次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2009-11-30語る言葉としなやかさ

     今までも,子どもたちの『学び合い』の様子を見ていて,

    「う~ん,なんか違うなあ,学習はしているんだけど,確かにやるべきことはやって,それなりに結果はだしてはいるんだけど,なんかな~」

    と思うことはありました。

     子どもたちは,学び合ってはいる。でも「何か」が足りない。その何かは何だろう???と思っていたのですが,その答え(応え)かもしれないものを1つ見つけることができたのが,この間の赤木小です。

     子どもたちの声のトーン。とんたんさんは,ご自身のブログにこう解説してくださいました。

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    学び合い」の状態がよいときには、子どもの声は非常に穏やかです。そして柔らかい。耳に心地よいのです。

     

    なぜでしょう?

     

    それは当たり前なのです。「その人に合わせる」からなのです。相手に合わせるときに人は語気を強くしたりはしません。語気が強くなるのは「分かってくれ!」っていう圧力があります。大勢で、全体に訴えかけるには

    圧力が必要でしょうが、対個人には必要ありません。だから声は優しく、穏やかになります。

     

    子どもの声にしなやかさがないときには、何か原因があります。

     

    その一つは課題が簡単すぎること。

    その一つは相手を説得出来ないこと。

    その一つは学びが固定化していること。

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    こうして,言葉になると,すっきりします。

    赤木小の4校時。4年生の子どもたちと参加教員,保護者とのスーパー『学び合い』の時間で4年生のSさんが

    「分からない人の頭の中にす~と入っていって,どこが分からないのか考えてから説明すると,自分も勉強になるし…」

    と話してくれました。まさにここなんですね。子どもたちも声のトーンの変化を聞き分けられるんだろう,そしてその違和感をきっと仲間にも伝えることができるんだろうと思いました。

     今までは,「何か違う…」と感じても,それを語る言葉を持ちませんでした。言葉として認識するって必要だなあと思いました。あとは,このとんたんさんの言葉を,自分の中で消化して,自分の言葉でも語れるようになることです。当然「みんなが」「みんなで」のを語ることも同様です。

     そういえば,N先生が講演の中で

    「それを目指したいとする集団が,その姿を語れなくて,達成できると思いますか?」

    と話していました。(「みなさん『ふんだらべっちゃを目指しましょう!『ふんだらべっちゃ』です!!』の話…)

     やっぱり語る言葉を持つと言うことですね。語る言葉を持とうとあれこれ悩むことだと思いました。分かってもらうためには相手に合わせることも必要,この声のトーンのことから,子どもたちの『学び合い』を越えて,大人の会議や議論,そういうことにまで考えが広がり,私は自分の姿も顧みながら,また学ばせて頂いたのでした。

     やっぱり,まだまだ修行が足りません。

    2009-11-29やっぱり百聞は一見に如かず,かな

    今日はどのこと書こう…と悩むくらい書きたいことがたくさんある1日です。

    やっぱり『学び合い』の授業を観るのはいいです。赤木小にいって本当に良かったです。自分の授業を相対化してみることができます。

    「やっぱり,これでいいんだな」

    「あ。これはもっと改善しなくちゃ」

    「なるほど。こういうことか…」

    などなど。

    今日は学習参観でした。とんたんさんが指摘していた,声のトーンを意識してみました。子どもたちの声がよく聞こえます。遠くのつぶやきもひろえる時があります。

    「先生,地獄耳!」

    と言われることもあります。

    今日面白かったのは,私は○○○指導の先生と2人でTTでやっているんですが,その先生と子どものやりとりが聞こえてきました。

    「1立方メートルは1000000立方センチメートル,1㍑は1000立方センチメートルなんて覚えられな~い」

    という子どもに対して,その先生は

    「覚えなくていいじゃん。この図がわかりゃあ,ほら100×100×100で分かるじゃん」

    と。

    「へ~,子どもって,その単位換算覚えようとする子もいるんだな~」と思いました。あ,そりゃあ私も何年も教師してますから,「覚えられん…」という子にはたくさん出会ってきたし,「そんなの覚えなく立ってわかるさ~」とも言ってきました。でもたぶん心から「は~!人の分かり方っていろいろだ!」と“実感”したんです。だって私の感覚じゃあ,覚えるってことは,しませんもん。

    で,そのやりとりを,ちょっと子どもたちを止めて「可視化」しました。

    なんということも無いんですが,何が変わったか分からないんですが,やっぱりライブをみるといいみたいです。(全然,論理的じゃないですね…)

    それと,今日は日曜日だったので,同じ宮城の会の先生にも授業を観て頂きました。それも,嬉しかったことです。

    懇談会も『学び合い』風?というか,ワークショップ風?というか,まあ,そこまで行きませんが,少なくとも教師ばかりが話すものではない形にチャレンジしました。会の初めにどじょうゲームと,アンゲームをやったりして。そのあとは,グループで雑談風に…という感じ。これについては,いずれ,ここでも触れ,また皆さんから改善点を教えてもらいたいです。

    2009-11-28こういうことか

    赤木小学校。私にとっては初めての『学び合い』授業の参観。

    算数。なんだろう,この落ち着いた空気は。子どもたちはあれこれ話ながら学習をしているのだけど,決して騒がしくない。心地いいざわめき?といった感じ。子どもたちが真剣に考えているときの声って,こうなんだなあ,と思った。音量の問題ではない。

    子どもたちは,動き回るという感じではないが,

    「○君は,いまどうしているのかな?」

    とか

    「なんかあっちで集まってるけど何だろう?」

    みたいにして,あっちこっちにわたっている子が多い。ずっと同じ組あわせでやっている子はあまりいなかった。それは後から子どもたちの言葉で説明された「遊び友達と勉強友達は違うから」という言葉で納得。

    終了10~15分前に,子どもたちの声のトーンがちょっと変わったときに,とんたん先生は

    「ほら,ちょっと声の質が変わったでしょ?」

    と私に行って,子どもたちに声をかけた。注意でなくて,励ましで。

    ああ,こういうことなんだなあ,と思った。

    2009-11-27赤木小学校

    赤木小学校に宮城から結果的に6人?お邪魔させて頂いた。

    圧巻。午前からとんたんさんの教室をずっと参観させていただいたのだが,学ぶどん欲さにびっくり。それが全員なのが。

    「ねえ,ねえ,きょうはどこまでやったらいいの?」と子どもたちに聞いたら

    「みんな分かったら!」

    その後の,参加者と子どもたちとの懇談会?

    「勉強友達と遊び友達は別ですから!」

    「分からない友達の頭の中に入っていって考えて,どう説明するといいか考えるんですよ~」

    その後,保護者の方ともお話しできました。

    「子どもが学ぶ楽しさを味わっているのが第一!」と。

    宮城に帰る道中の車でも,一緒に参加した先生と,今日の参観で学んだことをひとしきり話し,それでも足りず居酒屋でまたひとしきり。私に足りないのはここかも,という思いを得ることができた1日。赤木小学校のみなさん,ありがとうございました。今日はもう遅いのでここまで。

    2009-11-26こういうの好きだな

     朝,教室に行き,私の机の所に荷物を置こうとした。すると,机の足下になにやら布の棒状の物がある。

    「なんだ?誰かの落とし物かな…」

    と思って,机の下から。そのものをぐいとひっぱたら,

    「わ!!足!?」

    何と出てきたのは,ズボンをはいた足!

    さらに引っ張ってみるとそのものは新聞紙や布で作られた等身大の人形…。ご丁寧に洋服を着,ズボンもはいている。

    私がびっくりしているのを,子どもたち数人が笑ってみている。どうやら,私をびっくりさせるつもりだったらしい。

    今度のPTA祭りがあって,その出し物に我がクラスの2つのグループがお化け屋敷をするのであるが,それにつかう為に,ある子が昨日の晩,家で作ってきたという。う~ん,そういうエネルギーって大好きだな!!

    今日も,そのお化け屋敷の準備の時間が合ったんだけど,実にいきいきと驚かす「悪巧み」の準備をしていて,見ている私も嬉しくなった。

    ちなみに,その人形,今晩も教室の,イスに座って,明日を待っているはずである。歩き回ってはいないだろう,なあ…。

    2009-11-24「学力向上」と「宿題」?

     今日,他の学校の知り合いの先生たち何人かと会い,」雑談をする機会がありました。

     その中で出た話は,

    「うちの息子の宿題,半端じゃねえんだぞ~。プリント○枚に,自主勉強という名の宿題だべ,それプラス50分の学習だって。家帰って少しは遊びたいってんで,休み時間にやってるんだってさ…」

    「家の学校の宿題も多くてさ~」

    「ほら,最近,学力向上とかって,家庭学習がいろいろいわれて,それが宿題にいってるわけだ…」

    学力向上が言われるから,宿題を増やす…。その大量に出された宿題をふーふー言いながらする子どもが,学ぶことを好きになるとは思えないけどなあ。学力向上が言われ始めたのは,PISA調査からだと思いますが,まったく逆な方向に進んでいるような気がするんだけどなあ。

     学ぶことが面白い,そんな子どもたちになれば学力は自然と向上すると思うんだけどな。「勉強」じゃなくて「学び」という視点に立ちたいものだなあと思いました。私自身が学ぶことを楽しもう。それがまずは一番いい。

    2009-11-23学級懇談

    今度の29日に,学級懇談会があるので,その資料を作っていました。そしてふと…

    「学級懇談だって,考えて見ると私だけが話している時間って多いよな~。みんなでテーマに沿って,ほら,あのフリートークみたいにやれば,みんな好きに話せていいんじゃないのかな~!?保護者同士だってもっとしゃべりたいだろうし。できれば,そこに子どもたちもいたらいいよな~」

    と思いました。

    どうでしょう?『学び合い』なみなさんは学級懇談ってどんなテーマで,どんなふうにやっているんですか。ヒントをいただきたいです。親も子も教師も参加してよかったなあ,と思える懇談会がいいですよね。

    (子どもたちの参加って考えてみたいなあ。)

    2009-11-21おりあい?

    「厳粛」とは,国語辞典には「厳しく厳かなさま」としか書いていません。

    演台の位置とか,旗の位置とはあまり関係なく,そこに参加する人の気持ちだったり,その参加する人たちがつくる空気だと思うのですが。

    厳粛,とか規律,とか言うときには何か,上から的なものを感じちゃうんですよね。だからつい,言っちゃいます。

    折衷案で妥協しましたが,折衷案では本当は,どちらの考えも中途半端です。でも,卒業生は親と在校生にしっかり向かい合うことで式のねらいの達成により近づくと思うので,「おりあい」をつけました。しかし,歩み寄って頂いたことには感謝しています。

    「最終的には形ではない」と思うことにします。

    (なんのこっちゃ,ですね。)

    2009-11-17卒業式

     そろそろ卒業式のことを考えたい。

     私は,昨年と同様,対面式の卒業式にしたい。(昨年はなんとか対面式でやらせて頂いた)子どもたちが,保護者や在校生にきちんと向かい合って感謝の気持ちを伝えたり,成長した姿を見せられるようにしたいからだ。そして,保護者や在校生にも,6年生の姿をしっかり見て欲しいと思う。そこに,卒業式の大きな意味があると思うからだ。

     よりよい卒業式にしたいという思いは同じであるものの,それを体現する「形」の面については考えが合わない場合もある。分かってもらうにはどうするか,考えないと。

     「儀式的行事はこうあるべきだ」という話になると完全平行線に陥る可能性があるから,どうするか。どこに一致点を見出すか。そこを考えないと。

    2009-11-15力強い仲間

     昨日は,私が所属している教育研究サークルの例会。それこそ,いろんな年代の皆さんが集まるので,私にとっての『学び合い』の場。昨日は20代のの若い先生の報告。

     学芸会の取り組みが報告されたのですが,すごかった。年間を通し

    たクラス作りの中に学芸会のねらいをしっかり位置づけている点,子どもたちの願いと教師の願いの共有化を図るために時間を惜しまないこと,何のためにこの劇に取り組むのかをしっかり子どもたちと対話しているところ,子どもたちの主体性を大切にすること,強制ではなく子どもの思いが育つのをしっかり待っていること,ゴールのイメージを子どもと語り合う事…,そして何より,子どもたちに対するあつい思いがあること。

    「そつなく」「みんなと同じ事を」「当たり障り無く」やることが良し?とされがちな,最近の風潮ですが,こんな熱い青年教師がいることに,私も「私もしっかりせんと…!」と思いました。その後の彼との飲み会も,とっても楽しかった!!

     その彼,10月の宮城の会にも来てくれていました。(懇親会ではN先生にも会って頂きました。)話していて,もうすっかり『学び合い』の考え方が板についている気がしました。力強い仲間が増えました。

    2009-11-12「指導したぞ!」観?

     教師の仕事は子どもの「指導」だといいますよね。一般的には。それには,まあ,違うとは言わないですが,なんか最近の自分にはしっくりこない気がするんですよ。それは,多分,その言葉の裏にある,なんというか,「強制」の匂いがするから,だと自分では分析しています。

     例えば,ある子どもの姿があったとして,それが,教師の立場からみて,好ましからざる姿だとしますよね。そうすると,なんかその子に言いたくなります。それを「指導」と言いますよね,普通。「こうしなさい。」とか。どうかすると,ひどいときには頭ごなしに怒鳴ったりしたりすることも,あろうかと…。どちらにしても,そういう場合,大概の場合,指導される子どもの側には,その指導を受け入れざるを得ない状況に在るわけで,そうでなくても「受け入れているふり」をせざる負えませんよね。受け入れない場合「拒否」する権利も,確かにあるとは思いますが,そういう場合,やっかいなことになることは「指導」される側には分かるわけで,かなりの確信か,拒否すること自体を目的にしないと,そういう選択はしません。

     となると,教師が「指導しよう」と思ってしたことは,受ける側が受け入れ体制になっていない限り,あまり意味がないことなんですよね。当たり前ですが。でも往々にして,そのことに気が付かずに「指導」しちゃって,満足してしまうことが多いんです。もちろん自分のことですけど。その「指導したぞ!」観は危ないなあ,気をつけないとなあと思います。

     子どもたちの一見足りないと感じる所,不十分に見えるところを取り立てて,なんだかんだいうことは簡単ですが,そうじゃなくて,子どもたち自身に自分が目指したい姿を意識できるような環境を整えること,まだまだやれる自分に気が付かせること,自信を付けさせチャレンジすることの楽しさを味わわせること…なんてことを指導と考えたいなあと思います。

     やっぱり「変えよう」ではなく「変わるのを(条件を整えて)じっくり待つ」「変わる事を信じて励まし続ける」ことだなあ。それが今の私の目指したい『指導』。

     即,効果!を要求されると苦しいけど,急がば回れ,だと思っています。

    2009-11-10「プロフェッショナル」

     興奮しながら,

    「うんうん,そうだよな~,やっぱ,そうだよな~,学校だって同じだよね~!!」

    と言いながら見ていた今夜の「プロフェッショナル」

    以下メモ。

    ○自ら考える,行動する人を育てる。

    ○思いを伝えること

    はやる店の条件は…

    ○自分の部門だけではよければいいではダメ,目先の利益に囚われるな。

     自分だけよければ…,では職場がぎすぎすする。(成果主義の限界)

     いい雰囲気ができれば,業績もついてくる。働く楽しさ。

    ○リーダーはもり立て役に。現場が自由に動ける環境を。そうすれば,顔が変わる。(明るくやる気に満ちてくる)みんなでやるぞ,という空気。

    挨拶とは…

    ○相手を喜ばすことが自分の喜びになること。それを享受できる自分の心の状態。

    ○自分のよい心の状態をつくる。

    ○相手を喜ばせることは自分を喜ばせること。

    やることは…

    ○(人を)変えるのではなく,変わるのを待つ

     できるのは,変わるきっかけを与えることだけ。

    ○思いを伝え,共有すること

    心に残った一言…

    ○「私は人間を信じている!」

    ○「人は必ず成長する!」

    さあ,明日からまた,がんばろう!

    2009-11-09ちょっとしたことかもしれないけれど

     音楽の合奏の練習。グループごとに練習。3つの発表グループがあるから,どこも音楽室でやるのには無理がある。そこで,1グループはピアノのある体育館へ。

     ピアノを一生懸命練習する子どもの側に,別な楽器担当の子がすっと集まり声をかける。わきに座って,声をかける。そして,しばらく練習をした後,メンバーみんなに声をかけ,「合わせてみよう!」と。

     ちょっとしたことなんだけど,なんかいいなあ,と思う。

     

    2009-11-08つらつらと思ったこと

     今日は県の「教育の集い」。作文教育分科会に出てきました。私を含め3人しかいませんでしたが。今まで何年も,こういう場で顔を合わせて話し合ってきた仲間,というか尊敬できる先輩方です。

     先輩の実践報告は,日記指導。書き綴ることと読み合う事を大事にしながら仲間や家族とのつながりを育てていこうとするもの。都市部の学校でもあり?様々な問題を抱えた子どもも多いようです。でも,決してそれを子どものせいにせず,温かい赤ペンで,いわゆる「問題児」とレッテルを貼られてしまいそうな子どもにも,しっかり寄り添い,一枚文集を通してその子の良さを可視化しているところ,とってもステキです。

     少ない分科会なので,その報告を聞きながら,いろんな話もします。やはり感じるのは「問題」を起こしてしまう子を取り上げて「指導」してもなんら解決にはならないよな…ということ。(詳しくここには書けないけど)だって,その子にはその子の事情もあろうに…ということ。しっかり話を聞いてあげる余裕を教師が,クラスがもたないとならないよな~ということ。落ち着きがない子は,教室から連れ出されて別室指導とか,なにかもめ事があれば「どっちが悪い」とか。時にはそういう細部の指導もいるときは在るかもしれないけれど,もっと大局的に観たいよなあと思います。トラブルが在ったときが,クラスにとっても大きな学びのチャンスなんだから,そういう時こそ職業としての教師の仕事なんじゃあないのかな思います。

     話を聞いていると,教師自身も「とにかくトラブルが起きないように,起きないように」「起きたら早く火を消さなくちゃ」という感じを受けました。対症療法に追われているって言うか。それくらい,教師も追い詰められているのでしょうか。きっと,それは教師自身も,つながっていない証拠でしょうね。職員集団で解決しようというより,自己責任的な空気が学校現場にも蔓延しているのかな。

     「安心感」「居場所」「つながり」「有能観」…。必要としているのは子どもだけじゃあないようです。学校では何をこそ大事にしなくてはならないのか,そういう部分にもう一度立ち返ってみたいなあ,と思いました。体裁を整えることに目が行ってしまうと,中身を詰め忘れそうになります。そもそも,人が育つなんて,とっても時間がかかるものだろうし,思い通りになんていかないものなんですからねえ。じっくり,ゆっくり,子どもたちや保護者をはじめ,かかわる人と対話しながらやっていくしか無いと思うのですが。

     人の温かさが感じられる学校,クラスにしていこうっと。

    2009-11-07映画

    映画「沈まぬ太陽」を見てきました。信念を貫くことと,人の生き方について,考えさせられました。

    2009-11-05無題

     昨年度受け持って今,中1の女の子とそのお母さんに出会い,少々立ち話をした。

     中学校での近況を尋ねると,男女仲良くがんばっているようで安心した。その中学校は,うちの小学校ともう一つの小学校の2校が合わさって成り立っている。その子曰く

    「うちの小学校出身のみんなは男女とも仲がいいんだよ~」

    といっていた。学年の中でも,行事その他で活躍する子もうちの学校の卒業生が多いとのこと。素直に嬉しく思う。

     そういう特徴が『学び合い』を経験したからかどうかは分からないし,もともと,そういう気質を持っていた子どもたちだったとも言えよう。ただ,子どもたちが今でも,小学校のときに共に過ごした仲間を大切に,それぞれの違いを認め受け入れたなかで,今でも協力しつつ学校生活をおくっているという事実が大切なのだと思う。

    「もうひとつの小学校からの友達とも,合わせて『みんな』を達成しないとね~。一人を見捨てると,また次を…」

    なんてというと,

    「去年と同じこと言ってる~!」

    と言われて笑った。

    とにもかくにも,彼らの幸せな中学校生活を祈りたい。


    話は変わるが,私も中学生となったかつての教え子(この言い方もあまり好きではないけど,他にいい言葉が見あたらないので使うが)と話す機会が多い。その中で出てくるのは,なんと中学校教師の言葉遣いの悪いことか…と思うことも多い。失礼ながら。

    子どもたちの話を聞いていると,子どもは言わなきゃやらない,とか,させなきゃしない,とか,言ってもわからない,とかそんなニュアンスが感じられてしまう。かつて,中学校勤務の某学校の先生は

    「どっちが勝つかの勝負なんだ!なめられたら終わりだ。」

    なんて飲み会の時に言っていたけど,(そう思わずにはやっていけない状況にあったのかもしれないが)それじゃあ,教育の場というより調教の場だよね…,とがっかりする。

     子どもを信じる,信じて任せる。願いを語り共有する。そんなことを大事にしたいけど,そんな部分でもまだまだ学校現場ですら,いや学校現場だからこそ?それこそ「共有」できない現実があるんだよなあ。

    まあ,でもその中でも,何とか変えてはいけるでしょ。だって,教師も生徒も楽しく思い出多く,実になる学校生活をおくりたいんだからね。

    2009-11-04今日は研修日

    今日は,地区の一斉授業研究会でした。市内の教員が,所属の教科部ごとの会場校にわかれ研修を行います。私は国語部員なので,国語の授業研究会に参加しました。

    参観したのは3年生の説明文の授業。授業者は,私とも自主的な研究サークルでご一緒させていただいている若い先生です。とても一生懸命な先生で,今日の授業にも,かなりの準備をされて臨まれたことがわかります。一斉指導の授業です。

    わたしも,はじめから最後まで,いわゆる「一斉授業」の形態をとらなくなって1年以上になるので,どんなふうに子どもたちが見えるのだろう,と思い,あえて教室の前のほうから子どもたちの様子を見ていました。

    37人の子どもたちです。正直,37人の子どもたちに「教える」とすれば,そりゃあやっぱり無理だよね,と思いました。それは授業をされている先生がどうとかという問題ではありません。そもそも,37人の思考を,一人の先生の発問や工夫でまとめ上げ,一人一人が確かに「分かる」ようにするなんて…,と思ってしまいました。子どもたちは一生懸命な子もいました。先生の発問に反応して考えようとするする子もたくさんいました。でも,やっぱり中には,????のまま子がいます。何か別なことを考えているだろう子もいます。不安そうに周りの子の様子を見る子もいます。そして,自分の課題が終わって,しばらく待っている子もたくさんいます。先生は個別指導に回りますが,それで対応できる人数ではとうていありません。だって37人ですから。

    「○○でいいですか」

    「いいです!」

    と子どもたちは言いますが,本当に

    「いいです」

    と判断して言っている子は何人いるだろう?と思います。

    こんなことを書くと授業を批判しているようになってしまい,気がとがめます。でもそうではありません。本当に,みんなが分かるためには,学習者自体が分かりたいと思い,分かるために自分の頭で考えて進まねばならないんだなあ,ということです。以前iku-nakaさんやとんたんさんが授業を前から見ることを書かれていましたが,やっぱり,そうですね。子どもたちの顔がぱっと明るくなったのは,先生の

    「お隣の友達と相談してごらん」

    といったときでした。どのペアもすっとお隣と会話を始めました。クラス作りがうまくいっている証拠ですよね。だからこそ,もっと相談させれば面白くなりそう,と思いました。

     その後の研究協議。司会は私でしたので,課題を提示し,グループ討議を提案しました。「普通」の研究協議を予想してういた方々は面食らったと思います。その進め方に若干反対意見もあったので,折衷案としました。前半,グループで自由に話す,後半,全体で共有。司会の位置から見ていると,前半のほうが皆さんの顔が生き生きとしていたように見えました。だって,全体の協議になったとたん,一部の人が言うだけで,あとは「し~ん」だもん。大人だって子どもだって,どういうときにより学べるか,という点では同じだよな…,と思いました。

     「学びがいのある授業」とかで,自己有能観なんていうけど,今日の話し合いのなかで,「そうだよね~」とか「なるほど!」とか「あ,そうか!!」なんて会話が飛び交っていたグループはそりゃあ,自己有能観をお互いにプレゼントし合っていたんじゃないですかねえ。若いとかベテランとかに限らず。ひとりが話して,そのたがずっと聞いてる。そしてまたしばらく沈黙,苦し紛れに司会が指命…,なんていう話し合いじゃあ,つまらないですよねえ。

    今日は,午前午後と,いろいろ体験できて,私は学習できました。あ,みんなが学べることが大事なんですけどね。

    2009-11-03「監督交代」から

    楽天イーグルスの監督が交代した。野村監督からブラウン監督へ。リーグ2位となりクライマックスにも進出した監督をなぜ交代させるんだ,という意見も多いのも事実。まあ,わたしもその一人ではありますが。

    地元新聞の記事に,球団側としてのコメントが載っていた。大まかな概要は

    「今までは新しいチームとして,(野村監督という)個人の強い指導力を必要とした。チームもこの5年間で野村監督のおかげもあり,チームとして成長した。今後は,自立した個人の集まりとして大人のチームとしての成長をする段階に来ているという判断で…」みたいなことが書いてあった。

    ふ~ん,と思った。来年からはチームがどんな風になるのか,そういう意味でもちょっとおもしろくなりそう。

    2009-11-02どう書くか

    私は日本作文の会の会員であり,いわゆる生活綴り方教育から学んで自分の取組の中心としてきました。そして,以前にも,『学び合い』の考え方と作文教育(生活綴り方教育)は矛盾しないと書きました。そして,昨年度は,『学び合い』と平行して,一枚文集の発行と読み合いを続けてきました。それは,作文教育はずっと私が大事にしてきたものだからです。でも今年はどうしたことか,5月で一枚文集の発行をやめてしまいました。今まで10年以上私の取組の柱にしてきたのに。『学び合い』と作文教育の考えにずれが出てきてしまったのでしょうか?どちらも子どもたちの幸せを目指す部分に於いては同じです。算数や国語などのように教科に限らないで,子どもの生活全てを対象にするあたりが私が好きだった部分でもあります。

     では,なぜ,今年は「書かせて」ないんだろう…と思います。多分,「みんな」にならないからなんだなあ…と思います。うまく言えませんが。でも,作文教育を捨てたわけではありません。その上に『学び合い』がいまは乗っかっていると考えています。

     今度,作文の会に集まりがあって,私はそこで,今までとはかなり毛色の違ったレポートをすることに,おそらく,なるでしょう。そして,きっと先輩方からたたかれるでしょう…。それはそれで,…。さて,どういう風に書けばいいかなあ。今日明日,悩むことになりそうです。