西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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14/07/06(日)

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 残念ながら今の教育において理論は殆どありません。だから、パラダイムシフトが起こらない。だから、議論されるのは教材や指導法やツールであり、言説レベルに留まっています。しかし、本当に理論が無いのでしょうか?あります。人はものを考える際、必ず一定の理論を使って考えます。理論が無ければものは見えず、ものは聞こえません。ただ、百年以上同じ理論のもとに教育は成されているので、その理論の中にいる人は自分が一定の理論の中にいることを意識していないのです。

 では、どのようにして意識することが出来るでしょう。民俗学では、異質な文化に接することによって自らが一定の文化の中にあることを露わにします。

 教育に関して学術がある意味は、自らが一定の理論の中にいることを意識するためです。それが無ければ、自らの理論を精緻にすることは出来ません。ましてやその理論を超えることは出来ません。そして、圧倒的大多数の人はその理論の中で精緻にすることに一生を費やします。おそらく教育実践に身を置く人の場合は100%でしょう。なぜならそれは学術の仕事だからです。

 『学び合い』の理論から現状の教育を見れば、現状の教育の理論がよく見えます。いくつか紹介します。

 第一に、現状の教育理論の中にいる人は、「子ども」という存在がいると思います。例えば、化学だったら酸素と炭素が結合すれば二酸化炭素が生じます。そこには酸素分子の個性は考慮されません。そして、それらは結晶のように結合していると考えます。そのように考えれば、子どもという無個性な存在を想定すれば、全ての子どもに有効な教材や指導法があると考えます。

 『学び合い』では一人一人の子どもは多様であり、個性的であると考えます。従って、全てに有効な教材や指導法は無いと考えます。では、どのように教育したら良いのでしょうか?『学び合い』は子ども集団は液体のように一定の結合はあると思っています。それは完全なバラバラの気体状態では無く、液体のような状態だと思います。そして、液体をコントロール術を探ります。

 第二に、現状の教育理論の中にいる人は、学校教育は何らかの知識や議論を学ぶ場だと考えています。少なくとも圧倒的大部分を占めている教科教育の時間はそうだと思っています。もちろん、教育基本法第1条の「人格の完成」を否定するわけではありません。しかし、人格の完成と日々の学習を繋ごうとはしません。少なくともクラスの全員が納得するような説明をすることなく、身内で成り立つ論理でストップします。

 『学び合い』では学校教育は人が一生涯幸せになるために必要な場だと考えます。そして、教科学習で学ぶ知識や議論はそのツールに過ぎないと考え、必要に応じて相対化することが出来ます。

 人は、自分のよって立つ理論の根底を揺るがすようなことを言われるとカッとしてしまいます。逆に、カッとする部分が自分の根底なんだということです。

 私が「子どもという子どもは誰もいませんよ、その教材が有効な子どもはどれほどいるのですか?」とか「四則演算が出来た方が良いですが、必須とは思いません。買い物で計算できなくても、レジで計算してくれますよ」と言うと感情的になったり、「極論だ」と言われます。それが現状の教育の理論の中にいる人の根底を疑うことだからです。

 逆に、私の場合は、「全ての子どもを救うなんてどだい無理。一定の割合の子どもはしょうがないよ」と言う人がいたら、私は感情的になってしまいます。何故なら、それが『学び合い』の根底を疑っていることだからなのです。

 『学び合い』に疑いを持つ人が、表面上の授業の姿や、実践者の言説に囚われるのでは無く、その根底となる理論のレベルで議論してくれれば良いな、と思います。そうすれば建設的なのに。しかし、それは学術の仕事ですから、致し方ないのかもしれません。どうしても、「まとめの時間を取らないのは駄目だ」とか「教師がまず指導しなければ」とか「一人で考える時間が必要だ」レベルの議論なので正直辟易します。何故、まとめの時間を取らないのか、何故、圧倒的大部分の時間を子どもに任せるのか、何故、一人学びの時間を設けないのか、そのレベルのことに気づいて欲しい。全て本に書いたことです。ま、そのレベルの議論の人は本は読みませんから。ちなみに上記に書いたことは科学史研究のイロハのイであり、入門書レベルでも書いてあることです。