次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2013-06-30異学年

     昨日は学習参観でした。近頃は体育は1,2年生合同なのでそのまま合同の跳び箱遊び。特別支援の学級も一緒なので,教員も4人付くことができて,いいです。

     2年生は11人という少人数なので,他学年と一緒に活動させていただけるととても助かります。子どもたちだけでなく教員の数も確保できるので安全面や準備などでも負担が減ります。子どもも関わりが広がったり深まったりするし,いいことだらけです。

     生活科や,体育,その他学活も合同でやることが多いので,もはや国語や算数だけ別にやっている,「同じクラス」という感覚です(笑)。

     1年生の先生とは

    「算数だって一緒にやれるかもね~」

    なんて話もしていますが(笑)1年生の受け持ちの先生は特活が好きな先生なので,そういう話は普通にできます。

    2013-06-27志教育

     今日は,県の総合教育研修センターでの志教育研修会に参加しました。

    志教育。いわゆる「キャリア教育」ということだと思います。これは,県教委の最重要課題とのこと。

     講話を伺ったり,研究討議に参加していて

    (これって,そのまま『学び合い』で考えていることと同じじゃないのかなあ。)

    (『学び合い』なら,そのままアプローチできるはずだよなあ。)

    と思っていました。

    2013-06-21「工夫」

    教師が、あれこれ授業のやり方を工夫する。それ自体は素晴らしいことだし、そのほうがいい、とある面、思う。(そう、ある面です。)

    でも、です。誤解を恐れずに言えば、教材教具や、発問やら、板書やら、ワークシートやら、グループ編成やら、なんだかんだ「工夫」しなくては、子どもは学ばないのか?と思う。

    そんなことしなくても、子どもは学ぶ。学ぶ力はある。

    極端にいえば、教師が工夫なんてしなくても、子どもたちが勝手に学ぶ、そんな姿を目指したいんだよね。

    あ〜、多分、一般的にはこんなこというと、誤解されるな。

    2013-06-18授業研究会をしました

     今日は,校内研究の全校授業研究会でした。私が国語科「お手紙」(アーノルド・ローベル)の授業を提供し,みんなで検討しました。

     授業を組むに当たって。

    (何が一番大事かな~)

    と考えたときに,

    「クラス集団が,一人も置いていかないこと,一人残らず学習に能動的に参加すること,そして,それが楽しく,満足できるものであること」

    だなあ,と思っていました。

     で,結論からいうと,みんなが課題を達成できたか,と言う点においてはほぼ満足できる内容だったと思います。時間内に一人,自分の考えを書ききれなかった子がいたのですが,時間終了後,自分で書き上げていました。また,何人かは時間が終わったあとの休み時間をつかって書き加えてきました。

     研究テーマは「主体的に学ぶ子どもの育成~自ら考え,伝え合う学習活動の工夫を通して(国語科)~」です。そこでは目指す子ども像として「目的達成のために,よく聞き,よく考え,自ら切り開く子ども  自分の考えをもって,他者とかかわりながら,学習の課題の達成に向けて,粘り強く取り組む子ども」を掲げていますから,その点で言えば,本時の子どもたちのがんばりは,個々の子どもたちの現時点での読む能力の差を鑑みればなかなかのものだったなと思います。最後に書き上げてきた子や,休み時間に書き足してきた子は,今まではなかなか書ききれなかった子でしたから。チャイムがなって,それで書けないまま出してくるのかな,と思ったのですがそうはしなかったところに,その子たちの成長と,そこまでかかわってくれた子どもたちの成長として感じられます。

     もちろん,課題はあります。私自身の子どもたちのへの課題の与え方が適切ではなく,その点で,取り組む子どもたちに迷いを生じさせてしまった点です。そのため,子どもによっては,私の与えた課題にぴったり沿うことができずに内容面ではまだ不十分な子もでてしまいました。そこらへんは,私の反省点であり,途中の軌道修正のかけ方など考えなければならない点がありました。事後検討会でもそのあたりを指摘していただき,私自身も,ああ,その通りだなあ,と思うので今後に活かしていきたいと考えています。

     ただ,前言と反対のことを言うようですが,(それは前言を撤回するとかないがしろにするとかそうではなく,まったく別次元の部分で)

    (課題はよくなかったけど,まあ,それはたいした問題じゃないんだよなあ)

    とか

    (私の与えた課題はよくなかった。でも,子どもたちは,一人も置いていかずに,私の与えたよくない課題でも,全員がやりきったから,それでまずはいいかな)

    と思う自分もいます。

     勉強ってそもそもなんのためにするのか,と考えると,やっぱり人生をハッピーに生きるためかな,と思います。単純に楽しいから,楽しむため,ともいえるかもしれません。

    自分がハッピーになるためのチャレンジを続けられる力,目の前の課題を何とかしようとする気持ち,一人ではできなかったら「ちょっと教えてくれる?」と人の力も借りながらなんとか乗り越えていく力,一度でうまくいかなかったらもう一度チャレンジする気持ち,困っている人を置き去りにしないこと。どれも,自分の夢や願いにたどり着く心構えといえるものかな,と思います。そんな心構えを,毎日毎日の授業の中でトライアンドエラーを繰り返しながら,身に付けていくことが必要なんじゃないの,と思います。だからできてもできなくても,そんなに違いはないんじゃない?と。そういう視点で考えると,学習の課題なんてどうでもいいのでは,と思ってしまいます。学習の課題が意味がないというのではなく,どんな課題だって結局いいんじゃないの?という感じです。このニュアンス,多分伝わりませんね。もちろん事後検討会でも言いません。

    「何言ってるの?」

    と思われるのがおちですから。

    「ああ,今日の勉強,楽しかったな~」「なかなかいいチャレンジができたなあ」「明日が楽しみだなあ。」「あしたは何にチャレンジするかな」

    そんな感じで,どの子も学習できれば,まあ,案外課題なんてどうでもいいというか…。笑

     

     とにもかくにも,今日,子どもたちは私の課題設定のミスにもめげず,よく最後まで「一人も置いていかない」を実現しました。これは,明日から今日のパフォーマンスが通常のレベルにすることが可能,ということになります。子どもたちにとっても私にとってもも見てもらう,というのはいいですね。精進します。

     事後検討会後に,話し合いをした図書室に残って教務主任の先生と,授業について思っていること考えていること,そして上記に書いたことも若干含めながら,授業観についてじっくり話せたのが楽しかったしおおきな収穫の一つ。学校なんだけど,授業や子どものことを,ほんとうにじっくりと本音で対話する機会って意外と無いんですよね,だから余計楽しかったです。

    明日からも,また子どもたちとがんばりまーす。

    2013-06-17

     f:id:motoryou:20130617081002j:image

    今朝,教室に行ったら,子どもたちがかけよってきました。

    「○△※×!」「○△※×!」「○△※×!」

    「ん?」

    よくよく聞いていたら,

    「オタマジャクシがかえるになった!」

    らしい。

     クラスには今,ザリガニ水槽と,オタマジャクシ・メダカ水槽があるのだが,そのオタマジャクシ・メダカ水槽での異変?である。

    (水槽に群がって,のぞき込んでいる君らの方が,よっぽど興味深いぞ~笑)

    とも思ったけど。

     朝読書の時間前だったから,そのあとの朝読書には,カエルの本を読んだりするのが人気。

     1時間目にも,算数しながらときおり水槽を覗く子とか。まあ,いいでしょ。

     4時間目の生活科で,その子ガエルたちを,学校前の小川に放したのでした。

    2013-06-16福田誠次氏講演会

    子どもたちに「未来の学力」を

    子どもたちに「未来の学力」を

    筆者の講演会が,仙台で開かれることを知って,喜んで参加しました。

    この本は,私の本の中でもお気に入りの本で,今まで4回くらい読み直していますし,その度に,新しい気付きを与えてくれる本です。それだけ,私にとっては大切な本の一つです。

     加えて,福田先生は,私の卒業大学の教授です。

     

     講演を聴きながら,フィンランドの教育は一貫して「自分のために学ぶ」「楽しいから学ぶ」という考え方。それはもう文化の域なのだろう。一方日本はどうか。勉強はさせるもの,できればしたくないもの,楽しくないもの,と捉えられてはいないだろうか。下手をすると,何かの罰に「勉強」が当てられてしまうこともあるのではないか。

     「その子が自分の人生を生きていくのに,どんな学力を付けてあげなくてはいけないか,そこを考えている。」

    「一人たりともこぼさない」

    そんな福田先生のフィンランドの教育に対する言葉からは,西川先生の『学び合い』と通じるところがあります。

     もはや「追いつき追い越せ」型の「結果重視」「効率重視」の学びでは,これからの世の中は通用しない時代になっているのでしょう。

     講演の最後に,

    「子どもの最も近くにいるのは教師。その教師自らが(学力観を)変えていくことが必要」

    との呼びかけがありました。

     せっかくの内容のある講演なのに,現役の教師の参加のなんと少ないこと。それが寂しいですね。

     以下,私の勝手な講演記録。(ipadでメモを取ることにも慣れてきたのがうれしいです笑)

    @@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

    〓「テストなし、競争なしでも学力世界一」

    ◯私の講演前の問題意識

    学習意欲について

    学力、について

    日本のこれからと現在の状況

    テストはスナップ写真。テストをどう考えたらよいか。

    「学力」をどうやってあげるか。

    こどもの成長とは何をもって測るか

    現状打破の糸口

    学力の測り方

    【講演】

    ・競争するから学力が上がるのではない。

    ・なぜ経済団体がテスト(PISA)をつくったのか。

    ・日本の学力は低くない。ものさしがちがう。

    ・しっかりした公教育が必要。

    ・授業時間を増やしたからと言って、学力があがるというものではない。

    ・おいつき、追い越せ型の学力の行き詰まり

    ・手本がない先をどうつくるか。その不安。その先が見えない

    →個性化教育、財界主導の側面

    ・フィンランドは、猛勉強?と思いきや、のんびりしたもの。授業時間は少ない。日本的な授業を基準にすると、「学級崩壊」。しかし、学習は進行している。

    ・目的を失う学習でいいのか。テストが目的では、テストが終われば用なし。

    ・テストのために勉強する、はさみしい。勉強とは、自分の人生のためにする。楽しいからする。

    ・テストはできないところをできるようにするためのもの。

    ・テストが目的化すると、自分の人生のための学びを考えなくなる。

    ・フィンランドの教員は授業作りの時間は保障されている。学校滞在時間は7時間1分、うち休憩46分

    ・なぜ、フィンランドはPISAで成績がよかったのか?

    ・社会で独り立ちできる学力の育成。フィンランドは底上げがされている。授業の目標は一人一人ができるようになること。これはつまり底上げがなされていること。ではできる人は…。

    ・アメリカは格差が大きい。日本はアメリカに近づいている。格差が拡がってきている。ここが問題。

    ・フィンランドは底上げをしたら、全体もあがった。上位も伸びた、ということ。

    ・フィンランドは習熟度別を廃止。みんなでいっしょに学ぼう、ということ。

    フィンランド教育大臣「最も重要なことは、同質能力集団を廃止したこと。」多様な人で学ぶ。

    ・子どものやる気をださせれば、子ども自身が学んでいく。

    ・競争教育の問題点は、半分の子がやる気をなくすこと。フィンランドは「いつか、できるよ!」のスタンス。

    ・フィンランドでの基礎教育の目標は,平等で協力し合える社会を形成し、学び続ける力を育成すること。

    ・フィンランドは学校間格差はほとんどない(16歳)。学校内に、成績の良い子も悪い子も混在している。つまり、勉強するもしないも本人の問題。競争があるから学ぶのでない。自分のために学ぶ。

    ・フィンランドは高校入試はない。

    ・フィンランドはテストのための勉強ではなく、自分のための学びができる。

    ・テストをやると、テストだけで判断するようになる。

    ・できる人は、自分で答えをみて自分でやっている。?な子は手をあげて先生に聞いたり友達と一緒にやったり。

    ・フィンランドは教育の特徴は…。できない人の底上げはするけれど、できる人はほっとく?だってできるんだもの。

    ・カンニングはない。だって、点数に価値を置いていないから。

    ・ラーニングピラミッド(アメリカ 国立行動科学訓練実験所NTL)。教えることで自分が学べる。最もよく学べる。聞いてるだけは、最も効果が低い。

    ・日本では、25歳以上の成人学生の比率が他国に比べ極端に少ない。それは、学び直し、という文化,習慣がないということ。若いうちに人生を閉じている。学ぶことを終わりにしている。

    ・フィンランドの補習は、やる気のある人が学び足す、という感覚。日本では、罰?とかできの悪い、というイメージがあるが。

    ・学力の根源は学び続ける力。その場の問題を解決する力。社会で使える学力。

    ・使えるかどうか、ということ。人と人とが協力できるための学力。助けを求めるのも能力の一つ。

    ・さまざまな知識をつなげあわせる力。

    ・本当に必要な学力は,なんでしょう。

    ・子どものためになる学びを。日本では、点数を取らせることがそうだと思っている傾向がある。その人のためになる学びとは何か、という視点。点数イコール学力ではない。一人たりともこぼさない、という意気込みがある。その子が人生を生きて行くために必要な学力は…。

    ・子どもの人生をだれが見ているのか。

    ◯質問に応えて

    ①今の日本の学校の現状認識と次のステージにあがるための助言は?

    ・現在できることは、できたところを認める。100点が目標ではない。もっとやりたいところがでてきたら、チャレンジさせる。入試をも飲み込む。入試の制度を変えなければならないのだろうけど。今後は変わっていくはず。東京の私学や進学塾は変化に対応してきている。

    ・社会を見ても、いろんな人が集まって製品開発をする、企画する、などが主流。多様な人と学び合いながら。学校ではなるべく、チームワークで課題解決する経験を。

    ・学びを金儲けにつなげない。小金持ちの論理でなく,商品にしない。そうでない逆の方向に。

    ②特別な支援が必要な子どもについては?

    ・平等の考え方。どの子にも合った学びを。同じことをさせるのが平等ではない。行き着く先は自律。自立。人それぞれによってメニューを変えて行く。

    〓補説

    ・できる人、できない人を織り交ぜながら、育てて行く力が日本の教師にはあった。それが、近年急速に失われている気がする。

    ・効率よい授業、短時間でよい点をとらせる授業が急速に進んでいる。それは上辺だけになる。剥がれ落ちる。

    ・新しい学力を文科省は出してきたんだけど、テストが古かった。そういうこと。それが失敗。新しい学力が見えるテストをつくらないと。

    ・学び続ける力を測るテストを。いろんな知識を活用して、繋げ合わせるテストを。→テストを変える。

    ・自分のための学びを考える時間を、学校内でつくることが大切ではないか。

    ・学校の先生は研究者であり実践者。自分の研究成果を自分で使うおが学校の教師。

    ・モチベーションが点数になっているのが問題。基礎学力は人によって違うはず。

    ・教科にわけて、総点で判断することは、本当は学力を測る上で無意味。

    ・学校は人間を育てるところ、という根本原則を。

    2013-06-15校内研究授業研究会

     18日に校内研究の授業研究会を行います。私が研究主任で,私が授業研究会の授業提供トップバッターです。

     2年国語「お手紙」(アーノルド・ノーベル)です。

     授業プラン作りから,学年部の先生といっしょに,ホワイトボードミーティングをしながら,作りました。授業提供場面の前時も,学年部の先生参観のもと,行いました。

     「いつもどおり」です。

     子どもたちは,初めにまず自分でやってみようし,しばらくするとみんなと一緒に考え出し,さらに付け加えて,という感じ。

     読むのが苦手で,これまで書ききれなかったメンバーを残してしまっていたこともあったメンバーでしたが,見てもらっている授業だと俄然エンジンがかかり,その日はみんなが書ききることができました。

     次回は,このラインからスタートできます。子どもたちはきっと,張り切って頑張ることでしょう。そう信じています。

    2013-06-14リスペクト

     今日は様々な学校に勤める仲間との,食事会&飲み会でした。

     様々な「職場の事情」の話も出ました。

     一人も見捨てない,は大人の職場にも必要であり,それはそれぞれの構成メンバー全員にとっても大切なことだと痛感しました。

     我が職場はどうだろうか,そう考えました。必要だと思うことをします。

     要はリスペクト,です。

    2013-06-11運動会みたいな取組か

     運動会の,職員の「お疲れ様会」(飲み会)は,けっこう盛り上がって楽しい。その楽しさも,運動会での子どもの頑張りや,練習期間中のエピソード,などを語り合う楽しさ。うまくいったこともちょっと失敗してしまったことも,それぞれいい話題になって,楽しい。

     考えて見ると,運動会の,これ,が一番楽しい。「お疲れ様会」(まあ,打ち上げ?)はいろいろあるけれど,学芸会のそれより楽しい。指導主事訪問のそれ,や送別会(分散会)よりも。

     なぜかな~,と考えると,子どものリアルなエピソードがたくさん語られるのが運動会の打ち上げだからでしょうか。

     運動会の児童会スローガン。校長先生も事あるごとに,子どもたちや職員に「スローガンを目指しましょう」と語るし,もちろん我々もそこを意識して取り組みます。子どもももちろん。練習期間中は,全校練習や学年部練習などと,子どもも職員も学年,クラスを越えて取り組みます。一つの目標をみんなで意識して,一緒に一定期間中,活動します。そこかなあ。

     年度末の分散会で,

    「今年は,こういう学校作りをみんなでめざしてきましたね。ほんとうにおもしろかった。」

    みたいな飲み会ができ,お互いに共有できる子どもたちのエピソードを山ほどできると,おもしろいなあ。運動会みたいな取組を,校内研究や学校作りに生かせるはずなんだよね。

    2013-06-09公と私

    憲法改正論議。注目してメディアなどを見ています。

    「人権と人権がぶつかり合った時の、その落とし所が公共の福祉。

    福祉は幸せ、公の秩序は規律。」

    「人権と公の秩序はぶつかり合ものではない。協調するもの」

    という、コメンテーターの言葉があった。

    だれもが、自由にあれこれ思ったこと考えたことが自由に言える。その中で、バランスをとって行く。みんなが、それこそ、本当にみんなが自由にものが言えること、それをちゃんと受け入れてくれること、それが保障されていれば悪い方にはいかないだろうし、行ったとしてもバランスを保つ働きが生まれるでしょう。

    誰か特定の人が「公」を決めたり、「これが常識だ」とか「こうあるべき」とか決め出すと、どうなるでしょうか。

    自分たちのことは自分たちで決める、決めていい、個々の意見が違った時には落とし所を見つける。自己選択と自己決定。

    学校生活や、教室での活動も、こういうことを毎日毎日トライアンドエラーを繰り返しながら学んでいく、そういう場でありたいです。

    2013-06-08職員評価

    我が県には、職員評価、というのがあります。

    年度始めに、⑴教科指導、⑵教科外指導、⑶校務分掌の3分野において、自己目標をたて、校長先生や教頭先生と面談をし、年度末に自己評価をして再び面談。ごく簡単にいうと、こんな感じです。

    この目標、職員みんなで共有し合ったらいいのになあ、と毎年思います。どの先生がどんな目標を持って取り組んでいるのかがわかるか分からないかでは違いは大きいと思います。目標を知っていれば、

    「いいね!」

    とか、「すごいなあ、がんばっているなあ!」とかよりはっきりわかるし、なにより協力できます。

    しかし、現実には、各教員と管理職の先生の間でクローズドされています。

    学校教育目標や、校内研究主題とリンクさせる、同一ライン上に設定すれば(各自は設定しているのかもしれませんが共有していないので、そこは不明)、教育目標つまりみんなでどんな学校にしていきたいのか、ということにむかって、大きなビジョンを共有しながら勝つ、多様な方法でアプローチする、それをおたがいに尊重し合い、高め合う絶好の機会になりそうだなあ、と思うのです。

    まあ、でもそう思うのなら、同じ学年部の先生や同じ意見の先生とまずは、自己目標を共有してみようかな。まずはあれこれ言ってる間にやってみる、かな。それとも、全員の合意がないとだめなのかなあ?

    ちなみに、私の目標は、ごく簡単にいうと⑴多様なかかわりを活かしながら学ぶことに対する意欲を高め、全員の学力の向上を図る⑵朝の読み聞かせを年間150回以上行う⑶校内研究の充実を図る、という感じです。

    我が県には、職員評価、というのがあります。

    年度始めに、⑴教科指導、⑵教科外指導、⑶校務分掌の3分野において、自己目標をたて、校長先生や教頭先生と面談をし、年度末に自己評価をして再び面談。ごく簡単にいうと、こんな感じです。

    この目標、職員みんなで共有し合ったらいいのになあ、と毎年思います。どの先生がどんな目標を持って取り組んでいるのかがわかるか分からないかでは違いは大きいと思います。目標を知っていれば、

    「いいね!」

    とか、「すごいなあ、がんばっているなあ!」とかよりはっきりわかるし、なにより協力できます。

    しかし、現実には、各教員と管理職の先生の間でクローズドされています。

    学校教育目標や、校内研究主題とリンクさせる、同一ライン上に設定すれば(各自は設定しているのかもしれませんが共有していないので、そこは不明)、教育目標つまりみんなでどんな学校にしていきたいのか、ということにむかって、大きなビジョンを共有しながら勝つ、多様な方法でアプローチする、それをおたがいに尊重し合い、高め合う絶好の機会になりそうだなあ、と思うのです。

    まあ、でもそう思うのなら、同じ学年部の先生や同じ意見の先生とまずは、自己目標を共有してみようかな。まずはあれこれ言ってる間にやってみる、かな。それとも、全員の合意がないとだめなのかなあ?下手なことをして、かましても困るしなあ笑

    ちなみに、私の目標は、ごく簡単にいうと⑴多様なかかわりを活かしながら学ぶことに対する意欲を高め、全員の学力の向上を図る⑵朝の読み聞かせを年間150回以上行う⑶校内研究の充実を図る、という感じです。

    2013-06-07

    いろんな子がいて,いろんな大人がいるんだから,いろんなアプローチがあっていいと思うんだけどね。

     なんで,こう,そろえたがるんだろうねえ。

    2013-06-06家庭訪問ありがとうございました

    【通信№28より】

    先日は,家庭訪問でお時間をつくっていただき,ありがとうございました。

     家庭訪問では,「お子さんの良いところベスト3」を聞かせていただきました。お話を伺いながら,学校の様子を重ね合わせ,

    (やっぱりなあ,そうだよなあ)

    (そうかあ,だから学校でもあんなふうにできるんだな)

    などと納得したり感心したり。今後の学校での子どもたちへの声がけや目標設定などに活かしていきます。

     全員のご家庭で,お子さんをはさんでの3者での家庭訪問ができたことが,とてもよかったと思います。自分のよいところを,お父さんやお母さんが話してくれているのを聞く子どもたちの顔は,少しはにかみながらもとってもうれしそう。貴重な時間になりました。ありがとうございました。今後とも,よろしくお願いします。

    2013-06-05「しめない」「びしっとさせない」笑

    「しめる」という言葉ははっきりいってきらいです。その言葉は,もうちょっと紳士的な言葉でいうと,多くの場合「びしっとさせる」なんて言い方をしますが(教育の世界では。あくまで私の近辺かもしれませんが),その言い方・表現もあまり好きではありません。それは,あくまで,教師が上で子どもが下,という位置づけの言葉であり,対象(この場合は子ども)を下に見ているからです。

     校長先生が,職員を「しめる」なんていいます?校長先生が,職員を「びしっとさせる」なんて言います?普通は言いません。

     そういう言い方は往々にして,対象に圧力をかけ,「従わせる」という言い合いで使うことがおおい気がします。相手が「子ども」なんだから,それは当たり前?いいえ,違うと思います。そもそも,何をもって「子ども」というか,もありますし。

     それ以上に,従わせるのが教育でしょうか。

     しかしながら,教育界では,その「しめる」とか「びしっとさせる」のがある種「指導力」の一つの柱として認知されてきた「雰囲気」はありますよね。短期的に,即効的に,目に見えて,子どもが素直になったように見えますから。でも,それがもし,もしですよ,「圧力」によってなされているものだとすれば,どうでしょうね。その圧力がなくなったときには,そのクラス,その子はどうなるのかな。荒れたり,勉強しなくなったりするのでしょうか。圧力によって問題が押さえ込まれていたとすればそうなるでしょうね。でもそうなったとしたら,時に,学校は

    「あの,先生の時はちゃんとやっていたのに,きみになったらこうなってしまった。もっとしめないと!怒ったら怖いところを見せないと!びしっとさせないと!」

    てなことにも,なりがちです。(でもさあ,それじゃ,犬の訓練と同じじゃんか,と心の声)

     先生や状況が変わったら,荒れるクラスや子どもだとすれば,やっぱりそれはクラスや個人の中に自分たち自身,自分自身の価値基準が作られていないということなんだと思います。だれかの(この場合は教師)物差しに合わせて,合わせている振りをしているにすぎないってことじゃないでしょうか。

     大切なのは,クラスや個人の中に,価値基準ができあがること,育てることかな,と思います。それには時間がかかります,トライアンドエラーの繰り返しです,そうやってできあがったものは,先生や状況が少々変わった程度では崩れません。同じように進めます。教師側としては,綿密にクラスや子ども個人を分析し,方向性を示し続ける必要があるでしょう。これは,けっこうしんどい作業です。だって,ごたごたしてまとまっていなくても,ひとまず待たなくてはならないからです。下手をすると,回りの先生や,管理職の先生から

    「何やってるの。びしっとさせなさい!」

    てなことになる恐れもありますから。個人の責任の所在が,ある面限定的になってしまう担任制では,それこそ重大です。だから,即効的な効果が,とりあえず期待できる,「びしっとさせる」が伝承されます。そうなると,子どもひとりひとりの見立て,アセスメンとよりも,ぜんたいの「まとまり」というか「まとまってみえる形」に重きが置かれることも,あります。難儀ですね。

     「しめる」「びしっとさせる」のはきらいです。でも,それは緊張感が無くてもいい,というのとは,またちょっと意味合いが違うんです。自分の中から生まれてくる緊張感,そういうのは必要だと思います。だから,しめる必要なんかないし,びしっとさせる,必要もないのだ,と思っています。

     毒をはいた?でも毒じゃないよ。

     特に何かがあった,というわけではありません。前からあった思いを,とりあえずぐちゃぐちゃ表現しようと思っただけです。へんなやつですかね。笑

    2013-06-04日常的に

     今日は2時間目は,1,2年生と担任二人,そして養護教諭で歯磨きの指導。そして4時間目は,またまた1,2年生みんなで,遠足のしおり作りと読み合わせ,事前指導。

     4月の入学式から,運動会練習,そしてその後と1,2年生で一緒に“活動することは,もはや日常的になっている。

     どうってことはないといえばそうなんですが,なんかいいです。

    2013-06-03そこにいることが参加すること

    体育は跳び箱遊び。今日から1,2年生合同で行います。2年生11名,1年生21名なので,ちょうど良いです。それを担任3名プラス支援員さんで見られるのでとてもいいです。

     1年生には,特別に支援を要するAちゃんがいます。今日は担任の先生が都合でお休みを取っていたので,低学年担任2名と支援員さんの3人体制でした。

     Aちゃんは,まだ,みんなといっしょにいろんなことをするのが難しいです。列に並ぶなど他の子と行動を合わせることはまだ苦手。支援員の◇さんはまだ若く10代の方。今年が初めてのお勤めです。Aちゃんの担任の先生はいないし,なんとか自分がしなくては,と一生懸命だったのでしょう。Aちゃんが,他の子と行動を合わせられないのが辛かったのでしょう。Aちゃんに何度も促しますが,Aちゃんには納得できません。ちょっと険悪?(笑)な感じになりそうだったので,私と1年生の先生とで

    「いいから,いいから。Aちゃん,この体育館にいるっちゃ?それは◇さんがここにいてくれるからだよ。Aちゃんにとっては,今この場にいて他のこと場を共有することが学びなんだから,今すぐ,跳び箱遊びに参加しなくても大丈夫。参加したくなったらくるよ。きっと。いまはここにいることが参加することだから。」

    と伝えました。

     1,2年の合同体育。大人も子どももごちゃごちゃ感満載で楽しくなりそうです。

     子どもたちが誘えばAちゃんはきっとくるでしょう。今度はそのあたりかな。

    2013-06-02県庁おもてなし課

    http://www.omotenashi-movie.com/index.html

    見てきました。原作の小説を図書館から借りてきたけど,結局,読めずにいた本だし,その題名になんか惹かれたのもあったし,堀北真希でてるし。笑

     あんまり書くとネタバレになってしまうから書けないけれど,心に残ったのは

    ・作家の吉門氏が,掛水に“足りないのは民間感覚だ”といったこと。

    ・壮大なプランを提案した,清遠が県庁を追い出されたこと

    ・その清遠のプランを県庁が…

    あんまり書いちゃだめかな。

     夢や理想を実現するには,だれが,達成するかよりも,結果,どうなるか,なんだと思う。ラストで掛水がテレビで語る姿をみている清遠の表情がよかった。

     いろんなことを,自分勝手に関連づけて見ていました。

     高知には,学生時代ソロツーリングで行って,足摺岬や室戸岬,桂浜などを訪ねました。鰹好きの私にはなかなか良い思い出です。そして山越えして香川のほうに抜けたのを思い出しました。また行きたくなりました。

    2013-06-01あいさつ

    挨拶とはなにか。ある国語辞典で調べたら①人と会ったときにとりかわす、儀礼的な動作・言葉

    とありました。ふ〜ん、そうか。

    まあ、私の考える挨拶の意味は、

    私はあなたのことが好きですよ、好意をもっていますよ、興味をもっていますよ、少なくとも敵意は持っていませんよ、みたいな意思表示であって、人間関係を良好に保つもの、というとらえです。

    だから、子どもにもそんなようなことを言い方を変えながら伝えます。

    「言えばいいってもんじゃないよ。」

    と。

    相手や状況によって言葉や言い方は変えていいものだし、変えられるほうがいいと思っています。子どもたちは、私には、朝

    「おはようございます。」

    と言ってくれる子もいれば、

    「もっちゃん、オハヨー」

    という子もいます。私は(あくまで私は)気になりません。オハヨー、という子も、私でなければ別な言い方をしますから。

    ただ、挨拶をしなさい、といえば、あいさつをいう事が目的化することもあります。よく、公開になんかいくと、挨拶マシーンみたいに、こちらの反応をまるで確認もしないで、おはようございます、だの、こんにちは、だのを連呼する子どもがいます。それは、子どもに罪はないのですが、残念な気持ちになります。

    さようなら、バイバイ、またね〜。いろんなあいさつが、あいてや状況によって使い分けられるほうが断然いいと思うんだけどね。

    あ、おもいだした。かつて、若い頃、

    「廊下を子どもたちを順番に歩かせて、会釈の練習をさせましょう。」

    「廊下を歩く先生方に会釈をさせましょう。」

    なんて提案に、

    「いらないと思いま〜す。」

    なんて言って、なんか、シーンみたいなことになったことがあったなあ。苦笑

    なんのためにあいさつするのかな?そんなことをやっぱり考えたいですね。