次の場所へ行こう(旧 十人十色・宮城)

  • 宮城県石巻市の小学校教員です。 小中併設極小規模校で,「地域とともにある学校」について考えながら日々の仕事を取り組んでいます。 2016年の「教室『学び合い』フォーラム」 は宮城県・東松島市コミュニティセンターを 会場に行いました。2017年は,その後をつないでのミニフォーラムを白石で実施。2018年は11/23女川町まちなか交流館で実施。その後は、学校と地域コミュニティの間を行ったり来たりしながらの毎日を創りたい、と思っています。
  • 2008-05-15「おれだって出来るようになりたいんだ」

    勉強が苦手で,やややる気の無いような態度を見せがちだった○○君。急には得意にはならないけれど,最近少しずつやる気を出しているように見える。

    今日の算数で,私の耳に聞こえてきたのは■■君の

    「もうちょっとちゃんと説明しろ~,俺だって分かるようになりてえんだ!」

    という言葉。すごくうれしかった。

    このクラスも動きだしたかも…。そう思った瞬間だった。


    また別な話。

    もし,学級に他の子より大きく学習面で遅れの見られる子どもがいたらどうするか。悩むところです。

    我がクラスの○○君もそのような子どもです。「みんな」を求めようと思っても同じ時間内にはなかなか難しいのが現実。学級の子どもたちが本当の意味で「みんな」を達成しようと考えていたら,学習の初めからその子に関わりながら学び始める必要があるんじゃないかな~と思って見ているんですが,子どもたちは自分が余裕ができてから関わり始めるので,間に合いません。というか,どう説明しても分かってくれないからな~と思っている節もあるように見えます。さてどうしたものか…。

    この前,子どもたちにこんな風にいいました。

    「あのさ,○○君が算数すごく苦手なのは,みんなも分かっていることだよね。だから,○○君も出来るようにするためには今までのようなやり方でいいのかな~と思うんだ。例えば交通事故にあった人がいて,大けがした人がいたらみんなはほっておくかい?そうだよね,助けに言ったり,救急車をよんだりするでしょ。いくらなんでもそのままにはしていかないよね。それが人の道だよね。いってみれば,○○君は算数において,交通事故にあったようなものなんだよ。ほっておいちゃあいけないんじゃないかなあ。事故に遭ったのは○○君の責任もないとは言えないけど,それを分かっていてずっと何年もそのままにしてきたみんなにも責任はあると思うよ。だって同じ教室でずっといっしょに勉強してきたんだから。今からでも遅くはないよ。「みんな」を達成するためにどうしあたらいいか考えてみよう。」

    と。(この例えがいいかどうかは?ですが…)

    次の日,の算数は机を合わせていっしょにやろうとする子どもたちの動きは見られたのは前進かもしれませんが,○○君の理解度,というところはまだまだです。

    九九がおぼつかないのに,異分母の分数の大小を理解させたり約分や通分を分からせるとなると子どもたちも難儀しています。当然,教師が教えたとしても同じように難儀するでしょう。教わる○○君の立場からしてみれば,教師である私が教えるより,友達に教えられたほうがまだ分かるだろうし,仮に分からなくても,学級の友達とのかかわりが生まれて,○○君にとってはプラスだとは思います。

     「みんな」を求め続けることと,なかなかそれが達成されないことに対して,本人や子どもたち,私がどこにお互いが納得する結果を見付けられるかという点で考えてしまいます。「みんな」を求め続けていくことに意味があると思いますし,それを要求し続ける気持ちは私はあります。仮に,その子が課題を達成できなくても,「人格の完成」という点で成長が見られればいいとは思います。「人格の完成」という点で成果があったと子どもたち自身がつかめればいいのでしょうかね…。このへんでいつもぶれがちになるんですよね~。

    皆さんは,こんな場合はどう考えているんですか?