西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

西川純です。新潟県上越市の上越教育大学の教育実践高度化専攻(教職大学院)で『学び合い』を研究しています。諸般の事情で、このブログのコメントは『学び合い』グループのメンバー限定です。メンバー登録は、いつでもOKです。ウエルカムです。なお、メールはメンバー以外にもオープンですので、いつでもメールください。メールのやりとりで高まりましょうね。メールアドレスは、junとiamjun.comを「@」で繋げて下さい(スパムメール対策です)。もし、送れない場合はhttp://bit.ly/sAj4IIを参照下さい。西川研究室はいつでも参観OKです。 詳細は http://www.iamjun.com/をご覧下さい。 もし『学び合い』グループに参加される場合は、 http://manabiai.g.hatena.ne.jp/をご参照ください。
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本格的にトライする人も多くいると思います。その際、人とのつながりが大事です。身近にいる人と繋がれるとありがたいですよね。『学び合い』を実践される方は、『学び合い』マップ(https://www.google.com/maps/d/edit?mid=zDInXkSSxyO4.kNDji5uDNm0Y)に、是非、登録下さい。登録は、『学び合い』マップ登録フォーム(http://form1.fc2.com/form/?id=77081b4d4f40dd2f)から出来ます。  「私なんて、人になんか教えられるレベルに行っていない」と思う方へ。だからいいんですよ。一番知っている人が、一番の教え手ではないことは『学び合い』を実践しているならば、子どもを見れば分かるでしょ。それに、教える必要はないのです。共に学び合えばいいのです。いや、愚痴を言ったり、笑ったりする、それでいいのです。  是非、一人でも多くの人がマップに登録下さい。強く、強く、お誘いします。

13/09/25(水)

[]収入 22:19 収入 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 収入 - 西川純のメモ 収入 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 私は今の収入より10%、20%ぐらいは多くしたいなと思います。が、十倍、百倍にしたいとは思いません。だから書店に並ぶ、「ニートだった私が○億稼ぐには」等の本には興味はありません。

 というのは、私の今の収入の十倍なれば、別種の悩みが生じ、十倍幸せになるわけではないからです。今の自分の幸せの枠組みの中で、幸せになれば良い。多ければ、多いほど良いというわけではありません。

 収入と望みがバランスがとれることが大事です。収入の多寡ではない。

 ということは、学生の頃には分かりませんでした。

[]価値の創造 22:11 価値の創造 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 価値の創造 - 西川純のメモ 価値の創造 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 今の日本の天然資源は、日本海に眠るメタンハイドレートではありません。それは元気がある爺婆です。その人たちを支援の必要にしているから高齢化社会が問題になる。その人たちが働き手になるならば、それは凄いこと。日本だけが出来ることです。

 全国各地に潜む天然資源、それは親であり、子ども時代を共有した仲間です。それさえあれば、二千円のもちよりの飲み会は、銀座のドンペリよりも美味しくなる。月10万円の保育より、親や友達に子どもを預けることのようがパフォーマンスが高い。

 価値は、人と人との間に生まれものです。人様があおり立てる価値ではなく、自分たちが価値を生み出す。価値の創造、それがこれからのポイントです。

[]同じか? 21:35 同じか? - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 同じか? - 西川純のメモ 同じか? - 西川純のメモ のブックマークコメント

 本日、ある人から「○○教育」と『学び合い』同じですか?と聞かれました。この種の質問は、ずっと昔から何度も、何度も聞かれました。例えば、「学びの共同体」も、「アドラー心理学」もそうです。その他、色々な人から聞かれました。そのたびに語ることです。

 一般的に言えば、似たところもあるでしょう。だって、今の教育の出口は協働しかありません。ちょっと前だったら、少人数が出口だと思われていました。でも、フロンティア授業や少人数加配を実際にやったので、少人数は出口ではないことがハッキリしてしまったのです。

 今は、ICTがもてはやされています。でも、そんなのは道具にしか過ぎません。道具があればハッピーになる、それは私の大学院時代のCAI,CMIと同じ枠組みです。早晩、道具ではなく、道具を何のために使うかが重要であることは分かります。

 で、話を戻します。

 「○○教育」その○○に何を入っても良いです。それらは道具、ツールにしか過ぎません。そのツールを使う人が、何を願うかによって、『学び合い』と同じになり、別物になります。

 『学び合い』は何かを教える、分からせることが目的ではありません。色々なところで講演で、『学び合い』で成績が上がると言います。でも、それはレトリックです。それは付随的に起こる効果に過ぎません。『学び合い』の目的は、子どもたちが生涯にわたって幸せになることです。それを実現するには、一人も見捨てられないと確信できる仲間を地元で確保できることです。そのために、教師は「一人も見捨ては、自分が損だ」と語ることです。これが『学び合い』です。だから、どんな「○○教育」であっても、それを求めれば『学び合い』だし、それを求めなければ『学び合い』ではありません。

 様々な人が素晴らしいツールを開発しています。素晴らしい。でも、どんなツールも、全ての子どもに有効ではありません。大多数はそうであったとしても、全員ではありません。だから、ツールを強いてはいけないのです。「一人も見捨てて損だ」ということを語り続けて、子どもたちが生み出したものを信じるのが教師です。これは素晴らしい成果を上げている企業がやっていることです。だから、素晴らしいと教師が思うことを子どもに「例示」することはOKです。しかし、その方法をやるかやらないかではなく、結果が何をなしたかを評価すべきです。

 この『学び合い』の学校観、子ども観を理解してるならば、どんな一斉指導のツールも有効です。しかし、二つが理解されていなければ、どんな協働的なツールも、『学び合い』とは無縁なものになります。

 教育は、繰り上がりを分かるためにあるわけではない。子どもの一生涯を幸せになるためにある。そして、それを軸として、教師が幸せになり、保護者が幸せになり、そして、地域社会が幸せになるためになるのです。このことを荒唐無稽と思うのが普通です。でも、私は本気で信じています。それはやる気になれば、5年も必要ありません。

 と、最初の質問をした人に語りました。

[]影と本体 07:14 影と本体 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 影と本体 - 西川純のメモ 影と本体 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 以下は超難解で、意味不明だと思います。すみません。

 『学び合い』とは「一人も見捨てないことは全ての人にとって得であり、実現可能である」と信じること。実現する方法は「みんなで自分の出来ることをやり続けること」です。なんてシンプルなんだろう。そこには「課題がどうのこうの」、「教師の支援は云々」はありません。

 「一人も見捨てないことは全ての人にとって得であり、実現可能である」と信じることが出来れば、自ずと子どもたちにそれを求めるはずです。そして、それを求めるならば、子どもたちが実現できるように「みんなで自分の出来ることをやり続けること」を許すはずです。そして、子どもたちは細かい制約を与えられず、自由を与えられれば、ホモサピエンスの100万年の生存戦略である群れを形成します。これは本能ですから、教師がああだこうだ言う必要性もないですし、いってもしようがありません。それは、子どもが歩き出そうとするとき、親がああだこうだ言う必要性はないし、言ってもしようがないのと同じです。

 ただ、「一人も見捨てない」という戦略は、文明が生まれてからの数千年の戦略です。だからDNAには確かに植え付けられていない。だから、教育が必要です。教師が「一人も見捨てない」を揺るがさず求めることが大事です。

 教師も悩むことが多いでしょう。でも、子どもと同様に「みんなで自分の出来ることをやり続けること」をやればいいのです。クラスで問題が起これば、自分一人で解決策を考えるのではなく、子どもたちに解決する意義を語ればいいのです。そうすれば子どもたちが、みんなで自分の出来ることをやり続けます。

 学校で悩みがあれば、同僚といっしょに出来ることをやり続ければいいのです。もし、学校で仲間を見いだせなければ、学校外のみんなといっしょに出来ることをやり続ければいいのです。

 悩むとき、人は、短期間の完全解決を求めます。しかし、そんなのどだい無理です。我々が出来るのは長期間かけて徐々に解決するしかありません。もしくは、問題を先送りするだけでもいい。問題を先送りするうちに、その時点の問題がどうでも良くなることは多い。学校での問題の過半数は1年後にはどうでも良い問題になります。そして9割以上の問題は数年たってその学校から異動すれば、どうでも良い問題になります。

 自分や自分たちではどうしようもない問題は先送りでいいのです。でも、どんな状態であっても出来ないことはありますが、出来ることはあります。出来ることを部分解決し、その積み上げでさらなる改善をします。

 教師自身がそのような生き方のノウハウを会得し、実感し、確信すれば、子どもたちに「一人も見捨てないことは全ての人にとって得であり、実現可能である」と求められるし、悩んでいる子どもに「みんなで自分の出来ることをやり続けること」をすることを求められます。

 が、それをいきなり信じろと言われても信じられないのは当然です。そのため、数多くの先人が積み上げたノウハウを整理し、書籍にまとめました。あの通りやれば、本当にあの通りやれば上記のことは実現できます。そこから入ればいい。

「みんなが、と、みんなで」や「徳や得」の矛盾はありません。子どもの行動がどうのこうの、教師の支援がどうのこうの、はありません。だって一人一人は違うし、その場その場の状況は違います。ようは「一人も見捨てないことは全ての人にとって得であり、実現可能である」を信じた教師も子どもも「みんなで自分の出来ることをやり続けること」で出た言動が、その人、その場における最適解なのです。

 テクニックから入り、テクニックを捨てる。守破離の「離」の段階です。もちろんテクニックを使っても良い。私だって一斉指導のテクニックを使うことはあります。でも、それが重要ポイントと思わず、まあ、便利程度と思っているならばOKだと思います。しかし、重要ポイントと思えば、子どもたちが「みんなで自分の出来ることをやり続けること」を制約してしまうのです。それは『学び合い』からの離脱である危険性をはらみます。十歩下がって「破」の段階かもしれませんが、「離」ではありません。

追伸 上記の文章に”学び合い”という言葉は『学び合い』の一カ所しか使っていません。実は『学び合い』を記載するのに”学び合い”を使う必要性はありません。