2015-10-28
あっ。
普段のこと |
今日、他の研究室の子から、
「今、学び合いっぽいことをしているんだけど、孤立する子をどうしていけばいいのか困ってて、こんなときどうすればいいのかな?」
と相談を受けました。
支援校で見られる子どもたちの様子と似ていて、
自分達の支援校ではこんなことがあって、こういうふうにしていくとよくなっていったよ。
と伝えました。
また、やっぱり「全員が達成すること」をしっかりと言葉だけでなく態度で求めてかないと、一人も見捨てないという言葉は伝わりづらいよ、ということも伝えました。
最後に、喋っていることだけではだんだん自信がなくなってきて、
「あ、でもこのことは本に書いてあると思うよ」
と言ってしまいました。
あっ。
うっかり宣伝してしまった……。
今ちょっと勧誘っぽかった?と焦り、あわてて
「でも、本を読む時間がなかったり、読んでもなかなか現実に起きてることとその内容を結ぶことが難しかったりするもんね。わたしでよければ、いつでも聞きいてね」
と付け加えました。
すこしでも、その子が居づらくないクラスになっていけばいいのになあ、と思います。
2015-10-27
自信がない。
普段のこと |
わたしは、ゆうきゆうさんの、以下の言葉が好きです。
「大切なのは、真実かどうか、何が正しいかどうかに目を向けすぎてしまわないこと。人とのやりとりは、探偵小説じゃないんです。二人が楽しく安らぐなら、それでいいんですよ。」
わたしにとって、彼、彼女にとって、心地よければ、それがわたしたちの人としての付き合いのあり方なのかもしれないなあ、と。
けれど、ひとたび目標が設定されると、やはりお互いの思いがぶつかることもあります。
相手の思いが見えないと迷走してしまうことは分かっていますが、どうやって思いを見たらいいのか分からないのです。
先生が、生活保護を受けるような立場にある人は、受給の申請に行く気力すらない、もしくは行ったとしてもそこで跳ね返されると例え理由があったとしてもそれを伝える力が残っていない場合もあるとおっしゃっていました。
助けて、とも言えない人がいる。
じゃあ、その人は誰が助けるのでしょうか。
その人を助ける人にわたしはなれるのか、分かりません。
でもわたしもその人になるかもしれません。
自分だったら助けて欲しいのに、助ける自信がない。
これはどうなのか。
うーーーん。
sumi-chan「誰もが、助ける立場/助けられる立場になり得る」という認識が持てているだけでも十分なのではないか、と、記事を読んで思いました。でも、meiさんは、そこからさらに一歩進めて考えたいのですね、きっと。
つえ蔵ゆうきゆうって聞いたことあると思ったら、『マンガで分かる心療内科』の人ですね。
助けが必要だけど助けてって言えない人を助けられる自信はありません。
一人では無理だけど、仲間がいれば…。
助けてって言えないくらい疲れ果てて気力がない人も見捨てないという志を持つ仲間がいれば一緒にできそうな気がします。
meiさんみたいな仲間がいたら頑張れそうです。
mei-c5>>sumi-chanさん
考えてみると、わたし、欲張りすぎなんでしょうか?(笑)
でも、もっと、もっとと思うんです。そして自分の力なさを思い知ります。
>>つえ蔵さん
そうです。本やネット上の悩み相談(連載?)もたくさん書いていて、本当におもしろい文章を書く人です。
そうですね。わたしはなにかあると一人で臨もうとするから弱いのかもしれません。
わたしは、今、つえ蔵さんのような仲間いてくださるので心強いですよ~。
つえ蔵meiさんは弱いわけではないですよ。
「私に何ができるのか?」と考えることを切り口とするから、一人では臨もうってなってるだけじゃないですか。
その共感力は素敵な力。
人の痛みを自分の痛みとして感じられる強い人だと思ってます。
mei-c5>>つえ蔵さん
なるほど!切り口の違いですね!!
ちょっと道が開けた気がします。
明日から徐々に動いてみます。
ありがとうございます。
2015-10-24
ogym願う・求める・信じる等、微妙にニュアンスが違うのかもしれませんね。
肝のひとつのように思いました。
つえ蔵一人も見捨てない。
凄く難しいですね。
「そうなったらいいな」って思ったから、目指してみたくなりました。
不器用だから最短距離では進めずに、あっち行きこっち行きすると思いますが…。
mei-c5>>ogymさん
言葉の使い方が人によって違うのかもしれませんが、わたしの場合は、求めているって少し偉そうだったかなあ。むしろ一緒にがんばるくらいの姿勢でいた方がわたしらしいな、と感じました。
ニュアンスって難しいですね。
>>つえ蔵さん
一緒に目指してみませんか。
遠回りもだいすきです。悪巧み、おもしろいこと、いっぱいしましょう。
2015-10-20
哲学プラクティス(2)。
会のこと |
活動報告の続き(後半)を書いていきたいと思います。
前半は教育現場での哲学プラクティス実践報告だったのですが、後半は
街中での哲学プラクティス
を中心に4名の方々が登壇されていました。
全体的にまとめるとすれば、『学び合い』の会を運営する上での悩みと同じような悩みが出ていたように思います。
では、1人ずつ振り返ってメモしていきたいと思います。
最初は、カフェフィロ(Cafe Philo)という哲学対話の活動を実践・サポートする団体の代表をされているMさんの実践報告。
室内に限らず、駅の構内、公園、工事現場……とにかくいろんな場所で開催されていて、通りすがりの人も参加できる哲学カフェをされているとか。
それに参加する人たちは、みんな自発的に参加してくるのですが、
合意形成や問題解決、知識や信条を広める、といった目的で来られた方は、ちょっと場に馴染みづらいかも(笑)というようなことを、Mさんはおっしゃっていました。
なぜなら、哲学カフェは、他者とともに考えて、対話そのものを楽しむために参加するものだからです。
なので、哲学カフェの社会的意義は、そういうことを楽しめる人、
つまり、多様性を楽しむことのできる人を増やす、というところにあるんじゃないか、とのことでした。
次に、仙台で哲学カフェをしているNさんの実践報告。
被災地での哲学対話の意義って何だろう?ということについてお話しされていたのが印象的でした。
被災された方たちは、自分の苦しみの根っこが分からないことが多々あるそうです。
でも、分からなくて言葉にするのが難しい状況を、「人生の語り直し」をすることによってなんとかできないか?と考えているのだとか。
うーーーん。ちょっとよくわからない。
すみません、ここらへんで違う思考にスイッチが切り替わってしまって、あまりNさんの話に集中できていませんでした。
というのも、『学び合い』の会と哲学カフェって似てるなあ、と思っていたのです。
どちらも集まって抽象度の高い話をしているし、会に多様性を求めています。
だとしたら、違いって何だろう?と、一人でぐるぐる考えはじめてしまったんです。
結局ぐるぐる考えて、よく分からないまま終わりました。
これは会に行ってみて体感しないと分からないのだと思います。
次に、東京都内で哲学カフェ「さろん」という団体で活動をしているHさんの報告。
さろんでは、「本当は大切かもしれないのに、忙しい毎日に追われ見落としがちな物事について、ゆっくり丁寧に話し合い考える」ことを狙いとしているそうです。
独自広報として、メールニュースを配信しているとおっしゃっていました。
ここでまた、思考が飛びます。
あっ、メールニュースってありだなあ。
全国で開かれている『学び合い』の会の様子や感想なんかを気軽に報告できる場があれば、なかなか遠くて参加がかなわない会でも、こんなことをしているんだな~と分かります。
ただ、これはFBなんかでされている、といえばされているのかな……。
ああ。すぐに、自分に引き付けて考えて集中できなくなってしまう癖を何とかしたいです。
最後に、NPO法人こども哲学・おとな哲学アーダコーダの代表、Kさんの実践報告。
Kさんは、ご自身のお子さんと哲学対話ができればおもしろそう!ということで実践をはじめたところ、いろいろあって代表になっちゃったそうです。
(いや、本当はもっとちゃんとした経緯があるのだと思いますが。)
NHKエデュケーショナルとの番組制作にも関わっているそうで、子ども向けの哲学番組が11月23日から始まるそうです。
「Q~子どものための哲学」
という、日本では初めての子どもの哲学番組だそうです。
これだけ哲学、哲学と言っていると、一体哲学って何なのか、分からなくなります。
たぶん、この後半の実践報告を聞いているとき、哲学の位置付けって何なのか?ということを考えはじめて、ちょっと上の空になっていた気がします。
そんなわけで、後半はメモが少ないですが、この辺で。
次は、ワークショップやラウンドテーブルのメモをしたいと思います。
daitouiruka「人生の語り直し」については、ナラティブ・セラピーとかナラティブ・アプローチでググればいいと思います。
社会構成主義の影響も受けているんで、すんなり受け入れやすい考え方だと思います。
mei-c5>>daitouirukaさん
ナラティブ・セラピーについては本で読んだことがあります。が、やっぱり、個というイメージが強いです。
セラピーなので当然と言えば当然なんですけど。
また、話を聞いてください。
2015-10-19
余裕。
普段のこと |
第二次世界大戦中、ドイツがイギリスを海上封鎖したときに、
イギリスの新聞の見出しはこう書かれたそうです。
「ヨーロッパ大陸、孤立す」
また、ブルーハーツの曲の歌詞には、こんなものがあります。
「どうにもならないことなんて、どうにでもなっていいこと」
苦境にあっても、発想を転換し、その状態の自分自身にユーモアを見いだせると、心に余裕を持てるのかな、と思います。
哲学プラクティス(1)。
会のこと |
越後の会が終わり、そのまま弾丸で東京の「哲学プラクティス連絡会」という会に参加してきました。
東京フォーラムでお会いしたMさんのご紹介でめぐり合うことのできた会です。
いや、ご紹介なんて簡単な言葉ですませたら申し訳ないほど、Mさんにはお世話になりました。
東京で迷子になるわたしを会場まで案内してくださって、知り合いの居ないわたしを気遣いたくさんの方とつないでくださったのです。
帰りも迷子にならないよう、駅まで案内してくださるという手厚い支援を受け、わたしは改めてまわりの人に(今日はとくにMさんに)助けられていることを実感しました。
さて、哲学プラクティス連絡会。
え、哲学の学会!?
プラクティスってなに!?(あ、これは実践か……)
と身構えてしまうようなネーミングですが、誰でも参加可能な会だそうです。
その証拠に、今日の会場には赤ちゃんを連れたお母さんもいらっしゃいました。
小学生(保護者同伴)も中学生も高校生も、その他どんなお仕事をされている方でもOK。
いただいたパンフレットによると「哲学プラクティスに関心を持つすべての人が集まって、相互に交流と親交を深めようとする連絡会です。」だそうです。
連日動いている疲れで、行きの電車に乗っているうちはとてもとてもとても眠かったのですが、
哲学対話の実践をされている方々が実践報告をしている時間は、そんなことも忘れるくらいおもしろくて集中してしまいました。
そして、とても一度のメモでは書ききれないので、数回に分けて書いていきたいと思います。
今日は、そのうちの、実践報告の前半についてメモします。
(哲学プラクティスがこの会の開催に至るまでの歴史なども、基調講演でお話しされていたのですが、割愛!)
まずは、開智中学・高等学校で「哲学対話」の実践をされているTさんの報告。
Tさんは、学校に滞在するカウンセラーならぬ、学校に滞在する「哲学者」のお仕事をされている方です。
理事長さん(ノーベル賞を取った大村さん)の「自分の頭で考える子どもたちを6年間で育てたい!」という思いをもとに、探究フィールドワークに取り組んでいる学校です。
探究フィールドワークは、まず疑問を持ち、仮説を立て(絶対にすぐに調べない!)、そして検証をする、を基本としているそうです。
そんな学校で、道徳の一環として行われている「哲学対話」。
哲学を通して、簡単には白黒がつかない問いを、あきらめずにねばり強く仲間とともに考えることを生徒に体験して欲しいという願いがあるのだとか。
Tさんは、「哲学対話」の非常勤として学校に週4日滞在しているそうですが、以前はもっと滞在の時間が少なかったそうです。
お話の中では、滞在時間を多くして「場に居て馴染んでいくこと」の良さについて触れられていました。
やはり、非常勤は学校にとって「お客さん」の扱いです。
それを、滞在時間を多くして、雑談をしていく中で「お客さん」ではない信頼関係を築いていくことによって、より詳しい情報を得られたり、受け入れてもらえる体制になっていくそうです。
まるで、わたしたちの学校支援のように……。
次に、神戸大学付属中で「子どもの哲学(p4c:philosophy for children)」の実践をされているNさんの報告。
Nさんは、
①学生自身が日常の経験から問いを立てること
②全員で問いを一つに絞り、問いの答えを全員で探求すること
③探求中、お互いに敬意を払い、どんな考えでもどんな質問でも発言してよいということを守ること
を大切にされているそうです。
報告の中でとっっっても面白かったのが、p4cをやって変わったことは?と子どもたちにインタビューした映像でした。
・日常の見え方が変化して充実した。
・当たり前やん!と思うことが無くなってきた。「そこは違う!」とすぐに否定することがなくなって、考え方が相手視点になってきた。
・普段、変わってる人だ…と思っている人も、面白い人だなあと思えるようになった。
など、など。。。
これって、さまざまなことに「なぜ?」と思考をめぐらせるようになった、多様性を認められるようになった、ってことなんだろうなあ、と。
それを子どもの言葉で語られているのが、ここでしか聞けない大切なものに思えました。
そして、もう一つ。
「p4cの授業を一言で説明し、ポスターにする」という課題の成果物(実際子どもたちが作成したポスター)も面白かったんです。
スライドを拝見している中で、一番おおっ!と思ったのは「心が底なしのポケットになる」という一言でした。
こんな言葉を生み出せる感性がすごい。うらやましい。本当にすごい。
全部見たかったなあ。
次に、さまざまな学校に入って「子どもの哲学」の実践をされている早稲田大学大学院のOさんの報告。
Oさんは、Tさんのような非常勤で学校に入るかたちではなく、ゲストとして学校に入っているそうです。
イメージは、『学び合い』でいう出前授業(飛び込み授業)のような感じ。
『学び合い』の授業を一回見るだけでは、子どもたちの変容がなかなか見られないのと同じように、哲学対話もすぐに結果が出るものではないと思います。
短い時間の中で哲学対話をすることによって、なにができるのか?(反対になにができないのか?)を考えていきたいとおっしゃっていました。
また、地域創生のための話し合いの手法として、哲学対話を用いているというお話も、興味がありました。
子どもが「地元は大好きで活性化したいけど、都会にも行きたい!」という矛盾した気持ちを抱えた上で、どのように対話をしていくのか。
今後が気になりますし、他人事ではない話だと感じます。
そして最後に、佐賀県のおへそ保育園で「こども哲学」を実践されているYさんの報告。
Yさんは、「自主性」を育てずに「自主性」を求める社会に疑問を感じていて、自分自身と対話する時間(=哲学対話?)が自主性を育てるのに効果的ではないか、ということで実践されているそうです。
こちらも、園児たちの哲学対話の様子を映像で見ることができて、和みました。
サンタクロースはいる?生きるってなに?やさしいってなに?……という問いに真剣に答える彼らは、大人顔負けって感じでした。
ハッとしたのは、「困っている人がいたら助ける?」という問いのときでした。
最初は「絶対助ける!!!!」と言っていたのに、それが悪い人や怖い人だったらどうする?と聞かれると「助けない!」と、答えがコロコロ変わっちゃうんです(笑)
その様子がほほえましくて、おかしくて、笑いながら見ていたのですが、じゃあわたしはなんて答えるだろう?と思ったときに、大人も同じじゃないかと思ったのです。
場合によって、助けるか助けないかをきっと選択する。
その選択の基準ってなんなのでしょうか?それはどうやって決まっていくのでしょうか?
そう思いはじめると、哲学という場において、子どもも大人も関係ないのかもしれないなあ、と感じました。
さあ、今日は長くなりすぎたのでここまでにします。
早く寝よう~。
2015-10-18
だから、なのか。
普段のこと |
テレビを見ていると、ロボット工学者の石黒浩さんが出ていました。
石黒さんは、「3人以上入れば、対話が成立していなくても対話に参加している気分になる」と言っています。
例えば、ロボット2体と人間1人の3人(?)で話をするとき、
ロボット2体の対話が成立していて、たまに人間に「そうですよね?」と話をふる。
または、「どう思いますか?」→「人間の応答」→ 「そうなんですか」(簡単な相づち)→再びロボットの対話が始まる。
こんな状況があったとします。
このとき、実は対話は成立していないのに、なんとなくロボットと対話が成立したと感じるそうなのです。
勉強も、AさんがBさんにある問題を「どこが分からないの?」と聞きながら教えていて、それを横でCさんが聞いている。
この状況は3人で勉強しているようでいて、実はCさんの「分からない」には対応されていない可能性もあります。
以前、『学び合い』授業の振り返り+次どうするか?というところで、ある子が「つきっきりで教える」ということを書いてきました。
その子は無意識にこういうことが起こる(分かったふりになってしまう)のを感じ取っていたのかな?と思います。
2015-10-17
わたしのせいじゃない。
普段のこと |
わたしが先生になったら、クラスの自分の机の近くに置いておきたい本がいくつかあります。
わたしをつくっている哲学が、その本たちにはつまっています。
その本たちのうちの一冊が、『わたしのせいじゃない』という絵本です。
何か問題があったときに、誰のせい?を追及していくと、物事が見えづらくなっていきます。
それよりは、それに関わる人たち全員が1人ずつ「次にこのような問題が起こらないために、自分に何ができるのか」を出した方が建設的だと思います。
この絵本は、最初は教室の中でおきたいじめ問題について、わたしのせいじゃないよ、ぼくのせいじゃない、と1人1人が言っていき、最後に
「わたしのせいじゃない?」
と問いかけられる、一見子ども向けの教訓絵本のような内容です。
が、そのあとがぞっとします。
原爆、飢餓、環境汚染、戦争……世界が抱える問題の出来事を写したページ。。。
ああ、自分も「わたしのせいじゃない」と言っている1人だった!
と、そこに行き着いてやっと気づきました。
だから、この気持ちを忘れないためにも、これをそばに置いておきたいのです。
そして、油断している自分に、問いかけたい。
「わたしのせいじゃない?」
sumi-chan私も教室に置いています。
初任から2年目の時に、先輩が「この学校って○○なのよねえ、、」とため息まじりに言うのを聞く度に、違和感を持ったことを思い出します。異動したばかりでもないのに、なぜそんな他人事のように言うんだろうって。今の職場は、何かあってもみんなで知恵を出し合って何とかしていこうという雰囲気があります。この違いは大きいです。(職場規模の話ですが、自分にとっては大きい。(^^;)
ogymいい本知りました。
ありがとうございます。
つえ蔵読んでみたいです。
mei-c5>>sumi-chanさん
おおっ!そうなんですか。
この感覚、できれば、手にとって何かを感じて欲しいし、自分も忘れたくない感覚です。
職場の雰囲気をつくるのって、一体誰なんでしょうね。1人だけが頑張って変わるものでもないとは思いますが、何かきっかけをつくっている人や、環境があるはずですよね(^^)
>>ogymさん
きっと教室に置いておきたくなりますよ~。
>>つえ蔵さん
ぜひぜひ!わたしは図書館で読みました。絵本って高いんですよ……。
2015-10-12
障害があるからこそ。
普段のこと |
片桐健司さんの『障害があるからこそ普通学級がいい』という本に、こんな一文があります。
****
こちらから見れば、困ったことでも、無駄に見えることでも、決してそれは彼にとってあってはならないことでも無駄なことでもなく、それが学びや成長の過程なのだ。
****
「一人も見捨てない」社会を目指していくと、
自然と、多様性を認めていく環境になっていくと思います。
多様性を認めていく環境にならなければ、どこかで誰かを見捨ててしまうことになるからです。
自分の常識に当てはめて考えると「!?」と思うようなことが、相手の常識では普通、ということもたくさんあります。
昨日、ある人と話していて、とてもおもしろい考えを聞くことができました。
目に見えない存在を信じるか、という話をしているときに、そんな話になりました。
「おばけとか幽霊っていないと思うけどなあ」
とわたしが言うと、その人は「おばけとか幽霊っていう概念が、そもそも人間都合になっている」と言っていました。
人間は「おばけ」や「幽霊」という概念を利用することによって、何か利益を生み出したり、市場を動かしたりしているのではないか、と。
そうではなくて、目に見えない存在も、あるかもね。と思えることが、今人間の抱えている問題を解決することになるかもしれない。
つまり、人間の次元で問題と思われていることを、全く違う次元で捉えたときに、何か解決の糸口が見えるのかも、ということです。
具体的には全くどうと言えない話ですが、概念的にはかなり納得する話でした。
これまで「おばけとか幽霊はいる!」と言う人って不思議だなあ、と思っていましたが、なんとなくそれもありか、と思えた瞬間でした。
motoryou人間って,やっぱり自分中心にできているんだなあ,と。(笑)でも,それを分かった上で,他の人もそうなんだよね,と認めることができればそれでいいじゃんって思うんです。あ,自分の頭の中でした。本文のコメントになっていませんねー。
ogym>>自分の常識に当てはめて考えると「!?」と思うようなことが、相手の常識では普通、ということもたくさんあります。
プログラマさんの常識、魚屋さんの常識、商社マンの常識、学生の常識、先生の常識…みんな違うって感じですね。そういえば、学校を異動した時もその学校の常識を理解するのに苦しむことが多々ありました。
つえ蔵多様性を認めつつ、安易に流されることなく、想いを貫く。
難しい。
いろんな立場を認めてたら自分がどこに立ってるかわからなくなるし、貫くことに目が向くと異なる意見を排除したくなるし…。
不器用だな。
jun24kawa前後の文章を知らないのでトンチンカンなことだと思いますが、「彼にとってあってはならないことでも無駄なことでもなく」なのが違和感を感じます。なぜ、「彼らにとってあってはならないことでも無駄なことでもなく」ではないんだろう、と。
mei-c5>>motoryouさん
自由の相互承認ってこういうことなんですかね?
いえいえ、コメントくださってありがとうございます。嬉しいです。
>>ogymさん
同じ学校という括りでも常識が違うなんて……!
でも、そこが難しいところであり、おもしろいところなんでしょうね。
mei-c5>>つえ蔵さん
合わない部分は無理に合わせず、「合わないね」で。でもそれ以上、攻撃したり干渉したりはしない。
そんな多様性の認めかただと、楽だなと思います。
>>jun24kawaさん
誤解されるような切り取りかたをしてしまってすみません。
これは、その子のみについて語られている部分で、もちろんまわりの子たちにとっての良さも記述されている部分はあります。
文面からも、間違いなくこの筆者の片桐さんは「彼ら」にとっての良さだと感じていますよ。
2015-10-11
職員集団の。
ゼミ |
今週のゼミで、『学び合い』での学校の運営についての質問をしました。
現在の出版されている『学び合い』の本はどちらかというと、学級経営向きの本が多く、先生対子どもの関係が想定されています。
確かに、子どもたちの一生涯の幸せを願って「一人も見捨てない」を語ることは大切だと思います。
でも、今いる大人だって見捨てられたくない。(要するに、わたしが見捨てられたくないんです。)
そこで、以前「大人の『学び合い』について研究したい。大人しかいない企業のような場所にも『学び合い』の良さを実感する人が増えれば、少しでも楽になるはず」とゼミで言ったところ、
先生から「フィールドは学校で考えた方がいい。なぜなら、より多くの大人を巻き込みたいと考えたとき、全国で公的に認められた場所で、多くの大人が関わる(保護者、地域として)場所は学校しかないから」というようなアドバイスをいただきました。
そのアドバイスをいただいたときには、うーん、そういう回りくどいのじゃなくて、働く大人の人たちが、
要するに、2年後のわたしが。
わたしだけじゃなくても、今わたしが関わっていて働いている大人の人たちが。
少しでも「見捨てられた」と感じないようにしたいんだけど……と思っていました。
なので、次に、学校よりも手続きが面倒ではなく、一般の人(教育関係ではない人)が参加することにハードルが低い、『学び合い』の会についての研究をしようと考えました。
『学び合い』の会は、各地でお世話になった方がたくさんいますし、その良さを実感しているので、みんなにもこの良さを知ってほしいなあ、という思い入れもあります。
会にいろんな人を巻き込むためには、わたしの声よりももっと若い子たちが頑張る姿を知ってもらう必要があるので、高校生を中心に開催されている東信の会でお手伝いをして、できるだけ多くの人に知ってもらえるよう宣伝をすることにしました。
この部分は継続して行うとして、でも、まだ何か足りないような。
自分の中に、もやもやが残る感じがするような。。。
そう思って、先週の休み、久しぶりに何もないノートにひたすら「自分はどうしたいのか」を書きなぐってみました。
すると、見えてきたのは、根本の、わたしが見捨てられたくない、という部分でした(笑)
仕方がないので、自分を中心に考えてみたところ、2年後のわたしの職場は学校です。
そこでは、ちゃんとまわりの方々と折り合いをつけながら仕事をしたいと思っています。
でも、「あの先生は仕方ないよね」と見捨てられるような人がいる職員集団だと悲しいです。
そんな職員集団にならないためには、自分がどうするか?ももちろん大切なことですが、
職員集団のトップに立つ校長先生がどのような学校のつくりかたをしているか、がもっとも影響してくると思います。
じゃあ、『学び合い』で運営される学校の研究ってどうだろう?というのが、冒頭の質問のいきさつでした。
「校長先生向けの本は出ないんですか?」と質問すると、
先生のお答えでは、校長向けの本は出版が難しい、とのこと。
でも、『学び合い』の良さを分かって学校を運営している校長先生なら何か知っているかも。
ということで、校長先生にインタビューをしてみて、『学び合い』の学校運営の実態を探ってみたいと思います。
『学び合い』実践者の方の実践を認めてくださっている校長先生をあたってみたいと考えています。
ご協力してくださる方、大、大、大募集中です。
以下のアドレスへメールでお知らせしていただけると嬉しいです。
merryfarm1102●yahoo.co.jp(●→@)
うちの校長先生どうですかー?素敵ですよ。という校長先生自慢や、
校長をしていて、『学び合い』での運営に興味があるんです。という自己申告をお待ちしております。
よろしくお願いいたします。
2015-10-09
やったー。
大切! |
最近、研究室の子が一人、ブログをはじめました。
彼は先生に言われたこと(「多様な方法でアプローチをしつづけるためには、ブログなんかで発信したらいいんじゃない?」)を忠実に行っていて、今のところ毎日ブログを更新しています。
http://atamanonakahanandaro.blogspot.jp/
毎日更新することは、本当に大変なことだと思いますが、それを意地でも続けているので本当にすごいと思います。
しかも、内容も毎回熱い。
たぶん、毎日問題意識をもって過ごしているからこそ、こんなふうに書くことができるんだろうなあ。
そして、今日。
また一人、ブログを始めました。
こちらも、種類は違えど、本当に熱い子です。
うちの研究室は、よく他から「あの研究室は火星に行っちゃってるからね(ぶっとんでるね)」と言われるのですが、そのぶっとび具合を引っ張ってくれるような子で、今日も
「国境がある意味が分からない」
と話していました。
彼のブログはこちらです。
http://bianco14.hatenablog.com
二人とも、たくさんの人とのつながりを求めています。
同じ研究室の一員として、応援したいな、と思います。
彼らのことも、よろしくお願いします。
scorpion1104おお~。良かった良かった。
これで、私はようやく引退できる(#^.^#)
研究室の様子も伝えてください。
皆さん、きっと楽しみにしてるよ。
mei-c5>>scorpion1104さん
えっ、引退?
scorpion1104さんも一緒にぶっとび具合をけん引する一人、ですよね??
これからも研究室のこと書いていきます。
2015-10-06
ありがとうございます。
普段のこと |
なんとか、教員採用候補者名簿に登載されました。
高知県です。
たくさんの方に応援していただき、ここまでたどり着けました。
教採前、父のように(父はこんなこと言わないかも)、この時期くらい勉強しろよとプレッシャーをかけてくださったり、
院に進むときにわたしの進路のことを心配してくださったりした方。
一緒に勉強してくれた子たち。
渋滞に巻き込まれ、ハラハラしながら受験会場近くまでわたしを送ってくれたおばあちゃん(笑)や、
試験から帰ってきて、こりゃもうだめだーと落ち込むわたしを根気強く励ましてくれた家族。
思い返せばきりがないほどの人に助けられていて、自分はこんなので大丈夫なのか?と不安になってくるほどです。
お世話になった方々一人一人に、ありがとうございます、って伝えたいです。
が、書類通知がまだ届いていなくてちょっと怖いので、個人宛お礼はちゃんと書類が届いてから伝えることにします。
父と弟から電話がかかってきて、どうしたのかと思ったら、直接おめでとうを言うためにかけてきてくれたみたいです。
これってなんだか嬉しいことだな、と思いました。
さすが、我が家のエンターテイナーたちです。
伝えたいこと。
普段のこと |
支援校の5年生のクラスで、『学び合い』をやっています。
2学期から、週に1、2回のペースではじめて、
前回の授業の振り返りで、自主学習で勉強をやってこよう、と書く子がついにでました。
明日は初めて語りをさせてもらうのですが、そのことについて話したいな、と思います。
きっと、その自主学習をやって来ようとした子は自分の課題を早く終わらせて、まわりの人を教えたい、と思ってそのような振り返りを書いたのだと思います。
つまり、このクラスみんなが時間内に課題を達成できるために動きたいと思っているのです。
さらに、前の時間は「わからないー」「誰か教えて!」と言っている子もたくさんいました。
これも、わからないことを早くまわりの人に知らせて助けてもらい、このクラスみんなが時間内に課題を達成できるために動いています。
わたしは、みんなのために動ける子たちがいるこのクラスを、素敵なクラスだなあと思います。
明日はこのことを最初にみんなに伝えて、ぜひ全員が「本当に分かる」を目指して全力を尽くしてほしいな、と思います。
わくわく。
scorpion1104いいですね~。良い語りだと感じます。
mei-c5>>scorpion1104さん
急遽、今日できなくなったので、明日に延期です。
どきどきです。
が、伝えたいことを伝えてきます。
bunbun-hおめでとうございます!(すごい、すごい♪)
お父さんにもよろしくお伝えください!(でも、これ、先に見てるかもw)
道はなが~いから、社会人になっても「ゆっくり、あせらず、したたかに」ね。
ogymおめでとうございます!
高知の『学び合い』がずんずん推進しそうです^^。
つえ蔵おめでとうございます。
これからも遠くからそっと応援しています。
mei-c5>>bunbun-hさん
ありがとうございます。おそらくもう見ていることと思います(笑)
「ゆっくり、あせらず、したたかに」
大事なことですよね。忘れずに過ごしていきたいです。
>>ogymさん
ありがとうございます。
自分のできることをやっていきたいと思います(^^)
>>つえ蔵さん
ありがとうございます!
わたしもつえ蔵さんの活動を、遠くからですが全力で応援しております。
2015-10-05
共感。
バイトのこと |
ある本に書いてあった、
共感とは、一緒に分からなくなってあげること
という言葉、なんとなくニュアンスが読み取れるなあと思ったのでメモです。
例えば、勉強なんかも「ひとつ分かると、また次の分からないことが出てくる」と言われますが、
相手の気持ちを理解することもそれと同じで、完全に理解しきることなんて、ありえないんです。
理解した!と思った瞬間に、でもそれって本当に?と疑わしくなって、また分からなくなる。
だからこそ、「分からないんだよね」を前提に、
「なので、あなたの気持ちを教えてね」と関わっていくのが、共感するということになります。
それが、「一緒に分からなくなってあげること」なのかなあ、と。
以前にバイト先の方が、
障害者の気持ちは、健常者には分からない。
分からないのは仕方なくて、そこはどうでもいい。
大事なのは、そこからどうやってよい関係性をつくっていくかを一緒に考えようとすること。
とおっしゃっていたのを思い出しました。
思えば、バイトなのに、本当にたくさんのことを勉強させていただいたなあ。受講料を払わないといけないくらい(笑)
ありがたいことです。
2015-10-04
誰にとって。
普段のこと |
わたしのいる研究室の目標は「自分の心に響き、多くの人の心に響く教育研究を通して、自らを高め、一人も見捨てない教育・社会を実現する」ことです。
この目標の、「自分の心に響き」という部分の取っ掛りは、案外簡単なんです。
興味があったり、おお、これは!と思って興奮することもあったりします。
ただ、そのことに対して「じゃあ、多くの人の心にも響くのか?」と問いかけると、そうでもないことが多いです。
そうなると、おお、これは!と思ったときほど自分の心に響かなくなります。
取っ掛りは、案外簡単、なのに。。。
この前のゼミでも、
「研究としては意味があるけど、実践として意味があるのか?」
という先生の問いかけを聞いて、そうだよなあ、と納得。
納得はするけど、やっぱり難しい。
2015-10-03
対処法。
普段のこと |
誰しも、自分の抱える問題の対処方法を持っている(がある?)と思います。
どうしても耐えられないような辛いことがあったときには、○○をする
というように。
今日、わたしはもう少しその対処方法を増やしていかなければならないな、と感じました。
わたしの場合、それが今のところ二通りしかありません。
第一の対処方法は、話を聞いてもらうことです。
その対処方法の道が絶たれると、残るのは一通り。
それは、とにかく寝てそのことを考えないようにする、ということです。
今は、第一の対処方法が使えない場合、体が自然とシャットダウンモードになって眠くなる、ということがわかっています。(本当に、勝手に体の動きが鈍くなっていきます。)
でも、現実問題として、眠れないときもあります。
だからこそ、なんとかして対処方法を増やしたいのです。
対処方法を増やすことは、精神的な自立にもなると思います。
以前にどこかで、「自立するということは、人に依存しないことではなく、依存する人数をより増やしていくことだ」という主旨の情報を聞いたことがあります。
つまり、精神的な自立とは、誰か一人に頼りきってしまうのではなく、より多くの人に分散して頼ることができるということ。
そうすれば、もっと楽なんだろうなあ。。。
昔であれば、話を聞いてもらう人もかなり限定されていたのですが、今では少しずつ聞いてもらえる人を増やすことができています。
まだまだ、少しずつ、ですが。
こうして、人に頼れることって、本当にいいよなあ、と思っているからこそ
子どもたちには、「困ったときは他人に助けを求められる」人になってほしいなあ、と思います。
そして、「困った人が居れば、気づける人・助けてあげられる」人になってほしいなあ、と。
『学び合い』で私が伝えたいのは、ただそれだけの願いだな、と思います。
でも遠回りしたから気づくものを体験できません。
試行錯誤型のmeiさんには遠回りも体得のためのプロセスなんでしょうね。
やりたいようにやるのが合ってると思います。
みんな幸せに、meiさんも幸せに。
試行錯誤型、いいタイプ名をいただきました(笑)
自分が追体験しないと気がすまない(分からない)んですよね。
それにはそれの良さがあるということを、つえ蔵さんに教えていただきました。
わたしはつえ蔵さんの幸せも願っていますよ~。