西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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17/08/16(水)

[]信者と支持者 18:04 信者と支持者 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 信者と支持者 - 西川純のメモ 信者と支持者 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 『学び合い』は宗教と言われ、『学び合い』実践者は信者と言われます。

 あえて言います。『学び合い』は宗教で、私は信者だと。ただし、慌てて補足します。私の考える宗教の最も成功したものは数学だと思っています。私の考える宗教の定義は「あることに関して疑わず信じ、それをもとにして行動すること」です。

 例えばペアノは自然数を

1)自然数 0 が存在する。

2)任意の自然数 a にはその後者 (successor)、suc(a) が存在する(suc(a) は a + 1 の "意味")。

3)0 はいかなる自然数の後者でもない(0 より前の自然数は存在しない)。

4)異なる自然数は異なる後者を持つ:a ≠ b のとき suc(a) ≠ suc(b) となる。

5)0 がある性質を満たし、a がある性質を満たせばその後者 suc(a) もその性質を満たすとき、すべての自然数はその性質を満たす。

 で定義しています。

 このシンプルさがとても素敵だと私は思います。一方、一般に言われる宗教はもっと複雑なレベルを疑わずにしています。そこが違います。

 このように宗教を一般化するならば、どの人も何らかの宗教の信者なのです。それは現状の授業をしている人もです。ただ、それを宗教と思いません。だって、当たり前すぎるほど当たり前に信じているからです。つまり強固すぎて宗教として認識できないのです。おそらく、自分は◎◎宗を信じていると意識できるのは、それと一致しない宗教の存在が理解出来たからでしょう。

 私は『学び合い』を信じています。具体的には

 私は「公教育において一人も見捨てない(正確には、一人も見捨てないことを諦めない)ことは絶対である」と信じています。

私は「多様な人と折り合いを付けて自らの課題を解決することを学ぶことが圧倒的に重要である」と信じています。

 私は「どんな優れた一人の教師よりも、有機的にネットワークを形成した子ども集団の方が有能である」と信じています。

 これを信じているのは、生物学、経営学、認知心理学の知見と、二十年間積み上げた実証的なデータに基づいて信じています。

 少なくとも、私の信じているものが何であることを意識しています。それ故、何らかの限界があるならば、自らの信仰を問い直せます。そして、改善することが出来ます。さらに、私の信じているものが、少数で単純であるため、汎用に飛んでいます。

 これらを信じることを宗教というならば『学び合い』は宗教です。そして、私は信者です。

 人はだれも何らかの信者なのです。ただし、己が何の信者であるかを意識出来るか否か、信じているものの数とレベルは人それぞれです。

追伸 「こんなこと書くと、また誤解されてしまうのに・・」という声が聞こえるのですが、私はこんなことを言う立場だと思っています。常識的な仲間がフォローしてくれるでしょう。あはははは

私はごく初期から『学び合い』を数学のような宗教にしたいと思っていました。何故なら、数学は最も変質の少ない宗教だと私は思っているからです。何故なら、誤り多い人の営みなのですから。

[]人を見る 09:27 人を見る - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 人を見る - 西川純のメモ 人を見る - 西川純のメモ のブックマークコメント

 とても大事なことで、当たり前のこと、でも忘れられていること。

 学習が成立するには本人がやる気になるかどうかです。やる気に成りさえすれば、どんな授業でも学習は成立します。一方、やる気が無ければ、どんな授業も学習は成立しません。それは大村はま先生の授業ですらそうです。

 当たり前ですよね。次です。

 子ども達がやる気を持っていないとき、そのやる気を引き起こさせるのは誰の仕事ですか?教師ですよね。

 当たり前ですよね。次です。

 教師が子ども達にやる気を引き起こさせる様々なことをしたとします。それに従うか否かを決めているのは、何だと思いますか?教材ですか?発問ですか?世にある教育書の99%以上はそう考えています。でも、あなたの不得意な教科を思い出してください。あなたはそうでしたか?おそらく違うと思います。教師の「人」を見て決めていたと思います。

 校長とあなたとの関係に置き換えると分かりやすいですよ。校長の語ることによって、その校長に従うか否かを決めますか?違うと思います。校長の言動を通して「人」を判断し、本気で従うか、そこそこに従うかを決めると思います。子どもにとってのあなたは校長なのです。

 つまり、子どもがやる気を持たせようとする教師に従うか否かを決めるのは、さまざまな「言動」を通して見える「人」なのです。

 当たり前ですよね。次です。

 では、どのようにして、子どもが従うべき「人」と判断される「言動」を出来るようになるのでしょうか?

 滝に打たれ、座禅をすべきですか?

 そうかもしれませんが、一般の教師が出来ることではないですね。

 このあたりが分からないから、圧倒的な教育書ではそこを扱っていないのです。

 『学び合い』では、一つの願いと学校観、子ども観がそのポイントだとしています。

 それを子どもの前に「言う」ことです。自分が子どもの前で言うことによって、自ずと言動が縛られるのです。たった3つ、それも相互にリンクしているので、方針がぶれません。数多くの方針を立てると、自己矛盾が生じ、その軽重を決めるのを教師がしていたら恣意的と判断されます。

 この「人」が大事とか、学校観、子ども観を言うと、それを理解していない人には胡散臭く感じてしまうでしょう。つまり、「教育は人だ」と言って、上手くいかないと「人が駄目なんだ」と合理化しているように見えるのでしょう。

 でも、『学び合い』の場合は、「教育は人」という意味を、明確に言語化し、それを実体化するためのテクニックが整理されています。これでとりあえず初めて、子どもの姿を通して「教育は人」という意味が分かってくるのです。

 ま、分からない人には禅問答ですね。

追伸 この禅問答を分からせられるのは口伝しかありません。だから、『学び合い』の会が必要です。