西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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17/04/30(日)

[]福岡の会 18:35 福岡の会 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 福岡の会 - 西川純のメモ 福岡の会 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 5月20日に福岡市で『学び合い』の会が開かれます。お誘いします。http://kokucheese.com/event/index/466740/

[]北海道 18:33 北海道 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 北海道 - 西川純のメモ 北海道 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 7月16日に北海道札幌に参ります。「これからは自分が本当にやりたい会だけを開く!」と宣言した堀さんからのお誘いです。身が引き締まります。

 私は、私に投資していただいた方には、投資以上のものをキッチリ返します。いい仕事しますよ!

 申し込みはお早めに。

 http://kokucheese.com/event/index/466752/

[]悪い癖 17:52 悪い癖 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 悪い癖 - 西川純のメモ 悪い癖 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 どうも大学院の授業がマンネリ化しているように感じます。というか、1時間半の講義の流れが予想できて、予想通りになります。つまらない。そこで、前回の時間に「君たちが知りたい教育上の問題、何でもいいから、君らでまとめて。森羅万象天地間、何でもいい。そして、私に教えないで。授業の最初に、それを教えて。私は、その質問内容に対応した講義で、君たちの中にある呪縛を明らかにして、その呪縛をといてみせよう」と見得を切りました。

 嫌らしいですが、飛車格落ちで、学生さんを雪隠詰めにするつもりです。

 こうでもしないと、面白くない。

 これによって、ありとあらゆるものが、シンプルな理論によって解釈できることを実証しようと思います。

[]職能 16:10 職能 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 職能 - 西川純のメモ 職能 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の考える教師の職能、力量は以下の通りです。

 「新任1年目を生き抜く教師のサバイバル術教えます」(学陽書房)に書いてあります。

『圧倒的大多数の善意の教師と私の思っている教師の職能は全然違います。たいていの場合は網羅的な知識・技能が必要だと思います。授業記録や指導案の書き方は基礎的だと思っています。そう思っている先生方が善意である故に辛いのですが、私はそうは思っていません。『学び合い』に至った考えと同じです。たしかに、それの有効性を全面的に否定するわけではありません。しかし、それが有効である場面は、それほど多くはないのです。教師が勤める学校は千差万別、教える教材は千差万別、教える子どもは千差万別です。だら、個々の知識、個々の対応を覚えるとするならば、そりゃきりがない。

 じゃ、何が必要かと言えば、

 私の考える教師に職能は以下の三つです。網羅的、箇条書き的な普通の教師の職能とはかなり違い、静的ではなく、動的に職能をとらえています。

 1)子どもや親のせいにしない。確かに、それが原因なのかもしれないが、それを言ってはおしまい。

 2)尊敬すべき、先輩、後輩を捜し、その人といっぱい雑談をする。見いだす方法は、子ども「たち」、地域、保護者に聞けばいい。そして、地域、保護者とのつながり方も先輩・後輩から学べばいい。

 3)まねられるところはまねる。まねられないところは、まねる必要はない。今の自分のままで、出来る授業はある。

 補足します。

 第一の職能がないと、教師の進歩は止まります。教師が求められる能力は多種多様です。例えば偏差値70以上の子どもたちを相手にするのと、暴走族だらけの子どもを相手にするのとでは、求められる対人能力も教材の力も全く違います。小学生を相手にするのと中学生を相手にするのでも違います。また、同じ学校、同じレベルの子どもを教えるのだって、自分が二十代前半であるときと、四十代後半では全く違います。学問的にそれを抽象化することは出来ますが、理論物理学者が車を作れないのと同じ理由で、現実の教室では無力です。結局、教師にとっての最高の教師は「子どもたち」だと思います。子どもたちに教えられながら、常に学び続けなければならないわけです。

 若い先生の場合、過去の自分の経験や、他人の経験を知りません。そのため自分を相対化できません。さらに、年を経ると、失敗しても、その失敗を目立たなくするノウハウは確実に増えます。その結果、職員室の中で、あたかも自分だけが駄目のように感じてしまいます。いえいえ、中堅・ベテランでも追い詰められると、自分だけが駄目みたいに感じます。

 でもね。今まででは通用しないのは、ごくごく当然です。子どもも変わり、自分も変わっているのですから、調整しなければならないのは当たり前です。これは、『学び合い』だって、一斉指導だって同じです。それが嫌になると、子どもや保護者のせいにしたくなる。人情です。でも、このブログを読んでいる方々だったら、そうした先生がどのような先生であるかは「よ~~~~く」ご存じなはずです。もがくしかありません。もがくのが当たり前です。偉そうなこと言っている私も「当然」、一杯失敗し、落ち込みます。でも、もがくから成長もあります。少なくとも、もがかなければ、現状維持はあり得ません。

 でもね。人の能力なんて、たががしれている。もがいても解決できないことが殆どです。そんななかでもがき続けるなんて、神仏でなければ出来るわけありません。当然です。では、子どもや保護者のせいにして合理化する教師になるか、成長しつつけることの出来る教師になれるか、その分かれ目は何かといえば、それが2番目の職能です。これって大事です。自分が分からないこと、困っていることを、解決する方法をこともなげに教えてくれる人っているんですよ。「あ、それね。あははは。知らない人は、なやむよね。それってね・・・・」と教えてくれる人っているもんですよ。答えを知っていなくても、一緒に考えてくれる人はいます。そして、何よりも愚痴を聞いてくれる人はいます。

 教えてもらえる、一緒に考えてくれる、そして愚痴を聞いてもらえる。そこで得られる最大のものは何か?そりゃ、もう一度、自分で考える勇気をもらえることなんです。教えてもらえることでさえ、結局、自分の場面にそのまま使えるものではありません。やっぱり、子どもたちという教師の教師の前で実践して、自分でもがくしかありません。これは『学び合い』も同じです。

 私も落ち込んだとき、いつまでも愚痴を聞いてくれた先輩教師が、十数人の職場でしたが片手以上いました。職員室の横のお茶飲み場では足りない時は、その愚痴を聞いてくれるために酒場や自宅で「奢って」もらえる機会が、週1回以上はありました。今から考えると、驚異的に恵まれていたと思います。でも、今の職場は年齢バランスの崩壊や、様々な要因で私のいた頃とはだいぶ様変わりしていると思います。その場合は、あらゆるチャンネルで繋がることが大事です。(でも、本当は『学び合い』が広がれば、職場が第一の場になると思いますが)さて、自分が悩み、人と相談し、再度自分で考えるとき重要なのが第三の職能です。溺れている人は浮いているものに必死にしがみつきます。でも、本当に重要なのは自分で泳ぐことです。あくまでも主体は自分であることを忘れてはいけないと思います。』

[]理論と実践 14:17 理論と実践 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 理論と実践 - 西川純のメモ 理論と実践 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 子どもは「人」を見て、その教師に従うか否かを決めます。その教師がどんな指導法、指導テクニックを使うかで判断しません。その教師がどんな考えであるかで判断します。その考えを、その教師の指導法、指導テクニックを通して類推します。実は、教師が黙っているとき、ボーッとしている時の全てを数人の子どもは観察し、分析しているのです。数週間もあれば、その教師の考え方が分かってしまいます。

 以上のことが「?」と思った方は、「教師」を校長に、「数人の子ども」をあなたに置き換えて下さい。そうすれば上記が自明であることは明らかです。

 世の中には、読んでいるだけで心が温かくなるような現場教師の本があります。「いい先生なんだな~」と思えます。しかし、その方の本を含めて、不満があります。多くの場合、具体的なテクニックは書かれているのですが、その方が何を考えてそのテクニックを使うかという説明があまりないのです。まあ、ぼや~っとは書いてありますが、明文化されていない。明文化されていないものはぶれます。理論にはならないのです。

 理論は分かる本もありますが、その理論が分かったら子どもはどんな反応をするのか不安になるような本もあります。

 例えば、「あほな職員を上手い具合にコントロールできる校長術教えます」という本を読んでいる校長がいたら、あなたはどう思いますか?まあ、そんな考えであれば、校長の腹を読むのに長けた職員が見抜くでしょう。そして、コントロールされたふりをするでしょう。そして、周りの職員にもそれを教えるでしょう。それは子どもも同じです。

 では、子どもに対して見破られていい「腹」とはどんなものでしょう?

 陳腐ですが、愛だと思います。

 そして、その愛が、自分たちの考えられない広さと深さに基づいているとき、尊敬となります。

[]指導案 13:57 指導案 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 指導案 - 西川純のメモ 指導案 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 教員養成大学では指導案の書き方の「指導」があります。また、学校現場でも指導案検討会というものがあります。

 私は今までに一度も指導案を書いたことがありません。大学は理学部で、そのようなことを指導してもらっていません。教育実習は筑波大学附属高校でしたが、指導案を書けとは言われませんでした。まあ、簡単な板書計画は見てもらっていました。勤めた学校は怒濤の学校で、悠長に指導案など書く暇がありませんでした。

 ということで、指導案の指導を私は出来ません。

 負け惜しみみたいですが、指導案って意味あるのでしょうか?

 指導案が良いと良い授業が出来るのでしょうか?それだったら、大村はま、斎藤喜博の指導案で授業すればいいだけのことです。小学校だったら、同僚の赤坂真二、水落芳明、阿部隆幸の指導案で授業すればいいだけのことです。自分で書く必要はありません。

 しかし断言できますが、大村はまの指導案で授業して、見事に悲惨な授業にすることは可能です。おそらく、そうなる可能性の方が高い。結局、授業を決めるのは「人」であって指導案ではない。

 が、指導案が大事と思い込んでいる学校現場で生き残るためには、指導案の書き方を覚えている方がいいに決まっています。が、ここで問題があります。指導案は都道府県によってお約束が違います。同じ県でも地域によって違います。ところが、他県の指導案の書き方を知る教師は殆どいません。事務所管内で一生涯を過ごす教師の場合、同じ県の他地域のお約束をしりません。だから、自分が知っていること、これが「正しい」と思い込んでいて、それを若い人に教える。

 予想される子どもの反応という欄があります。

 そんな子どもの反応を予想できますか?学術的にも難しいのに。それに、子どもという子どもはいません。どの子の反応なのですか?まさか、全員が同じ反応をすると思っているのですか?

 私は大学の講義1時間半を3行程度のメモで出来ます。そこには学生の反応なんて書いてありません。そこには学生がどんな反応をしたとしても、この時間で分かって欲しいことを書いています。例えば、数日前にイジメの講義をしましたが、その時は「生物は自分にとってメリットの無い攻撃はしない。では、イジメをする人のメリットは何?そのように思わせられる人は誰?」の3つのセンテンスで終わりです。(『学び合い』ではなく、一斉指導ですよ)

 細かいゴチャゴチャしたものを書いても無駄です。授業は生き物です。なにしろ人という生き物が何人も相手のことなのですから。ゴチャゴチャしたものを書けば、そこに合わせようとして流れの中で融通無碍に出来なくなる。しかし一方、絶対に押さえなければならないことは、学生がどんな反応をしたとしても押さえます。だから決めます。

 小中高の授業も同じだと思います。どのように教えるかを考えるより、何を学ぶべきなのかに頭を使うべきなのに。大抵は、学習指導要領に書いています。が、多くの人は学習指導要領を読まず、教師用指導書を読んで「教科書」を教えようとする。だから、指導案がありがたがれる。

 

追伸 ちなみに私は職場では「おりあい」をつけているので、他の先生が指導案の指導することに反対しません。

[]しょせん 12:56 しょせん - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - しょせん - 西川純のメモ しょせん - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私の講演を聴いた方だったら、かなりのレベルだと分かると思います。暴走族相手に物理を教えなければならなかったのですから。教材研究だって、それで学術論文を書いたこともあります。

 が、それが授業で役立つということは、殆どありません。

 だって、教材研究にはもの凄く時間がかかる。半年かけて1回分ではないでしょうか?

 話し方、子どものあしらい方は、修羅場をくぐらないと分かりません。その事を書いた本を読んだり、研究会に参加するぐらいで学べるわけはありません。そこそこよい子が多くを占めている子どもを何十年教えても、修羅場のようなクラスを立て直した1年の経験に勝てるとは思いません(修羅場のようなクラスで立て直せなかった経験も、無価値です。認知心理学の知見によれば、我々は成功からは学ぶことは出来ますが、失敗から学ぶことは希ですから)。そして現状の日本のクラスの殆どは、そこそこよい子が多くを占めているクラスです。

 が、それも使えるのは、ごくごく短期間です。まあ、3ヶ月がいいところ。多くは数週間。それ以上は、大人の腹を読む子どもに見切られてしまいます。逆に、読まれていい腹なら、数週間で教師に従ってくれる。

 大事なのは、自分は何のために教師をやっているのか、子ども達をどんな存在であると思っているかなのです。(『学び合い』の場合は学校観と子ども観を持っているか否かです)

追伸 テクニック満載の授業をやれば、年間を通してついてくれるかもしれません。しかし、それは芸人にすぎません。威圧してコントロール出来るかもしれません。しかし、賢い子どもが3人いたら、制圧されます。

[]反省 10:06 反省 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 反省 - 西川純のメモ 反省 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今、思い出しました。

 私は男の大厄の年に不整脈になりました。あまりに出張し続けたからです。あの頃は、身を削って出張し続けました。年間、80日は講演で出張したでしょう。10日間連続で、1日3つで講演したこともあります。クレージーです。

 妻にしわ寄せをかけたと反省します。そして、我が身に悪いことをしたと思います。

 今の私は、誰でも出来ることしかしていません。

 ま、毎日、毎日、十年以上やり続ける人は少ないかもしれませんが。

[]限界 09:43 限界 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 限界 - 西川純のメモ 限界 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は教師の力量を否定したことはありません。ある方がいいに決まっている。しかし、全ての人がそれを高められるとは思っていないだけです。例えば、家庭の事情でアップアップの人はいます。

 昔だったら「家のことは奥さんに任せて」で力量を高めた人がいるでしょう。でも、今の時代、それを許す女性は多くはない。日本各地の研究会に参加したり、講演したりする人もいますが、それが許される家庭は多くはない。

 校内事情もあります。部活に過重な負担を強いる地域もあります。それを手を抜くと、保護者からにらまれてしまう地域もあります。ある方から聞きました。「優勝しなければ、どうなるか分かっているか?」と「その筋」の保護者会長から脅された人もいます。

 私は子どもも一人も見捨てたくないですが、教師も見捨てたくないのです。

 私は教材研究を否定したことはありません。ただ順序があるだろうとは申します。

 その業界の教師からたたえられる教材研究があります。さて、その教材研究を他教科の教師が理解出来るでしょうか?多くは、そうではありません。全科の小学校教師ですら、「なんだか分からないけど凄いんだろうね」程度で畏怖される程度ではないでしょうか?教師ですら理解出来ない教材研究が、子どもにとって意味があるとは、私には思えません。

 考えて下さい、ラーメン屋の店主の中で「美味しい」と言われるけど、一般には「美味しい」とは分からないラーメン屋で食べたいですか?まあ、一度は食べようとは思いますが、毎回は食べに行きません。自分の口に合った店を選びます。

 私の本やブログをチェックして下さい。私は教師の力量形成や教材研究を否定したことはありません。私はその限界と順序があることを述べているのです。そして、普通の人が普通に出来ることをちゃんとしましょうと申しているのです。

 でも、私は教師の力量形成や教材研究を否定していると捉える方もおられます。

 その方々と私との大きな違いは二つです。

 私は「より多くの子ども達」のための教育を目指しているのではなく、「全ての子ども達」のための教育を目指しているのです。

 その違いから、二番目の違いが生じます。それは、子ども達の多様性をあまり考慮しないか、重視するかの違いです。

 教師の力量形成、教材研究は誰のためにあるのでしょうか?

 もちろん子どものためです。

 しかし、子どもという子どもは一人もいません。目の前には、将来は東京大学に行きそうな子どももいれば、知的障害が疑われる子どももいます。家庭教育がしっかりしている家庭の子どももいれば、犬畜生のような親の家庭の子どももいます。数学が大好きな子どももいれば、数学が大嫌いな子どももいます。さらに、同じ子どもであっても、毎日毎日違います。

 これを前提として、その教師の力量、その教材研究は、誰のためにあるのでしょうか?

 ま、多めに見積もっても3割程度の子どもを対象としています。では、わかりきっていることを教えられてふきこぼされている子ども、チンプンカンプンで落ちこぼれている子どもにとって、その教師の力量、教材研究はどのような意味があるのでしょうか?

 ありません。

 では、私はどう考えているか。「個に寄り添った教育」を教師はすべきだと言われます。噴飯物です。だって小学校の子どもでも分かる計算で自明です。1校時を人数分で割れば1分少々です。それで、一人一人の子どもを理解し、それにあった授業を出来ますか?無理です。実際は、従来型授業では板書発問が大部分を占めています。教師と子どもが個別対応する時間はものすごく短い。それをクラスの人数分で割れば十秒程度です。

 さらに、認知心理学のエキスパート・ノービス研究から、教師は全ての子どもを理解出来ないことは明らかです。ま、簡単に言えば、専門家の話は分からないし、逆の、素人の話は専門家は分からないのです。教科において子どもより遙かに専門家である教師は、分からない子どもの気持ちが分かりません。これはトレーニングしても無理です。何故なら、我々の頭の構造はそうなっているのですから。あることを熟達すると言うことは、その事は頭の奥底に保存され、意識的に操作できなくなることが熟達の真の姿なのです。引き出しを多くすると言います。しかし、我々の頭の構造は引き出しではありません。何層にも重なった記憶の倉庫です。熟達するには、建物の奥の奥の奥の大金庫にためるようなものです。

 残念ながらそれを意識化できないので、自分の考える教師の力量形成、教材研究が万人に有効だと思い込んでしまう。実際は、教師になるような子ども、即ち成績「上の下」もしくは「中の上」あたりフィットする程度なのです。

 また、そもそもホモサピエンスは1対30の関係でものを学んだり、ものを教えたりする生物ではありません。基本的に、1対1の関係で学び、教える生物です。幼少期は親に、青年期以降は同じ群れの大人から学びます。そもそも1対30の現在の授業は生物学的に不自然なものです。こんなことをやっているのは人類の歴史の中で200年ぐらい、それも学校という特殊な環境でやっているものです。

 では、わたしはどのような教師の力量が必要であるか?

 一人の教師は30人の子どもをコントロール出来ません。しかし、30人の子どもを集団にすることは出来ます。その集団を動かすことは一人の教師でも出来ます。それこそが教師の力量だと思います。

 そのためには、その集団が凝縮力を持つミッションを考えることが出来なければなりません。それが教材研究です。ただし、その教科から出発する教材研究ではなく、そもそも学校教育とは何かから出発し、それが、その日の授業と繋がる教材研究です。

 以上が『学び合い』です。