土が柔らかいうち,ということ)。低学年期の子どもの教育は今後石巻にとって特に重要になる。17歳までは余地があるが。パーソナリティが硬くなる前に。
◯石巻の先生は特別な使命がある。震災後という点で。
◯何があったら傷が癒えるか?それは強固な絆。前も良かったけれど、今はもっと幸せになった,という事実の積み上げ
◯これから,「前よりも強固な絆」どう作って行くか、ということ。
◯「地域の子どもより、オレの睡眠だろ。」夏休みのラジオ体操会の減少の話 から
◯地域社会の崩壊、「負け組になるな」,その他社会の変化…
◯以前とは違い,難しい背景を抱えた子どもたち、そういうものにさらされた子どもたち
◯子どもの問題行動発現率。日本は世界では現在は低い方。アメリカ,イギリス,オーストラリアは高い。なぜか?問題は経済格差。重要なファクター
◯日本の状況。経済格差が広がる動き。これからさらに子どもの問題が出てくる可能性が高い。そのとき,今までの指導では太刀打ちできなくなる。
◯生徒指導のプログラム化。ハイリスクの生徒をピックアップし、対策を立てる。(アメリカなど)ドロップアウトしやすい子に対する対策、リストアップ、予防的にやっていく。
◯ハイリスクってわかっているのなら事前に対策をする、石巻はやっていますか?問題が起こってからするんですか?
◯プログラムとして回していくのは世界の主流。日本ではほとんどやっていない。
◯問題行動。「入力」「処理」「出力」どこに課題があるか。
◯入力の情報をより多く入れていくこと。感情を読み取る訓練。
◯他者の感情理解をしながら、どう行動するかをトレーニングしていくこと。感情教育。
◯今までなら,毎日の生活の中で普通に身につけてきたことだけど…。しかし、この時代の子どものニーズに応えることを考えていくなら必要。以前とは状況が異なる。
◯この3つがうまく行っていること
「勉強がうまく行っていること」「友達とうまく行っていること」「先生とうまく行っていること」この3つがうまく行っていると子どもは安定。特に友達との関係が重要
◯向社会性。思いやりから行動ができる。
◯思いやり行動は返ってくる。思いやりのある行動がとれる子どもは,思いやりのある行動を受ける。だから、のびのびと行動できる。思いやり行動が取れることが大切。
◯勉強ができないことはそれほど、子どもの学校生活満足度に与える影響は大きくない。子どもから見れば。大事のは友達との関係。
◯いい先生であれば、友達の作り方を教えてくれる。それが毎日楽しいになる。いざというときにもクラス集団を守ってくれる。
◯今の中学生は「満員電車に乗っている乗客」の感じ。トラブルがなければいい,ということ。みんなと仲良くなろうとは思わない、友達はいたほうがいいけど,車両のみんなとは仲良くならなくていい。トラブルさえなければいい。それ以上の関係を求めていない。
◯人として成長できる集団は?満員電車の乗客で成長できるか?
◯「トラブルがあっても気にしない、友達がいるから。いざとなったら先生もいるし。」こういう集団なら成長できる。
◯集合から集団へ。なぜ、集団に変える必要があるか。成長につながる。
◯子どもを「集合」から「集団」に変えていくことを進めていくことが必要。
◯良い集団を作ること。
◯クラスの居心地をよくする。クラスが居場所になる。クラスに突っ込んだ話ができる友達が何人もいること。
◯職員室だって、集団に。
◯よい集団は「弱み」を受け止められる。
◯プログラムを使って集団を作っていく。
◯教室が行きたい場所にならないと不登校は減らない。行きたい学級になっていない限り、不登校は減らない。それはどういう学級か。それは「自分を受け入れてくれる学級」。
◯学び合いの学級。協同学習。異学年交流。
◯生徒指導、やることはすごく簡単。生徒指導は我々教員の姿勢だ。
頭ごなしにやるのはだめ。
◯学力。5の人は東京,4の人は仙台,石巻には3,2,1?それでは意味がない。どんな学力が必要なのか?地域をつくる「学力」。
◯最終的には「学力」なんてどうでもいい。みんなで問題を解決してきたという経験。それが地域を作る。街づくりなんです、結局。教育基本法。平和で民主的な石巻に。コミュニティ。
◯世界の「学力」はそういう基準で動いている。
◯他者と情緒的な交流ができること。
◯問題行動を抑えるんじゃなくて、荒れる心に耳を傾ける。
◯一人一人を支えることと、集団を作るという両面をみていくこと,その両方。
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石巻の子どもたちの現状と,石巻の今後を考えた「学力向上」の話で,とても興味深いものでした。そして,その方向性は,まさに私から言えば『学び合い』×信頼ベース,じゃないか,と思いました。毎日の授業のなかで普通にやっていることばかりです。だから,我が校はここ十年近く不登校の児童は出していません。他校で学校に行けなかった子どもも,本校に転入してからは登校できるようになりました。震災後,数多くの転入生がありましたが,どの子も学校で安定的に過ごしていました。
今回の栗原先生の講演のなかで意義深かったのは,
①全国一律の「学力テスト」で論じられがちだった「学力向上」を「地域を育てる学力」という視点から提案されたこと
②「学力向上」を「誰もが行きたがる学校,学級」と深く関連づけて,それもデータを示しながら提示されたこと。
③子ども同士の学び合い,協同学習,異学年,という提案がされたこと
④栗原先生のお話を,石巻の多くの教員が同じ場で聞いたこと
⑤栗原先生の今後の予定をネットで見ると,今後も何度も石巻に入る予定が組まれている?と思われること
石巻の子どもたちの今後5年,10年,先を考えると大きなチャンスになる可能性があります。高い不登校率は,今後社会的孤立につながる可能性があります。ただでさえ,震災でコミュニティが失われているという現状がある中,そこを少しでも回復させ,さらに次の一歩を踏み出すにはまさに学校が大きな役割を果たさないと行けないと思います。栗原先生の言うとおり
「石巻の教員は,特別な使命がある」のだと思います。
「子どものころ、好きだった先生・キライだった先生」
ちょっと機会があって、題にあるようなことを思い出してみる機会があった。
すぐに思い出したのは、残念だけど、「キライだった先生」。キライ、というほどではないけれど。
小学校の時、確か、5年か6年くらいのこと。どういう事情か忘れたけれどどういうわけか「体育の先生」がいた。体育専科ってこと。1年間続いたのかある期間だけだったのかは覚えていない。若い女性の先生だった。
なんで「キライ先生」と言われてその先生を思い出したかというと(繰り返すが、嫌いというほどではない)、私もことを評して「態度が悪い」と言い、それを親にまで言ったから!(逆恨みみたいな感じなのだろうか…)おかげで、その後から、母親からは何かにつけ「あんたは態度が悪いって言われたんだから生活面で気をつけなさいよ」と何度も言われ通信表ではいつも「生活面」ばかりを見られた。
何をもって「態度が悪い」とされたのかは覚えていない。都合の悪いことは忘れてしまうのだろうか…。でも、何が悪かったのか思い出そうとしても思い出せないから、多分自分の中では「納得」はしていなかったのだと思う。何と無くだけど、「いいからこうしろ」みたいなことを言われて、口答えしたようなそんな感じだった気もするが…。
頭ごなしに言われると素直に受け入れたくない、というのは今も昔も相変わらずだったみたい。その先生に悪気があったとは思わないし、きっと私も失礼な態度をとったのだと思う。多分そう…。
でも、子どもには子どもの事情があったんだ、と思うんだな。
今、私は、子どもの事情を読み取ろう、少なくとも事情を伝える時間と場、雰囲気を作っているかな、そう振り返る、3学期目前。
2015-01-04
「斜めの関係」
斜めの関係、それを学校、教室でも意識的に作っていく、というか作れる場を用意する。
子どもにとっては(まあ親子はもちろんのこと)担任とかだけでなく斜めの関係がたくさんあればあるほど、その中でいろんな考え方があって価値観があって、その中で自分に今フィットする居場所を見つけやすい。直線的な関係しかないと、それはきつい。
よく学校なんかでは、「共通理解、共通行動」みたいにして言われることが多い。それ自体、否定するわけでもないしある意味必要なときもある.しかし実際に本当にほんとうの意味で共通理解何できないし(できる?)共通行動なんてできない。だから現実的には、
「まあ、基本、そんな感じで…」
みたいなところに落ち着いているんだろう、そしてそのくらいでちょうどいい、と私は思っている。
共通理解共通行動にしないと「指導」がぶれる、なんて心配をするからだろうけれど、本当に「正しい」ことなら、それはどん言い方や接し方をしても伝わるんだと思っている。その子のことを思うただそれだけで、どん言い方でもいいわけだろう。それが全く正反対なことをいっても、である。共通理解や共通行動をことさらに求めるってことは結局のところ、子どもを、それ以上に仲間を信頼していないということなんだろうなあと思う。
あれ、斜めの関係の話だった…。だから、学校では、先生たちみんなが、子どもにとって「斜め関係」でいるってことが実は大事なんじゃないかなあ、と。担任じゃないけど いつでも子どもの愚痴?が聞ける、「今日、◯君のこんなところ叱った!」と職員室で同僚から聞けばちょっとあとに
「◯君、なんか元気ないけどどうしたの〜」
「ま、そういうこともあるさなー」
「それは大変だったなあー」
とあえてヘラヘラ話したり。もちろん反対に私が叱って、他の先生にフォローしてもらうことだってある。
うちの学校はたまに「ゆるい」(失礼な!笑)って言われることもあるけど(だれに?笑)それは、ゆるいんじゃなくて「柔軟」っていって欲しいなー。だから、ここ十年近く不登校ないし、保健室への愁訴もまずないし。トラブルはあっても深刻ないじめはないし。これって、今まで職員みんなが、言葉にしなくても、「斜めの関係」を守ってきたからじゃないかなあ、と思っている。
でも、こういうのは数字で出ないんだよね。
未来は…
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2015/0103/
この番組を見ていました。
(こんな未来になってしまうのか…)
というのが正直な感想。
番組の設定は、今から30年後の2045年の日本。人工知能によって世界中のあらゆる、本当にありとあらゆる情報が集められ解析されて、それを元に「適格な」予測が立てられる。どんな音楽が次に売れそうか、どこで犯罪が起こりそうか、どの道を通ったらいいか、次に何をなすべきか、誰と相性がいいか悪いか…それらが膨大なデータによってかなりの正確性をもってはじき出される。人工知能端末によって指示され、そのように行動すれば「失敗」はない。そんな世界。コンピューター上の仮想空間で別な「人生」をおくることも可能。まるでマトリックスの世界。しかしながら、その根拠は示せない。人工知能にしか分からないらしい。人間には処理不能。
コンピューターに支配され、駒のように動かされる人間みたい。しかしそれを選択しているのは人間自身。
(こわい、気持ちわるい…)
そう思うけど他に人はどう感じたのだろう。
「こんなふうにはならないよ。」
と言うだろうか。今回の「未来予測」だって、根拠もなしに出しているわけではない。今現実に始まっていることや研究成果を元にして語られているのであるから。いまから30年前を考えみても、当時は考えられないことがいまは当たり前になっている。
Facebookで、この番組のことちょっとつぶやいたら、ある方が
「その時代学校はどうなるのでしょうかね?」
と書き込みをしてくださいました。
(あ?)です。
今から30年後の学校はどうなるか?戻せば今から30年前の学校はどうっだった?学校にパソコンが入ったり、土曜日が休みになったりはしたけれど 授業の骨格は変わったのか?時代はずいぶん変わったけれど、授業はどうなんだろう?と。私が中学、高校の時と変わったのかなあ変わったとすればどこが?それから、30年後の授業ってどうなるの?知識や教え方で言えば、人工知能に教師はかなわない。教師という仕事すらなくなるのか?教師は不要?どうなんだろう、想像するのもこわいなあ。
番組をみながら感じた怖さは、「人間不在」の一点。機械が人間に取って代わっている世界の怖さ。そこに人間はいても人間がいない怖さ。そして、番組では、こういう世界を、望んで創っていったのはそして人間自身。もちろん、「幸せ」を求めて、である。
学校がどうなるの?もだが、30年後と言えば今受け持っている子どもたちが社会第一線で活躍する時代である。そ時代を生きる子どもたちを今、育てているわけである。
「今、やっていることは、未来に繋がっているのか?」
「未来を生きる子どもに、本当に必要なのはどんな力なんだ?」
それをリアルに考えないとならないなあと深く深く感じたのである。
今から
この方向での「進化発展」を止められないのだとしたら、機械に 取って代わられずに機会をツールとして使いこなす、そういう社会になって欲しい。人間が機械と違うところ、人間特有のよさ、そもそも人間とは何か、人間が主体になるってどういうことか、そして人間の力を信じることができる、自分の力を信じることができる…
そんなことを体験を通して感じ、みんなで考え合う、それが最後に残った学校の役割であり、最重要なことなんじゃないの?と思った次第。世の中が変わったから新しこともというのも必要だけど変わって行くからこそ、もっと根元的なことを突き詰めていく軸をしっかり立てることが大事なんだなあと思う。
この番組を見てから、総則を読むと、また見方がよりリアルになるなあ…。
2015-01-03
新春『学び合い』雑談会からの飲み会、そして今
いきなりですが、私は「小説を読むことは、教師としての最大の研修」と思っています。とりわけ私は重松清さんの小説。
いままで、「なぜ重松清さんか」をうまく言語化できなかったのですが、先ほどの本の中で、NHKエデュケーショナル坂上達夫氏が、書いていたことに、
(おお、これ!)
と思ったのでありました。それは
「重松さんの小説を読んでいると、これ以上、先へすすめなくなってしまうことがあります。登場人物が、その心の優しさと、或いは弱さゆえとったこうどうの、幸せとは言えない帰結に、胸を衝かれる、というより我がことのように痛みを感じるからです。
このようなリアルな想像力を喚起する人間のモデルをできるだけ沢山自分の中に持っておく、その大切さを子どもたちに伝えることが、私たちの番組「ようこそ先輩」で、先生役を務められた重松さんの中心テーマでした。それは確かに、作家として、というより人として必要な資質です。」
(そうなんだよなあ、想像力、人間モデル、そういうことだよなあ)
と、やけに納得していました。でも、ここからなんです。
「ただそれは、やたらに多くの人を知っている、というだけではあまり意味がない。誰か自分意外の人の立場で、ものを眺め、考える、という作業を経てはじめて身につくものです。」
この言葉は、響きました。ちょうど、昨日夜の懇親会時にsumiちゃんさんと話していて、コルトハーヘンさんのリアリスティックアプローチ?についてちょっと教えてもらっていたことと、繋がっているなあ感じたからです。
その時自分が「何を考えたか」「どう感じたか」「何がしたかったか」「どうしたか」そして、それは同時に、「相手はそれぞれについてどうだったのか?」想像力を働かせること、セットで扱うということ(私のごかいがなければ)。簡単にいうとこんな感じだったと思います。
このことって、当たり前にしているようでしていないこと。日常では、自分の解釈や思いが優先してしまうことはよくあって、相手が今どう感じているか、どうしたいのかとかにまで思い至らないことってよくあります。私は。
教室での日常も、「物語」。その中で、子どもが、一緒に働くみなさんが、保護者が、何を考え、どうしたいのか、どう感じているのか、というアンテナを立てることって、意識的にやって行かないと、ついつい自分の思いで突っ走る。そんなことになりがちです。いくら小説を読んで、人間モデルを溜め込んでも自分でそれを活用?しないと意味がありません。いやあ、昨日は学べたなあ。
新春雑談会では、ナベタさんが、
「ぼくは、生徒の名前は覚えないんですよ。あえて。覚えないようにしている。でも、顔は覚えるけど。」
とおっしゃっていました。これも、面白いでしょう?ここだけ聞いたら
(なんで!?)
ってなりますが、わかる気もするんです。あえて、ですから^ ^。
私はその域まではぜんぜんいかないなー、とは思いました。ここの話は、ナベタさんからもう少し聞きたいなあ(自分の中では未消化)と思うところです。
なぜ、ここにいきなりナベタさんの話をはさんだかというと、実は、先の重松さんの話と、sumiちゃんとの話と、根っこでは繋がる気が、ぼんやりとしているから。どうつながるかは、いまはまだ?なんですけどね。
「教育って、もともとは『伝える』ことでしょう?」

- 作者: 重松清
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「教育って、もともとは『伝える』ことでしょう?」
この本の中で、鷲田清一氏が作家重松清さんとの対談の中で発した言葉。
先行する世代が、長い時間生きてきて、痛い目にもあってきて、「これだけはするなよ」「こうやったらうまくいかないぞ。」と、次の世代に失敗しないように伝えること、とも。
次の世代を思って伝えること。そこにはできたことよりもうまく行かなかったこと分からなかったことにどう対処して行くかそんなメッセージも含まれる。
わからないことにどう向き合って対処していくのか、そのための練習の場だったり経験を積む場が学校だったり教室だったりするのだろうなあ。
人よりできること、他県よりできること、結果を出すこと…。「分かったこと」「できたこと」ももちろん大切だけど「分からないこと」「できないこと」にも価値を置く、そのあとどうするかを学ぶ…
うーん、難しいなあ。鷲田清一さんは哲学・倫理学の方らしい。『学び合い』も「哲学」だなあとなんだか分からないけれど思ったのでありました。
2015-01-02
「『指導』と『教育』は入れ替え可能なものか」
「『指導』と『教育』は入れ替え可能なものか」
ある本を読んでいて見つけた言葉です。
学校にはいろんな「指導」があります。学習指導、生徒指導、清掃指導、保健指導…。それ同じくらい「◯◯教育」というものもあります。
「指導」と「教育」は入れ替え可能なものか?そういう問いかけは大切だなあと思います。どちらが正しいとかいいとかそういうことではないんですが、それぞれの関係はどうなのか、どうだと思うのか、そんなことを職員室とかで気楽に喋ることを積み上げていきたいなあと思います。
2015-01-01
しなやかに
あけましておめでとうございます。
今年はどんな年にしたいかなあ,なるといいかなあ,とちょっとぼんやり考えてみます。
ある方から「今年もしなやかに学校や学級,社会のコミュニティーづくりをしていきたいですね。」と,メッセージをいただきました。
(ああ,そうだなあ,私にとってのキーワードは「しなやか」だー)
と思いました。
自分だけで出来ることはほとんどありませんし,そもそも自分だけで何とかしようとしてもうまくいきません。だから,学校のことも学級のこともそこに所属するみんなと一緒にやっていかないとうまくいきません。それぞれがそれぞれの願いや思いを前に進めようとするならば,お互いにしなやかさが必要になるでしょう。それは誰かが我慢するとか譲るとか,そういうことではなくて,摺り合わせる,そんなイメージ。
学級で言えば,どんな子どもでも「だれかに合わせないと」とか「先生の言うとおりにしないと」とかそういうことで自分の心を縛らないで,自分のやりたいようにやりながらそれでいて,みんなが居心地がいい,自分は前に進んでいる,そんなことを何となく(なんとなくでいいのです)感じられるみたいなところでしょうか。
こっちに進みたい,という明確な意志を持ちつつ,しなやかさも忘れない,そんな一年にしたいなあと思います。