西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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07/01/09(火)

[]何で評価するか 13:13 何で評価するか - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 何で評価するか - 西川純のメモ 何で評価するか - 西川純のメモ のブックマークコメント


ある同志からの愚痴メールです。

 『学び合いを信じられない教師にとっては、学び合いクラスは「行儀の悪いやりにくいクラス」に見えてしまうでしょう。

 私のクラスも他の教師から言われたことがあります。

 「○○先生クラスは、教師に向かって、堂々と議論をふっかけてくる。」

 「○○先生クラスは、授業中に歩き回る。」

 「○○先生クラスは、先生が教えてくれないと言っていたが本当か?」

 「○○先生クラスは、食べられない給食は食べなくて良いと言われているそうだが本当か?」

 「○○先生クラスは、宿題がない(少ない)そうだが本当か?」等々・・・

 1つ1つ説明できることばかりですが、そんなことに1つ1つ対応している時間と気力がないのも現実です。』

 なんで、つまらんことを気にする教師が少なくないのでしょうか?

 クラス不登校の子はいるか?

 欠席・遅刻せずみんなが来ているか?

 クラス全員の成績は向上しているか?

 以前のクラスだったら「特別支援の必要な子」とされていた子が、何も問題を起こさなくなっているのではないか?

 そのような本質的な評価だったら、同志は120%の評価を受けています。そして、回りの教師もその情報は知っているはずです。それなのに、そんなつまらんことを気にするのでしょうか。なぜ、同志に「どうして、○○先生クラスには不登校がいないのですか?」、「どうして、○○先生クラスは欠席・遅刻が少ないのですか?」、「どうして、○○先生クラスでは全員の成績がいいのですか?」、「どうして、○○ちゃんは○○先生クラスに入ってから、あんなに変わったんですか?」と聞かないのでしょうか?

 つまらんことを気にする先生は、「教師の言うことを黙って静かに聞いて、嫌いなものを涙を流しながらでも食べる」ことを誇るのでしょう。しかし、そのクラスには、不登校の子がいたり、欠席・遅刻の多い子がいたり、成績が悪い子がいたり、自分ではどうしようもない「特別支援の必要な子」がいるのではないでしょうか。きっと、つまらんことを気にする方は、本質的な評価を受けるときは「親が悪い!社会が悪い!制度が悪い!特別支援の必要な子は6.3%もいる!」と合理化するんでしょうね。

[]つくられる特別支援を必要とする子ども 13:14 つくられる特別支援を必要とする子ども - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - つくられる特別支援を必要とする子ども - 西川純のメモ つくられる特別支援を必要とする子ども - 西川純のメモ のブックマークコメント


 先の「なにか違う(その2)」を読まれた、ある同志から以下のメールを頂きました。

 『先生は、なぜそのように特別に支援が必要とされている子どもや親の事をご存じなんでしょうか?書かれているとおり、特別支援学級に入級、もしくは特別支援学校に入学を就学指導委員から進められている子どもを持つ親の大半は子どもが障害と言われている病気?について大変深く勉強されています。親の会などに参加して勉強されている親も多く見受けられます。学校も、特別支援校や特別支援学級に入れることを勧めます。(権限がないので何となくですが。バカな管理職だと越権行為で強く進めます)

 文科省が補助、介助員を3万人加配すると発表しましたね・・・。本当にげっそりします。というか、恐ろしさを感じます。その3万人を生かすための子どもが必要になります。私の学校ではダウン症子どもが入学します。その子は特別支援校への入学を勧められましたが敢えて、地元学校希望して入学することになりました。その子を含めた来入児童○名の内、三分の一が情緒障害の恐れ有りとして市の就学指導委員会で特別支援学級への入級が検討されています。情緒障害児学級は現在も設置されているため問題は無いのですが、知的障害児学級はありません。○○県の規定では○名の在籍児童がいる場合設置に向けた申請が可能となります。ですから、管理職現在、人集めに必死です。学級担任に、該当する児童はいないか精査しろとの指示がありました。恐ろしいと思いませんか!これが現状です。私の学級では、入級している児童2名を抱えていますが、学級で過ごすようにしています。実態で対抗しています。今年度、県の研究会、指導主事、校内研究会、郡内の研究会で数多くさらさせましたが、全く気づかれません。一人は読み書きに支障がありますが子ども達の関わり合いでカバーできています。』

 恐ろしいことです。特に『その3万人を生かすための子どもが必要になります。』は恐ろしいことです。お役所では、制度が成立し予算がついたら、何が何でも消化しなければならなくなります。その お役所の末端である『管理職現在、人集めに必死です。学級担任に、該当する児童はいないか精査しろとの指示がありました。恐ろしいと思いませんか!これが現状です。』は当然の帰結です。6.3%とという数値が一人歩きすると、6.3%の子どもを「特別支援の必要な子」にしなければならない。

06/12/13(水)

[]コスト意識 16:36 コスト意識 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - コスト意識 - 西川純のメモ コスト意識 - 西川純のメモ のブックマークコメント


 日本国立大学の全職員の人件費は約1兆円です。それでは勤務1日あたりのコストはどれだけでしょうか?1年365日で週休2日ですから、年間の勤務日は約250日となります。従って、1日40億円のコストがかかります。

 本日、本学ではセンター入試の説明会がありました。3部構成で半日を費やします。それを年明けにもう一度半日を費やします。それに、教職員・事務職員の殆ど全員が参加し、拘束されます。その説明の殆どは、英語リスニングテストに関しての説明です。さて、そのリスニングテストを昨年担当し、受験生と同様に聞いた人によれば、殆ど中学校レベル大学入試に課す必然性が無いとのことでした。

 リスニングセンター入試にいれようと考えた人は善意の人です。しかし、コスト意識は無いと思います。親方日の丸だからやれることです。民間では絶対に出来ないし、やらない。国立大学法人になっても、コスト意識は無いようです。

 国民だって、このような無駄を許すべきではない。でも、あまり関心はない。何故なら、国立大学に対して国民は厳しい評価をしていない。例えば、教員養成系大学だったら、教員採用率や教員再教育の実績によって予算を劇的に変えるぐらいの評価をすべきだ。何故なら、教員養成系大学目的は、まさに、それだから。教員採用率や教員再教育の実績で、その大学の職員の給与が変わるならば、大学側だって考えるだろう。1日という時間が、自分の給与に影響を与えるとしたら、真面目に「リスニングは必要か」と考え始める。国民だって、リスニングテストを実施するより、250分の1だけでも「良い先生」が増える方が得るものが多いはずだ。すくなくとも私は、私がセンター入試担当する数十人の若人にリスニングテストを課すことによって国民還元しうる貢献の遙かに大きなものを、教員養成・教員再教育貢献できる自負はあります。

06/11/30(木)

[]怒(その3) 17:23 怒(その3) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怒(その3) - 西川純のメモ 怒(その3) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 最近校長に会うと、等しく「大変だ~」と言います。お上からのイジメ対策に追われています。でも、その対策って意味あるでしょうか?例えば、イジメアンケートなんて、殆ど意味ないと思っています。

 例えば、「あなたのクラスイジメはあるでしょうか?」とアンケートします。たしかに、それで発見する場合もあるでしょう。でも、「イジメはありません」と子どもたちが回答したら、安心していいのでしょうか?先のメモと同じで、子どもたちの中にある「イジメ」の定義は何でしょうか?もし、「自殺者が生じる段階」というレベルだったら、大抵のクラスは「問題なし」という結果になってしまいます。

 もし、教師がきめ細かにクラスの実態を知ろうとして一人ひとりに聞き取り調査をしたらどうでしょうか?アンケートよりはかなり的確に把握することは可能です。でも、私は薦めません。だって、イジメる子が誰で、どんなことをしているか、を知ってしまえば、その子を「悪い子」と思うし、嫌いなるのが人情です。イジメ問題は構造的なものであることを知っている私だって、そう思います。そんな気持ちであることは、子どもにすぐに分かります。そんな人の言葉に耳を傾けるでしょうか?クラスの問題を解決できるのは子どもたちです。教師が出来るのは、子どもたちに目標を与え、解決できる場を提供することです。細かなことを知っていいことなんて余りありません。

 さらに、アンケートをした後の処理です。イジメがあることが分かったら、どのような処理をするのでしょうか。全校集会で「イジメはやめよう」と校長が語るべきなのでしょうか?まあ、それぐらい程度のこと以上は考えていないようです。でも、イジメが悪いことは子どもだって分かっています。その子に「イジメはやめよう」と 言うことの効果は、タバコを吸っている人に「タバコ健康に悪いから、やめよう」と言うこと以上の効果はないと思います。タバコを吸っている人は、そんなことは十分分かって吸っているんですから。

 では、どうするか。実は、そのクラスイジメがあろうと、なかろうと、同じ対応をすべきなんです。それは、学校とは何を学び取るところかをはっきりと語り、その自分が語ったことと矛盾のない教科指導をすればいいんです。

 私は力がないから、それを広く伝えられない。自分に「怒」。

[]怒(その4) 17:23 怒(その4) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怒(その4) - 西川純のメモ 怒(その4) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 本日テレビによれば、私が危惧した「加害者の出席停止」は見送られたようです。でも、ビックリしたのは、その案を最初に提案し、主張した人に、自身が不良だった経験を持つ教師がいたということです。朝のテレビで、その方は、影響力の強い子どもの場合、その子がいる状態では指導できない、ということを言っていました。最底辺の学校で教えた経験から言えば、すごく納得できます。同時に、自身が、そのような影響力のある「不良」であるご自身の省みての発言だと思います。でも、私の経験から言えば、どんな不良も子どもです。いや、正確に言えば全員ではないかもしれません。でも、圧倒的大多数は、さびしがり屋で甘えん坊の子どもです。ただ、虚勢の衣をまとっているだけのことです。

 もし、懲戒としての出席停止が有効だったとします。では、どの段階から出席停止になるのでしょうか?イジメ自殺者が出てからでは遅いですよね。でも、「お前なんか嫌いだ~」と一言言ったとたんに、出席停止になったら、クラス全員が出席停止になってしまう。 馬鹿馬鹿しい。{影響力のある子どももいる状態で指導しなければならない」という前提で議論しなければ、上記のような矛盾がすぐに生じてしまう。どうも、このことは雲上人の会議では気づいていないように思います。もちろん、興奮した状態の子ども隔離しなければならないことは、よく分かります。でも、それは一時的なものであり、それは現行制度の枠内でも可能です。現行でも可能なのに、ことさら出席停止が提言されたら、どんどん暴走してしまいそうで恐ろしい。

 私の勤めた高校でも、職員室謹慎というのがありました。職員室の横の部屋で反省文を書かせるんです。空き時間の先生が、お茶を飲みながら、その子を「見張って(笑)」います。私は、「お前のせいで、休めなくなっただろう~。困っちゃうんだよな~」と笑いながら言い、世間話をします。その中で、ちょっとづつ説教をかませます。おそらく、次の時間の先生も、その次の時間の先生も同じような対応をしたと思います。それが数日続くんです。職員集団がまとまっていれば、そんな対応は十分可能です。そんな対応で、大多数の緊急避難的な隔離は可能です。でも、本質的な解決方法は、先のメモに書いたように、その子を含めた全員の前で、学校教育は何のためにあるかをちゃんと語ることだと思います。

追伸 言うまでもなく、上記は教育レベルの話です。犯罪レベルになったら、それは学校教育の管轄ではありません。司法担当すべきものです。その場合の、少年院等への送致は当然あるべきと考えています。 もし、犯罪レベルのことを学校教育が管轄したら、出来ることは「隠す」ことぐらいです。ただし、司法の管轄から、学校の管轄に移行したら、速やかに受け入れられる集団を作って待っているのは学校の責務です。

 以前のメモに書いたように、厳しい罰に教育意味はあるとは思えません。罰が有効なのは、罰を与える側が罰を受ける側と同じように痛みを感じる場合です。そして、罰を受ける側が、罰を与える側に繋がりたいと願う場合です。そして、そのような関係があれば、 厳しい罰は必要はなく、儀礼的な罰で十分です。そうでない場合は、教育的配慮としての罰ではなく、社会的制裁としての罰に過ぎません。どんなに、教育的配慮の衣をまとっても。

 社会的制裁としての罰だったら、学校にやらせるのではなく、少年法等を改訂して司法に任せるべきです。私は社会的制裁の意義はあると思いますし、それは未成年でも同じです。ただ、担当する司(つかさ)が違うと思います。

06/11/29(水)

[]怒(その1) 17:24 怒(その1) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怒(その1) - 西川純のメモ 怒(その1) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 本日は、頭に来るニュースがありました。報道によれば、政府教育再生会議は、いじめを苦にした児童・生徒の自殺が相次ぐ事態を憂慮し、再発防止のための緊急提言の取りまとめに向けて調整に入ったそうです。提言によればいじめをした児童・生徒を出席停止とするあります。怒ると同時に、力が抜ける脱力感を感じます。

 蟻を観察すると真面目に働いている蟻がいる一方、遊んでいる蟻もいます。その割合は一定です。そこで、真面目に働いている蟻を集めると、前と同じ割合で遊ぶ蟻が生じます。逆に、遊んでいる蟻を集めると、前と同じ割合で真面目に働く蟻が生じます。つまり、我々は「真面目な蟻」、「遊ぶ蟻」がいるように考えてしまいますが、そのような個(蟻)特性はなく、あくまでも集団の構造の中で両者が生じます。

 私自身も同じような実験をしました。理科実験での子どもを観察すると真面目に実験している子どもがいる一方、遊んでいる子どももいます。その割合は一定です。そこで、真面目に実験している子どもを集めると、前と同じ割合で遊ぶ子どもが生じます。逆に、遊んでいる子どもを集めると、前と同じ割合で真面目に実験する子どもが生じます。つまり、我々は「真面目な子ども」、「遊ぶ子ども」がいるように考えてしまいますが、そのような個人特性はなく、あくまでも集団の構造の中で両者が生じます。だから、集団の構造を変えずに、集団の構成を変えても意味がありません。

 我々はどうやって解決したか、実に単純なことです。「みんな実験せよ」ということを求めたのです。いや正確に言えば、「みんな実験して欲しい」と教師が望んだのです。それだけでみんな実験するようになりました。その詳細は、「学び合いの仕組みと不思議」(東洋出版社)に書きましたし、その学術データは教科教育学会と臨床教科教育学会に発表しました。

 どうも教育再生会議は、「いじめる子」、「いじめられる子」という個人特性があると仮定しているようです。ところが、実際は、そんなのありません。いじめが生じる構造があるのです。だから、「いじめる子」を出席停止にしても、構造が同じであれば、残った子の中に別のいじめる子が生じるはずです。本当の解決策は、いじめ原因となる教師の中にある心を変えねばなりません。

 私はいじめ原因は、教師が「みんな」という意識の欠如だと思います。もう少し説明すれば、以前のメモに書いたように、協同的ではなく競争的な環境子どもを置くからです。全員の多様性を認めず、成績という一つの基準で序列化し、あたかも、それが人間の価値に関係すると考える心がいじめを生みます。例えば、「かけっこ」で全員で手を繋いでゴールするという配慮などは典型です。何故、全員で手を繋いでゴールする必要があるのでしょうか?早い子がいたって、遅い子がいたって、いいじゃないですか。我々の顔にあるホクロの数は違います。それだから、子どもの顔に墨の点を書いて、「みんな同じ数にしよう」なんていう教師はいないでしょう。でも、ゴールを一緒にするという教師は、心の中に「早い子は偉い、遅い子は駄目」と暗黙にあります。その心があるので、それを打ち消すために、手を繋いでゴールする配慮をします。そんな配慮をしたとしても、子どもは早い子はだれで、遅い子は誰であるかを知っています。教師が偉い/駄目と心にあれば、それは子どもに伝染します。

 みんなは違っていい。そして、一人一人が違ったスタート点と到達点がある。ただ、その方向はみんな一緒。みんなで、いっしょに頑張ろう。そんなことを本気で教師が信じられれば、イジメはなくなります。そして、それを信じ、子どもに語ることが教師の仕事であると我々は信じています。

[]怒(その2) 17:24 怒(その2) - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 怒(その2) - 西川純のメモ 怒(その2) - 西川純のメモ のブックマークコメント


 ある同志から、ある新聞記事を教えてもらいました。某大学研究チームが三千人以上の子どもを対象にアンケート調査と試験を行い、学校の授業方法、学級規模、家庭環境等と学力関係を調査しました。その結果、「早食いは、肥満になりやすい」という馬鹿馬鹿しいほど当たり前の結果を明らかにしました。そのような結果の中で目を引く結果がありました。それは、中学校の調査結果によれば、教師と生徒間で「質疑応答のある授業」、「プリントドリルを使った授業」を受けている生徒の学力は高く、「話し合う授業」は学力にはマイナスである、との結果です。これまた、怒ると同時に力が抜けます。私は、この種のアンケート調査で、最も多くの学術論文を書いた一人だと思います。それ故、この種の調査の限界がよく分かります。でも、わからん素人が読むと誤解するな~、と思います。

 調査には「精密」と「正確」という二つの指標があります。精密とは、測定値分布の分散が小さいことをいいます。平たい言葉で言えば、何度やっても似たような結果を得られるということです。もう一方の、正確とは、測定値の平均値が真の値に近いことをいいます。平たい言葉で言えば、正しい結果ということです。授業に対する興味関心を測定する例で説明してみましょう。

 授業に対する興味関心は極めて総合的なものです。それらをズバッと測定する方法なんてありません。そこで、教師が一人一人の子どもを観察し、1~10の値で評価します。でも、この種の評価にはばらつきが生じます。つまり、前に見た子どもが、もの凄く興味関心が高いと、次の子の評価は厳しくなるかもしれません。また、評価者の体調によっても違います。結果として、同じ子どもを写したビデオ画像を評価しても、その値は、ある程度バラバラになります。しかし、多くのデータの平均を取れば、我々の直感としている興味関心に近いものが出ます。なんとなれば、我々の直感を使って評価しているのですから。この場合は、正確だが精密でない測定です。

 しかし、別な方法で評価したとしましょう。授業中に頭をかいた回数で興味関心を測定したとしましょう。この場合は、同じ子どもを別な人が評価しても、結果は同じになります。従って、精密です。ところが頭の書いた回数で興味関心を測定できないのは当然です。従って、正確ではないわけです。

 数千人のアンケート調査は、精密さを高めることは出来ますが、正確さは低下します。例えば、「話し合う授業」って、どんな授業なんでしょうか?我々のような授業もあり得るでしょう。一方、「は~い」と挙手をして、教師が一人一人を当てて発言させるような授業もあるでしょう。以前のメモで紹介したように、教師自身は学び合わせていると思っているが、実は、教師が学び合いを阻害している授業もあります。実は、「話し合わせる」という状況がいかなるものなのかが不明確なんです。本当に正確に分からせるためには、長々と説明しなければなりません。アンケート調査の場合は、長い説明によって状況を正確に伝えなければなりません。ところが、そうなるとアンケート調査の調査用紙が長くなります。調査用紙が長くなると、よほどの責務がある人以外は、いい加減に回答します。そのため、アンケート調査では極めて短い単語で表現することになります。その結果、その回答の意味するものが曖昧になり、不正確になります。平均値の分布の分散は測定数の平方根に比例して精密になります(統計学上、そうなっているんです)。 従って、三千人のアンケートはかなり精密な結果を出すことは出来ます。でも、正確さは別なんです。

 実際のクラスでの姿を参照していないアンケート調査というのは、意味無いんです。でも、一つ意味があります。重回帰分析とか、バリマックス回転とか、林の数量化理論の第三類とか、で飾り立てると、学術論文っぽくなります。そして、事実、その種の研究は学術論文に掲載されやすいんです。学者社会で生き抜くには、論文の数は必要です。つまり、実際のクラスでの姿を参照していないアンケート調査というのは、学者学者社会で生き抜くためには必要なんです。そのことの意味を十分分かっており、それの利点を最大限生かしたものの一人が私なんですから・・・ 。だから馬鹿馬鹿しさも人一倍分かります。

 現場先生へ。学者アンケートに騙されちゃいけませんよ。

06/06/22(木)

[]学び合いへの遠い道のり 09:43 学び合いへの遠い道のり - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学び合いへの遠い道のり - 西川純のメモ 学び合いへの遠い道のり - 西川純のメモ のブックマークコメント


 最近、ある方から「学び合いへの遠い道のり」という以下のメールを頂いた来ました。「いかにも」と思える内容です。なお、個人特定が出来ないように、一部、加筆・修正しています。でも、同志の何人かは、だれだか想像出来ると思います。

 『メールタイトルですが、今日研修会がありました。その研修テーマは、「高め合う子どもを育てる」です。授業ではあまり活発な話し合いがなかったため、「発問に問題があったのではないか」「話し合いができるような学習問題ではなかった」というような意見が大勢を占めました。どうも、つながっていくオフィシャル発言や意見の応酬がなかったことに、先生方は問題を感じているようでした。私は、この傾向に違和感を感じましたので、「高め合うといっても、どんどん発言がつながっていくばかりではないでしょう。つぶやきや、隣、前後同士での私語が発生していたし、極端な話、人の話を聞いて自分の頭の中で考えを変えたり巡らせたりすることだってあり得る。そういう変容も高め合いの一つの姿ではないですか。」という趣旨で発言をしました。その後、賛同してくださる先生も居たのですが、研修会の最後に指導者立場先生から真っ向から否定されてしまいました。やはり、どんどん言わなくてはダメだというのです。意見の応酬があれば、それはそれですごいのですが、その姿だけを「高め合い」とするのは私にはどうしても理解できなかったのです。教頭の考えからすれば、そうすることができなかった子供は学びがなかったということなってしまうからです。その話は「ご指導」ですので、今研修会の「結論」として位置づけられます。こういう中で、ぼくは秋に生活科で全体授業を行います。子どもたち各々が自分の持ち味を生かした学びを目指していますが、どのようなすがたをみせれば、今回、研修会の中で言ったようなことを理解してもらえるのか、模索しているところです。

 今、自分のクラス(1年)の生活科では、ぼくはほとんど指示をしません。種蒔き、苗植え、観察であってもです。それらについての知識、技術情報などを持っている子どもが必ず居るからです(事前に調査を入れてありますので)。そのこたちに「みんなに教えてやりな」とも言いません。いいたい子は言うし、言えない子は行動でやって見せてくれるからです。種蒔きなどは、懇切丁寧に「次はこれ、次はこれ」などと、指示、確認しなければ気が済まない先生も居ますが、別にそのようなことをしなくても、子どもたちはちゃんとやれます。きかん坊の子が「おれ、どうやってやるのか、わからん。」といっていても、友だちのやる様子を見て、真似してやりました。それどころか、「おれ、教えてやる。まかせて」と、他の子供に(偉そうに)教えに行く姿も見られました。結果として、発芽しなかった子、枯れた子など、失敗した子はゼロでした。双葉などと教えなくても、子どもたちがちゃんと「ちょうちょの葉」「はーとの葉」と名付けてくれました。それで話がクラス全体に通用するのですから、問題は全くありません。そういう子どもたちを見て、日々ゾクゾクしています。

 こういう姿を見て、どう思われるかも心配ではあります。もっとちゃんと指示しなくてはダメだ、教えるべき事を教師が押さえて・・・とか言われてしまうのでしょうか。

 昨日は、研修会で心配にもなってしまったのですが、クラスの子には元気づけられました。清掃の分担は日ごとに私がしていたのですが、一昨日、少し遅れていったところ、(正直、やってないだろうな、遊んでるかもな、と思っていきました)自分たちで係分担を決めて、分担場所に散ってそうじをしていました。これにもゾクゾクしました。

 入学して2ヶ月の子供がこれだけやるんだからすごいな、と思います。決して1年生を何もわからない赤ん坊扱いしてはいけないのですよね。

長々と書いてしまいましたが、目下の課題はこういう子どもたちの凄さを、どのように伝えたらよいかです。下手をすると、「○○さんは何もしてないじゃないか」と言われそうですし。

 そういう時の「学び合い」ですので、KuさんやMさん達にお知恵を借りに行きます。

 失礼しました。』

 最近、「学び合う」とか「高め合う」という研究主題の学校が少なくありません。でも、その意味は「教師が学び合わせる」、「教師が高め合わせる」という意味を、暗黙に与えています。おそらく、そう考える人にとっては、空気のように当然なんでしょう。でも、我々の場合は、「子ども達が学び合う」、「子ども達が高め合う」ことを目指しています。この考え方を理解して貰うためには、子ども達にはその能力があることを理解して貰わなければなりません。同志、各位の奮闘を期待しています。

追伸 「座りなさいを言わない授業」のOさんの研究から示されるように、「何を目指して俺たちは活動しているのか?」というような目標に関することだったら、クラス全体で話し合いが生じるのは自然です。しかし、「何をしたらいいのか」のような方法のレベルの会話はクラス全体で起こるのは不自然です。もし、それがクラス全体で話し合われており、上記の指導者先生が望むような意見とぶつかり合いが生じていたとしたら、それは陳腐な劇を演じているにすぎません。