2019-12-14
足下に,実はオタカラがあった
先日,遠く九州から高校生がたくさんやってきてくれて本校多目的ホールを会場に研修を行いました。
学校は会場提供だったので,子どもたちと生徒さんが関わる場面はなかったのですが。
高校生の学びの成果を,雄勝の行政を担ってくださっている方(地域振興課),まちづくりをになってくださっている方,雄勝の住民,学校代表者(本校では管理職が参加)がポスターセッションのような形で聴き,交流する,そんな構成でした。
そこで,行政の方が高校生向けに話された「雄勝の現状と課題」。
私はその場に参加していなかったので,詳細は分かりませんが,その資料を拝見すると内容がとても濃い。
(ああ,私たち学校職員もここの課題意識や現状,将来構想を行政の方々と共有できるといいんだよね)
(その上で,学校をどうする?)
って一緒に考えるパートナーとしてのつながりを太くする,そんなことができるといいんだ!と感じました。
まさに「いいこと思いついた!」です。
というか,なぜ今までそこに気が付かなかったのか,不思議なくらい。
私は,そのお話をしてくださった方のことは,普段から学校行事や子どもたちとの学習を通してよく知っている方でしたし,雄勝のことを考えている熱い方であることは分かっていたはずなのに!
(ああ,しまったなあ…)
と思いましたが,活路をまた見付けた気分でもあります。
私自身も石巻市行政地域振興課と雄勝教員が一緒に「これからの雄勝のことを考える」研修会をすればいい,なんて選択肢に気が付いていなかった…(悔しい)。
そこが思いつかなかったところに,なんでだろ…,と思います。知らず知らずのうちに,私も学校を中心にした見方に偏ってしまっていたみたい。あぶない,あぶない。
地域やこれからの社会のことを考えるのなら,同じ目的を共有する異業種の方と一緒に目的や課題を共有する場が必要なのは,実は当たり前だなあ,悔しいけど,目から鱗。(今更か,という思いもあり…)
足下にオタカラはあった。
地域振興課やまちづくり協会,雄勝住民との「研修会」(そういう名前にするかは別にして),考えよう,そして企画しよう。
学校全体として,視座をあげていく,そんなことをしたいな。
2019-12-13
ズレは必ずある,と思ってみる
どんなに上手くいっているように見えても,ズレはあるってことだなあ。
というか,ズレはあるものだと思っていないといけないなあ,と思いました。
うまくいかなったからそう感じたんじゃなくて,思った通りにだいたい物事が運んでいるんじゃないかな…と思ったときにこそ,その「ズレがあるんじゃないか?」の感覚をもっていないといけないな,そう学ぶことができた,そんな出来事。
「あそこに来ていた方の言葉をそのまま受け取って,それで,全てが順調に進んでいる,なんて思ってしまうと,それは違うんじゃないか,道を誤るんじゃないか,と思う。」
とある方の言葉。
その瞬間は
(そんなこと言わなくてもー)
って正直思ったけれど,よくよく考えて見ると確かにその通り。
(あ…,ズレがあると思っていることが実は大事だな…)
ということ。
意見を伝えてくださった方々は,そのまま「全てのメンバー」ではないってこと。あそこに集まってくださった方々は,普段私や私たちと近く接してくださっている方々。「全てのメンバー」の中のごく一部。
だから,余計に(そのつもりのあるなしに関わらず)気持ちのいいことを言ってくれるし,それを気持ち良く受け取ってしまう自分もいるってこと。
耳に心地いい言葉は,やっぱり嬉しいから。
一部を捉えて「全部」としてしまうことは危険。
いつの間にか,自分に気持ちのいいことを言ってくれる方々のみを捉えて「全部」としてしまってはいないか,そうなってしまうと独りよがりになってしまうんじゃないか,そういうことに気付かされる出来事。
どんなにやっても,どんなに丁寧に関係をつくったとしても,必ずズレはある。それは当たり前のことなんだね。
ズレがあることが良くないことじゃなくて,ズレについての意識がない,ズレを見ようとしないってことが問題なんだなーって思いました。
見えているか見えていないか,見ようとしているかしていないか,そんなことだと思う。
まだまだだな,自分。
2019-12-12
「へえ、こんなこともやっているんだねえ~」
協働教育推進協議会。
「地域と共にある学校」を目指して、常々お世話になっている諸団体の代表の方々と学校の情報交換の場です。
学期に一回の定期開催。
毎回、10分ほどの子どもたちの学校生活ムービー(地域協働に関わりの深い部分を多めに)を見ていただきます。そして、それぞれの方々からお話を聴き、ホワイトボード・ミーティング®でそれぞれの意見や思いをつなげて行く、これから先のアイデアを出し合う、そんな進め方がもう定番になってきました。
それぞれ、学校との「協働」という点では、今までに何度も学校に来てくださり子どもたちとも関わってくださっていますが、他の方々がどのようなことをしているのかは分かるようで意外と分からないもののようです。
ムービーをみながら
「へえ、こんなこともやっているんだねえ~」
なんていう声も聞かれるからです。
「他の方々がどんなことをやっているのか分かる」ことで、この「協働の取組」の総体を知っていただけることになるなあ、と感じます。
例えばまちづくり協会が、神楽保存会と学校でどんなことをしているのか、などを詳しく知りそこで一緒に話す事で、一つ一つの活動や事業の枠を超えたレベルで一緒に話すことができるからです。
地域の中で子どもを育てる、という意味を、自分の関わりだけでなく「総体」として感じてもらうのにはこのムービー視聴もいいな、と思います。
その後は一人一人にお話を聞きながらのホワイトボード・ミーティング®。
参加者それぞれの思いを可視化していき、そこからまた意見交換することで、さらに、お互いの活動の重なり合う部分について思いを共有することができます。
そうなると、「地域の子どもたちと一緒にどう笑顔をつくるか」ってことになっていきます。
全体で何を創ろうとしているのか見える、というかそんな感じになるといいんですね。
分業から協業、っていうのかな。それぞれの役割をつなげていくプロセスをつくる、そんな感じになっていくといいいのかな。
2019-12-11
「一隅を照らす」
中村哲さんの訃報。
先日の番組で、中村さんの特集を行っていた。
その中での一言。
「一隅を照らす」
そこから始める、ってことだと思いました。
はじめから大きなことはできないのは当たり前。
一人で、も同じこと。
でも、できることはあるからな。
それぞれができることをできるようにやり続けて、お互いに話をして、またそれぞれができることできるようにやる。その繰り返しで物事って理想に近づいていけるんじゃないかな。
理想は常に理想のままだけど、それでいいんだと思っていて。でもちゃんと前に進んでいることは確かめられるから。
「そんなの無理だよ」
って言われても、やらないより何かやってみたほうがましだし、何より楽しい。
2019-12-08
「分からない」は「楽しい」
分からない、を楽しめるといいんだな、と感じました。
うん、分からないのは楽しい。
というか、分からないことを、みんなで考えるのが楽しいのか。
そこに格付けはいらないな、と。
昨日は「『探究のカタチ』を語ろう」という集まりに参加させて頂いた。
「探究、ってなんだろう…」
を自分なりに考える時間。
そこに参加された方々と、一緒にしゃべりながら、考える。
「これってこういうことかなー?」
「あ…、もしかしたらこうも考えられるかも!」
「やっぱりさあ…」
そんなことをお互いに言い合うことで、薄ぼんやり考えていたことが言葉になってきたり、考えていなかったことがふっと思いついたり。今まで一緒に考えていなくて関係が薄いと思っていたもの同士が
(あ、なんだ…、ここにこうつながるじゃないかー!)
って感じたり。
まさに
(いいこと思いついちゃった!)
ってなる。
そういう時はとっても幸せな気分になるんだよね。
この日の私の学びは
〇「分からない」は「楽しい」
〇「分からない」は楽しい、を体現する。
〇「『遊び』は探究だ」「『探究』は遊びだ」
〇「感情の分かち合い」としての発表、交流。つまり「催し」
山形の皆さん、ありがとうございました!