西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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09/07/13(月)

[]質問に応えて2 22:26 質問に応えて2 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 質問に応えて2 - 西川純のメモ 質問に応えて2 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 小林小学校での講演での質問の残りです。

Q 教師は,具体的に何をしたらよいのかと思いました。「この課題をやりなさい」と指示するだけではうまくいかないように思います。本を読ませていただきたいと思いました。

A はい、教師がやるべき事はあります。HPhttp://www.iamjun.com/)に手引き書が公開されています。それをご参照下さい。

Q 分からない子どもは,その時間の中で「分かる喜びをもつことができるのか?」と思いました。分かる子どもは,どのようにして『学び合い』を感じているのか疑問に感じました。『学び合える学級』を作るためには,そこまでの積み上げが必要なのではないかと感じました。

A 詳しくは、「勉強しなさい!を言わない授業」(東洋館出版社)に書きました。簡単に言えば、教師が想定するような固定的な教え教えられる関係ではなく、流動的な関係が形成されます。

Q 可視化は,どうすると効果的なのでしょうか。自分のやっているのは,そこがなかなか上手くいかない気がします。

A HPhttp://www.iamjun.com/)に手引き書が公開されています。それをご参照下さい。

Q 45分間の授業を考えた時に,「最初の教師の働き掛け」「最後のまとめ方」をどのようにしたらよいかと考えさせられました。

A HPhttp://www.iamjun.com/)に手引き書が公開されています。それをご参照下さい。

Q 教師の役割は,『学び合い』の中ではどのようなものか。「連絡事項・課題提示,計5分」なら,専門性がいらないのではないか。(ある研究者が「この課題いいですよ」というものを,誰でもよいから,子どもに示すだけでよいことになる)この指導の繰り返し,どのようにとらえたらよいか教えてください。

A 教師の役割を上記に関連づけて説明すれば、やる気にさせる、ということです。例えば、剣道部の顧問が毎日、「素振り100回」という課題を与えたとしても、子どもが本気にやるか、おざなりにやるかは顧問によります。さらに言えば、全員が本気にやるか、おざなりにやる子が数人いるかは顧問によります。上記の出来る顧問が何をしているか、それは『学び合い』と一致しています。

Q 『学び合い』の導入時期に注意すること,配慮することは何か教えてください。

A HPhttp://www.iamjun.com/)に手引き書が公開されています。それをご参照下さい。

Q どの学年からでもよいのか。低学年からがいいのか。

A どの学年からでもOKです。幼稚園の年中でも、また、私のように四十近くの現職者でも。

Q 集団の人数はどのようなものでもよいのか。

A 人数が多い方が楽です。

Q 課題を解決しようという意欲を高める必要があると思いがそれはどのような働き掛けか。

A 何のために学校で学ぶのかをちゃんと語り、それが指導において一貫していることです。

Q これまで,「かかわり合い」の中で,課題を解決しようとしてきた(子どもたちが主体なって)実践があるが,『学び合い』との違いは何か。また,「かかわり合い」について『学び合い』の視点からどのようにとらえているか。教えてください。

A おそらく最も違うのは、子ども達を有能と考えるか否かです。一般の関わり合いの場合は、教師がごちゃごちゃと指示や準備をしなければ関わらないと思っています。例えば、机の配置や班構成など。ところが、『学び合い』はそんなことしなくても、ちゃんとできると信じます。

Q 『学び合い』が応用可能な範囲をどのように設定しているのか教えてください。

A 人間の集団においては、ありとあらゆる範囲で適用可能です。

Q ごちゃごちゃした中(集団が)で,ある程度バランスがいいと『学び合い』が成立しない。または,誤概念定着してしまうのではないかと機具を抱きます。どのようにして解消すればよいのでしょうか。

A 教師は与えられた子どもに対して高い達成度を実現しなければなりません。ゴチャゴチャしたほうがいいですが、そうでなくても可能です。また、誤概念が定着することはありません。クラス全員が誤ることはありません。従って、クラス全員が関わることが実現できれば、誤概念が定着することはありません。

Q 今,2年生の担任をしています。低学年でも,『学び合い』は可能でしょうか。

A 可能です。低学年は直ぐに学び合います。彼らは本能のままに動きますから。

Q 集団の高まりを実感しました。能力的な高まりを個に焦点化すると,どのような実能があるのか伺いたいところです。

A 一人一人多様です。一人一人が一生懸命に高まろうとするところが良いところです。

Q 教師の役割は,学習手段の組織,みとり,励まし・・・。明確になっているところが知りたいです。(原則的なもの)

A HPhttp://www.iamjun.com/)に手引き書が公開されています。それをご参照下さい。

Q 初めて『学び合い』を始めるとき,子どもたちにどのような話をして始めたらよいのでしょうか。

A HPhttp://www.iamjun.com/)に手引き書が公開されています。それをご参照下さい。

Q 高学年のグループ化は,学習のさまたげになるのではないかと思うのですが,いかがでしょうか。

A はい、そのような固定的な集団を崩すことが出来るのが『学び合い』の良いところです。

[]質問に応えて 08:38 質問に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 質問に応えて - 西川純のメモ 質問に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 先だっての小林小学校におけるアンケートの中に、明らかに質問と思われる部分を抜き出し、私なりの応えを書きます。納得できなかったら、どうぞメールしてください。私は、まじめなメールには徹底的に応えます。

Q 学校で取り組むのは良いが,学級・学年だけで取り組んで大丈夫なのか?やはり,全体で取り組まなくてはならないのか?

A 学校で取り組む方が良いに決まっています。しかし、学校で取り組んでから、では、今目の前にいる子どもを救うことは出来ません。まずは自分から、まずは出来るところからだと思います。

Q なぜ,評価を与えないのか?KR情報は?と不安になった。評価を与えると個にかえるので,『学び合い』集団から個にもどるのかと考えた。私は,「教えて考えさせる」授業づくりを進めている。「教えたあとに学び合う」授業作りをすると,どんなに質が高くなるだろうと期待がもてる。知のネットワーク作りを呈した認め合う集団は素晴らしいと考える。目指すゴールがなくても,学び合いながらゴールが分かり,目指すことができる。ゴールがまちがっていると危険があると考える。特に解が拡散しているゴールの学習で『学び合い』ができるようになれば,素晴らしいと考える。

A 評価は与えています。ただ、我々は子どもたちを一人一人違うと考え、一人一人に評価をすべきだと考えています。これは現状の授業では出来ません。だから、子どもたちと一緒になって形成的評価をするようにしています。そして、最後の評価は現状と同じで、テストです。

学び合い』ではゴールで一番大事にするのは、良いゴールではなく、それ以上に、子どもに分かるゴールを目指します。それ故、ゴールが間違う危険性は従来に比べて格段に少ないと思います。

 小林小学校から情報が送られ次第、上記以外の質問にも順次、応えていきたいと思います。いましばらくお待ち下さい。

watatomowatatomo2009/07/13 19:08なるほどー。
やはり、多様な者の集まりである異学年は自分もとても興味があります

jun24kawajun24kawa2009/07/13 19:23私のところにDVDがあるからみてね。

09/03/30(月)

[]池田さんの質問に応えて 18:44 池田さんの質問に応えて - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 池田さんの質問に応えて - 西川純のメモ 池田さんの質問に応えて - 西川純のメモ のブックマークコメント

 京都の池田さんから公開質問状(あははは)http://ikedaosamu.cocolog-nifty.com/kokugogakkyuu/2009/03/post-24ef.htmlが来ました。メールでも丁重にご挨拶がありました。私なりの「応え」を簡単に書きます。こういうレベルのことは一問一答では終わりませんから。

 質問の1~3はほぼ同じ内容です。つまり、『学び合い』が成立する前提は何か、特に、その際に教師に求められるものは何か?です。池田さんの論は教師が教師になるためには子どもにそれを認めさせねばならない、というものです。私もそう思います。しかし、そのために何が必要で、どれだけの子どもからそれを認められなければならないか、というあたりで違います。

 まず、教師として認められるには何が必要かに関しては、「勉強しなさいをいわない授業」に詳しく書きましたが、簡単なものはいかにも書きました。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20081230/1230591493

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080514/1210781135

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20071201/1196477914

 ポイントは、現状の教師像は会社でいえば主任か係長レベルのイメージなんです。ところが、『学び合い』における教師像は会社でいえば取締役、社長レベルなんです。まあ、職員室に置き換えれば、校長が校長として認められるために、各教科の指導法を勉強しなければならない、といっているようなことは本質的ではないと私は思っています。これは「校長訓話集」を覚えたり、話術の練習するのも同様です。

 さて、勉強しなさいをいわない授業や上記のブログで紹介した教師像は、かなり難しい能力です。全ての教師にそれをもとめても無理です。でも、校長の中にはその能力をそれほどもたづとも良い学校はできと思います。それは心です。

 『学び合い』で6、7割の子どもたちに認められるというのは、決して青春ドラマのような心酔レベルではありません。あくまでも、何かを語ったとき、あからさまな反抗をせず、聞いたふりをしている子どもが6、7割以上いるということです。

 多くの教師は、教師の力でクラスの子どもの大多数を動かそうとします。まあ、それが出来る人ならば結構ですが、かなり難しいでしょう。でも、そんな能力を持たない人であったとしても、学校に対する思い、子どもに対する思いがあるならば、それを愚直に語り続けるならば、それを受け取れる人は1、2割はいるはずだと思います。その1、2割の人に「みんな」を語り、その意味を語るならば、広がります。それが『学び合い』の考え方です。

 私はかなりキャラの強い語りをするし、言葉で本を書きます。おそらく、私を蛇蝎のように嫌う人はいると思います。でも、それは正常だと私は思います。そして、大多数の人にとっては「どうでもいい」と分類され、講演会の後、1時間では忘れられることを知っています。それも正常だと思っています。でも、百人に語れば、その内の4、5人の心には届くことを信じています。私は、つねに「みんな」の意味を語ります。もし、その4、5人が周りに広げれば、私には出来ないことが出来ます。そうやって、『学び合い』は広がっていったと思います。

 質問4に対する応えは、簡単にはかけません。これに関してはHP(http://www.iamjun.com)の『学び合い』を学ぶコーナーに公開している手引き書の完全版(4~7、11~19)に書いています。

kitami104kitami1042009/03/31 02:25西川先生はすごいな!こうやって一つ一つの質問に、真摯に応えられているんですね。
これが『学び合い』が広がる原動力ですね。
「ブログを書こう」と薦められた気がしましたが、今まで書いてきたページを
そのままご紹介しようと思います。
ちなみに、最新4つのうち3つは『学び合い』関連です。
東京の感想も書いています。
http://plaza.rakuten.co.jp/kokorozashi/

jun24kawajun24kawa2009/03/31 07:20読みました。熱いですね。
アドラーとの関係は、ブログの検索で「アドラー」をお引き下さい。私はアドラーよりも、野田先生の文章が好きです。

池田修池田修2009/04/01 18:49西川先生、早速ありがとうございます。とういうか、いつも早速お返事を頂けるので、嬉しいです。

で、あのブログを書いて
(うーん、これをアップすると先生からすぐにお返事を頂けるだろうが、俺はそのお返事に返事を書く時間がないだろうなあ。でも、アップした方が良いよなあ)
とあれこれ思いながらアップしました。そして、その通りになり、先生はすぐにお返事を下さいましたが、私はちょっと書く時間がありません。すみません。

ですが、その事ぐらいは書けると思いまして書きました。じっくり考えて、そのまま考え続ける方向になってしまうやも知れませんが、もう少しお時間を下さい。

よろしくお願いします。

jun24kawajun24kawa2009/04/01 19:35はい、お待ちしております。

08/11/24(月)

[]考え方を考えて下さい 00:35 考え方を考えて下さい - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 考え方を考えて下さい - 西川純のメモ 考え方を考えて下さい - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』は考え方で、指導法ではありません、と何度も強調します。でも、考え方である点は、『学び合い』の専売特許ではありません。「あまり考えない」という考え方も含めれば、ありとあらゆる教育理論や教育運動には「考え方」があります。このブログをお読みの方は、既に二三の、いや、それ以上の教育理論や運動に関わった方も多いと思います。是非、考え方のレベルで思い出して下さい。

 視点は、学校観と子ども観です。何のために学校教育があるのか、というのが学校観です。それは何だったでしょうか?明示的に明らかにされている場合もありますが、そうでもない場合があります。でも、ちゃんと考えられているならば、そこに参加している方々の間であれば共通するものがあるはずです。それが、あまり考えていない、というものもあります。この場合は、指導要領に定められた内容を正しく学ぶというのが学校教育の存在意義だと考えていると考えて良いでしょう。

 私が考えて欲しいのは、その「学校教育の意義」を子ども達に語って納得させられるか?ということです。特に、教師が手を焼いている子どもに対してです。その子はしょうがない、と切っても仕方がない、とお思いならばしょうがありません。我々の場合は、そうは思っていません。私は暴走族をはじめとした様々な子どもに出会いました。私の知る限り、『学び合い』の学校観以上に説得力のある学校観を知りません。それ以上のものがあれば、直ちにそれを受け入れたいと思います。

 世の中には、そのような学校教育の意義が無くても一生懸命勉強する子どもがいます。現在の学校教育にフィットした子ども達です。でも、その数は教師が思うほど多くはありません。私が高校で教えた子どもほどハッキリと表明しないだけで、腹ではそう思っています。残念ながら、教師とは、その希な子どもが大きくなった大人が多く含まれているため、学校教育の意義がどれほど大事かを意識せず、指導要領に定められた内容を学ぶことに疑いを持ちません。ちなみに、私自身がそういう大人でした。ただ、私は高校教師の時、そうでないことを子ども達に教えてもらいました。その経験がなければ、子ども達の「分かったふり」、「おもしろがっているふり」に騙されてもしょうがありません。だって、迫真の演技ですから。

 第二の視点は子ども観です。子どもとはどんな存在だと思っているか、様々な教育理論や教育運動を思い浮かべて下さい。子ども達は、愚かにもなり、有能にもなります。教師がどのように接するかによって変わります。おそらく、前者の場合は、教師は「親」になろうとしているだと思います。親なれば、保護したいという気持ちは当然です。でも、「なれるのでしょうか?」と問いかけたいと思います。我々は「無理だと」思っています。このことは単純な算術計算で導かれると思います。つまり、一人の子どもに、親として接することが出来る時間はいくらか?ということです。もちろん、特定の子どもの親にはなることは単純な算術計算でも可能ですが、それは、他の圧倒的多数を「捨てる」ことを意味しています。

 我々の場合は、親にはなれません。しかし、全ての子どもの幸せを願っていて、一人も切りたくないのです。どうしたらいいか?その応えは、教師は親ではなく上司となるべきだと考えています。そして、クラスは家庭ではなく職場になるべきだと思います。そう考えれば、子ども達は極めて有能な存在です。

 少なくとも私には、『学び合い』以上の考え方を知りません。あるならば学びたいと思います。そして、納得したとたんに、直ぐに『学び合い』を改良するか、捨てます。ただし、私が納得するには、現在捨てられている多くの子ども達を含めて全ての子どもが救われるか否かの視点で見ます。

 私が本に書いてあること、手引き書に書いていること、ブログで主張していること、これらは全て学校観・子ども観の必然です。私は班を教師が作ることは好きではありません。なぜなら、学校観・子ども観に反するからです。でも、教師が班を作ることも「あり」だと思います。でも、その場合は、その人の学校観・子ども観とは何かが問題です。これは、立ち歩き・私語の是非、まとめの有無、教師の発言時間の長短・・・・も同じです。それらは全部、考え方の影に過ぎません。

 人への説明のために、それらを語ります。少なくとも、今現在の知見の中で、最も『学び合い』の学校観・子ども観にフィットする具体例として語ります。でも、それは例に過ぎません。唯一だなんて思っちゃいません。第一、現在の例は、過去に捨ててきた例の上に積み上げてきたものです。今、挙げている例は、5年後には噴飯もののパロディーになっている可能性は否定できません。そのころ私は、今の例を「子どもを信じていない例」としてあげる可能性は十分にあります。あはははは。でも、その頃においても学校観・子ども観は不動だと思います。だから『学び合い』は考え方だと強調しています。

[]違い 17:13 違い - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 違い - 西川純のメモ 違い - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今までにも何度も、何度も「学びの共同体」と『学び合い』との違いやつながりは何か?を聞かれました。本日もメールで聞かれたので、ちゃんと応えたいと存じます。ただし、以下で書くことは「同じ/違う」ということを伝えるのであり、「善い/悪い」、「優れている/劣っている」を書いているわけではありません。同じ子どもや教師を見たとしても、理論が違えば、違って見えるものです。と、いうことです。

 まず、二つの考えに関連があるかといわれれば、直接はないと思います。「学びの共同体」の主導する方々の目に、田舎大学の四十歳代の大学教師の研究がふれるとは思えないのです。私の方は、勉強不足で恥ずかしながら知りませんでした。アドラー心理学も「学びの共同体」も我々の本を読んだ現場の先生方より、「関連ありますか?」と聞かれてから読んだぐらいです。でも、おそらく「学びの共同体」も『学び合い』も参照する理論には共通する部分があります。例えば、教育を学校教育の中に閉ざしたものではなく、本来の人間の営みであるという理論はともに参照しています(例えば、正統的周辺参加など)。だから、両方とも人間関係のためとか、学力向上のための目的の手段として、子どもたちが関わることを利用しているわけではありません。子どもたちが関わることこそ、教育の本質であるという考え方は一致しています。だから、『学び合い』の学校観は「学びの共同体」とほぼ一致していると「勝手に」解釈しております。

 しかし、子ども観は決定的に違うと思います。つまり、「学びの共同体」は他の一斉指導と同様に、基本的に子どもたちは教師の手助けがなければ出来ないという考え方です。ところが、『学び合い』では目標の設定や評価・環境の整備は教師しかできないが、学習自体は子どもが教師の手助け無しで出来ると考えています。それだけの能力があると考えています。

 その違いがあるため、現象的に様々な違いがあります。「学びの共同体」では、「机をコの字に配置する」、「教卓は教室の後ろに置く」、「教師が子どもたちの会話を紡ぐ」などが行われることが多いようです。いずれも、「教師」がそういう方法を定めた方が善いと考えているからです。ところが、『学び合い』では基本的にはそういうことをしません。なぜなら、一人一人の子どもにとって最善の方法を考えられるのは自分しかないのだから、そんなことを教師が分かるわけないし、ましてや一律に決められないと考えます。

 ちなみに『学び合い』を実践している方々においても、様々な方法を子ども強いる場合はあります。ただし、「それは対処療法であって、自分の力が無いからそうせざるを得ないんだ」と考えるのは『学び合い』です。一方、「そのような方法を考えられるのこそ教師の職能だ」と考えたとしたら、それは『学び合い』ではなく一斉指導であり、まあ、「学びの共同体」だと思います。これは教師が方法を強いる時間が長いか、短いかの違いではありません。方法を強いる時間が短くとも「そのような方法を考えられるのこそ教師の職能だ」と考えてそのようにしているならば、『学び合い』ではありません。だって、そういう風に考え始めれば、いつの間にか一斉指導になるのは時間の問題で、あとは授業方法の一つとして『学び合い』もどきが残るだけです。一方、教師が方法を強いる時間が長くとも、時にはそれは授業の全てであったとしても「それは対処療法であって、自分の力が無いからそうせざるを得ないんだ」と考えているならば『学び合い』です。そう考えていれば、本来の姿に進みますから。

 さて、何故、子ども観に違いがあるのでしょうか?いくつかの違いがあります。

 第一に、子どもの多様性をどれだけと見積もるかです。古典的な一斉指導では、子どもの考え方は「正解」と「誤答」の二つです。残念ながら、そのような枠組みの理解の先生方は少なくありません。しかし、現在主流になっている、学習者が主体的な存在であると考える学習者観では正解にも誤答にも複数あると考えます。しかし、その数はせいぜい2、3種類程度です。なぜなら、多くの教師や研究者は、教師が教えるという前提で物事を見ます。従って、実際にはものすごく多様であることを気づいているのですが、そんなことを認めたら何も出来なくなります。だって、一人の教師が教えられることはせいぜい2、3種類なのですから。そのため、無理矢理にでも数少ないパターンに分類します。

ところが、『学び合い』では教師が教えるという鎖につながれていないので、子どもの多様性を素直に認められます。そして、決定的な違いは、我々の場合は、クラス全員の会話を全部記録し分析するという、気の遠くなるようなことをやっている点です。だから、どう考えても、パターン化するということは出来ないことを知っているのです。「学びの共同体」では、せいぜい抽出児童・生徒の会話を数時間記録分析しているため、この多様性に対する考えが弱いのだと思います。たから、教師が子どもの会話を紡ぐことが出来ると考えているのだと思います。もし、『学び合い』のようにあ一人一人の考え方は多様で、複雑で流動的で、かつ、教師には最後まで理解不能の考えもあるという前提であれば、子ども会話を教師が紡ぐなんて、超能力者でも出来ないことですから。

第二に、教師の立ち位置です。「学びの共同体」では教師は共同体の一員です。子どもたちの中に教師が混じれば、教師の存在は圧倒的になります。だから、共同体のネットワークは教師と子どもとのネットワークが主な車輪型(教師がスポークの位置)になります。そして、スポークの位置にいる教師が紡ぎながら子どもを繋げています。机の配置をコの字にするのも同じ考え方です。おそらく、子ども同士の関係を活性化するためにコの字に配置していると思っているのだと思います。しかし、コの字に配置して、そこに座るならば、ある子が密接に会話できる子どもは固定されてしまいます。でも、それを「変」と思わないのは、子ども同士の関係はそれほど重要と思っていないからだと思います。

ところが、『学び合い』での教師の立ち位置は、集団の外にあります。子どもたちがゴチャゴチャと関わり合っています。教師が関わるのは、集団全体にです。例えば、可視化のようにある子どもの言動を拾う場合であっても、それを特定の子どもに繋げることはしません。その言動を集団全体に伝えます。伝えられた集団の中の個々の子どもが、その子につながるか繋がらないかの判断をします。

私は経営学(教育経営学ではありません)の本をよく読みます。それから言えば、「学びの共同体」における教師の立ち位置は、主任・係長(まあ、せいぜい課長補佐)ぐらいの管理職の立ち位置です。つまり、管理職自体も部下と同じ仕事をしている場合です。しかし、『学び合い』における教師の立ち位置は、本部長・常務・専務・社長などの取締役レベルの管理職の立ち位置です。つまり、部下は営業・経理・開発等の仕事をしていますが、取締役はそのような仕事はしません。集団の目標を定め、評価し、集団を管理するのが仕事です。

「学びの共同体」を実践している方々の中には、『学び合い』を知った後でも二通りに分かれるはずです。

第一は、「うん、なかなか面白いな。でも、今の私の力(本校の実情)では、そこまでは出来ないな。でも、それが実現できたらいいな~」という反応です。その方は、私はかってながら同志だと思います。

第二は、「そんな馬鹿な話はない」と否定される方です。『学び合い』を否定する理由を聞けば分かります。子どもたちより教師が有能であるという前提に立っているはずです。この方の場合は、子ども観が違うのですから『学び合い』とは違います。どちらが正しいと言うことは言えません。平行線は交わらないというユークリッド幾何学も、平行線は交わるという非ユークリッド幾何学もともに正しいのです。ただ、前者で記載されるのは平面であり、後者で記載されるのは曲面だという違いが生じます。

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080908/1220835335

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080729/1217320166

http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080210/1202639586

追伸 第三の反応もあります。それは、感情的な反発です。これには理屈はありません。それが怖いので、あまりこの種のメモのアップはしたくないのです。が、求められる回数が多いので、アップしました。怖いな・・・・

ftogpxtakaftogpxtaka2008/11/24 18:50先日の参観授業の時に来られたある保護者は学校(小学校)を上げて”学びの共同体”に取り組んでいるとおっしゃっていました。僕の価値観からすると、『学び合い』を見られて「これはすばらしい!!」と感じていただけると思っていたのですが(第一の方ですね)、あまり大きな反応はなく、「まあ、よく話し合っていたと思います」とだけ感想を述べられました。あまり時間もなく、それ以上話ができませんでしたが、正直「あの子どもたちの”いきいき”とした活動を見て何とも思わないの?」と思ってしまいましたが、それはあくまで僕の価値観ですし、その方は、自分たちがしているものを正しいと信じて実践されているわけですものね・・・。そこをムリに押しつけようとしても仕方ないですね。

jun24kawajun24kawa2008/11/24 18:53分かりやすい結果で「も」伝えるしかありません。つまり、点数と出席率です。

doorknobsdoorknobs2008/11/24 19:42経営学のお話、これいいです。
ハッとしました!
見えてきました!見えてきました!
明日からまた実践!

ながたくながたく2008/11/24 20:16語弊があったら、すいません。
ぼくは、先生の話を聞いていて、

>子ども観がちがう

を分かりやすくいうと、
「子ども扱いしない」ということではないかと思います。


かつて、母校にいた、和田修二先生という教育哲学の先生が、
「子どもは小さな大人ではない。人格をもった一人の人間である」
と話されていました。大学に入ったばかりのぼくにとって、その言葉はすごく心に残っています。
和田先生は、ぼくのようなペーペーにも、一人の大人として?接してくれました。それがうれしかった。

学び合いは、子どもを子どもと見ない。要は足りない、支援が必要な人とは見ない。一人の人格者と見る。

これって、すごく大切なことではないかと思います。
学習者の権利をとても考えているのでは、と考えました。

jun24kawajun24kawa2008/11/24 22:19doorknobsさんへ
教師は三十人の親にはなれません。
でも、上司にはなれます。
ただし、部下5人程度の主任ではなく、取締役にならねばなりません。
ながたくさんへ
私は民主主義を大事に思っています。
少なくとも、今現在においては最善だと信じています。
なれば、学級が民主的であらねばならないと信じています。
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20080507/1210164992
http://manabiai.g.hatena.ne.jp/jun24kawa/20071125/1195960793

doorknobsdoorknobs2008/11/25 12:46築地久子氏や鈴木惠子氏の実践を学んでいたとき、「プレジデント」を読んでいると聞いたことがあります。
どちらだったかはちょっと記憶にありませんが・・・。
また、つながりました。
お二人の実践にも、『学び合い』につながる何かがあるように思います。

doorknobsdoorknobs2008/11/25 12:47築地久子氏や鈴木惠子氏の実践を学んでいたとき、「プレジデント」を読んでいると聞いたことがあります。
どちらだったかはちょっと記憶にありませんが・・・。
また、つながりました。
お二人の実践にも、『学び合い』につながる何かがあるように思います。

jun24kawajun24kawa2008/11/25 14:36おそらく教育の中では解決できない何かを感じていたのだと思います。

JP301JP3012008/11/25 17:22 我が校では、今「学び合い」を『学び合い』にする戦略を練る時期になりました。
 西川純のメモ [大事なこと]を読みながら日々悩んでいます。このあたりの話を13日に発表できたらいいと思うのですが・・。


今、TP作りの下ごしらえをしているところです。

jun24kawajun24kawa2008/11/25 21:29期待しています!

Kyo_TokyoKyo_Tokyo2008/11/26 22:39こんばんは

『学び合い』の考えを学んでいく中で、リーダーシップ論や、組織論に似ているなと思ったのですが、「上司と部下の関係」と言われて、やはりそうかと思いました

以前に読んだ本ですが、デル・カーネギーの「人を動かす」の文庫本版を買ってきました

これから通勤途中に毎日読んで、子ども(部下)との関わり方について考えていきたいと思います

jun24kawajun24kawa2008/11/27 06:19是非、そうして下さい。

08/08/16(土)

[]期待することの力 07:49 期待することの力 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 期待することの力 - 西川純のメモ 期待することの力 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は「期待しているよ」と言います。その言葉はゼミ生(そして同志)に恐れられています。私は『学び合い』が成り立った後は、教師は「期待する」しかないし、それが最も強力だと思います。その「期待しているよ」が成り立つためには以下の条件が必要です。

●『学び合い』の基本である、目標の設定、評価、環境の整備が成されている。

●それが成り立つことは、「その人・その集団」にとって重大な意味がある。そして、それが成り立たなくても、期待する人の生活の基本に影響を与えない。つまり、「その人・その集団」のためである。

●期待する人が、成り立つことを本気で信じる。

●上記のことが全て成り立っていると信じていることが、「その人・その集団」に伝わっていると信じている。(ちょっと分かりづらいかもしれませんが)

*[大事なこと]質問に応えて4

 一応、フォーラムで出た質問の最終回です。今回の質問に対する応えは、『学び合い』は考えであってテクニックではないということです。詳しくは「手引き書」に書いてあります。

Q:「○○さん教えてくれているんだね、クラスのためにがんばってくれているんだね、うれしいな」は方法を褒めていることになるのではないか?

A:まさに、その通りです。このことを疑問にもてるというのは、『学び合い』が考え方であってテクニックでは無いことを理解されているからだと思います。ご指摘の通り、この状態は良い状態ではありません。『学び合い』の初期段階を乗り越えるための「単なる」テクニックに過ぎません。こんなことを言わなくても、子どもが動くクラスを創るのが教師の仕事です。つまり、教師が上記のようなことを言わなくても、子ども同士が声がけし、さらに子どもの中に内在することによって声がけをしなくてもよい状態を創ります。

Q:結果主義?プロセスの中での成長には注目しないか?

A:プロセスを重視すると、子どもは「ふり」をし始めます。しかし、結果は「ふり」は出来ません。それ故、結果主義であることを子どもに伝えることは有効です。だれしも結果に結びつけるにはやるしかないことを知っていますから。ただし、人間は感情の生物です。この結果主義を求める際、教師の心の中に「愛」がなければなりません。

Q:終わったのに、教えずにふらふら遊んでいる子に対して、ねらいと違うじゃないかと、注意して良いか?

A:当たり前です。問題は「終わったのに」という表現を使う教師の心にあります。教師の与えた課題は「全員が課題を達成する」です。従って、終わっていません。解決策は、本気で全員が課題を達成することを願ってください。その願いが甘いと子どもは直ぐに見透かします。

Q:答えが一つに集約できない問題も「学び合い」で理解し合うことは出来るか?

A:出来ます。多様な意見を求める課題であっても、一定の幅があるはずです。なんでもありというのは、まずあり得ません。それをちゃんと子どもに語ることが出来るか、否かが重要なポイントです。例えば、校長が「みなさんの自由なご意見を求めたい」と言ったのに、一人一人の発言ごとにだめ出しをしたら意見を言わなくなりますよね。あれです。

Q:分かる子が一人など少数になったとき、大多数の子は何をしているのか?(一人の子をみんなで教える??)

A:こんな現象が起こるのは、課題がつまらん課題であり、かつ、一日ごとの課題である場合です。発展的な内容を含むものであれば、いつまでも深められます。また、一単元を任せるぐらいであれば、上記のようなことが起こらないように子どもが動きます。クラスには色々な子どもによって構成されています。どうしたらいいかなんて教師が分かるわけありません。教師が出来ることは「みんな」を求め、期待することしかあり得ません。

 逆に聞きますが、この状態は一斉指導で解決できますか?一斉指導で出来るのは、様々な問題を見えづらくすることぐらいです。問題を解決するには、教師はもちろんですが、クラス集団全員が問題をまざまざと見える状態にするしかないと思います。違いますか?

Q:保護者からの反感はないのか?

A:保護者からの反発が起こる原因は、子どもからの情報に基づくものです。もし、子どもが学校での勉強に意義を見つけ、かつ、成績に関して結果を出せば問題はありません。ただし、人相手のことですので政治をしなければならないのは当然です。

08/08/15(金)

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 ある同志からのメールに触発され、メモります。

 我々は「みんな」を求めます。そして、「みんな」が成り立たなければ、駄目だ!と評価します。しかし、評価は個々人ごとに出します。グループ学習にありがちな一蓮托生ではありません。例えば、「みんな」が成り立たなくても、テストの点数のよい子は「5」を与えます。いや、「みんな」を理解していない子であっても、テストの点数が良ければ「5」を与えます。これって分かりづらいですよね。

 でも、考えてください。教師が成績を2を出そうが、3を出そうが、4を出そうが、5を出そうが、その子の人生には関係ありません(まあ、高校で1を出されると大変ですが)。そんなことより強力なことが教師には出来ます。教師をへとも思わない子どもにとっても、クラス全員から浮くことを恐れます。教師は、クラス全員の前で、クラス全員にとって意味あることか否かを語ることが出来ます。これは凄い権力です。成績の上下などちんけな権力に過ぎません。その影響力を利用し、みんなと折り合いをつけることが個人の高い達成度と、居心地の良さを成り立たせることを伝えるのです。それこそが『学び合い』における学校観です。

 つまり、「私はみんなのためにやったのに、何故、3なの?」とか、「●●ちゃんは、みんなのために何もしていないのに、何故、5など?」と言われるようだったら、そりゃ教師の負けです。このことは学校観が分からないと分かりづらいですね。

ながたくながたく2008/08/15 18:03>生徒指導の必要な子がいるところで、どのようにして学び合いを行うか?

生徒指導が必要な子がいるところだから、学び合いをする。

と思います。

大変だったところで、新採だったので、そんな気がします。
学び合いとは言われないけれど、一年目のぼくの実践の概念は
学び合いでした。うん、学び合いだったと思います。

jun24kawajun24kawa2008/08/15 18:15私もそう思います。
しかし、『学び合い』を知らない先生は「押さえ込む」という戦略をとります。しかし、押さえ込めない場合も多いし、押さえ込めたと思っても、後で爆発してしまいます。そして、何よりも根治をしていないから、どんどん悪化する。
善意の先生は、人間関係を結ぼうとします。高校教師の時の私がそうでした。しかし、教師との人間関係が強ければ、子ども同士の関係が希薄になる。結果として、教師の前では「よい子」でも、教師の見えないときには変わりありません。教師ドラマに感化されていた私にはそれが見えなかった。それが分かったのは『学び合い』を理解し始めてからです。