西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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18/06/26(火)

[]だれにとって 12:36 だれにとって - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - だれにとって - 西川純のメモ だれにとって - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』を否定される方への反証は実はもの凄く簡単です。否定される方は工業化社会の論理で考えているからです。

 否定される方が、『学び合い』のここがダメ、あそこに危険性があると指摘したら、言わせるだけ言わせます。そして「では、どうするんですか?」と聞きます。そうすると、その人の考える方法を語ります。大抵は、自分の過去の経験に基づくものです。つまり、将来教師になるであろう人にフィットする方法を述べます。

 私は「誰にとってその方法がいいのですか?」と聞きます。

 ほぼ100%、「子どもにとって」と応えます。

 私は「子どもという子どもは一人もいません。将来、東京大学に入るような子どももいれば、知的な障害が疑われる子もいます。その教科が好きな子どももいれば、嫌いな子どももいます。図で説明したとき分かる子もいます。言葉で説明したとき分かる子もいます。さて、どの子にとっていいのですか?」と言うと返答できません。

 次に私は「だいたいの授業は成績中、中の下に合わせますよね。そうすると、成績上位の子どもにとっては既に分かっていることの繰り返しになってしまいます。成績下位の子どもにとってはチンプンカンプンです。それはテストをやれば分かりますよね。では、その子達にあった説明が必要なのではないでしょうか?」と言います。

 一拍あけて「三十人の子どもを一人の教師が教えることは、物理的に無理です。だったら、三十人の子どもが三十人の子どもを支える集団にすることにシフトしませんか?」と言います。これでチェックメイトです。

 さて、このような論理展開になるのは時代の流れです。明治時代はこのような説得は出来ませんでした。

 第一に、今の時代は満たされた時代なのです。工業化社会の初期には、皆、飢えていた。飢えているならば、質の悪いパンであったとしても与えられれば喜んでいました。ところが、工業化社会が発達し、飢えから脱すれば、質を求める。昔だったら、学校に行けることで満足していたのが、よりよい教育を求めるようになります。

 第二に、民主主義の発達によって、皆、自分の権利を主張するようになります。

 以上の二つから、脱工業化社会の論理が広がっていくのです。

 昔だったら、上記の私の論を展開しても、「全員を分からせるのは無理です。できる限りのことをするしかありません」ということを臆面もなく言えました。ところが、今の世の中、それは言えません。更に言えば、ネット上に良質な授業動画が溢れることによって、保護者は現状の学校教育を捨てることが可能になったのです。

 文部科学省や経済産業省の会議の資料を読むとき、私は「だれにとって」という言葉を何度も頭に浮かべます。「そういうことが出来る、そういうことが理解出来る、そういうことが必要な子どもがいること確かだけど、そうじゃない子もいるよね。その子はどうするの?」と思ってしまうのです。