makine45の日記 このページをアンテナに追加

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2017-11-30そうだったのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

昨晩、あるアンケートで、国語の『学び合い』について答えました。

その後、国語の『学び合い』について、メールしました。

頭が、国語の『学び合い』について、考えていたのかもしれません。

今日、大学生の授業参観を受けました。

学生と話をしていて

「学生のなかで、やはり知識はちゃんとおしえるべきだろうと『学び合い』についての意見があります」

と聞いたときに、気がついたのです。

「知識の伝達として、授業を捉えていたら、国語の授業は手が出ないでしょう」

と言ったら

「私も、国語の授業をどうやっていいかわからないのです」

と返ってきました。

国語の授業を「知識の伝達」として考えると、何を伝達しているのか、わからなくなります。

物語を読んで、何を伝達しているのでしょうか。

説明文を読んで、何を伝達しているのでしょうか。

内容ですか。読み方ですか。優れた表現ですか。

日本語の美しさですか。

指導要領に書いてあります。


第1 目標

 国語を適切に表現し正確に理解する能力を育成し,伝え合う力を高めるとともに,思考力や想像力及び言語感覚を養い,国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる。


最後は、「国語を尊重する態度」です。

算数と比べてみます。


第1 目標

 算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。


算数には「身に付け」という言葉がありますが、国語にはありません。

何を「身に付け」るのか、国語の目標からだけではわからないのです。

国語という教科の面白さは、ここにあります。

何を「身に付け」なのか、わからない。

現実的には、新しい漢字が出てきて、新しい言葉が出てきて、辞書の使い方やローマ字など、「身に付け」るものがさくさんあります。このあたりを「身に付け」たら、後はかなり自由なのではないか、と私は思っているのです。

今日は、この国語の「知識を伝達する」という側面に気づいたので、とても収穫のある1日になりました。

国語の『学び合い』は、「知識の伝達」という教師の性から、どのくらい自由になれるかという発想のような気がしています。

2017-11-26どうなっているのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

校内の事情で、自分から最も遠いと思っていた生徒指導主任を担当しています。

先を考えている方なら欲しい仕事でしょうが、先のない私には単なる担当です。

おかげで、教科主任がありません。

つまらない授業を参観する時間がなくなって、よかった。

さて、その主任会でのこと。

「他校の子供たちが遊びに来て、問題を起こすことがあるので、お互いに他校には行かないように、という決まりを作る」

という発言がありました。

一方で

「町内に新しくできた公園に集まって問題を起こしているという情報がある」

という発言もありました。

その後のまとめの発言はありませんでした。

言いっぱなしで終わったと言うことです。

自然、生徒指導主任の私に

「他校には行かないという決まりを作ったらどうか」

という連絡がありました。

私は

「正式な話なら、話し合いには応じるけど、その意見には賛成しない」

と言ったことがあります。

当たり前ですけど、学校から追い出された子供たちは、公園などに向かいます。

さらに、公園を追い出されたら、ゲームセンターやショッピングモールなどに向かいます。

さらに、そこも追い出されたら、どこか適当な誰かの家をたまり場にするでしょう。

当たり前ですが、だんだん大人の目が届かない場所に移動していきます。

問題があるかもしれない子供たちを学校から追い出すのは、簡単ですが、その後を考えると、学校に置いておいた方がいいような気がするのです。

教師の仕事は手一杯です。

これ以上の仕事が増えることは容認できない状況にあるのもわかります。

それでも、学校にいる方がいいのではないか、と思うのです。

そういった、ある種のリスクを大人社会が負えなくなったら、もう終わりではないかと思うのです。

見たことがない子供が、校庭で遊んでいたら

「君は、どこの小学校ですか」

と声をかけることができます。

教師には、自分の学校ですから、声をかけることはできます。

「遊びに来ても、いいけど、約束は守ってくださいね。」

と声をかけることが、それ以上の問題行動を防ぐことになるように思えます。

問題があるから、追い出すという発想には、くさいものに蓋をするという安易な発想があるような気がしてなりません。

「一人も見捨てない」

という『学び合い』から考えると、例え、教師がリスクを負うにしても、やはり大切な姿勢であると私は思っています。

2017-11-22個別面談 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

クラスの個別面談が終わりました。

数年前から、面談でも家庭訪問でも成績の話をあまりしなくなりました。

自覚的にそうなったのではなくて、何となく

「成績の話をしなくなったなあ」

と感じていました。

当然、

「ところで、うちの子は、授業について行っていますか」

「算数が苦手で」

というお話をいただくことがあります。

きちんと対応して、お話をします。

私の方から、特に何も用意しないで、出たとこ勝負で話をするようになってしまいました。

今回、初めて、どうしてそうなったのか、意識しました。

「成績の話をしても、その子の幸せにつながるかわからない。それよりも、友達がいるとか、友達とうまくやっているという話の方が、ずっと将来の幸せにつながる」

と考えていたようです。

もう一つ、保護者とのコミュニケーション状態をどうやって作っていくかを考えているからです。

毎日顔を合わせている方ならともかく、時々しか合わない保護者とどのようなコミュニケーション状態を作れるか、これは会ってみないとわかりません。

顔を見て、ちょっとした世間話をして、どうやって話を進めるのか。予定した通りがいいとも限らないと感じています。

落語家の話なら、“まくら”で決まるという感じです。

それもこれも、自分に経験があり、『学び合い』が骨の髄までしみこんでいるからだと思います。


いよいよ学期末です。

2017-11-14ある反響 このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

先日の公開授業を一人の同志が見ていました。

その同志から

学び合いがよかったと、職員室で話していましたよ」

と連絡がありました。

今まで、『学び合い』の授業をみることなどなかった先生方が職員室で話をしているとのことです。

私は、大学院を終えてから10年間、ずっと『学び合い』をやっています。

何も変わっていないのです。

繰り返しているので、多少は改善されたでしょうが、ほとんど変わらずに続けています。

当然、今までも見る機会があった方もいます。

そのときは、何も感じなかったのでしょう。

周りが変わってきたので、自分が変わっていくのでしょうか。

「みんなと同じように動く」

ということなのでしょう。


私の勤務地は、どういう形にしても、“学び合い”をやっていこうと動いています。教育委員会の学力担当の指導者は、現職のころ、「学びの共同体」を推進する校長先生でした。その方の力が大きいと思っています。

私は、「学びの共同体」のことをあまり知りません。

でも、「指導より、子供の学びを見よう」という方針をとても大切であると思っています。

この勢いで、“学び合い”が広がって行けばいいなあと思っています。

また、近くの市町村には、

「○○方式の授業」

「○○市独自の算数の授業展開」

などを開発して、それを徹底しようという動きがあります。

私も、『学び合い』に出会う前には、そういう発言をしていました。

恥ずかしい過去の姿です。

こういう方針は、必ずどこかでひっくり返ります。

○○方式を作ろうとしていた私が感じています。

例えば、算数で、課題解決型の授業展開をすると、この展開に合う教材での授業研究が多くなります。

例えば、5年算数の面積の研究授業です。

長方形から、平行四辺形の面積を求める。

平行四辺形から、台形の面積を求める。

などの授業が典型です。

形に合う授業ばかりが取り上げられます。

実際に、この展開に合わない題材を取り上げようとしたら

「本校の展開に合わない」

と言われたことがあります。

早く、この限界に気づいてほしいと思っています。

「指導論より、学習論で話し合うよ」

という意見が一般的になる日が早く来ればいいなあと思います。

それにしても、一度広がり始めると、凄いものだと感じています。

2017-11-10授業研究会が終わりました このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

学び合い』の考え方による算数の授業を公開しました。

町内の授業研究会です。

なかなかに面白かった。

課題が面白すぎると感じた子供たちは、「みんなができる」というクラスの目標を忘れるほどに問題に没頭し、

「疲れた」

と言っていました。

私は授業者でしたが、参観者に混じって子供たちの間を回っていました。

「テストがある以上、自力解決は大切」

と言い切っていた指導者が

「自力解決がないという授業もありかも」

と発言していました。

それほど、どういう形であれ、子供たち同士の相互作用を取り入れた授業が普通になっているのだと感じました。

そんな中でも、授業後の研究会で

「やはり、自力解決は必要だ」

と時代を感じる発言をしていた先生には、わからないことなのだろうと感じています。

大きなうねりとなって動き始めているようです。

2017-11-07研究授業があります このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

11月9日、つまり明後日に授業研究会で算数の授業をします。

町内の研修会なのです。

参観予定者は27名。

中学校の先生方もいらっしゃいます。

算数です。

学び合い』の授業です。

この授業の指導案をつくったときに

「これって、自力解決がないね」

という意見は全くありませんでした。

自力解決という一人で考える時間は設定してありません。

一人で考えてもいい時間は設定してあります。

あとは、子供たちがどれほど自由に闊達に話し合い、意見を出し合うかにかかっています。

同僚からは

「公開授業だから、あんな冒険は私にはできない」

と言われました。

私くらいの年齢になると、もう失うものもありません。

先もありません。

子供たちが、楽しく学習に取り組めれば、それでいいのです。

算数でも、こんなに楽しい事ができるんだという指導案を書いたつもりです。


10数年前、私が「学力向上フロンティアスクール」の研究指定校に勤務していたとき、授業研究会の準備に1ヶ月ほど、毎日9時に帰っていました。

この私が、です。

それを思うと、研究発表も大きく変わりました。

特別な準備は特にしません。

勤務時間を大きく超えるような指導案の検討会もありません。

日常の授業でできる範囲の研究授業になりつつあります。

それで十分であると思っています。


もしかしたら、私の最後の授業研究会になるのではないか、と思います。

せいぜい、楽しもうと思っています。