次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2013-06-05「しめない」「びしっとさせない」笑

    「しめる」という言葉ははっきりいってきらいです。その言葉は,もうちょっと紳士的な言葉でいうと,多くの場合「びしっとさせる」なんて言い方をしますが(教育の世界では。あくまで私の近辺かもしれませんが),その言い方・表現もあまり好きではありません。それは,あくまで,教師が上で子どもが下,という位置づけの言葉であり,対象(この場合は子ども)を下に見ているからです。

     校長先生が,職員を「しめる」なんていいます?校長先生が,職員を「びしっとさせる」なんて言います?普通は言いません。

     そういう言い方は往々にして,対象に圧力をかけ,「従わせる」という言い合いで使うことがおおい気がします。相手が「子ども」なんだから,それは当たり前?いいえ,違うと思います。そもそも,何をもって「子ども」というか,もありますし。

     それ以上に,従わせるのが教育でしょうか。

     しかしながら,教育界では,その「しめる」とか「びしっとさせる」のがある種「指導力」の一つの柱として認知されてきた「雰囲気」はありますよね。短期的に,即効的に,目に見えて,子どもが素直になったように見えますから。でも,それがもし,もしですよ,「圧力」によってなされているものだとすれば,どうでしょうね。その圧力がなくなったときには,そのクラス,その子はどうなるのかな。荒れたり,勉強しなくなったりするのでしょうか。圧力によって問題が押さえ込まれていたとすればそうなるでしょうね。でもそうなったとしたら,時に,学校は

    「あの,先生の時はちゃんとやっていたのに,きみになったらこうなってしまった。もっとしめないと!怒ったら怖いところを見せないと!びしっとさせないと!」

    てなことにも,なりがちです。(でもさあ,それじゃ,犬の訓練と同じじゃんか,と心の声)

     先生や状況が変わったら,荒れるクラスや子どもだとすれば,やっぱりそれはクラスや個人の中に自分たち自身,自分自身の価値基準が作られていないということなんだと思います。だれかの(この場合は教師)物差しに合わせて,合わせている振りをしているにすぎないってことじゃないでしょうか。

     大切なのは,クラスや個人の中に,価値基準ができあがること,育てることかな,と思います。それには時間がかかります,トライアンドエラーの繰り返しです,そうやってできあがったものは,先生や状況が少々変わった程度では崩れません。同じように進めます。教師側としては,綿密にクラスや子ども個人を分析し,方向性を示し続ける必要があるでしょう。これは,けっこうしんどい作業です。だって,ごたごたしてまとまっていなくても,ひとまず待たなくてはならないからです。下手をすると,回りの先生や,管理職の先生から

    「何やってるの。びしっとさせなさい!」

    てなことになる恐れもありますから。個人の責任の所在が,ある面限定的になってしまう担任制では,それこそ重大です。だから,即効的な効果が,とりあえず期待できる,「びしっとさせる」が伝承されます。そうなると,子どもひとりひとりの見立て,アセスメンとよりも,ぜんたいの「まとまり」というか「まとまってみえる形」に重きが置かれることも,あります。難儀ですね。

     「しめる」「びしっとさせる」のはきらいです。でも,それは緊張感が無くてもいい,というのとは,またちょっと意味合いが違うんです。自分の中から生まれてくる緊張感,そういうのは必要だと思います。だから,しめる必要なんかないし,びしっとさせる,必要もないのだ,と思っています。

     毒をはいた?でも毒じゃないよ。

     特に何かがあった,というわけではありません。前からあった思いを,とりあえずぐちゃぐちゃ表現しようと思っただけです。へんなやつですかね。笑