2015-07-15
分かってほしいために。
社会構成主義 |
自分の考えを分かってほしいがために、全く異なる考え方の人にそれをありのまま提示し、強要することは、
「自分は何も変化したくないけれど、相手に自分を認めてもらって、変化しなくてもよい環境を作ってもらいたい」ということじゃないかと思います。
例えば、『アナと雪の女王』という映画で、エルサが「ありのままの姿をみせる」と歌っていますが、
あの場面は、エルサがありのままの姿を他人に見せて、この姿を認めて、許してね。という場面なのか?というと、そうじゃない気がします。
あれは、エルサがありのままの姿でいることを自分自身に見せて、まずは自分を認めてあげる、という場面なのではないでしょうか。
そして、自分では認めてあげられるけれど、ありのままでは他者に迷惑をかけてしまうため、
結局、エルサは自分をコントロールする力を身につけて、他者と共生するようになります。
エルサは真の愛に気づいたときに、自分の力をコントロールできるようになりました。
わたし自身、真の愛がなんなのかはまだまだ全くわからないのですが、
自分がいて、異質な他人もいて、みんなで一緒に生きていきたい、と思えることかな??と、あの映画を見て思いました。
あ、でも、最後、悪役はかわいそうな結果になっちゃいましたけど。
この表現のままでは矛盾していますが、あの映画では
善=共生
悪=異質を排除
の構図を感じました。
ここで、善が悪(ある意味善の立場からすれば異質)も排除せずに共生していくと、より矛盾がないのに、と思います。
今のところ、わたしの中で、上記のような考え方、つまり、善が悪(ある意味善の立場からすれば異質)も排除とせずに共生していくこと。
これが「社会構成主義」を表していると考えています。
善は悪がいるから善でいられるし、悪は善がいるから悪たりえるのです。
主義、主張に関しても、同じことが言えます。
たくさんの主義主張があるけれど、それらはお互いがいるからこそ主義主張になり得るのだ、と。
だからこそ「社会構成主義」も、主義として定まったものではなく、これからどんどん変容し、作られていくものだ、と言われています。
マジョリティやマイノリティに関わらず、全ての人が共生していけたらいいよね、という考え方は、自分がどの立場にいても得だろうな、と思います。
共生したくない!!と思う(おそらく)マイノリティにとっても、
そういう考えもあるよね、そういう人もいていいんじゃない?と受け入れられ、認められる環境は悪くないはずです。
その考え方、振る舞い方に慣れていくために、学校での『学び合い』があるのだと、わたしは考えます。
先日のゼミの中で出てきた、「人間にとって世界のリアリティは、他人の存在によって、
つまり、他人の存在が万人に現れることによって保障される」という、 アーレントの一節を
思い出しました。
他者の存在があるからこそ、自分という存在を認識できる。他者は自分を映し出す鏡のような
存在なのかもしれません。
公共性は様々な語られ方をしていて、自分の中ではまだきちんと整理ができていませんが、
「善と悪」という点に限って言うと、その境ってとっても曖昧な気がします。
善が何か、悪とは何かは別として、人間はどちらにも成りうるからです。
重なる部分があるならば、お互いが共生していくことは可能ではないかと思います。
映画について触れられていましたが、例えば、映画「スターウォーズ」でアナキンは、
愛する人たちを失った悲しみ、大切なモノを破壊された怒りにつけ入れられた結果、
自分の力を制御できずダークサイドに落ち、ダースベーダーとなりました。
アナキンとダースベーダーは同一人物であり、善か悪かと聞かれても答えに窮します。
むしろ悪の権化とされるダースベイダーがとっても人気があるのは、人はどこか悪しきものに
惹かれるところがあるのかもしれませんね。それはやはり、人は内面としてどこかに似たものを
抱えているからかもしれません。
「善か悪か」というのも、見方によって変わってきたり、振れ幅の程度によるものであったりするものではないのかな〜、
とも思いました。
本文の内容から脱線した雑感となってしまいゴメンなさい。
でも、朝から啓発される内容で、目が覚めました。
ありがとうございます!
こちらこそ、ありがとうございます。
アーレントさんはそんなことを言っているのですか……!確かにそう言われてみれば、自分の心のどこからが内側でどこからが外側、なんて明確に説明できるものではないので、ある意味他者という認識と違いを見つけることで自己を認識しているのかもしれませんね。
スターウォーズの解釈も、とってもおもしろいです(^^)
アーレントさんのこと、今回初めて知ったので、『人間の条件』から勉強してみようと思います。
ありがとうございました!