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幸福論 RSSフィード

2015-09-07

ストーリーを語る。

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社会構成主義の本には、ローラ・チェイシンらの研究実践が以下のように書かれてあります。


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平行線を辿り、どこにも辿り着かないような議論が行われる場合、まず


①どうしてこの問題にかかわるようになったのですか。この問題とあなた自信との関係や、その経緯について聞かせてください。

②~~の問題に対する「あなた自身の」新年や展望について、もう少し聞かせてください。あなたにとって最も重要なのはいったいどんなことですか。

③~~の問題に対する、あなたたちのアプローチについて、半信半疑な部分、今一つ確信がもてない点、心配事、価値に関する矛盾、誰かに理解してもらいたい複雑な気持ちなどはありますか?


の3点について互いに質問をしてみる。


①②は個人的体験に関すること、③は異なる立場にいる人たちも確信を持てないでいるということを知ることができる。

結果として、①②③の質問後に議論を行ったとき、意見の異なる「他者」を自分と同じ人間として見られるようになった。

つまり、質問に見せかけて「他者」に難癖をつけるようなことをしなくなった、ということ。

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これを見てから、質問をするときにこれまでよりも慎重になったような気がします。

というのも、「あっ、○○について質問してみよう」と思ってから、一度自分の中で、

<そもそも自分はどういう経緯でこれを質問しようとおもったのか?>

と、吟味するようになったのです。

そうやって吟味することによって、質問の目的が「他者に難癖をつけること」ではなく「自分の本心としての興味を聞くこと」であることを意識できるようになります。




すると、最近読んでいる鈴木大拙さんの『禅』という本に、同じようなことが書かれていました。


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仏教者は、その問題の出できたった源泉、もしくは根源そのものに至って、そもそもなぜこのことが問われなければならなかったのかを突きとめようとする。

「実在とは何か」という問いが与えられるならば、かれらは問いをそのまま取り上げないで、ひるがえって質問者自身にまで至らんとする。

だからその問いはもはや抽象的なものではなく、人が、生きた人が登場してくる。

(中略)

問いはけっして問う者から引き離さるべきではないとするのが、仏教の行き方である。両者が分たれているかぎり、問う者に解決はもたらされないであろう。

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どちらかと言うと、ローラ・チェイシンの研究が全体実践、上記は個人実践、って感じかなあ。

bunbun-hbunbun-h2015/09/07 20:05鈴木大拙ですか・・・
若い頃から(もちろん鈴木さんのではなくて私の若い頃です、って書くまでもないですねw)知ってたけど、まだ読んだことないんです。読んでみます。

mei-c5mei-c52015/09/08 19:10>>bunbun-hさん
宗教特有の言葉がわんさか出てきて、読み進めるのにめちゃくちゃ苦労しています。読んだらぜひ教えていただきたいです。
若い頃から……すごいですね。わたしは最近この方の存在を知りました。

つえ蔵つえ蔵2015/09/09 10:33某首相と某県知事に見せてあげたい記事内容。
特に首相に…。

2015-07-15

分かってほしいために。

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自分の考えを分かってほしいがために、全く異なる考え方の人にそれをありのまま提示し、強要することは、

「自分は何も変化したくないけれど、相手に自分を認めてもらって、変化しなくてもよい環境を作ってもらいたい」ということじゃないかと思います。

例えば、『アナと雪の女王』という映画で、エルサが「ありのままの姿をみせる」と歌っていますが、

あの場面は、エルサがありのままの姿を他人に見せて、この姿を認めて、許してね。という場面なのか?というと、そうじゃない気がします。

あれは、エルサがありのままの姿でいることを自分自身に見せて、まずは自分を認めてあげる、という場面なのではないでしょうか。

そして、自分では認めてあげられるけれど、ありのままでは他者に迷惑をかけてしまうため、

結局、エルサは自分をコントロールする力を身につけて、他者と共生するようになります。


エルサは真の愛に気づいたときに、自分の力をコントロールできるようになりました。

わたし自身、真の愛がなんなのかはまだまだ全くわからないのですが、

自分がいて、異質な他人もいて、みんなで一緒に生きていきたい、と思えることかな??と、あの映画を見て思いました。

あ、でも、最後、悪役はかわいそうな結果になっちゃいましたけど。


この表現のままでは矛盾していますが、あの映画では

善=共生

悪=異質を排除

の構図を感じました。

ここで、善が悪(ある意味善の立場からすれば異質)も排除せずに共生していくと、より矛盾がないのに、と思います。




今のところ、わたしの中で、上記のような考え方、つまり、善が悪(ある意味善の立場からすれば異質)も排除とせずに共生していくこと。

これが「社会構成主義」を表していると考えています。

善は悪がいるから善でいられるし、悪は善がいるから悪たりえるのです。

主義、主張に関しても、同じことが言えます。

たくさんの主義主張があるけれど、それらはお互いがいるからこそ主義主張になり得るのだ、と。

だからこそ「社会構成主義」も、主義として定まったものではなく、これからどんどん変容し、作られていくものだ、と言われています。


マジョリティやマイノリティに関わらず、全ての人が共生していけたらいいよね、という考え方は、自分がどの立場にいても得だろうな、と思います。

共生したくない!!と思う(おそらく)マイノリティにとっても、

そういう考えもあるよね、そういう人もいていいんじゃない?と受け入れられ、認められる環境は悪くないはずです。


その考え方、振る舞い方に慣れていくために、学校での『学び合い』があるのだと、わたしは考えます。

mogymogy2015/07/15 06:48「善は悪がいるから善でいられるし、悪は善がいられるから悪たりえる」のくだりから、
先日のゼミの中で出てきた、「人間にとって世界のリアリティは、他人の存在によって、
つまり、他人の存在が万人に現れることによって保障される」という、 アーレントの一節を
思い出しました。
他者の存在があるからこそ、自分という存在を認識できる。他者は自分を映し出す鏡のような
存在なのかもしれません。

公共性は様々な語られ方をしていて、自分の中ではまだきちんと整理ができていませんが、
「善と悪」という点に限って言うと、その境ってとっても曖昧な気がします。
善が何か、悪とは何かは別として、人間はどちらにも成りうるからです。
重なる部分があるならば、お互いが共生していくことは可能ではないかと思います。

映画について触れられていましたが、例えば、映画「スターウォーズ」でアナキンは、
愛する人たちを失った悲しみ、大切なモノを破壊された怒りにつけ入れられた結果、
自分の力を制御できずダークサイドに落ち、ダースベーダーとなりました。

アナキンとダースベーダーは同一人物であり、善か悪かと聞かれても答えに窮します。
むしろ悪の権化とされるダースベイダーがとっても人気があるのは、人はどこか悪しきものに
惹かれるところがあるのかもしれませんね。それはやはり、人は内面としてどこかに似たものを
抱えているからかもしれません。

「善か悪か」というのも、見方によって変わってきたり、振れ幅の程度によるものであったりするものではないのかな〜、
とも思いました。

本文の内容から脱線した雑感となってしまいゴメンなさい。
でも、朝から啓発される内容で、目が覚めました。
ありがとうございます!

mei-c5mei-c52015/07/16 21:43>>mogyさん
こちらこそ、ありがとうございます。
アーレントさんはそんなことを言っているのですか……!確かにそう言われてみれば、自分の心のどこからが内側でどこからが外側、なんて明確に説明できるものではないので、ある意味他者という認識と違いを見つけることで自己を認識しているのかもしれませんね。
スターウォーズの解釈も、とってもおもしろいです(^^)

アーレントさんのこと、今回初めて知ったので、『人間の条件』から勉強してみようと思います。
ありがとうございました!

2014-04-10

修復。

| 02:25 | 修復。 - 幸福論 を含むブックマーク


思い出したように、社会構成主義のことについて書いてみます。

前回、「最後に自己の流動性のことを書いて終わろうと思います」と言っていたので、

今回は自己の流動性のことを書いていきます。


そもそも、自己の流動性なんて分かりにくい言葉を使っていますけれど、

これはつまり、「ある人が何者であるかは、会話における一瞬一瞬の動きで決まる」ということらしいです。


え、一瞬一瞬で?

自己がそんなあやふやなものなのに、人と人はちゃんとした関係性を築くことができるの?

と思いますよね。

でも、現実に関係性は築かれています。


それは、どうしてかというと、

①何が存在するのか(現実についての認識)

②どんなふるまいが適切なのか(倫理についての認識)

が、その関係の中で共通理解されているから、なのだそうです。


特に、②なんて、その集団の中での「暗黙の倫理観」があったりしますよね。

日本では知らず知らずのうちにこうしているけれど、外国に行くと全く違った!なんてこともあると思います。


スコットとライマンという研究者は、

その「暗黙の倫理観」が乱されるようなことがあったときに、

その秩序を修復する手段が生み出されると言っています。


例えば、人のものを盗んではいけない、という秩序がある中で、

Aさんが盗みをはたらきました。

誰かがそれに気づき、Aさんを非難します。

非難されたAさんは、

「魔が差したんです」と言い訳したり、

「こんなところに盗まれるようなものを置いておくのがおかしい」と正当化したりするかもしれません。

この言い訳や正当化が、どちらも修復する手段だというのです。


「魔が差したんです」は

「いつものわたしはこんなふうじゃないんです(わたしはなにも変わっていませんよ)」と修復しようとしているし、

「こんなところに盗まれるようなものを置いておくのがおかしい」は

一般的にあった「置いてあるものを取っていかない」という認識に異議を唱えて、

今ある関係そのものや考え方を修正する可能性を持っています。




自己の流動性から話が広がっていきましたが、

本の3章に書かれてあった内容は、今回で終わります。


また、今勉強していて興味をもったことがあればメモしていきたいと思います。

2014-03-19

どうしても分からない。

| 02:10 | どうしても分からない。 - 幸福論 を含むブックマーク

社会構成主義のことで、以前からどうしても分からずにずっと考えているのですが、

結局分からないままになっていたことのメモです。




社会構成主義の考え方を、

a.理解できる(受け入れられる)人

b.理解できるけれど受け入れられない人

c.理解できない(受け入れられない)人

の3つに分けるとします。


社会構成主義の考えとしては(わたしが理解しているレベルでは)、

a、b、cの全てを含めて社会が構成されている、と言われています。


ここで疑問に思うことが。

bやcの人は社会構成主義の考え方を理解できない(受け入れられない)けれど、

aの人がいる限り社会構成主義が成り立つために、

受け入れられないのに社会構成主義の下にいる、という不思議な状態になります。

これはちょっと矛盾しているような……?



おそらく自分ではこのメモを見て意味が分かるのですが、

他の人には伝わらないですよね。。。

まだ自分の中でも整理できていなくて、疑問点をうまく表現できないのだと思います。

けれど、このことはどうしても解き明かした方がよいと思うので、忘れないようにメモだけしておきます。

2014-03-04

プロセス。

| 05:36 | プロセス。 - 幸福論 を含むブックマーク


社会構成主義のメモです。

こうして勉強した内容をメモするたびに、自分の頭の中に少しでもこの内容が入っていればいいのに、と願っているのですが、

ちょっと自分で遡って読み直しても、忘れていることがいっぱいです(笑)


さて、これまで「対話ってどんなもの?」という問いをたて、

3つの視点から対話を見てみようというお話をしてきました。

今回は、最後の視点「プロセス」です。


対話をするうえでメタファーを遣っていないものなんてないんだ!

とか

語りによって過去ができあがっているんだ!

というような理論的なことは、繰り返し(内容がだぶってる?と思うほど)書いたのですが、

対話って、普段はいちいちそんなことまで考えてしていませんよね。


「おはよー。今朝のニュース見た?」

「見た見た。すごかったよねえ。○○が××で~」


この対話の○○はメタファーで、これらの対話によって過去が作り上げられて……

なんて、思ったこともないです(笑)

じゃあ、日々の一瞬一瞬では、対話というものをどう捉えたらいいの?

というのが「プロセス」になります。

ここでは、アーヴィング・ゴフマンとハロルド・ガーフィンケルという、ふたりの考えた捉え方が紹介されていました。




まず1つめは、ゴフマンの「ドラマツルギー(劇作法)」。

これは、接する関係に応じて自分を演じ分けているという考え方です。

例えば、家族に対する自分の態度をA、学校の友達に対する自分の態度をBとすると、

AにとってBは「裏の部分」と言えます。

逆に言えば、BにとってのAも「裏の部分」です。

このように、自分の姿を関係によって使い分けしているということですね。

また、演じている姿と本当の姿はめったに一致しない、とされています。(←これはなんでだろう?もうちょっと調べてみる必要がありそうです。)


2つめは、ガーフィンケルの「エスノメソッド」。

エスノ = 一群の人々が

メソッド = (合理性や秩序を達成するために用いる)方法

つまり、レトリック(http://tab.do/streams/123668#)のところでも同じようなことを言っていましたが、

事物(例えば、よくわからない混沌としたもの)を

過去の文脈(日常生活の暗黙のルールだったり、既存のもの)をもとに表現するのです。

表現した瞬間に、よくわからない混沌としたものには、合理性が与えられます。



と、、、日常という場面での対話を、2人はこんなふうに考えたわけです。

これら2つの考え方は、社会構成主義が生まれるずっと前からあったもので

社会構成主義ってどういう要素でなりたっているのだろう?と考えると

実はこういうものが元と考えられるんじゃない?の、元の部分が

「ドラマツルギー」や「エスノメソッド」ってことだよ~、と。

これはゼミの先生に教えていただきました。

元祖みたいな感じですか?とお聞きしたところ、ちょっと違うのだとか。

えー、どう違うんだろう。

ニュアンスが難しいです。。。




おそらく、3章部分の説明は、もう一回分くらいのメモで終わると思います。

これまでのまとめは「自己の固定」としてきました。

対話というものが、いかにわたしを「自己」という箱の中に閉じ込めているのか

に注目して、メタファー、ナラティブ、レトリックなどの視点からお話ししました。

最後は、じゃあ、自己を流動的なものにしてみると?

に注目して書きたいと思います。