次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2011-06-16また,おなじみの悩みです

     『学び合い』における教師の「厳しさ」とは何だろうか。おそらく「一人も見捨てない」「一人も置いていかない」ことに対する厳しさであろう。

     つまり,それはきっと「みんな」の達成で評価する,ということになるのだと思う。

     子どもたち一人一人の願いや目標がある。「○○が出来るようになりたいな」「○○を目指したい」というもの。もう一方で,「みんなが~出来るようになる」という目標もある。つまりクラスとしての目標といえるだろうか。

     両方をバランス良く達成してほしいと教師としては思う。バランス良く,というよりも同一線上にとらえたい。

     『学び合い』の授業は,ときに教師にとってはとってもストレスを感じることはありませんか?『学び合い』だからこそ感じるストレスかもしれません。

     うちのクラスは,能力差の幅が大きいクラスです。おそらく『学び合い』でなければ,全ての子の学習を保障できません。一斉授業では,どのレベルに合わせて授業をしても多くの子にとってはぴったり行かないと思います。

     だから,『学び合い』の授業を選択していますが,おいて行かれそうになる子がはっきり見えて来るのがつらくて仕方ありません。

     それは,見ていて子どもたちが悪いわけではないのです。子どもたちも声をかけたり,誘ったりはしているのです。それでも,うまくいきません。

     3年前の私も,同じような状況下で,「みんな」を達成できないことに歯がゆさを感じ,当時のクラスを(そのつもりはなかったのですが)結果的に責めてしまったようなときもありました。

     その轍は踏むまい,と思っています。しかし,

    (ああ,このままではおいて行かれそう…)

    と思うと,気になって気になって,マイナスなトーンの言葉を発してしまいます。

     例えば跳び箱。個人個人はそれぞれ目指す技の習得に向かって,燃えて取り組んでいます。なかなか,意欲的なチャレンジです。そのなかにあって,まだ跳べない子の応援をしながら,手伝っているグループもあります。いい感じでやっているようではあるんですが,極端に苦手な子が練習の初めからステージの端に座ってしまいます。その子は練習に参加しません。声をかける子がいても首を振っています。そうなると,他の子も,自分の目標達成のための練習を続けることを,責めることはできません。

     そうなると,私が…ということになるんですが,それもいい選択肢には思えません。これがストレス。

     こういうのって,他の教科でも形を変えて,ときどき出てきます。そのたびに(どうするどうする~)と悩みます。

     能力の差が大きい集団の場合,『学び合い』のほうが「まし」であるのは分かるのですが,おいて行かれそうな状況が目の前に「目に見えて」出てくると,すごいストレスがかかります。じゃあ私が教えたからと言って,特段わかるわけでも,出来るようになるわけでもないんですが。

     最後は『学び合い』のまた学校観に行き着くのでしょうが,それでもなんか今,もやもやしています。どうすればいいのかな~。私が求めることは

    個人が出来ることじゃなくて,クラスのみんなができること,の一本でいいのかな~。でも「クラスのみんなができる」ことばかりを求めたら,今まで達成できないことのほうが多いから,それはそれでストレス感じるし,子どもたちもつらいかな~なんて思ってしまう。

     あ,そう考えると,「みんな」に対する厳しさが私自身に足りないから,子どもにもその意識が二の次になってしまうということか…

    (わ…自分に対してバッサリ!でも実際そう…)


     難しい局面になると,いっつも,この「みんな」に悩まされるんだよな~。「みんなが」「みんなで」…

     『学び合い』における教師の厳しさってなんだ?

     一人一人の目標とクラスの目標の関係は・・・。より高次の目標をもとめればいい??

     しかし,今だ足下がしっかりしていないことが,分かります。は~。

     

     はっきりいって混乱してますね,こりゃ。