次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2008-06-23「みんな」の求め方は,難しい

    子どもたちには「みんな」を求める。自分だけできるんじゃなくて,みんなが出来ることが大切だと話す。そして,それを具体的な「結果」で出すために「みんなが○点」という基準線を出す。しかし,それは決して点数が大事なのではないことは自分では分かっているつもり。

    昨日,S君のお母さんと話をした。

    「先生の言う,『みんなが○点』以上って親はとってもプレッシャーを感じるなあ…。勉強が出来る子の親ならそうでもないかもしれないけど,うちみたいに勉強が得意じゃないと,『うちの子のせいでみんなに迷惑をかけてないか?』とか『分かる子に苦労をかけてやいないか』と思っちゃうんですよ。ましてや,通信とかで,『みんな』の達成に向けて,とかって書かれちゃうとね…。Sにしても,説明されて自分が分からないと悪いと思って,追い込まれているようなかんじなんですよね~」

    とのこと。

    「とんたんさん」のブログにもあったように『学び合い』は「教え合い」ではナイト思う。とはいえ,実際の授業の中では双方向の『学び合い』が出来る組み合わせと「教え合い」に終始してしまう組み合わせが生じる。「教え合い」に終始してしまう場合は,授業の後半で,ある程度分かった子どもがまだ分からなくて困っている子どもに「教える」場合に多い。それも,こと学校の「学習」という範囲で考えれば大方,「教える」立場の子は教える役回りをすることが多く「教えられる」子は教わる場面が多い。もちろん,「教える」子も勉強にはなるだろうし,教えることで学ぶことも多い。ただ,その感覚は教師の立場での言い分であったり,「教える」立場の子どもの感覚である。おそらく「分からない」子どもにとっては「おれが分からなくて,○君,勉強になったでしょ。」とは思わない。

    「みんなが課題を達成することをみんなに求めること,そして結果を出すこと」を求めることは,下手をすると,「いつも僕のせいで,みんなが課題を達成できない…」と思うことにつながる可能性がある。ましてや,「僕が課題を達成できないことでみんなが注意された」と思うとどうか…。それが積もり積もってしまうと集団に対する所属感さえ失ってしまうこともあるのではないかと考えさせられる。

    学び合い』では個にこだわらず集団としてとらえることが必要だと理解していたし,事実そのようにとらえた方がよいことのほうが多い。ただ,それは教師が個の思いにも寄り添おう,という感性を持ちつつ集団を見ていくということだと思う。ちょっと最近の自分は,個にこだわらないということを意識しすぎて,個の思いをつかむ努力を怠っていたようである。同じ「みんな」を求めるのにもそこらへんの感覚が言葉や態度の端々に出ていたのであろう。

    S君のお母さんのおかげで,視野が狭くなっていた自分に気付くことができた。ありがたいことである。

    それにしても「みんな」の求め方って難しい。便宜上とはいえ,点数を教師が求め続けるのは,子どもを追い込んでしまうこともあるんじゃないかなあと思う。子どもの中から「よし,今度は○点以上を目指すぞ!」となれば,いいだろうけど。要は「みんなの力を伸ばす」ということなんだよね。それを分かりやすくするための「点数」なわけで…。点数が一人歩きをしないように気をつけなければ。