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2014-06-23

実習。

| 18:47 | 実習。 - 幸福論 を含むブックマーク

母校の中学校での実習を終え、兵庫へと帰るバスに揺られています。

3週間、発見だらけの本当におもしろい実習でした。


指導してくださった先生が、

「とにかく最初はいろいろやってみればいいよ」

と任せてくださる方だったので、比較的自由に

(おそらく、実習メンバーの中でも、誰よりも自由に。)

授業することができたと思います。

最初は不安に思うこともありましたが、

わたしにとっては、とても居心地のいい環境でした。




2クラス4時間ずつ、国語の授業を担当して気づいたことは

同じ内容のことをやっているはずなのに

クラスによって雰囲気が全く違う、ということ。


小学校の実習では、ひとつの学級に入って授業をしていたので

そこまで意識することもなかったのですが、

活動内容、説明の仕方、ほめ方、、、

クラスによって、フィットするものが全く違います。


例えば、片方のクラスではちょっと隣の席の子と話してみて、というと

うまく話せないところが何組か見られる。

しかし、もう片方のクラスでは全員が特に問題もなく話せる。

というような感じです。


他にも、片方のクラスではできていることを見つけて

「これ、いいね~!」とほめると、どんどん全体の雰囲気がよくなるのに対して、

もう片方のクラスは、直にほめられると「バカにされた」と感じてしまう。

ということがありました。


こういうことも、当たり前のことかもしれませんが、

今回2つのクラスを担当して初めて気づくことができました。





それから、失敗もたくさんしました。


「ひとりも見捨てない」

という気持ちは大切ですが、

見捨てないことを押し付けすぎたり、

焦って、適切な評価ができなかったのです。

このままでは、みんなが授業を楽しめないし、

わたし自身も苦しくなってしまうな、と思ったので


途中で『学び合い』をしよう、と思うのを、一旦やめてみました。


そうすると、自分自身で肩に乗せすぎていた重りが取れて、

そうか、『学び合い』って

「最終的には」ひとりも見捨てたくないんだ、という考え方だったな。

ということに、気づくことができました。


これまでに何度も『学び合い』って考え方だよね~と思ってきたけれど、

実際にやってみようというときに、

こうしなければ『学び合い』じゃない!

と型にはめすぎていたんだろうなあ、と反省。

やっぱり、やってみて初めて分かるんですね。

しかもまだ実習生の立場なので、本当に分かるのはまだまだ先のこと……。





でも、それに気づけてからは見え方が変わってきました。

授業が終わるごとに集める自己評価シートを見てみると、

回を追うにつれて

「○○ちゃんに聞きながらできた」

「終わったら見せ合って確認できた」

「知ってることを教えた」

というコメントが増えてきたのです。


授業中には態度で見えなくても、わたしの言葉に反応してくれる子はいるんだなあ。

ああ、これが、2割ってことなんだろうなあ。

と実感できました。



中でも嬉しかったのは、普段あまり他の人と話さずひとりでいる子のところへ

少し席の離れたところから、ひとりの女の子が相談に来ていたことと、

その子が自己評価シートに

「これからはもっと他の人の意見も聞いてみたいと思った」

と書いてくれていたことです。





本当に勉強になった実習でした。

bunbun-hbunbun-h2014/06/23 21:15「最終的には」ひとりも見捨てたくないんだ・・・その最終的な「ひとり」というのは、実は自分自身なんですよね。そんなこと思うわけです。自分自身に向けて、なんとなく。

mei-c5mei-c52014/06/24 19:16>>bunbun-hさん
とても共感します。
わたし自身、みんなを……と思いすぎるあまり、自分が見えなくなってしまっていました。
みんなが見捨てられなければ、きっと自分だって。と思います。

daitouirukadaitouiruka2014/06/26 02:12とても実り多い実習生活を送れたようで何よりです。
考え方のつもりがいつの間にか型にとらわれてしまっていることがあります。
それは、誰かほかのひとの実践の型だけでなく、昨年の自分の型だったりします。

mei-c5mei-c52014/06/26 23:34>>daitouirukaさん
1年以上続けられている人には、そういうこともあるのでしょうね。
前のことも参考にしつつ、でも毎回新しい気持ちで取り組むって、難しいことです。

2014-04-25

促織。

| 03:09 | 促織。 - 幸福論 を含むブックマーク


今、漢文を読んでいます。

促織(こおろぎ)というお話です。




昔、上の位の人たちの間では、促織を闘わせて遊ぶことが流行っていました。

そこで、上の位の人に媚びようとする者は、促織を献上しました。


しかし、促織は非常に価値があって高いものだったため、

(流行り物の価格が高騰するのは、今も昔も同じことですね。)

一匹を献上するだけでも、村の家2~3軒が生活していけなくなるほどでした。


それなのに、無理な取立てはずっと行われ、

あるとき、成名という男が、促織を献上するためのお金を村で集める役目になってしまいました。


成名は村の人たちに無理にお金を取り立てることもしなければ、

自分でそのお金を払うこともできず、

困り抜いて命を絶とうとします。


それを見た成名の妻は、こんなことを言ったそうです。


「死んで何の益があります。

 自分で行って探すのがいいじゃありませんか。

 万一見つからないとも限りませんよ。」





この言葉、少し冷たいようにも思いますが、わたしはこの妻を尊敬します。

夫が命を絶とうとしているそのとき、

こんなに前だけを見た言葉をかけられるなんて、すごいなあ、と。

ひとつも後ろ向きな要素がない上に、とても力強いです。


こんな人、どこかで見たことあるなあ、と思っていたのですが、

今さっき、その正体がやっと分かりました。

わたしの母でした。

karakusa01karakusa012014/04/26 23:02いい話ですね。明日はわが身ですか(笑)
今日は『学び合い』中国の会ありがとうございました。ゆっくり話ができなくて残念でしたね。次の機会にまたゆっくり話しましょう。

mei-c5mei-c52014/04/27 12:49>>karakusa01さん
わたしも前向きなところを見習いたいです!

昨日は大変お世話になりました。
karakusa01さんが会で出された疑問点(お悩み)について、今まで深く考えたことがなかったので、とても勉強になりました!
またぜひ会などでお話しさせてください。

karakusa01karakusa012014/04/29 06:20少し補足?説明?
2次障害云々という話…
簡単に言うと僕の熱意の問題だったと思っています。『学び合い』に囚われすぎて周りの子達を動かそう動かそうとした結果なんだと思います。その裏にはその子をどうにかしようという願いがありましたが、その子やその保護者の方には関係ありません。その学年は今年持ち上がりです。『学び合い』のセオリーはあると思いますが、そこは今回中国の会で学んだあの手この手を試行錯誤してがんばろうと思っています。
長々とすみません。

2014-02-13

疑問のことで。

| 01:59 | 疑問のことで。 - 幸福論 を含むブックマーク

ゼミで疑問に思ったことについて(http://manabiai.g.hatena.ne.jp/mei-c5/20140210/1392054710)グループ学習にするのは、ひとりで勉強させないため?と言っていましたが、

今日、そのことをもう少し話し合っていて、

ひとつの方法として提示されてはいるけれど、グループなどの細かい取り決めはそこまで重要視されていないのかもしれない

という考えになりました。


おそらく、

①子どもたちの間で対話(共同の学び)があること。

②共同の学びが高いレベルの課題への挑戦を含んでいること。

この2つがとても重要で、必要とされているのではないか、と。

そして、この2つを実現しようとする上では、グループ学習という方法が一番いいんじゃない?と言われているだけかもしれません。


そもそも、学びの共同体の考えのもとだと言われているデューイやヴィゴツキーについて、全く知らないので、これだけ捉え方がぼやけてしまうのかもしれないなあ、と思います。

デューイやヴィゴツキー関連の本を読んでみて、もう少し見えてきたら、また書きたいです。

FlipperKFlipperK2014/02/15 00:54 続きが楽しみです。

nishinaonishinao2014/02/15 23:49すごく興味を持てる書き方ですね!
社会構成主義の本が読みたくなってきました!
今度読ませてください!!

mei-c5mei-c52014/02/17 00:51>>FlipperKさん
ありがとうございます。少しずつですが、更新していきます!

>>nishinaoさん
そう思っていただけて嬉しいです。
ぜひ読んでみてください。nishinaoさんが本を読んだ感想もお聞きしてみたいです。

2014-02-11

先生だって。

| 22:56 | 先生だって。 - 幸福論 を含むブックマーク


昨日に引き続き、佐藤学さんの本より思ったことのメモです。

読み進めていくと、こんな記述にあたりました。



「子どもは教師以上に、わからない子どもの学びの支援において有能である。」



わたしの考え方が固いせいなのか、それともひねくれているのか、

教師のところに自分を当てはめてみて、少しこの言葉に違和感を覚えました。


もちろん、子どもたちが授業で動いている姿を見ていて、

こんなこと、わたしにはできないなあ……と思うことはたくさんあります。

でも、わたしにだってできることはあるんじゃない?と思うのです。

(教師の立場で本当にそうすることが妥当であるかどうかは置いておくとしても。)

つまり、「子どもは教師以上」というより、その子に合った支援に行き当たる確率の問題ではないのかな、と。


欲張りかもしれないけれど、せめて子どもと張り合うくらいには、自分もその集団に混ざれば有能さを発揮することができると思いたいです。

ただ、教師には教師の仕事があるので、そうしていないだけで。

そう思っていないと、悔しい気がします。


これが「子どもは教師以上に、わからない子どもの学びの支援において有能である。」と心から思えたら、精神的に大人になれたということなのかもしれません。

でも、そう思うためには、まだ、気持ちに余裕が足りないみたいです。。。

PonPon2014/02/12 02:41私も、個別のやりとりにおいてわかりやすく伝えるだけなら、出会ったばかりの多くの子どもたちより劣っているとは正直思いません。
でもそれは、昔からあまり勉強が得意でなく自分もわからなかったために試行錯誤してきた成果であって、スラスラとわかってしまう教師なり科目であるほど、わからない子のつまずきを理解しにくい、というのは確かにあるように感じます。
その点、全くわからない状態から“わかった!”を経験したばかりの子どもというのは、時に驚くほど“わからない子”にベストマッチのアドバイスをすることがあります。
その瞬間をみると、本気で「かなわないなぁ~」と思います。
現時点では負けていないかもしれないけれど、子どもたちにそういう力を最大限発揮できる環境を与えれば、この子たちは今の自分をはるかに越えてくる可能性をもっている…と信じて見守る姿勢が大切、ということではないかなと、私は理解しています。

mei-c5mei-c52014/02/13 04:35>>Ponさん
>スラスラとわかってしまう教師なり科目であるほど、わからない子のつまずきを理解しにくい
このことは、強く感じます。できる人にとっては、どうしてそれができないのかが解りにくいものですよね。
そういえば、わたしは逆上がりがなかなかできなくてとても苦労しましたが、逆上がりができる友達にアドバイスをもらっても、どうも上手くいかなかったという経験があります。
逆に、教育実習中、テスト問題の直しで躓いている子に、自分が一番分かりやすいと思う説明をしても全く分かってもらえなかった、ということもありました。

>子どもたちにそういう力を最大限発揮できる環境を与えれば、この子たちは今の自分をはるかに越えてくる可能性をもっている…と信じて見守る
本当にその通りですね。環境次第で、発揮できる力が異なってくるのだと思います。
今、こうしてお返事を書かせていただきながら、ふと考えたのですが、子どもと張り合ったり、子どもの方が有能だと言ったりすることが不思議に思えてきました。子どもたちは子どもたちの集団で、教師はその集団の力が発揮できるような環境をつくる人、とすると、どちらが有能だとか言って張り合う必要はあるんだろうか、と。
昨日とは全く違う考え方になってしまって、自分でも混乱していますが、もしかして比べるところが違うのかなあ、と思い始めました。

daitouirukadaitouiruka2014/02/13 06:17それから、子どもと1対1で比べるなら、まだ「勝てる」確率は上がると思うのですが、子ども「達」の力にはやっぱりかなわない。
そして、子ども達に任せることの方が他のメリットもあり過ぎです。

FlipperKFlipperK2014/02/13 21:24『学び合い』をやってると、子どもに負けるのが結構嬉しくなりますよ。

PonPon2014/02/13 23:06私も、子どもや保護者とどちらが上だとか正しいとか悪いとか、本気で張り合うのは無駄なエネルギーの浪費と思います。だからその言葉は、ともすれば傲慢になりがちな教員にまずは謙虚になりましょうよという“心構え”的なものなんじゃないかと。
実際には、みんなでよりよい未来を描けばいいじゃん、と。
でも、FlipperKさんの言うとおり、子どもたちの力を信じて見守る中で、その信じていた自分の想定をも越えてきたときの感動はタマランです♪

mei-c5mei-c52014/02/14 02:02>>daitouirukaさん
わたしは、子ども「たち」となると、これは絶対かなわない、と本気で思っています。
『学び合い』をしていると、その他のメリットがたくさん見えてくるのでしょうね。

mei-c5mei-c52014/02/14 02:05>>FlipperKさん
負けるだけ、自分の環境づくりがうまくいっていることを実感できるから、という理由もあるのでしょうか。
でも、単純に子どもの成長を見ることができるのは、嬉しいことなのかもしれないですね。

mei-c5mei-c52014/02/14 02:12>>Ponさん
確かに、前に立って話しているうちに「教えてあげているんだから!」という気持ちになってしまいがちです。(実習中、特にそうでした。)
その心構え、わたしにとって、すごく必要なことだと思います。
はやくPonさんや、他の先生方のような感動を味わってみたい…!とわくわくします。
そのためにも、子どもたちの力を信じて見守る姿勢を自分の中に作っていきたいです。

2014-02-10

疑問。

| 02:51 | 疑問。 - 幸福論 を含むブックマーク


今、ゼミで佐藤学さんの本を読み合わせしています。


技術的な問題の点で、小グループの組織について書かれてあって、

男女混合の4人のグループにする、というところについて、同じゼミ生から疑問が出ました。


「前に、『学び合い』の話を聞いたときには、ひとりで勉強するのもあっていいんだ、と言っていたけど、ここではグループにすると書いてある。この違いって何なんだろう?考え方が違う?」とのこと。


まず、わたしが『学び合い』について話したこと、覚えていてくれたんだ~!と嬉しくなって、

次に、『学び合い』というのは方法ではなく考え方だと言っていたのも、ちゃんと受け止めていてくれたんだ、とびっくりしました。

あんな拙いわたしの説明でも、ちゃんと聞いてもらえていたなんて。


この本には

「どんな学びも個人で行われることはない。個人で行えるのは<練習>と<記憶>だけである。」

と記述されているため、その部分と見合わせながら、こういった前提のもと、授業中にはひとりで勉強させないようにグループが決まっているのかもしれない、という結論に至りました。

daitouirukadaitouiruka2014/02/11 06:341人という状態を物理的な面や時間的な面や内心的な面から考えてみたらどうでしょう?
『学び合い』で1人でもOKというのは、その時点で物理的に一人でいても「全員の課題達成を意識しての行動の一場面であるなら」という前提があると思います。
また、短い時間だけ切り取って1人だからといって、他とのかかわりがないとは言えません。
誰かと対話する下準備として何かを調べたりまとめたりしているときや、誰かの言葉を反芻しながら頭の中で対話しているときもあるでしょう。それは、「練習」や「記憶」とは違うと思うし、佐藤先生ものべつまくなしに他人としゃべっていなければ学んでいないと言っているわけではない思います。たぶん。
佐藤先生の講演は何度かお聞きしたことはあるものの、本などでしっかりと勉強したわけではないのでわかりませんが、男女混合4人の班とそうでない場合とを学術的に比較した研究はあるのでしょうか?
「経験上そういった印象がある」というのであれば、私個人の印象では、そうである場合もそうでない場合も「経験」しています。
と、いうことで今のところは、「子ども達自身に判断してもらい、その可否をその都度振り返ってもらう」方が合理的で、今後の自主的に学ぶ力を育てるためにもなるのではないかと思っています。

mei-c5mei-c52014/02/11 22:25>>daitouirukaさん
その通りだと思います。下準備の時間も、ひとりで考えている時間も学びに入りますよね。
今回読んでいる本は、とても薄い本なので、その分内容が凝縮されていて、学びの共同体初心者にとっては理解しづらいところもあるのかもしれないです。
グループの編成についても「どの形態の授業よりも強制的に学びを促す機能」と紹介されていましたが、事例については詳しく記述されていませんでした。

>「子ども達自身に判断してもらい、その可否をその都度振り返ってもらう」方が合理的で、今後の自主的に学ぶ力を育てるためにもなるのではないか
何か違うなあ、と感じていたのですが……結局そこだと思います。
子どもにどれだけそれが委ねられているのか、です。
ただ、合理的だと思うことと、実際に行動に移せるかということの間には、何故か壁があるんですよね。難しいです。