西川純のメモ このページをアンテナに追加 RSSフィード

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13/09/22(日)

[]研修方法 10:08 研修方法 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 研修方法 - 西川純のメモ 研修方法 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 学生が授業を観察すると、大抵は教師が何をしているかを見ます。そして、子どもが動き出すと、特定の一人の子のそばによって、じ~っと丹念に記録します。多くの教師は学生と同じように、教室の後ろに立って教師の立ち居振る舞いを観察します。ただ、子どもたちが動き出すと、グループ内の子どもの相互作用を見ます。だから授業検討会では、「○○さんがどうやった、どういった」、「○○さんがこう言ったら、○○さんがこう反応した」という会話が主です。

 でも、郡市レベルには数人は、上記のレベルのことを語り、検討会の視点を一気に変えることの出来る人がいます。その人は、教室の対角線上にいるような子どもたちの行動を結びつけることが出来るのです。つまり、あるグループでの気づきが、全く離れたグループにどのように影響を与えるかをちゃんと説明できるのです。何故でしょうか?それは見ている視点が違うのです。実は、『学び合い』での教師の立ち位置と同じなのです。

 私は一斉指導の授業を見るときは後ろからでは無く、前から見ます。というのは教師が何を言った、何を書いたでは無く、そのクラスにはどんな子どもがいるかを見ているのです。分からない授業を見ている時に、注目すべき子どもは目の動きで分かります。

 さて、一度動き出すと、教室の壁に寄っかかってボーッと全体を見ています。何故、ボーッと全体を見ているかと言えば、クラス全体の中でエポックな現象が、いつ、どこで起こるか分からないからです。例えば、子どもが他班に行くときは大抵は一人で行きます。偵察です。ところが、数人で行くことがあります。これは議論をするために他班に行くときの特徴的な行動です。そうしたら、そっと近づいて彼らの議論を聞きます。素晴らしい議論がなされているはずです。その他、色々な兆候を見取ってクラス全体に何が起こって、何が課題かを見取るのです。これは個人やグループに近づいて見ている人には絶対に見えないことです。そして、この現象こそが大事なのです。だって、一人の子どもがどうだ、ああだ、と分かったって、数十人を教える授業では個別対応なんて出来ないですから。我々教師に出来ることは集団をどのように動かすかです。

 授業後の検討会です。大抵は、思い思いの人が自分の感想を述べることが中心となります。しかし、それらが絡み合うことは少ないです。そして大きな研修会になると、特定の人が発言の多くを占め、その会話の大部分は露骨な追従と遠回しな非難、そして授業と関係ない自慢話が大部分を占めることになってしまいます。そして、本当は意見を言いたいし、学ぶべき若手が発言できないと言うことが起こります。

 かつて私が大学院生だった頃、ロジャーズの授業分析が全盛を極めました。授業をカテゴリーによって数値化することによって科学になるというものです。ところが、問題はそのカテゴリーに妥当性があるか否かが、分析している教師がスッキリしないのです。ど偉い外国の先生が言っているんだから正しいのだろうな~っとは思っているかもしれませんが、納得しているわけではありません。結果として、それでどんな結果が出たとしても、腑に落ちると言うことはありません。だから、授業改善には繋がりません。第一、ものすごく手間です。だから、一時的にはやっても続くことはありません。

 授業分析は、楽で、それでいて参加者全員が自分の意見を言えて、それらが絡み合うものであることが必要です。当たり前ですよね。では、どうするか?

 模造紙に授業開始以降5分ごとに区切った大きな枠を書きます。そして参加者はポストイットを持ちます。各人が気づいたことをそこに自由に書きます。その際、その現象が起こった時間と、自分の名前を書きます。授業後にそれを先に書いた大きな枠にペタペタ貼るのです。そして、貼り終わったら、その前でどのような現象が起こったかをわいわいと自由に共有するのです。

 この方法だと、全員が自分の見たものを表明できます。面白い現象であれば、新採用の先生であっても、その事を一番知っているのはその人です。当然、ベテランの先生が聞くことになります。そして、時間軸はとても簡単に分類することが出来ます。そして、それで分類すれば郡市で数人レベルのクラス全体の動きを見て取れることが出来ます。この方法は今は同僚であるK閣下が私のゼミで博士論部研究で研究したものです(彼はそれで博士の学位を取得しました)。

 しかし、これをもこえる研修方法があります。ただし、これは『学び合い』だけが出来るものです。それは合同『学び合い』、全校『学び合い』です。なんの仕組みも、手立ても必要ありません。子どもたちは実に様々な行動をして、相互作用します。それをゆったりと先生方が雑談をするのです。これほど気楽で、突っ込んだ授業研究の方法を知りません。(詳しくは『学び合い』ジャンプアップをご覧下さい、と宣伝する)

[]学校研究 07:50 学校研究 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 学校研究 - 西川純のメモ 学校研究 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 高校から大学に異動し、学校の研修・研究というものを知りました。(当時の高校は、教科さえやっていればいいという風土でしたので、学校の研修・研究はほぼ皆無でした)最初は唖然としました。特に理学部出身者としては、「これは研究なの???」と思うのです。具体的には以下の点です。

 第一に、仮説が無い。研修会の最初に研究主任が「本校の研究主題」と発表しプレゼンをします。それがよく分からないのです。色々の心理学者の名前が出てきて図で整理されているのですが、それが明らかな誤りなのです。どう考えても、全く理論が違う心理学者が並列で並べられているのです。「え?」と思います。

 理論はつまみ食いは出来ません。天動説と地動説を併存して天体観測は出来ません。

 統合して使える理論は、大学研究者が既にそれは統合しています。彼らの仕事は、そこなのですから。もし、そうしていないならば統合できないということです。

 自分がどの理論によって立つかということを明確に持つべきです。

 第二に、測定がなされていない。特に、結果の測定がなされていないのです。なんとなくやってみて、なんとなく出たものをみて、なんとなくやった気分になる、そんな感じなのです。

 何かを測定している場合、「何をやったか」は測定します。例えば、「板書は3色使う」とか、「声の大きさは3段階であることを指導する」ということは測定します。ところが、求める結果が何かが曖昧なのです。だから、上記の指導で目的が達成したか否か、指導は有効だったか否かが曖昧なのです。まあ、そんなことは最近は見かけませんが、「子どもたちの目がキラキラ光っていました」という表現で終わってしまうのです。

 第三に、実は、これが最大の謎なのですが、「それを変」と思わないで研修会が進という点です。特に、理学部でトレーニングされてた人もそうなのですから、私には意味不明なのです。最近は、宗教行事なのかもしれない、と理解しようとしています。

 では、どうすべきか。上記の逆なのです。

 第一、自分たちがよってたつ理論は何かを明確にして、それをちゃんと読むことだと思います。例えば、問題解決学習で研究を深めている学校の先生が、デューイや上田先生の本をどれだけ読んでいるのだろうと思うことがあります。読んでいないため、本来の願いが失われ枝葉末節が有り難がられているように思うのです。

 第二に、測定するものを明確にすべきです。特に最終結果として測定することを明確にすべきです。例えば、学力という言葉は分かったようで分からない言葉です。だから「業者テストの平均点」と決めるべきです。もちろん「業者テスト=学力」ではないことは当然です。しかし、それ以上に明確で多くの人の共感を得られるデータが無いならば、とりあえずそれを選び、決めるべきです。例えば、植物の生長に何が必要かを測定するならば、植物の大きさや乾燥質量で測定するのが一般的でしょう。「植物のがんばり」や「植物の元気パワー」では測定は出来ませんから。

 しかし、自分たちがどんな理論によって立つか、また、自分たちが目指している子どもの姿は何であるかがハッキリしていない場合があります。その場合でも、最終結果として測定することを明確にすべきです。それが無ければ、宗教行事に過ぎません。

 ただし、それで終わりでは無く、それとの関連で一人一人の教師が見えたものを議論し、そこから自分たちが何を目指しているかを深めて下さい。人は、人を分析する最高のツールです。それを生かさない手はないです。ただ、同床異夢では困ります。色々な実際に起こった子どもの言動を見て、それをみんなで共有する中で、次の「最終結果として測定するもの」を定めるのです。

 また、よってたつ理論を一つに定められなかったら、定めなければいいのです。大事なのは理論によって立つかでは無く、「最終結果」なのですから。最終結果に繋がる理論がよって立つべき理論です。一人一人が思い思いの授業をすればいい、そして最終結果でどの理論が正しいかを議論すればいいのです。まあ、多くの先生方は理論的には考えないでしょう。しかし、少なくとも研究を主導する人は、理論を定め、その結果によって他の先生に提案する必要があると思います。

 (ここまでは一般論です。次は、『学び合い』で学校研修をする際のポイントをかきます)

[]『学び合い』の学校研修 07:50 『学び合い』の学校研修 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 『学び合い』の学校研修 - 西川純のメモ 『学び合い』の学校研修 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 何度もかいたことですが、再度書きます。

 『学び合い』で学校研修を進める際の最大のポイントは、『学び合い』を前面に出さないで下さい。

 『学び合い』は多くの教師には直ぐには受け入れられないことです。だから、『学び合い』をすると決まっても、心はしたいとは思いません。ところが『学び合い』は教師の心でやる授業です。心が伴わなければ『学び合い』は出来ません。結果として、『学び合い』の約束する成果は出ません。さらにいえば、『学び合い』はクラスの現状をものすごくあらわにします。例えば、クラスの中にイジメがあれば、それが非常に見えやすくします。具体的には、1時間中、一人ぽつんとしている子が目につきます。また、クラスが分かることとは何かを理解させるような授業をしていないクラスの場合、丸写しをするでしょう。でも、その原因はその教師の普段の授業にあります。つまり、何も分からなくても、授業の最後に教師が板書したものをノートに写せば勉強していると教えられているのです。教師の板書を丸写ししていれば勉強していると教えているのです。が、多くの教師はそれを認めないでしょう。そして、『学び合い』によって露わになったことを、『学び合い』のために起こったというと思います。

 私は本でも講演でも『学び合い』で成績が上がると豪語しています。しかし、それは『学び合い』ステップアップやジャンプアップに書いてあることを、そのままやった場合です。そして、少なくともその教科の全てを『学び合い』でやった場合です。その状態でも成績が起こらない場合は、原因として3つあることも明確に書いてありますし、その改善方法も明確に書いてあります。が、『学び合い』をやりたくない人は本も読まず、書いてあることに従わず、週に1回程度やるだけです。それで成績が上がらないといわれても困ってしまっています。(ただし、その程度であっても週1の合同『学び合い』でも人間関係の向上はあることも書いてあります。困るのは優れた『学び合い』実践者の中には、業者テストなんてどうでもいいという人がいます。そりゃ、それでいいのですが、そういう授業をすればテストの結果は出ません。そうすると反対する人が、鬼の首を取ったように吹聴するのが困るのです。)

 では、どうするか、です。各先生方がどのような授業をするかは自由でいいのです。しかし、最終的な結果は何で測定するかを明確にすべきです。実は、何を測定するかが決まれば、自ずと何をしなければならないかが決まってしまうのです。

 まず、「一人も見捨てない教育」を実現することを職員で合意するのです。これに反対する人はまずいないでしょう。次に、それが実現したか否かを明確にしようと合意するのです。これも反対する人はいないでしょう。そこで、学力は「業者テストの期待得点以下の子どもが何人か」で測定しようと提案するのです。平均点で無いということがポイントです。おそらく、ここでは議論が分かれるところですが、「一人も見捨てない教育」ということが押さえられていれば、これを超える指標は合意できないでしょ。(全国学テもありますが、あれば年一回ですから)。中高の場合は自作テストが多いと思いますが、その場合は最低学力がある場合は80点になるテストを作って下さいと言えばいいだけのことです。また、「QUテストでの満足群以外の子どもは何人か」で評価しようと決めて下さい。これが決まれば、チェックメイトです。

 平均点を上げる方法は山ほどあります。しかし、期待得点以下の子どもを0にするには『学び合い』以外はあり得ません。また、一見、力強い授業をして力量のある先生と言われる教師であっても点数の分布は、そのような授業の限界を明確に示します。そして、それはQUテストと一致するはずです。

 ことさら『学び合い』をやりましょうと強いなくても、結果が全てを示します。たいていの人は、結果さえでれば、やろうと思いますから。そうしたら、合同『学び合い』で徐々に伝えればいいのです。合同『学び合い』、全校『学び合い』は、『学び合い』だけが出来る定常的な教師の『学び合い』です。その効果に多くの『学び合い』の同志に気づいて欲しいと念じています。

[]正確と精密 06:19 正確と精密 - 西川純のメモ を含むブックマーク はてなブックマーク - 正確と精密 - 西川純のメモ 正確と精密 - 西川純のメモ のブックマークコメント

 ものを測定するとき、正確と精密の二面から吟味する必要があります。前者は、真の値を測定しているか否かを示す尺度で、後者は測定値の安定性を示す尺度です。簡単な例を挙げましょう。

 ある子どもが植物に興味があるか否かを、観察者が観察し10段階に評価するとします。人間は人間を評価する最高のセンサーだと思います。それが無ければ群れを形成し、生存競争に勝ち残っていないでしょうから。だから概ね正確です。しかし、観察者が変われば評価は変わるでしょう。そして同じ観察者であっても、前後に見た子どもの評価に引き面レ手島います。そのため、評価は安定していません。従って、精密ではありません。

 一方、ある子どもが植物に興味があるか否かを、その子どもが授業中に何回頭をかいたかで評価します。頭をかいた回数ならば、誰が観察してもほぼ同じ値を安定して測定することが出来ます。従って、精密です。しかし、頭をかいた回数と植物に対する興味関心を示すとは思えません。従って、正確ではありません。

 測定には正確と精密の二面があるのですが、正確であるか否かの評価は難しいのが一般的です。それに比べて精密か否かの評価の方法論は確立されています。そのため、精密のみが前面に出ることが多いです。

 大学の評価は昔から大ざっぱです。あまりにも大ざっぱすぎるために、評価を厳密化すべきだという議論は最近多くなってきました。その方法として、A評定の数を一定数にすべきだという議論はあります。そして、それによって「質保証」できると考えるのです。でも、本当でしょうか?上記によって実現できるのは精密さを高めることのみです。正確さは保証していません。

 教員養成系大学は養成すべき対象がハッキリしています。しかし、良い教員を養成するとして、「良い教員」とは何なのでしょうか?どの段階でも○○スタンダード等を定め、それによって評価の厳密化をしようとします。しかし、私の知る限り、「良い教師」とはどのようなものなのかという定説はありません。一つの学会レベルでも百家争鳴の状態だと思います。結局、何の根拠も無く、単に素人的な思いつきは、いくつかのプロセスを経ることによって、まことしやかな基準に変身します。しかし、どこまで行っても思いつきを積み上げても、思いつきのレベルを超えるものでは無いのです。

 この正確さを高めるには、最終的なアウトプットで自らを評価しなければなりません。例えば、教員養成系大学であれば、教員採用率と評定の相関を分析するというプロセスが必要です。ところが、そのためには教員採用率という最終結果に向き合わなければなりません。そして、自らの評価を評価します。が、方法はなんとでもごまかせますが、最終結果はごまかせません。ましてや教師は自分は評価しているのにもかかわらず、自分が評価されることは極力避けます。ということは正確さを高めることはせず、精密さを高めることでごまかしているのです。

 おそらく、精密さを求めている雲上人は、それが精密さを求めているだけで正確さを求めていることは分かっているはずです。日本の雲上人はかなり優秀ですから。その指示の元、正確さと精密さの違いが分からない多くの人が、精密さを高めた「ふり」をどうするかという手続きを精緻化しているのです。

 だれが悪いというわけでは無く、どうしようもないことです。ようは、やればいいだけのことであり、結果に関してはだれも責任をとらないのですから。