西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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13/10/13(日)

[]根拠 13:15 根拠 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 根拠 - 西川純のメモ 根拠 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 色々なところに出張すると、色々な指導が行われています。それを横目で見ながら「根拠は?」と言いたくなります(大抵は我慢しますが)。

 例えば、ノート指導。果たして万人に有効なノートの書き方ってあるのでしょうか?東大生のノートという本がありますが、東大生のノートは東大に入るような人に有効なノートです。我々がノーベル物理学賞を受賞する人のノートをまねしても有効でないのと同じです。そして、教師が考える良いノートが、その教師が「ノート書けよ」と思う子どもに有効でないのと同じです。私の知る限り、良いノートのまとめ方を明らかにした学術データを知りません。

 問題解決の過程はどのようなものか、それも自信たっぷりに語る人がいます。その人の根拠は何でしょうか?大抵は、自分の個人的経験か、どこかの研究校で実践されていることを根拠にしています。でも、それが一般的だという学術的根拠があるのでしょうか?私は知りません。逆に、私はそれが誤りであることを示す学術的根拠を持っています。簡単に言えば、一人一人の問題解決の過程は多様です。同じ段階を経ている場合であっても、各段階で必要とされる時間は一人一人違います。それを一律に進ませれば、ある子には終わっているのに待たせ、ある子にはもう少しで思いつくのに次に進ませる。そして、その子に時間をいくら与えても解決できないので、早々の学びを放棄してしまう。

 世にある教育書に書かれていること、その中で学術的根拠を示せるのはどれだけあるでしょうか?あまりないですよね。そのため個人的な経験から一般論を語っている。しかし、教師という人種は一般的ではない。そして、どう指導したら良いかわからない子どもは、教師になるであろう人とは違います。教師がその子にそれを強いるのは、ノーベル賞学者が一般人に、自分に有効だった学習方法を強いるのと同じだけ無効なのです。

[]ちょっと読んでよ 12:04 ちょっと読んでよ - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - ちょっと読んでよ - 西川純のメモ ちょっと読んでよ - 西川純のメモ のブックマークコメント

 困ったな~っと思うことがあります。残念ながら、日本の一部で感情的な反発が起こっています。ただ、その反発の多くが、『学び合い』と「学びの共同体」をゴチャゴチャにしているのです。『学び合い』と一緒くたにされたら「学びの共同体」の人は憤慨しているだろうと想像します。そして、少しは読めよと思っているでしょう。

 また、問題解決学習で頑張った先生の中に、『学び合い』に感情的に反発される方がおられます。それぞれの地域の、だれかの思いつきが、いつの間にか金科玉条となり、それが問題解決学習だと思われている。だから、地域ごとに作法がバラバラの問題解決学習が生まれるゆえんです。でも、その方に願いたいのは、問題解決学習の原典であるデューイや上田先生の本を読んで欲しいと願います。問題解決学習のそもそもの願いを、現状の系統学習の中で実現するとしたら『学び合い』がベストだと思っています。それ以外で問題解決学習をすれば、子どものごく一部が素晴らしい発言をして、大多数がぽかんとする授業になる危険性が高いと思います。一人一人が教科内容で問題解決するのではなく(それでは教科に関する能力差が大きすぎる)、一人一人が教科内容を全員が理解するという問題を解決するのです。そしてそれは、デューイや上田先生の願った民主主義の教育に繋がります。

追伸 第二段階に進んだ地域が増えたのだと思います。さて、はやく第三段階に進まないかなと思います。その時の議論が見物です。http://p.tl/bzZU

[]目的論 10:29 目的論 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 目的論 - 西川純のメモ 目的論 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 昭和24年に教育職員免許法は成立し、そこに教科教育法という科目が盛り込まれた。その科目担当の人が集まって各教科の学会が生まれた(数学教育学会は例外)。日本の教科教育学は六十数年の歴史があります。

 振り返ってみれば、私が教科教育学に足を踏み入れた時期は三十二年前です。その当時は学会設立のメンバーが健在な時期です。でも、内容は幼いものでした。比較教育学の方法論で、その教科を調べたものがありました。しかし「比較」は無く、ほぼ海外教育の紹介レベルです。これは教育学にルーツがある研究一般に言えるもので、単に対象を一つの教科に絞ったに過ぎません。そのため、古くからある教育哲学、教育史学、教育方法学等の研究者からは一段も二段も低く見られていました。

 教員養成系大学で教科教育法の担当者になったのは教育学関係者ばかりではありません。その教科の背景とする学問の担当者もいました。私が大学院生の時にあった話ですが、某大学の教科教育学の講義で、「私は教科教育学は馬鹿馬鹿しいと思っている。そのため生物学の講義をする」と宣言し、生物学の講義をしたそうです。学生から文部省(今の文科省)に通報があり問題になりました。そんな猛者もいましたが、大多数の人はそんなことはせず、もともとの自分の専門を生かした教科教育学を模索しました。しかし、その多くは「○○の教材化」という研究です。

 それから三十年たちました。それぞれの教科教育学で育った研究者で学会が占められるようになり、その教科独自の方法論も生まれてきました。私も理科教育学でその一端を担いました。

 しかし、発足から六十数年間、ずっと進歩していないのは目的論だと私は思っています。学習指導要領に定められた「内容」を前提とするならば、教科教育学はそれなりに整合性があります。ところが、どのような内容を学習指導要領に盛り込むべきかということに関して、明確な論理もないし、それを裏付けるデータも無いのです。

 例えば、理科の時間を10時間少なくなったとします。そのとき、生物の発生と物理の波動のどちらを削減するかということに関して、学術的に述べる論理が無いのです。あるのは背景となる学問団体の政治力によって決まります。

 背景とする学問が同じ人が集まっているかぎり、その学問の体系によって決めることが出来ます。とくに標準的な教科書がある学問の場合はそれが可能です。そのため、同じ理科の人でも、生物と物理ではそれが出来ないのです。

 これを乗り越えるには、学習指導要領にうたわれた精神と具体の内容をつなげる論理を学術的に構築しなければなりません。さらに、それらは学習指導要領の総則、さらには教育基本法とつなげる論理を学術的に構築しなければなりません。それらの論理は、違った学問を背景とする人の中で合意できるもので無ければなりません。

 しかし、研究者の基本的組織が、学校教育と教科教育に分かれ、教科教育が各科で分かれているのが現状です。そのため、上記の目的論が、もっとも遅れています。それが残念に思えるのです。そのため、政治的な判断に教科学習が翻弄され続けています。教科教育で出来るのは「大事なんだ、大事なんだ」とその教科の人しか納得できない論陣を張るしかない。教科学習がいかに大事かを分かっている私にとっては、残念なのです。

ogymogym2013/10/13 22:41>>子どものごく一部が素晴らしい発言をして、大多数がぽかんとする授業になる危険性が高いと思います。

非常に共感しました。

jun24kawajun24kawa2013/10/14 06:34よくある、教師が素晴らしいと絶賛する授業ですね。